夢七雑録

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18.3 南郊看花記(3)

2009-03-17 21:51:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 来福寺の門は東側にある。門から寺の中に入ると、堂の前後や築山まで、みな桜であった。その中に、春日の局が植えたという、塩竃という桜があった。また、梶原松という松もあった。この寺の開基である梶原景時の植えた松が枯れたので、その印として植えたということであった。嘉陵はここで、持ってきた飯を取り出して、民右衛門と分けて食べている。現在の来福寺(品川区東大井3。写真)が、江戸時代の面影をどこまで残しているか分からないが、今も品川百景の一つに指定されている雰囲気の良い寺ではある。来福寺を後にした二人は、もとの道に戻り南に坂を下っていくが、ここの右の方を千軒台といい、梶原景時の領地であったという事を地元の人から聞いている。嘉陵はこの点については疑問を持っていたようで、東海寺には景政塚、海晏寺には梶原塚があるが、この辺を領していたのは、小田原の北条氏の家臣であった梶原備前守で、鎌倉時代の梶原ではないと述べている。

 坂を下って、用水(立会川)を小橋(月見橋か)で渡り、西光寺(品川区大井4)に行く。門を入ると有明桜という桜があった。また、車かえしの桜というのがあったが、その由緒書きについて、嘉陵は寺僧の記憶違いではないかと述べている。ここには他に児桜や醍醐桜があった。現在は、代替わりながら児桜のみが境内にあり、花の名所であった頃の面影を僅かに残している。心ゆくまで桜を眺めたあと、二人は寺を出て南に行く。現在の池上通りに相当する、池上道を通ったと思われる。坂を少し下ったところで、向いの小高い所に大井村名主の五蔵の宅があり、その門前に将軍家光が見たという台命桜があったという。名主の五蔵とは大野景山のことであろうか。景山は俳人で、花の名所案内図を作ったり、大井桜園を開いたりした人物である。ところで、ここへ来る途中の光福寺(品川区大井6)には、大井の地名の起こりとされる井戸があったのだが、この時はそれに気付かなかったため、立ち寄らなかったと書いている。

 すでに午後2時過ぎ、民右衛門はここから帰ることになったが、嘉陵は、道行く人の勧めもあって池上に行くことにした。五蔵の宅前からさらに南に行き、八景坂を上り詰めると茶店があり、崖には松の大樹が二本あった。嘉陵はここで、鈴ケ森や街道の松並木、行き交う旅人、藍色の海と、白い帆かけ舟を眺めて、しばしの時を過ごしている。江戸名所図会の「八景坂鎧掛松」には、南から上がってくる八景坂と、坂の上の茶店、東海道と海、二本の松が描かれている。それより後に描かれた広重の名所江戸百景「八景坂鎧掛松」では、既に松は一本だけになっているが、後に、その松も枯れて、現在は痕跡すら無い。鎧掛松の名は、八幡太郎義家が鎧を掛けたという伝説からきている。この松は、現在の天祖神社(大田区山王2)の境内にあったとされるが、他から移植されたという話もある。現在の八景坂は、JRの大森駅西口を出て直ぐ、南に下る池上通りの坂のことを言い、少し北に行った所が坂の頂上になる。明治十四年の地図によると、北から上がってきた池上道は、現在の山王口交差点近くで台地の上に至り、その先の信号の近くで台地の端に達し、ここから八景坂となって下っている。この地図で、八景坂は、天祖神社に続く台地の東側斜面を斜めに南に向って下っており、道の左手は崖地になっている。江戸名所図会からすると、明治の八景坂は江戸時代の坂の位置とあまり変わらないと考えても良さそうに思える。「新編武蔵風土記稿」に、神明宮(天祖神社)は八景坂の上にありと書かれているが、八景坂の上の台地にあり、というほどの意味ではなかろうか。また、江戸時代の八景坂は急坂であったとされるが、現在の坂は全体を均して傾斜を緩やかにしたのであろう。なお、八景坂は南側に下る坂を言うようだが、嘉陵は北から上がる坂を八景坂と記し、海に向かって東に下る坂もヤケイ坂(八景坂)と記している。八景坂は峠のような存在であったようだ。
 
 眺めも尽きないが、先々の事もあり、嘉陵は八景坂を下り、池上へ向かっている。現在の池上通りは、環七通りの手前で旧道を分岐するが、嘉陵が歩いたのは、むろん旧道の方であり、この道を道なりに行けば本門寺(大田区池上1)の前に出る。嘉陵は十七、八歳の頃、亡父に連れられて本門寺に来たことはあったが、今回、来てみたところ、桜はあっても商人が多く、慌ただしく往来するだけなので、花も映えないように思ったと書いている。嘉陵は、ここの宗旨の者が、この山の桜を褒めるのを聞いて本門寺に来たのだったが、嘉陵にとっては少々期待はずれだったようである。嘉陵は静かな花見をしたかったのかも知れない。結局、本門寺内のあちこちを参拝したのち、午後4時に本門寺を後にしている。八景坂の手前から磐井の社(磐井神社。大田区大森2)の裏に出て、大森の街道(東海道)を通り、家に帰り着いたのは午後7時頃であった。この日歩いた距離は40kmほどである。
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