江戸幕府が陸奥出羽松前に派遣した巡見使の旅を連載しておりますが、巡見使としての役目も、国境を越えるところまでで、あとは江戸への帰路をたどることになります。
(162)享保2年9月10日(1717年10月14日)。
棚倉を出立。寺山に某浄蓮院の古舘ありと記す。八槻の近津大明神(都々古別神社)を参詣したあと花輪(塙)に出る。ここに大塚越前守のあと石川近江の籠城となった佐竹番城跡ありと記す。薬師堂のある植田で休憩したあと東舘に出る。天野下総、田島相模守、畠越前の籠城であった東舘という佐竹番城跡ありと記す。この日は下関河内で泊まる。行程は六里半であった。旅宿には水戸藩主の使者が訪れている。巡見使としての仕事も、あと僅か、明日の国境見分を残すのみとなった。
(163)同年9月11日。
大(大ぬかり)を過ぎ、陸奥と常陸の国境(明神峠)を越える。巡見の場所もここが最後。3月29日に下野と陸奥の国境を越えて以来、半年に近い巡見使としての務めも、ようやく終わりを迎え、あとは江戸に戻るだけである。住田(徳田?)を通り、小中で馬継(馬と人足の交代)をし、川原野(上深荻)で休憩。このあと玉簾に出る。観音堂があり景地と記す。町屋で馬継をし、薩都(里野宮)に出る。近くの瑞霊(瑞竜)に水戸家代々の墓所ありと記す。水戸殿御休所のある馬場を過ぎ、太田で泊まる。行程は九里である。
(164)同年9月12日。
日記に、水戸殿の御使者も麻上下で対面とある。巡見が滞りなく済んだ事への御慶という意味合いがあったのだろう。太田を出立した一行は、下川合で藩提供の船により久志川(久慈川)を渡り、水戸殿菩提寺のある額田で馬継。田彦で休憩し、枝川で中川(那珂川)を渡って水戸城下に出る。ここで馬継をしたあと、長岡で泊まる。行程は八里半である。
(165)同年9月13日。
千貫桜のある小幡、石船明神のある小岩戸、水戸大学領分の片倉を通り、府中[石岡]で休憩。土浦を過ぎ、中村で馬継をし、牛久に泊まる。行程は十三里余である。
(162)享保2年9月10日(1717年10月14日)。
棚倉を出立。寺山に某浄蓮院の古舘ありと記す。八槻の近津大明神(都々古別神社)を参詣したあと花輪(塙)に出る。ここに大塚越前守のあと石川近江の籠城となった佐竹番城跡ありと記す。薬師堂のある植田で休憩したあと東舘に出る。天野下総、田島相模守、畠越前の籠城であった東舘という佐竹番城跡ありと記す。この日は下関河内で泊まる。行程は六里半であった。旅宿には水戸藩主の使者が訪れている。巡見使としての仕事も、あと僅か、明日の国境見分を残すのみとなった。
(163)同年9月11日。
大(大ぬかり)を過ぎ、陸奥と常陸の国境(明神峠)を越える。巡見の場所もここが最後。3月29日に下野と陸奥の国境を越えて以来、半年に近い巡見使としての務めも、ようやく終わりを迎え、あとは江戸に戻るだけである。住田(徳田?)を通り、小中で馬継(馬と人足の交代)をし、川原野(上深荻)で休憩。このあと玉簾に出る。観音堂があり景地と記す。町屋で馬継をし、薩都(里野宮)に出る。近くの瑞霊(瑞竜)に水戸家代々の墓所ありと記す。水戸殿御休所のある馬場を過ぎ、太田で泊まる。行程は九里である。
(164)同年9月12日。
日記に、水戸殿の御使者も麻上下で対面とある。巡見が滞りなく済んだ事への御慶という意味合いがあったのだろう。太田を出立した一行は、下川合で藩提供の船により久志川(久慈川)を渡り、水戸殿菩提寺のある額田で馬継。田彦で休憩し、枝川で中川(那珂川)を渡って水戸城下に出る。ここで馬継をしたあと、長岡で泊まる。行程は八里半である。
(165)同年9月13日。
千貫桜のある小幡、石船明神のある小岩戸、水戸大学領分の片倉を通り、府中[石岡]で休憩。土浦を過ぎ、中村で馬継をし、牛久に泊まる。行程は十三里余である。