goo blog サービス終了のお知らせ 

夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

8.方南橋から富士見橋

2009-11-03 22:50:40 | 神田川と支流
(57)方南橋

 橋の名は地名(字)に由来する。初架橋は、昭和の初期、和泉通りから梅里方面に行く道路が開設された時であろうか。現在は、交通量の多い環七がこの橋で神田川を渡っている。前に来た時は取水施設が工事中であったが、現在は完成していて、実際に使用もされている。

(58)上水橋
 「上水橋」は「方南橋」のすぐ下流にあり、代田橋から鍋屋横丁に出る旧道が通っていた。ここには江戸時代から橋があり、この橋を渡ったところの、東雲寺・通称釜寺の念仏堂から、古くは「念仏堂橋」とも呼ばれていたという。この辺り、神田川は川幅一杯に流れているが、何となく汚れているように見えるのが、残念な気もする。

(59)たつみ橋
 次の橋は、釜寺の辰巳の方角に当たる「たつみ橋」である。昭和になってからの橋だろうが、この橋には変遷があるらしい。この先、神田川は台地の南側を回り込むように流れるが、左手に崖地が現れるようになると、川は中央部の狭い水路を流れるようになる。

(60)向田橋
 次は「向田橋」。前に来た時の欄干とは、塗色が違っている。欄干を取り換えたらしい。ここに最初に橋が架けられたのは明治の頃。橋の名は地名(字)に由来する。戦前、この辺りから善福寺川との合流点付近までは水田で、「たつみ橋」の下流で神田川を分水し、東側の台地の裾を流して用水としていたらしい。橋の向うは田圃というわけだ。

(61)神田橋
 次は「神田橋」。道路開設と同時に造られた新しい橋のようだ。この辺り、神田川沿いには柳が植えられ、川の流れも早く、水は透き通って見えるので、都市河川に付き物の汚れた感じは無い。橋の欄干や川の柵は、前に来た時と違っているので、取り換えたらしい。

(62)角田橋
 「角田橋」も、欄干や川の柵が新しくなっている。橋の名は、細長い角のような田があったからという。この橋は、大宮八幡から中野に向かう旧道が通っており、江戸時代から、要路の一つであったようだ。この橋を渡ると、多田神社に出るが、この神社から北に向かう鎌倉街道があったとする説もある。

(63)睦橋
 次の「睦橋」までは、右岸が通行出来ないので、左岸を歩く。この橋は、欄干に金網が取り付けられていて、養護学校の専用橋のようになっている。

(64)栄橋

 栄町通りが開設された時に、栄橋も架けられたようで、橋の名も旧町名の栄町に由来している。現在は、交通量の多い方南通りが橋の上を通っている。「栄橋」から先、神田川の右岸は地下鉄の検車区・工場になっているため、左岸を歩くことになる。道は低い位置にあり、神田川の水面も近くに見える。やがて、道は神田川を離れるようになり、善福寺川を和田広橋で渡る。橋からは、善福寺川と神田川の合流点が見える。川幅を狭められているので、何れの川も流れは早い。地下鉄の検車区・工場の敷地は、昔は田圃で、その中を神田川が流れていたらしく、善福寺川との合流点も現在より北に位置していたようである。この合流点の少し上流には、江戸時代から橋が架かっていたが、今は消滅している。現在は、合流点から先、川沿いに目隠しのようなコンクリート壁が作られている。少々殺風景なところを和らげようとしたのだろうか、壁面に飾りを付けるなど工夫がなされている。

(65)和田見橋

 神田川に沿った道を歩いて、「和田見橋」に出る。昭和になってからの橋だろう。その名は、旧町名の富士見と和田からとったものである。ついでに、江戸時代から使われていた本郷堰の址という小公園に立ち寄る。本郷堰は毎年4、5月に、神田上水の水を東側の水田に落とすための堰で、堰の下には水垢離場もあったという。農業用と水垢離に使った後の水は、用水堀を流れて長者橋付近で神田上水に合流していたが、その水を、江戸の人々は飲料水として飲んでいたことになる。神田上水から農業用に分水する事は、他の土地でも行われており、支流の善福寺川でも堰による分水は行われていた。玉川上水と異なり、神田上水は自然河川で低い所を流れていたため、分水した水を、また神田上水に戻すことになったのだろうが、当時は、あまり神経質に考えなかったのかも知れない。なお、昭和に入ってから、東側の田圃も埋め立てられ、堰も用水堀も消滅している。

コメント

7.永福橋から方南橋

2009-11-01 22:46:14 | 神田川と支流
(43)永福橋

 「永福橋」は、神田川で一番南に位置する橋である。その前身は、江戸時代の二子橋だという。この橋を通る道は、北へ行けば大宮八幡に、南へ行けば下高井戸を経て、多摩川の二子の渡しに通じていたから、古くからの要路の一つだったのだろう。この橋の近くに、橋の名の由来となった永福寺があるが、そちらは遠慮して、右岸の遊歩道を先に進む。

(44)ひまわり橋
 今回来てみて、遊歩道の右側の壁面に、短文と絵を描いたタイルが嵌め込まれているのに、初めて気が付いた。全体は尻取りになっていて、頭文字をつなげると語句が表れるという、言葉遊びのようになっているらしい。ところで、この橋の北側に、むかし、大きな養魚池があったそうだが、今は住宅地になり、当時の面影はまるで無い。

(45)永高橋
 次の「永高橋」の名は、永福高校の名に由来する。その高校だが、何時の間にか廃校になっていたらしい。個人的には何の関係も無いが、少しばかり寂しい気もして、川の流れを眺めながら橋を渡り、今度は左岸を歩く。前に来た時、焚き火の煙が辺り一面に漂っていた竹林の横を過ぎると、次の橋に出る。

(46)明風橋
 この辺の橋には廃止や新設など変遷があったらしいが、次の「明風橋」は、比較的新しく架けられた橋のようである。橋を渡った辺りから、緑は少なくなるが、その分、明るい道となる。暫く歩いていくと、行く手に京王井の頭線の鉄橋が見えてくる。

(47)蔵下橋

 線路の下を潜るとすぐに「蔵下橋」に出る。蔵下は明治になってからの地名(字)で、江戸時代は「上ノ橋」と呼んでいたらしい。蔵とは、幕府の焔硝蔵のことで、明治になると陸軍の火薬庫となり、火薬庫が移転すると、跡地は明大の校舎と和田堀廟所となる。余談だが、京王線の笹塚・調布間が開通した時、最寄り駅の駅名は「火薬庫前」だった。しかし、評判も悪かったのだろう、駅名は「松原」に改称される。さらに「西松原」となり、次いで「明大前」となって現在に至っている。

(48)神泉橋
 この橋を通る井の頭通りは、水道管敷設のための用地を道路としたもので、この橋も、井の頭通り開設時に作られたようだ。橋の名は、和泉村の名の起こりとなった貴船神社の泉に由来するのだろうか。親柱もそれを意識した造りのように見える。

(49)栄泉橋
 次は、欄干が木製の「栄泉橋」である。この橋の名も、貴船神社の泉を意識しているように思える。戦後、この辺に「栄泉橋」という木橋があったらしいが、この橋は、それを受け継いでいるのかも知れない。橋を渡れば竜光寺に出るが、今日は立ち寄らずに、先を急ぐ。

(50)宮前橋
 桜の下の道を歩いて行くと、「宮前橋」に出る。左手前方の森は熊野神社の森で、この神社が橋の名の由来でもあるのだろう。江戸時代、和泉村内の神田上水には、橋が三か所架かっていたが、この橋は、そのうちの、「中ノ橋」の後を継いだ橋と思われる。

(51)中井橋
 「中井橋」の由来は、はっきりしないが、「宮前橋」と「番屋橋」の中間に新たに作られた橋だからだろうか。和泉の名の起こりとなった貴船神社は、この近くらしいが、泉は涸れているということなので、貴船神社には寄らずに、次の橋に行く。

(52)番屋橋

 「番屋橋」の名は水番屋に由来するといい、「番屋下橋」とも称したという。神田上水には、幕府によって上水を維持管理するための水番屋が設けられていたが、その一つが近くにあったのかも知れない。江戸時代の和泉村にあった「下ノ橋」の後を継ぐ橋でもあるのだろう。

(53)一本橋
 明治になって、畦道と畦道を結ぶ橋が作られたのが最初だろうか。橋の名の由来は、丸太の一本橋からとも、文殊院の一本杉からともいう。或いは、地名に由来するかも知れない。川は清流とまではいかないが、川幅一杯に広がって流れ、底が透けて見えている。

(54)和泉橋
 地名の和泉を橋の名にしているが、新しい橋である。人道橋にしては、ゆったり幅の橋だったが、現在は工事中ゆえ、仮橋を渡って、右岸の人専用の通路を通って、次の橋へ行く。前に来た時から十数年経過して、ようやく、この橋の工事に取り掛かったというわけだ。

(55)弁天橋
 昭和の初期には架かっていた橋で、橋の名は近くの弁天社に由来するという。この辺りは、つい最近まで工事が行われおり、橋も新しくなっている。橋を渡って左岸を歩くと、途中に階段がある。鍵が掛っていなければ、水面近くまで下りてみたかったのだが。

(56)方南第1橋
 前に来た時には工事中で、「仮橋」を渡ったが、今回は、新しくなった「方南第1橋」を渡る。明治の末頃、この辺りに細道があった。多分、小さな橋もあったのだろう。やがて、上流に弁天橋が架けられると、この道は見捨てられ、いつか、橋もなくなってしまう。ここに、再び橋が架けられるようになったのは、ずっと後のことである。この橋から先、右岸を歩いて行くと、対岸に氾濫時の取水口が見えてくる。方南橋は、そのすぐ先である。

コメント

6.鎌倉橋から永福橋

2009-10-30 22:46:59 | 神田川と支流
(34)梢橋

 鎌倉橋から川沿いに歩いて行くと、洒落たデザインの「梢橋」が現れる。コストも余分に掛っていそうだが、それなりの理由があるのだろう。神田川に架かる橋は、見栄えのしないものが多いが、橋巡りの途中で、このような橋に遭遇すると、一寸ばかりほっとする。この橋の少し先の右側に、遊歩道が作られている。神田上水は自然河川をそのまま使っていたため、大なり小なり蛇行していたが、神田川が改修されて人工的な流路になると、あちこちで旧水路跡が取り残されることになった。また、小さな支流の跡が残っている場合もある。この遊歩道も、そうした水路の跡なのだろうか。

(35)藤和橋

 続いて現れる「藤和橋」も、藤に因んだ洒落たデザインになっている。設計者の遊び心なのか、地元民の強い要望を入れてのことなのか、それとも単に予算が余っただけなのかは分らないが、こういう橋を見ながら歩くのは、退屈しないでいい。次の橋に行く途中、右側に横長の池がある。ポンプに支障があって水が入れられずに空池になっているのは残念だが、石組もあって立派な池である。

(36)八幡橋

 次の「八幡橋」の名は、太田道灌の創建という下高井戸八幡神社に由来し、橋も神社の参道を意識したデザインになっている。江戸から明治の初めごろまで、神田川の右岸は斜面になっていて、橋もなかったらしいが、明治の終わりごろになると、ここに橋が架けられて参道も出来る。最初は、宮ノ下橋と呼んでいたようだが、後に、表参道にあたる玉川上水の橋の名を受けて、「八幡橋」となる。神社のある場所は、東に張り出した低い丘の上にあるが、今は何の眺めも得られない。

(37)むつみ橋
 住宅街の中を川沿いに進んで、「むつみ橋」に出る。さすがに、4か所も続けて凝ったデザインの橋にするわけにいかなかったのだろう、ここは、ありきたりの橋になっている。以前は、八幡橋から神田橋までの間は田圃で、幾つかの橋も架かっていたようだが、今は神田川の流路も変わり、宅地化も進み、道も出来て、新たな橋が架けられている。

(38)弥生橋
 さらに進むと「弥生橋」に出る。橋の欄干の配置が双曲線のようになっているが、自転車でも楽に通行できそうだ。今回は橋を渡らずに通り過ぎ、先を急ぐ。距離表示によると、先はまだまだ、遠そうだ。

(39)向陽橋
 次の「向陽橋」は、近くの中学校の名を付けた橋である。ついでに言うと、この中学校の敷地は、お屋敷森古墳の跡なのだそうである。この古墳は、大正時代に発掘されたが、埋葬品は全て散逸してしまったという。古墳の跡とみられる、南北100m東西50mの小丘は、戦前まで残っていたようだが、戦後は完全に消滅して学校の敷地となる。発掘前に史跡に指定されていれば、今ごろは古墳公園になっていたかも知れないのだが。

(40)幸福橋
 続いての橋は「幸福橋」。その名にあやかろうと、しばし休憩。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。それと、コサギが一羽。思わず声をだすと、その声に驚いたのか、コサギは水面ぎりぎりに飛び、橋の下を潜って、何処かへ行ってしまった。

(41)神田橋
 次の「神田橋」は、車道と歩道が別の橋になっている。この橋を通る道を荒玉水道道路といい、梅里から喜多見まで一直線の道になっている。昭和の初期に、多摩川の水を送るための水道管を埋設した際、その上に作られたのがこの道路で、「神田橋」も、この道路が作られた時に架けられ、神田上水を渡る橋ゆえ、神田橋としたのだろう。当時は、上流の八幡橋から下流の永福橋までは田圃で、その中を道路が横断していた。

(42)かんな橋
 次の橋は「かんな橋」。ここからは右岸を歩く。この辺りの神田川の遊歩道は、周辺に緑が多く、快適に歩けるのが何よりだ。少し足を速めて、次の「永福橋」を渡る。少々疲れたので、しばし休憩。第一日は、ここで終わりにしたい気分。

コメント

5.佃橋から鎌倉橋

2009-10-28 22:43:06 | 神田川と支流
(26)佃橋

 次の橋は「佃橋」。橋の名は、地名(字)の築田から転じたようだが、本来は領主の直営田をさす佃が正しいのかも知れない。何れにしても、神田川沿いに水田が広がっていたのは確かだろう。江戸時代、高井戸は杉丸太の良材の産地として知られようになり、「佃橋」の近辺にも杉林が作られる。「佃橋」から南に甲州街道に出る道も、その運搬路として利用されてはいたのだろうが、現在は、遥かに交通量の多い環八が「佃橋」を通過している。その環八を歩道橋で渡って先に行く。

 川沿いの道は桜が多いので、花見時がベストといえるが、夏でも爽快に歩けるのが有りがたい。川の中を覗くと、川底の中央部を水が流れていて、思いのほか、水は澄んでいるように見える。前に来た時は、川の中に水質改善のための噴水のようなものがあったが、今回来てみると既に撤去されている。上流の方を覗いてみると、「佃橋」の辺りから、かなりの量の水が流れ込んでいるのが見える。玉川上水を流れてきた処理水を、浄化のため神田川に落としているという話を、どこかで聞いたことがあったが、その場所が「佃橋」であったらしい。

(27)高井戸橋
 次の橋まで来ると人通りも少なくなる。それでも、橋の名だけは、高井戸の名を付けている。高井戸の地名の起こりについては諸説ある。堀兼の井という深井戸に由来するという説、高台にあった高井堂が地名に転じたという説、丘の上の辻堂の傍らにあった清水を高井戸と称したという説、高井氏の土地ゆえ高井土と呼んだという説、等々。考えるほどに分からなくなってくるが、地名の起源などは、分からないことが多いのだ。

(28)正用下橋
 「正用下橋」の名は地名(字)に由来する。正用とは、下層領主の直営田のことを言うが、佃も正用も同じ意味で使われていたのかも知れない。近くには旧石器時代の遺跡もあり、この辺は古くから人が住みついた場所ではあった。

(29)池袋橋
 「池袋橋」は地名(字)に由来する。むかし、北の辺に大きな池があり、棲んでいた蛇を殺したところ水が涸れたため、頭骨を中野の宝仙寺に納めて祈祷してもらったという伝承がある。話の真偽はともかくとして、地形的には池が出来てもおかしくない場所ではある。ここから次の橋までは少し離れているが、公園などもあって緑も多く、退屈はしない。

(30)乙女橋
 付近に鷹狩の場所があって、一般人の狩猟を禁じていたという。このような場所を御留場と呼ぶそうだが、御留が乙女に転じ、「乙女橋」という橋の名となって、色もピンクに染められたというわけだ。

(31)堂の下橋
 丘の上に辻堂があり、そこから堂の下という地名(字)が生じ、その地名が橋の名となる。「堂之下橋」という橋の名は、玉川上水の橋の方が先だったようで、その後、江戸時代には無名だった神田上水の橋が、この橋名を受け継いだということなのだろう。この橋の下流には、小さな滝が出来ている。その音を背中にして、次の橋へ向かう。

(32)塚山橋

 次の「塚山橋」は、塚山公園に渡る橋として架けられたもののようだが、石造りの印象的な橋である。塚山公園は、縄文時代の集落跡地を整備して公園としたものだが、前に入ったこともあり、今回はパスして先に行く。

(33)鎌倉橋

 旧鎌倉街道が通っていたから「鎌倉橋」というわけで、橋のたもとには、「鎌倉街道」の石碑も建っている。鎌倉街道というのは、鎌倉に通じる中世の古道の総称だそうだが、関東では、新田義貞鎌倉攻めの際の進路として取り上げられることが多いようだ。その進路だが、上道、中道、下道とあり、これに、別ルートや連絡道、支道まであって、少々ややこしい事になっている。この鎌倉橋を通るのは、そのうちの、中道に関わる道のようで、登戸の渡しから、祖師谷、上北沢を経て、この鎌倉橋を渡り、大宮八幡の前を通って、鍋屋横丁から板橋に出る道だという。その道を辿ってみるのも面白そうだが、今日は別に目的がある故、早々に鎌倉街道と分かれて、先を急ぐ。

コメント

4.久我山橋から佃橋

2009-10-24 21:56:52 | 神田川と支流
(16)久我山橋

 神田川を下ってきて、最初の繁華の地が「久我山橋」の辺りになる。ここは、駅も商店街も近いため、人通りも多く、車もまた多い。前に来た時は、橋の上を自転車が占領して歩くのも儘ならぬほどだったが、今は自転車置き場も別に用意されていて、橋の上はきれいさっぱり、片づけられている。現在、この橋は人見街道と岩通通りの交差点になっているが、神田川の左岸と右岸の道も通るので、少々煩瑣な状況になっている。もともと、この場所には、江戸時代から橋があり、久我山から玉川上水に出る道が通っていたのだが、昭和になって井の頭線が開通するのに合わせて、別の新しい道が作られることになる。この道は、新しく作られた橋を通って、宮下橋から来る久我山道と合流して、府中方面に行く道となる。人見街道と呼ばれる道がそれである。現在は、久我山駅も新しくなり、周辺も整備され、二つあった橋も一つに統合されて、橋が駅前広場を兼ねるようになっている。

(17)清水橋
 次の橋は「清水橋」。竹林が美しい右岸をしばらく歩いて行くと、道は行き止まり。右手に上がる道はあるが、川からは離れてしまうので、「清水橋」まで戻って左岸を歩く。右岸に樹木の生い茂る傾斜地を、左手に京王電鉄の検車区を見ながら歩いていくことになるが、付近に人家も無いので、暗くなってから歩くような所ではない。

(18)無名橋(京王占用橋)
 次の橋は無名の橋だが、「京王占用橋」か「京王橋」で通るらしい。本来は、京王電鉄の敷地内通行用の橋なのだろうが、今は、誰でも通行可になっている。もっとも、京王電鉄の検車区が出来る前は、この辺にも橋があったわけで、その代替えというわけだ。

(19)月見橋

 川幅いっぱいに流れていた神田川も、無名橋から下っていくと、中央部の狭められた範囲に押込められて流れるようになる。さらに進むと、周辺は再び住宅街となり「月見橋」となる。井の頭線の富士見ヶ丘駅が開業する際、新たな道が開かれ、その時に、この橋も架けられたと思われる。橋の名の由来は分からないが、近辺は田圃だったから、月見をする人も居たかも知れない。当時は、北側の田圃を潤すため、橋の手前で神田川から分水していたので、本流と分水側と橋が二つあったようである。ところで、富士見ヶ丘の名の由来だが、近くに富士の眺めが良い丘があったからという。その丘は、道を開設する際に削られ、残土は井の頭線を吉祥寺まで延長する際に、盛り土として使われたということだ。

(20)高砂橋
 「月見橋」が架かる以前から、ここに橋があり、地名(字)に由来する「鍛冶屋敷橋」と呼ばれていた。江戸時代にも、この辺に橋があったようだが、無名の橋だったかも知れない。現在の橋名「高砂橋」の由来は不明だが、今は通る人も多くなさそうな橋である。川の中を見ると、人工的な水路が川中の川として造られている。川の水は、時には折れ曲がり、時には直線的に、時には水中に置かれた石と石の間をすり抜けて流れている。

(21)あかね橋
 次は、車道の幅の割に歩道がゆったり幅の「あかね橋」。川床に植えられているのはキショウブだという。その時期に来れば、コンクリートの川底が、黄色の花で溢れる様子が見られるのだろうが、今は緑の葉が見えるだけだ。この辺りから南側に、風格のある建物が姿を見せるようになる。関東大震災の被災者のために設けられた浴風会の施設だという。

(22)むつみ橋

 「むつみ橋」は川に斜めに渡されている橋で、橋の一部を利用して草花が植えられている。疲れた心も、少しは和む筈だが、手入れは大変だろう。下を覗くと、ゆるやかな曲水路の中を鯉が数匹、ゆったりと泳いでいるのが見える。

(23)錦橋
 次は、錦が丘団地に由来する名を付けた、「錦橋」という人道橋である。ここから先、神田川は川幅一杯に流れるようになる。川は水草を揺らしながら、微かな音を立てて流れている。水が透き通っているように見えるのは、水深が浅いせいだろうか。

(24)柳橋
 神田川が、右岸にせまってくる台地の端をかわして平坦地に出るとすぐ、斜めに架けられた「柳橋」となる。道幅の割に車の通行は少なそうだ。ここまで来ると、井の頭線の高架が見えるようになる。その後ろには、杉並清掃工場の煙突が、高く、高く聳えている。

(25)あづま橋
 「あづま橋」まで来れば、高井戸駅は目の前。この橋のすぐ先が「佃橋」で、環八が神田川を渡っている。井の頭線が開通した当初から、ここは高架になっていて、道路と立体交差していたそうだが、環八の将来の交通量を見越していたのだろうか。ただ、橋の下の水は、気のせいか、少し汚れているように見える。

コメント

3.丸山橋から久我山橋

2009-10-22 22:54:56 | 神田川と支流
(9)丸山橋

 三鷹台の駅前を通る道路は、「丸山橋」で神田川を渡っている。橋の名は地名(字)に由来するという。昭和の初期に井の頭線が開通するのに合わせて、この道路と橋も整備されたのだろう。当時の三鷹台駅は道路の西側にあったようだが、今は、ホームの延長にともない、道路の東側に移されている。「丸山橋」から先、川沿いの道は行き止まりになる。仕方がないので、橋から左に行き、次の角で信号を渡って東に向かって歩く。時々、家と家の間から向こうを覗くと、川岸の柵らしいものが見える。安心して歩いていくと、突然、線路の脇に出た。いつの間にか、川は線路の下をかい潜って、向こう側に出ていたのだ。

(10)神田橋
 踏切を渡って少し行くと、川べりに出られるようになっている。右に行くと行き止まりなので左に行くと、「神田橋」に出る。明治の頃にも橋はあったようなので、今の橋は何代目かの橋ということになる。橋を渡っていると、右手から自転車が二、三台、こちらに来るのが見えた。ということは、右岸の道は通り抜けが出来るという事になる。「丸山橋」で、道を右にとれば良かったのかなとも思ったが、今さら戻る気はない。橋を渡り終えて、神田川の右岸を少し行くと、右に入る遊歩道のような道がある。神田川の旧水路跡のようでもあるが、他人の家の庭先に入り込みそうな気もして、入るのは止めにした。

(11)みすぎ橋

 次の橋は、三鷹と杉並の境にあることから名が付いた「みすぎ橋」。橋の下を覗くと、コンクリートの岸壁の間に、蛇行する水路が人工的に作られているのが見えた。本来、神田上水は自然河川をそのまま利用したものだったので、蛇行するのが自然なのだが、今や、このような形でしか、昔の神田上水を偲ぶ事は出来ないのだろう。ただ、何と無く川が哀れなような気もする。それに、このまま放置すれば、川底に折角作った水路も、生い茂る草の中に埋もれてしまうのではなかろうか。

(12)緑橋
 次の橋は「緑橋」。桜が多いので、ここを訪れるのは花見時がベストなのだろうが、夏でも日陰になってくれるので、快適に歩けるのが有りがたい。昔は、この辺りから、神田川沿いに田圃が続いていたらしいが、今では閑静な住宅地が先の先まで続いている。

(13)宮下橋
 久我山稲荷神社の下にあるから「宮下橋」というわけで、橋の欄干も鳥居の色に塗られている。今でこそ、久我山駅近くの久我山橋がメインストリートのようになっているが、昔は、この橋を通る道が久我山の本道だった。この道は、大宮八幡から西へ行き、この橋を渡って、府中に出る古い街道で、地元では鎌倉街道とも呼ばれていた道である。

(14)宮下人道橋
 その名の通り、人しか渡さぬ橋である。前の橋との間隔が短いような気もするが、必要あって架けられたのだろう。神田川の流域には、所々に人道橋があるが、それだけ、歩く人が多いということかも知れない。

(15)都橋

 次も人道橋で、「都橋」という名が付いている。名の由来は知らないが、久我山にあった橋の名を受け継いだのだろうか。ここまで来ると人通りも増えて、都会の橋らしくなってくる。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。そこそこの水深があって、餌も豊富らしく、見栄えのするサイズになっている。下は草地があるようで、下りてみたい誘惑に駆られたが、下りたら上がれそうにない。あっさり諦めて、次の「久我山橋」に行く。

コメント

2. 水門橋から丸山橋

2009-10-20 22:59:18 | 神田川と支流
(4)旧みどり橋

 「水門橋」から先、池から流れ出して神田川となった水流は、公園の林の中をひっそりと流れ、そして、公募で名を付けた「みどり橋」と言う木橋の下を潜り抜けている筈だった。それが、今回来てみると、「みどり橋」らしき橋はどこにもない。辺りをよく探してみると、橋が置かれていた橋台らしきものが、ひっそりと残っている。直ぐに壊せそうな仮橋だったので、さっさと壊してしまったに違いない。南側の広場に、プールか釣り堀があった頃ならいざ知らず、今時、この橋を利用する人なんぞは居なかったのだろう。

(5)旧よしきり橋

 次の「よしきり橋」も、公募により名を付けた橋で、利用する人が結構居そうな橋なのだが、どこか変である。遠目には黒く塗った木橋のように見えるが、近くに寄ってみると、木製に偽装した橋であることが、すぐに分かる。となると、前に来た時に見た木製の「旧よしきり橋」はどこへいったのだろう。多分、「旧よしきり橋」も仮橋に過ぎなかったので、「みどり橋」と同様に、すぐに壊してしまったのだろうが、今はその痕跡すら見当たらない。そういえば、「旧よしきり橋」が架かっていたのは、京王線のガードの下という妙な場所だった。道は橋脚のアーチの下を潜るようになっていて、橋脚に頭上注意と書かれてはいたが、自転車で通行する人にとっては、少々危険な通路でもあった。いま来てみると、橋が撤去されているばかりでなく、橋脚の下のアーチの部分も塞がれている。やはり、事故があってもおかしくない場所ではあったのだ。では、どうして、こんな場所に橋を架けたのだろうか。何か謂れがありそうである。

(6)旧夕やけ橋

 駅舎は新しくなってはいるものの、どこか懐かしい井の頭公園駅に立ち寄ってから、今の「よしきり橋」を渡り、神田川に沿って下っていく。明るい日差しの中を、川はのんびりと流れていて、子供たちが何人か、川遊びをしているのが見える。こちらも水遊びをしたい気分だが、今日のところは先を急ぐゆえ、取り止めにして、次の木の橋、「夕やけ橋」を渡る。この橋の名も公募によるものだという。橋を渡りきって、何気なく振り返ると、どこかおかしい。前に来た時は、親柱も木製だった筈だが、今見ると、石の親柱になっている。橋の形も以前と違っていて、何となく安っぽく見える。前の橋は丈夫そうに見えたのだが、橋を架け替えざるを得ない事情が生じたのだろうか。

(7)神田上水橋
 「夕やけ橋」の下流に、「神田上水橋」という橋が架かっている。橋の名の由来は不明だが、何の変哲もない橋である。橋から上流を眺めると、「夕やけ橋」を過ぎた辺りから、神田川が何段かの小さな滝となって、切り立ったコンクリートの谷の中へと落込んで行くのが見える。川の中には草が茂り、ちょっぴり自然が残っているように見えてはいるが、この橋の下を流れているのは、神田上水ではなく、まごうことなき都市河川の一つとなった神田川である。この橋は、神田上水、さようなら、と言っているようにも見える。

(8)あしはら橋
 明治の頃、この辺りに小橋があり、細い道が通っていたらしい。「あしはら橋」が、その名残かどうかは分からないが、昔は芦の茂る湿地帯であったようで、橋の名も、それに由来するのだろう。今でも川の中を芦らしきものが占領しているが、橋の名に因んで植えたのか、自然発生したのかどうかは分からない。この辺では、カワセミを見かけることもあるそうだが、コンクリート岸壁ゆえ住みつくのは無理というものだ。それに代わって、都市部に適応したハクセキレイが一羽。ひらりと現れて、また何処かに飛んでいった。

 この橋の下流で、神田川は井の頭線に沿って流れるようになる。この辺りは地盤が軟弱だったので、井の頭線の開通当時は電車が脱線したこともあったと聞く。今はもちろん、そんな事は無いが、歩く傍を電車が追い抜いて行くのはあまり気分が良くない。そこで、ここからは左岸の道を歩く。その道の途中に親水テラスがあったので下りてみる。テラスと水面との距離はあまり無い。もっとも、昔の神田川の水面と、川縁との段差はこの程度のもので、すぐに川の中に入れたのだ。そんなことを思っているうちに、川の中に入ってみたい衝動に駆られた。しかし、残念ながら柵にはカギが掛っている。諦めて、道に上がり、少し先の丸山橋に行く。

コメント

1.神田川源流

2009-10-18 08:57:08 | 神田川と支流
(1)水源

 出発地は吉祥寺である。十数年前に神田川に沿って歩いた時は一人だったが、今日は道連れが居る。本当は、団体歩行より単独行の方が好みなのだが、まぁ、仕方がない。ともかくも、丸井の横の道を入り、群衆の間をすり抜ける。それから、行楽地にありがちな店を横目に、速足で下っていくと、ようやく水面が見えて来た。ここまで来ると、さしもの人混みも井の頭公園の中に拡散して、水と緑が優勢になる。諸々の音と臭いが混ざり合った駅前は、どうにも苦手だ。少し休んでから、池の周りをうろつこうと思ったが、道連れの方は水源を見に行きたいようなので、黙って従うことにした。

 池の水源らしきものは自然文化園分園近くにあった。そこは、家康がお茶をたてた井戸の跡ということになっているが、本当のことは分からない。はっきりしているのは、江戸時代の水脈は既に断ち切られていて、今は地下深くから汲み上げているという事だけだ。湧きだしている水の量は思いのほか多いが、その大半は井の頭池の底から沁み出して、再び地下深くへと戻ってしまうのだそうだ。つまり循環水になっているわけで、いま湧出した水のうち、神田川に辿りつくのは、ほんの僅かと言うことになる。井戸から湧き出したばかりの水は、清冽な水のようにも見えるが、多分、飲用には不適なのだろう。近寄って嗅いでみると、どこか金属のような冷たい臭いがした。

 江戸時代、この井戸と、家光が自ら小柄で井之頭と刻んだコブシの木と、家光が植えた柳の木の三か所に、立て札が立っていたという。井戸は見た通り残っているが、コブシの木は江戸時代に枯れてしまい、その枯れ木も焼失して今は無い。柳の木の方は明治以降も残っていたという話だが、今はどうなったか分からない。少し気にはなったが、今日のところは先を急ぐゆえ、それを確かめに行くのは止めにした。

(2)ひょうたん橋

 水源はこのへんにして、池に沿って東に向って歩く。歩いていくうちに、さしもの広い池も次第に萎んでいき、その萎んだところに取水口と、小さな橋が二つ。二つまとめた呼称かどうかは知らないが、「ひょうたん橋」という名前がついている。この橋の先に、ひょうたん池というこぢんまりした池があって、この池の向こうに水門橋という小さな橋が見える。その水門橋から先が、神田川ということになっている。

 江戸時代には、井之頭池の東端の土橋から先が、神田上水になっていた。明治になっても、その状況は変わらなかったのだろう。昭和になると、取水口が二つになり、その二つの流れが合わさる先に小さな橋が作られる。やがて、流れは少しずつ広がって、ひょうたん池という小さな池となる。池を川とは呼びにくいので、池の先の小さな橋が水門橋となって、神田川の起点になった。まぁ、こんなところだろうか、あてにはならないが。ひょうたん池が、自然発生的に出来たのか、意図的に作られたのかは分からないが、神田川に流れる水量を調整するバッファとして、今でも役に立っているようではある。

(3)水門橋

 ひょうたん池を回って水門橋に行く。神田川の初めの水量は多くもないが少なくもない。橋を渡って流れに沿って少し行ったところに、「一級河川 神田川」と彫られた石が置かれている。そこからまた、水門橋に戻ってひょうたん池の方を眺める。

 それにしても、「ひょうたん」とは言いえて妙である。さしずめ、神田川が流れだすのは、ひょうたんの口に当たる「水門橋」で、ひょうたんの首に当たるのが「ひょうたん橋」のある場所に相当するのだろう。考えてみれば、ネクタイを首に巻くとサラリーマンもしゃきっとするし、犬だって首輪のおかげでしゃきっとするのだ。川の流れも、首の所に結ばれた紐のような「ひょうたん橋」のおかげで、しゃきっとするに違いない。

コメント