都立殿ケ谷戸庭園は、三菱合資会社の営業部長だった江口定條が大正2年から4年にかけて、この地に別荘を構え、赤坂の庭師・仙石荘太郎に依頼して庭園を造り随宜園と名付けたことに始まる。後に三菱合資会社の副社長となる岩崎彦彌太は昭和4年にこの別荘を買い上げ、昭和9年に和洋折衷2階建ての邸宅に建て替えるとともに紅葉亭を設け、庭園の改修を行って回遊式庭園として完成させた。昭和40年代、駅周辺の開発計画が持ち上がり庭園の存続が怪しくなるが、住民運動の結果、昭和49年に東京都が買い上げ、園内を整備した上で開園し現在に至る。この庭園は、武蔵野の別荘庭園の中でも当時の風致景観を最もよく残しており、芸術上の価値も高いとして、平成23年に国の名勝に指定されている。
国分寺駅の南口から道路を渡り左に折れると殿ケ谷戸庭園の入口がある。アプロ-チを進んでいくと、この庭園の概要と園内地図を記した案内板が正面に見えて来る。別荘だった頃は現在とは異なり北東側の低地に入口があって、表門から玄関まで馬車道が上がってきていた。案内板の左側から来る道がその道である。当時の国分寺駅には南口が無かったという事情もあるが、玄関までのアプローチを長く取る意図があったのかも知れない。案内板の右側は正門(中門)で、傍らには季節の草花を置く台が設けられている。
案内板で庭園の地図を確認して門を入ると、左側に売札所がある。岩崎家別荘の本館の玄関をリフォームしたものという。売札所の前は前庭に相当するが、中ほどに野草や樹木が植え込まれているので今は広さを感じない。入口からここまで常緑樹のモッコクが多く見られるが、この庭園には300本ほどのモッコクが植えられているそうである。モッコクは地味ではあるが丈夫で形がまとまり易いため、庭木として植えられる事の多い樹木である。
前庭を抜けると明るい大芝生の庭に出る。道は左右に分かれるが、ここでは右に進む。振り返ると岩崎家別荘の本館が芝生の向こうに見えている。江口家別荘の時代の建物は現存しないが、岩崎家別荘の建物のうち、本館の一部や紅葉亭、それと敷地北西に倉庫が残されている。この別荘地は台地と斜面と低地から成り、台地は建物と広い芝生が特徴的な明るい洋風庭園、低地は池を中心とした日本庭園、そして斜面は武蔵野の景観を残す林になっている。
先に進んで、都立庭園として整備された時に作られた萩のトンネルを抜けると、別荘の時代からあった藤棚に出る。今はあまり眺めが良くないが、戦前の地図によると、もう少し南側の斜面も敷地の内だったので、雑木林の間から野川の先の方まで眺められたかも知れない。藤棚の近くに国分寺崖線とハケについての説明版がある。国分寺崖線とは、武蔵野段丘と立川段丘の間の崖(斜面)の連なりを言うようだが、崖は直線的に続いているわけではなく、後方に引っ込んだり前方に出たり凹凸がある。そのうえ、雨水や湧水などによる浸食で開析谷と呼ばれる多数の谷が段丘に入り込んで複雑な地形になっている。
藤棚から花木園に沿って歩き、モウソウチクと紅葉との対比を眺めながら斜面を下っていく。殿ケ谷戸庭園の東側は殿ケ谷戸と呼ばれる谷間になっている。開析谷のうち湧水により湿地が出来ている場所は谷戸と呼ばれることがあるが、殿ケ谷戸もそのような場所であり、戦前の地図を見ると、田圃もあったようである。谷戸も時には崖を形成する。ただ、谷戸の出口近くになると国分寺崖線と谷戸の崖との境目は不明瞭になる。殿ケ谷戸庭園の斜面が、国分寺崖線に該当するか、谷戸の崖に該当するかは、決めの問題なのだろう。
斜面を下りて竹林に沿った竹の小径を歩く。仰げば、斜面が影と光でまだらになっている。竹の小径は踏み分け道ということだが、富士の溶岩で斜面を土留めしており、日本庭園に相応しい園路に仕上がっている。別荘だった頃には、武蔵野の林の中を散策する趣向の、踏み分け道のようなものが存在したのだろうか。
先に進むと次郎弁天の池に出る。池の上の木々の梢はまだ光の内にあるが、池はすべて影の内に沈み水面は黒みを帯びている。人の姿が画面に入り込まぬようカメラを構えるが、中々うまくいかず、結局、池の全体像が分からぬ写真を1枚撮って諦める。池には島が一つ。飛び石で渡れるようになっている。池の名の由来となった次郎弁天の所在は不明だが、島には祠を置けるスペースぐらいはありそうである。
池に沿って左へ行くと、斜面を上がって行く道がある。ともかく上がってみると、大芝生の端で行き止まりになり、小休止できそうな場所が設けられている。その近くに、馬頭観音の石碑が置かれている。馬頭観音とは馬の頭をした観音菩薩のことで、江戸時代には馬の守護神として民衆の信仰を集めていたという。この石碑は、飼っていた馬が死んだ時に百万遍の念仏を唱えて供養した石碑と思われるが、国分寺村にあったものを移したものとされている。石碑は、別荘地の一部に馬捨て場があったという話と何か関係があるのかも知れない。
池まで下りて先に進むと、湧水のある場所に出る。このような湧水のある場所や湧水による窪地の事をこの辺りではハケと呼ぶらしい。関東から東北にかけて、崖をハケまたはそれに似た言葉で呼ぶことがある。特に丘陵の端の崖をハケと呼ぶことが多いので、国分寺崖線をハケと呼んでも間違いではなさそうである。ただ、国分寺崖線については湧水との関わりで捉えている為か、湧水や窪地を特に区別してハケと呼んでいるようである。狭義のハケと広義のハケがあるわけだが、ハケという言葉は通称なので、厳密に考える必要はないのだろう。
湧水の場所から先に進むと、四段の滝がある。江口家の別荘だった頃からあった滝らしいが、この滝の水源には井戸が使われていた。現在は井戸水をポンプで鹿おどしの場所まで送り、小さな池を経て流し、その先で滝として池に落としている。ただ、水量が不足するためか、池の水を還流して加えているらしい。
池の辺りからイロハモミジに囲まれた紅葉亭を見上げ、それから急な道を一気に上がる。紅葉亭の南側は休憩所のようになっている。裏手には座敷があり、借りる事もできるようだ。紅葉亭からの秋の眺めは素晴らしい。次郎弁天の池の暗い空間とイロハモミジの輝くばかりの色彩とが見事なコントラストをなしている。昔は、この場所から殿ケ谷戸の先の野川の辺りも眺められたのかも知れないが、今の眺めは庭園の内だけに留まっている。
紅葉亭の西側に鹿おどしが設えられている。ここに、井戸の水がポンプで送られて来て、鹿おどしの竹が石を打つ音を間欠的に響かせ、流れ出た水は池となり、さらに小さな流れとなって、滝として池に落ちる。鹿おどしは農作物を荒らす鹿などを脅かすための仕掛けだが、その音が風流だとして庭園にも設けられるようになった。ただ、雨の時は深夜であっても音が鳴り続けてしまう。今は風鈴の音ばかりか幼稚園の音すら騒音になってしまう時代である。住宅地では鹿おどしの音も騒音扱いされかねない。
紅葉亭から先に進み、七草を植えている場所を過ぎて大芝生に出る。この辺りから眺めると芝生の庭園もどこか日本庭園の趣がある。岩崎邸の本館の一部は展示室として公開されているので入ってみる。展示品を見ながら各部屋を見て回るが、思いのほか質素な部屋である。旧岩崎邸庭園を見た後だからかも知れない。ここ迄で、殿ケ谷戸庭園を一周した事になるが、今回は樹木や草花については立ち止まって見る事はしなかった。次回は、そのへんに留意しながら、この庭園を回ってみたいと思っている。
<参考資料>「殿ヶ谷庭園」「東京の公園と原地形」ほか。