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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

小台から宮ノ前へ

2011-02-10 19:02:06 | 都電荒川線に沿って

 小台で道路の南側に渡り、宮ノ前に向かって歩いて行くと、右側に碩運寺という寺がある。大正3年、この寺にラジウム温泉が湧き出すということがあって、寺の湯として評判になり、それが温泉旅館として独立し、さらに周辺に温泉旅館が林立するようになり、やがて花街が生まれて、一大歓楽街となる。大正から昭和にかけてのことだが、今は、その面影も薄れて普通の町になっている。

 道路を向こう側に渡って、尾久八幡神社に行く。この神社は、尾久と船方の鎮守で、熊野神社も合祀している。宮ノ前の停留所は、この八幡神社の目の前である。かつて、この神社の北側と両側には、荒川(隅田川)から引かれた八幡堀と呼ばれる堀割があり、船が入るようになっていたという。上尾久村一帯には、石神井川から分かれた下郷分水(音無川)から分水した用水が灌漑用として流れていて、八幡堀にもつながっていたようだが、現在は、この用水も八幡堀も消滅している。

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荒川遊園地前から小台へ

2011-02-04 19:51:15 | 都電荒川線に沿って

 停留所から北に行くと、あらかわ遊園がある。その前身は、大正11年、煉瓦工場跡地に作られた私立の荒川遊園である。この遊園地は、昭和7年に王子電気軌道に売却され、王子電気軌道直営の遊園地となる。しかし、戦時中は高射砲の陣地となって閉園状態となる。昭和25年になって、荒川区立のあらかわ遊園となり、現在に至る。

 今回は、あらかわ遊園の中には入らず、外側を歩いて隅田川に出る。右側には小台橋が見えている。川に沿って歩き小台橋まで行く。この橋が架けられたのは昭和8年のことで、それ以前は船渡しであった。江戸時代からあった小台の渡しがそれで、渡し場は小台橋の近くにあったという。小台橋まで行ったついでに、橋の中程まで行き、東京スカイツリーの位置を確かめてから、小台の停留所に行く。

 この停留所の開業は、三ノ輪線開通と同時で大正2年のことである。当時の停留所名は、小台ノ渡。まだ小台橋が無く、渡船が活躍していた時代であった。

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荒川車庫前から荒川遊園地前へ

2011-01-31 22:01:44 | 都電荒川線に沿って

 荒川車庫前の停留所の先の信号のところを左に折れ、日刊スポーツの印刷工場の前に出たら右に折れる。やがて、左手に樹林が見えてくるが、ここを左に行くと船方神社に出る。この神社は船方村の鎮守で、江戸時代には十二天社と呼ばれていたという。十二天の名は、六阿弥陀の伝承に由来するとも、熊野信仰と関わりがあるともいうが、記録が失われているため確かなことは分からない。船方神社から西に少し戻ると、別当をつとめた延命寺がある。ここを南に行き、突き当たって右に折れ、さらに左に折れて進むと、都電の線路に出る。左に行けば、荒川遊園地前の停留所に出る。

 荒川遊園地前の停留所の開業は、私営の荒川遊園が開園した大正11年のことで、当時の停留所名は遊園地前であった。王子電気軌道にしても、遊園が出来て乗降客が多くなるのは願ってもないことで、遊園の開園に際して、何らかのバックアップをしていたかも知れない。その後、停留所名は遊園前となり、昭和14年には尾久六丁目に変更される。昭和42年に停留所名は西尾久七丁目となるが、昭和58年には荒川遊園地前に改められている。
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梶原から荒川車庫前へ

2011-01-27 21:43:15 | 都電荒川線に沿って

 梶原の停留所からすぐの梶原銀座を歩く。豊島氏の平塚城があったとされる平塚神社付近から坂を下り、途中で船方村(現・北区堀船4付近)への道を分け、現・梶原銀座を通る道が、江戸時代からあったようである。梶原銀座の商店街を歩いていくと、行く手を阻まれてでもいるかのように道が左に直角に折れていく場所がある。ここを右に入ってすぐ左に折れていく道が、白山神社に出る古い道のようだが、今回は直進する細い道の方を歩く。しばらく行くと、やや広い道に出る。城之内村から船方村を経て尾久に出る、江戸時代からあった道と思われる。ここを右に行き、その先を左前方に入って白山神社に行く。梶原城之内村の鎮守であったという神社だが、古文書が失われたため由緒などはよく分からない。隣の福性寺も記録を失っているが、保存されている石造物は梶原塚にあったものという。白山神社の東側は白山堀の跡で今は公園になっている。梶原一帯の灌漑用水は石神井川から分かれた下郷用水からの分水で、梶原への道に沿って流れ、現・梶原銀座の途中から白山神社方向に流れて荒川(隅田川)に落ちていた。近代になって、その下流部分を整備して堀割としたのが白山堀である。


 白山堀の隣の読売新聞印刷工場に沿って東に少し行き、やや広い道を南に行くと都電の線路に出る。ここを左に行くと、荒川車庫があり、その隣には、都電おもいで広場がある。その直ぐ前が荒川車庫前の停留所である。開業は大正2年。当時の停留所名は、地名(字)に由来する船方前であった。船方は荒川(隅田川)沿いにあった村名だが、船方前はその前方にあたるという意味だろうか。なお、現在の町名の堀船は、船方の船の一字をとったものである。開業当時の停留所周辺は田畑しか無いような場所であったが、北側の荒川(隅田川)沿いに紡績工場などの工場が進出していたので、乗降客はあったのだろう。大正14年、ここに車庫が設けられるが、周辺の宅地化が進むのは、ずっと後のことである。


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栄町から梶原へ

2011-01-23 13:11:18 | 都電荒川線に沿って
 17.栄町から梶原へ

 栄町の停留所は大正2年に三ノ輪線が開通した時のターミナルで、当初の停留所名は飛鳥山下であった。停留所の位置は現在より王子駅前寄りであった。当時の王子電気軌道の沿線は、三ノ輪の近辺を除いて田園地帯であったから、乗降客は少なかったと思われる。なお、開通時の三ノ輪線の停留所は、飛鳥山下、梶原、船方前、小台ノ渡、熊ノ前、下尾久、町屋、博善社前、三河島、千住間道、三ノ輪であった。

 栄町停留所の北側一帯は工場が多く、歩いて楽しい場所とはいえないが、それでも適当に道を選んで歩いていき、明治通りに出る。ここを右に折れ、頭を覗かせている東京スカイツリーを眺めながら進むと、梶原の停留所に出る。この停留所の開業は三ノ輪線が開通した大正2年で、当時、南側は一面の田地であった。停留所名の梶原は地名(字)だが、太田道灌の子孫の梶原政景の屋敷があったという伝承から、この辺りを梶原堀之内村と呼ぶようになったという。現在の町名である堀船は、この村名から一字をとったものである。なお、梶原屋敷は、とうの昔に跡かたも無く消え失せ、梶原政景の塚も江戸時代に荒川(隅田川)に崩れ落ちてしまったという事である。

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王子駅前から栄町へ

2011-01-16 20:15:08 | 都電荒川線に沿って

 王子駅前から都電に沿って歩くと、飛鳥山の下を流れてきた石神井川が左に見えてくる。その先、王子駅南口に入って改札の前を通り過ぎ、跨線橋を渡る。橋の上からは東京スカイツリーを望むことが出来る。橋を渡った先は飛鳥山公園である。江戸名所図会には、北東の方角から眺めた飛鳥山と、石神井川から分水され飛鳥山の裾を流れていた下郷用水(音無川とも呼ばれていた)と、飛鳥大坂の下で下郷用水に架かっていた飛鳥橋とが描かれている。下郷用水は、飛鳥山に続く台地の下を流れたあと、三ノ輪方面に流れていたが、現在は暗渠化され、飛鳥橋も消滅している。その位置は、JRの線路の西側とされているので、跨線橋で下郷用水の上を越えてきたことになる。 飛鳥山公園には、飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢史料館の三つの博物館があるが、今回は時間の都合でパスし、飛鳥山の碑や都電の一球さんなどを見て歩き、無料公開されていた旧渋沢邸の庭園を通り抜けて本郷通りに出る。

 本郷通りを左に行くと駐車場がある。道順からすると、この角を左に入れば良いのだが、その前に一里塚を見に行く。ついでに七社神社を参拝し、駐車場のところまで戻って角を曲がる。しばらく行くと、線路際に向かって急な下り坂となるが、その手前を右に入ると跨線橋がある。橋の途中の右側に、新幹線とともに東京スカイツリーが眺められる。橋を下りて、栄町の停留所に行く。

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飛鳥山から王子駅前へ

2011-01-12 19:08:40 | 都電荒川線に沿って

 飛鳥山の停留所まで、都電は家と家の間をすり抜けるように専用軌道を走ってきたが、ここから王子駅前までは併用軌道になり、一般道路を車と一緒に走る事になる。電車は音無橋の先で、王子駅に向かって坂を下って行く。この坂を飛鳥大坂といい、昔はもっと急坂で難路であったらしいが、今は傾斜も緩やかになっている。それでも都電にとっては運転が難しい区間であるらしい。

 音無橋の上流側から石神井川に下り、橋の下を潜って音無親水公園に行く。現在の石神井川は暗渠となって飛鳥山の下を潜っているが、音無橋下流の、本来の石神井川の流路を整備して公園としたのがこの公園で、都市公園百選にも選ばれている。この公園から左に上がると王子神社がある。今回は行かないが、ここから、王子稲荷や名主の滝に出ることも出来る。ところで、石神井川の下流は、飛鳥山から王子神社の丘に連なる台地に谷を刻んで、東側の低地に流れ出しているが、やや不自然に見えることから、人為的に谷を掘削したという説が生まれることになった。その説に従えば、古石神井川は、飛鳥山で向きを変えて谷田川(谷戸川、藍染川などともいう)の谷を流れ、不忍池に流入し、そこから南流し、お玉が池を経て海に注いでいたが、石神井川を東側の低地に流す必要があったため、飛鳥山付近の台地を掘削したというのである。現在は、この説は否定され、自然の浸食によって飛鳥山の台地が削られたとし、その結果、古石神井川が流れていた谷田川の谷の水量が激減したとしている。

 江戸時代、石神井川の下流を音無川と呼び、風光に優れた場所であったため、行楽客が多く訪れ、これを目当てに料理屋や茶屋が近辺に集まっていたという。その中の一軒で、落語の「王子の狐」にも登場する扇屋が、今も残っている。かなり前の事だが、扇屋の大広間で開催されていた落語の会を聞きに行ったことがあるが、その扇屋も料亭の商売を続けることが難しくなったのだろう、その後、料亭の営業を止めてしまい、現在は、名物の卵焼きを売る店としてのみ存続している。

 王子駅を通り抜けて、新幹線の高架下にある王子駅前の停留所に行く。王子に停留所が開業したのは、飛鳥山から王子駅前まで路線が延長された大正4年のことだが、現在とは異なり、停留所は駅西側にあった。大正14年、三ノ輪と飛鳥山下(現在の栄町)間の路線が王子駅前まで延長されるが、当時の東北本線は地上を走っていて横断できなかったため、停留所は駅の東側に、別に設けられた。これでは三ノ輪から大塚まで直通運転が出来ず不便だということで、飛鳥山の下をトンネルで潜り、東北本線を高架で越える事も計画されたが、その後、東北本線が高架に変更されてガード下を通る事が可能になったことから、昭和3年に三ノ輪・大塚間の直通運転が可能となった。停留所名は当初、王子であったが、現在は王子駅前になっている。なお、昭和2年には王子から赤羽までの路線も開通しているが、昭和47年に廃止されている。

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滝野川一丁目から飛鳥山へ

2010-12-27 19:41:25 | 都電荒川線に沿って

 滝野川一丁目の停留所の開業は昭和33年頃。谷田川通りがここまで延長された時期にあたる。踏切を渡って坂を上がると、昔は堀割が通っていた道に出る。ここを右に行くと下り坂となる。下りきって直進する細い道が、堀割の通っていたルートで、堀割はその先を折れて、現・明治通りの北側にあった反射炉の敷地内に用水を供給していた。反射炉は結局のところ使用されなかったが、千川上水からの用水は、明治になって、紡績や製紙などに使用されるようになる。その後、工業用水としての需要も減少し、現在は用水も停止され、堀割の跡も道路に変わっている。

 明治通りを歩道橋で渡って、反射炉のあった場所に行ってみる。今は、反射炉はおろか紡績工場などの跡らしいものも見当たらないが、明治37年に設置された醸造試験所(現在は酒類総合研究所)の赤レンガの建物が残っている。その隣にある醸造試験所跡地公園を通り抜け、別の道を通って明治通りに出る。道路を渡った先、明治通りから斜めに入る道は競争横丁と呼ばれていた道で、昔は、多くの店が並んで競争していたそうだが、今は横丁の跡地といった雰囲気の道である。この道を歩いて行くと、飛鳥山の停留所に出る。石神井川に落ちる逆川は、その手前を流れていたらしい。

 飛鳥山の停留所は、王子電気軌道株式会社の最初の路線である大塚線の終点として、明治44年に開業している。行楽客を当て込んでのことだったのだろう。

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西ヶ原四丁目から滝野川一丁目へ

2010-12-23 10:06:45 | 都電荒川線に沿って

 西ケ原四丁目の踏切を渡り、信号の先を左に入って幼稚園の先の角を左に曲がり、道なりに行って突き当たりを右に行き、道音坂を下る。この道は、道幅こそ広くはないが、堀割の通っていた旧六阿弥陀道の続きの道で、西ケ原と滝野川との村境にもなっていた。旧六阿弥陀道は、岩槻街道(本郷通り)を経て六阿弥陀寺の一つ、無量寺に出る道だが、さらにその先、千住や浅草にも通じていたため、千住道、浅草道とも呼ばれていた。この道は、古くは、旧鎌倉街道の中道と下道を結ぶ支道であったとされ、豊島氏の居城である平塚城付近を通り、日暮里付近で台地を下り、三河島、三ノ輪の辺りを経て橋場に出る道であったといわれている。

 坂を下ってT字路を左に行ったところに、西谷戸新道の標石が置かれている。この辺りは、北流して石神井川に流れ込んでいた逆川の水源地帯に当たるが、その南側一帯は谷戸川の源流部にもなっていた。谷戸川は、染井霊園近くにあった長池を水源の一つとして、上野の山に続く台地と本郷の台地の間を流れ、駒込を過ぎ、下流は谷田川、さらに藍染川と名を変えて、不忍池に流れ込んでいた川であるが、源流に近い一帯は水田になっていた。大正5年頃の地図には新道に相当するような道は見当たらないが、大正10年の地図では、すでに水田地帯を抜けてくる道が作られている。この道の周辺に人家が密集するようになるのは、昭和に入ってからと思われるが、結果として、谷戸川の汚染が問題となり、昭和7年からは暗渠化の工事が始まっている。その後、暗渠化された谷戸川(谷田川)跡を利用して商店街が形成されていく。現在、西谷戸新道の標石のある角を曲がった先には、ふれあい通り、西ケ原銀座、染井銀座、霜降銀座と商店街が続いていて、散歩がてら歩くには楽しい道だが、今回は曲がらずに先に進み、谷田川通りに出て左折、滝野川一丁目の停留所に出る。

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新庚申塚から西ヶ原四丁目へ

2010-12-19 09:40:58 | 都電荒川線に沿って

 新庚申塚の停留所の右側の道に入る。この道は栄和通りに続く旧王子道のようだが、今はお岩通りという名が付いている。妙行寺に由来する命名なのだろうが、通りの名としてはどうなのだろうか。次の信号で左に入り踏切を渡ると、その妙行寺に出る。なお、この辺りには寺が多く集まっているが、明治以降に移転してきたものである。

 妙行寺の横の道を行くと少し広い道に出る。この道は旧六阿弥陀道で、古くは旧鎌倉街道の中道と下道を連絡する道であったとされる。幕末、滝野川に反射炉を設置するため、千川上水公園の場所にあった千川上水元枡の溜池から引いた用水が、堀割として、この道を通っていたという。この道を右に行くと十字路に出る。直進する道は旧六阿弥陀道、左の道は堀割が直角に曲がって続いていた道である。この十字路を右に行くと西ケ原四丁目の停留所に出る。開業は明治44年で、当時の停留所名は滝野川であったが、昭和33年頃に現停留所名に変更されている。

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