楊貴妃を知っていますか。唐の6代皇帝、玄宗の寵妃。並ぶ者のいない絶世の美人。あの楊貴妃についての伝説が、日本にあるのです。
夏の終りのある日、熱田の森の片隅にある春敲門を、ホトホト叩いている少女がおりました。神職の一人が事情を聞くと、少女は遠い唐の国から薬を探しに蓬莱に来たと云うのです。神職は、少女が何か勘違いをしているのだと思いました。何しろ唐は遠い昔の国で、今は元が中国大陸を支配していたからです。それに、この辺りは、蓬左とは呼ばれていても蓬莱ではなく、特別の薬など有る訳がないのでした。でも少女が熱心に頼むので、熱田の森の一遇にある、清水社に神意を伺うことにしました。熱田宮の神託では大げさと思ったからです。すると「ケシの実を煎じて飲ませよ」と云うお告げが出ました。早速、そのようにすると、少女は気を失って倒れてしまいました。
気が付くと、熱田の森は消え失せ、心配そうに覗き込んでいる、家族の顔がありました。「玉環!気が付いたのね」「良かつた。もう大丈夫。」
本当にもう大丈夫でした。玉環は、健康を取戻し、以前よりずっと美しく、利発に育っていきました。父を幼くして亡くした玉環は、叔父の養女となり、歌や踊り、行儀作法を学びまし。そして、長ずるに及んで、その才知と美貌は、並ぶものがなく、その評判は、ついに皇帝の耳にまで達したのでした。唐の第六代皇帝、玄宗は、最初は息子の嫁にと思ったのですが、会って見るとすっかり気にいって、自分の妃にしてしまいました。こうして楊一族に生れた玉環は、今は楊貴妃となり、皇帝の寵愛を一身に受け、贅沢の限りを尽くしたのでした。
玄宗皇帝とて、決して凡庸な皇帝ではありませんでしたが、楊貴妃に溺れてしまい、国政が疎かになったばかりでなく、楊一族を重用したため、国内に不満が高まりました。そして、ついに安禄山の乱が起こり、玄宗は首都、長安を捨てて逃げざるを得なくなりました。長安の西、数十キロ行ったところで、側近の兵士が反乱を起こしました。こんなことになった責任は、楊貴妃にある。楊貴妃を殺さない限り、皇帝にはついていけない、と云うのです。玄宗も止むを得ず、それに同意しました。そして、力持の高力士が、楊貴妃の首に手を掛けました。
熱田の森には、夕日が射していました。あれからずっと、少女は倒れたままでした。神職は手を尽くしましたが、結局、少女が息を吹き返すことはありませんでした。神職は、近くの空き地に墓を建て、身元の分からぬ少女を、ねんごろに葬ってやりました。
さて、少女が亡くなって、何年かたつた、ある年の暮のこと。春敲門をホトホト叩いている老人が居りました。神職の一人が声を掛けると、その老人は、方士だと名乗り、蓬莱の宮に居られる楊貴妃に、皇帝からの伝言を渡す為に訪れたと云うのでした。不思議に思った神職が、少女の墓に案内すると、方士は何やらぶつぶつと独り言を云って居ましたが、そのうち、ふっと何処かに消えてしまいました。
その翌年、文永11年のことです。蒙古の軍勢が博多沖に襲来しました。日本軍は勇敢に戦いましたが、蒙古の集団戦法の前に苦戦を強いられました。しかし不思議な事に、突然、台風が蒙古軍の船団に襲い掛り、大損害を被った蒙古軍は、早々と撤退していきました。
その年も全国の神様が、きまりに従って、出雲に集りました。熱田の森に住んでいた、仙翁の大明神は、本当は出掛けたくなかったのですが、やむを得ません。そして、予想した通り、神々から非難の声を浴びる羽目になりました。
「確かに、絶世の美人を送り込んで、蒙古の皇帝を訝かそうとは云ったが、唐の時代に送り込めとは、云わなかった筈だが」
「元と唐の区別もつかないのかね」
「神風を吹かせる事がどんなに大変か分っているのか。精力を使い果たして、倒れてしまった神様も居るのだよ」
「引受けるといったから任せたのに」
「・・・・・」
その時以来、熱田の森には、仙翁の大明神の姿は見られなくなりました。
夏の終りのある日、熱田の森の片隅にある春敲門を、ホトホト叩いている少女がおりました。神職の一人が事情を聞くと、少女は遠い唐の国から薬を探しに蓬莱に来たと云うのです。神職は、少女が何か勘違いをしているのだと思いました。何しろ唐は遠い昔の国で、今は元が中国大陸を支配していたからです。それに、この辺りは、蓬左とは呼ばれていても蓬莱ではなく、特別の薬など有る訳がないのでした。でも少女が熱心に頼むので、熱田の森の一遇にある、清水社に神意を伺うことにしました。熱田宮の神託では大げさと思ったからです。すると「ケシの実を煎じて飲ませよ」と云うお告げが出ました。早速、そのようにすると、少女は気を失って倒れてしまいました。
気が付くと、熱田の森は消え失せ、心配そうに覗き込んでいる、家族の顔がありました。「玉環!気が付いたのね」「良かつた。もう大丈夫。」
本当にもう大丈夫でした。玉環は、健康を取戻し、以前よりずっと美しく、利発に育っていきました。父を幼くして亡くした玉環は、叔父の養女となり、歌や踊り、行儀作法を学びまし。そして、長ずるに及んで、その才知と美貌は、並ぶものがなく、その評判は、ついに皇帝の耳にまで達したのでした。唐の第六代皇帝、玄宗は、最初は息子の嫁にと思ったのですが、会って見るとすっかり気にいって、自分の妃にしてしまいました。こうして楊一族に生れた玉環は、今は楊貴妃となり、皇帝の寵愛を一身に受け、贅沢の限りを尽くしたのでした。
玄宗皇帝とて、決して凡庸な皇帝ではありませんでしたが、楊貴妃に溺れてしまい、国政が疎かになったばかりでなく、楊一族を重用したため、国内に不満が高まりました。そして、ついに安禄山の乱が起こり、玄宗は首都、長安を捨てて逃げざるを得なくなりました。長安の西、数十キロ行ったところで、側近の兵士が反乱を起こしました。こんなことになった責任は、楊貴妃にある。楊貴妃を殺さない限り、皇帝にはついていけない、と云うのです。玄宗も止むを得ず、それに同意しました。そして、力持の高力士が、楊貴妃の首に手を掛けました。
熱田の森には、夕日が射していました。あれからずっと、少女は倒れたままでした。神職は手を尽くしましたが、結局、少女が息を吹き返すことはありませんでした。神職は、近くの空き地に墓を建て、身元の分からぬ少女を、ねんごろに葬ってやりました。
さて、少女が亡くなって、何年かたつた、ある年の暮のこと。春敲門をホトホト叩いている老人が居りました。神職の一人が声を掛けると、その老人は、方士だと名乗り、蓬莱の宮に居られる楊貴妃に、皇帝からの伝言を渡す為に訪れたと云うのでした。不思議に思った神職が、少女の墓に案内すると、方士は何やらぶつぶつと独り言を云って居ましたが、そのうち、ふっと何処かに消えてしまいました。
その翌年、文永11年のことです。蒙古の軍勢が博多沖に襲来しました。日本軍は勇敢に戦いましたが、蒙古の集団戦法の前に苦戦を強いられました。しかし不思議な事に、突然、台風が蒙古軍の船団に襲い掛り、大損害を被った蒙古軍は、早々と撤退していきました。
その年も全国の神様が、きまりに従って、出雲に集りました。熱田の森に住んでいた、仙翁の大明神は、本当は出掛けたくなかったのですが、やむを得ません。そして、予想した通り、神々から非難の声を浴びる羽目になりました。
「確かに、絶世の美人を送り込んで、蒙古の皇帝を訝かそうとは云ったが、唐の時代に送り込めとは、云わなかった筈だが」
「元と唐の区別もつかないのかね」
「神風を吹かせる事がどんなに大変か分っているのか。精力を使い果たして、倒れてしまった神様も居るのだよ」
「引受けるといったから任せたのに」
「・・・・・」
その時以来、熱田の森には、仙翁の大明神の姿は見られなくなりました。