この庭園は、四代将軍家綱から弟の綱重に与えられた海中の土地を埋め立て、寛文9年に完成した浜屋敷に始まる。宝永元年、綱重の子の綱豊が五代将軍綱吉の養嗣子となり家宣と改名するに及んで、浜屋敷は将軍家別邸・浜御殿となる。その後、何度か改修が行われるが、明治になって皇室の所有となり浜離宮となる。昭和20年、浜離宮は東京都に下賜され都立庭園となり、その後、潮入りの回遊式築山泉水庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定され、現在に至っている。
旧浜離宮恩賜庭園の入口は大手門口、中の御門口、水上バス発着所の3カ所だが、今回は汐留駅から標識をたよりに中の御門口に行ってみる。ここは平成18年に、中の御門橋が復元された事から開かれた入口のようだが、江戸時代には通用門として使用された中の御門があった場所である。この門は城門に良く見られる枡形門であったが、今は失われて、方形の広場と左側の門が雰囲気を伝えているだけである。
中の御門口を入り東に向かう。左側一帯は明治初期に迎賓館として使われていた延遼館の敷地跡である。先に進むと芳梅亭がある。八代将軍吉宗の時代にベトナムから輸入した象が飼育されていたのは、この裏手辺りだろうか。ここを右に行き、土手の間を抜けると潮入りの池が見えて来るが、今回は船溜まりに架かる橋を渡って、鴨場に行く。
鴨場は、囮の家鴨を使って鴨を引堀に引き込み、網や鷹で捕獲するための場所である。歴代の将軍の中で最も多く浜御殿を利用したのは11代家斉で300回近くに及んでいるが、その7割近くが鴨場での鷹狩が目的だったという。現在の新銭座鴨場は立ち入り禁止になっていて、鴨たちにとっては安全な場所の筈なのだが、上から覗いて見た限りでは鳥の姿は見当たらない。水鳥にとっては潮入りの池の方が、居心地が良いらしい。
新銭座鴨場から移動して富士見山に登り潮入りの池を眺める。潮の干満による景観の変化を楽しむのが潮入りの池の目的だが、実際には魚釣りの楽しみの方が優っていたようである。浜離宮内の建物や橋は戦災で焼失しており、池の中にある中島の茶屋も戦後の復元である。中島の茶屋は庭園内の中心となる施設であり、公家など賓客の接待に利用されていた。アメリカ大統領を辞したあと世界周遊の旅に出ていたグラント将軍は、明治12年に日本を訪れ、国賓待遇で迎えられるが、この時、明治天皇がグラント将軍と会見し、国の内外の課題について対話したのも中島の茶屋であった。
潮入りの池の北側では燕の茶屋の復元工事が進行中であり、近いうちに茶屋の元の姿が見られそうである。松の茶屋の方は復元されて少しは時間が経っているが、まだ新しい姿のままである。鷹の茶屋は今のところ跡のみが残る状態だが、そのうち、復元が行われるのだろうか。
庚申堂鴨場が造られたのは新銭座鴨場より古いようだが、当初は田を間に挟んだ二つの池から成っていたらしい。以前の庚申堂鴨場はカワウのコロニーとなり、白いフンで汚され放題になっていた。住む場所の無いカワウの為に目をつぶろうという声もあったが、文化財の保護に問題ありとして追い出し作戦が実行され、今はカワウの姿は見られなくなった。
庚申堂鴨場から海手伝い橋を渡ると海に出る。海手茶屋が建てられていたのはこの辺りだが、今は跡のみが残っている。安政2年、中島の茶屋から海手茶屋まで電線を引き、献上された電信機により実演を行って13代将軍家定の上覧に供するという事があった。この時は、前年にペリーが献上した電信機が不調だったため、オランダから献上された電信機を使用したという。なお、この実演の担当者の一人が後の勝海舟であった。
潮入りの池への海水の出入りを調節している水門を過ぎると、将軍が上陸する際の上がり場がある。ただ、この付近は水深が浅いため大型船が接岸できず、小船に乗り換えての上陸になっていた。最後の将軍となる慶喜は、鳥羽伏見の戦いに大敗したあと、海路で江戸に帰還し、この場所で上陸したという。
先に進むと、江戸時代に幕府の船蔵があった場所が水上バスの発着所になっている。梅林を通り過ぎ、籾蔵跡の花畑も通過して、籾などを舟で運んだ筈の内堀を渡ると、三百年の松の前に出る。六代将軍家宣の浜御殿改修を記念して植えた黒松という。「浜御殿御指図」によれば、表座敷や老中下部屋や能舞台のほか、御座の間など将軍の居住空間があり、広敷や台所も備えていた御殿があった事になるが、早い時期に焼失してしまったらしい。
宝永4年に設けられた大手門は、高麗門と渡櫓を方形の広場を挟んで直角に配置した枡形門になっている。大手門の警備は、非役の上級旗本が担当し、羽織袴の番士3人が詰めていた。浜御殿は将軍家の静養や遊楽のほか接待の場として使われていたが、8代将軍吉宗の時はより実用的な目的で利用されていたようである。現在の旧浜離宮恩賜庭園は、潮入りの池を中心とする庭園部分と鴨場が文化財としての性格を持つのに対して、他の場所は公園として利用されているように思える。ただ、延遼館の復元が行われれば、多少イメージが変わるかも知れない。
<参考資料>「浜離宮庭園」「将軍の庭」「図解江戸城をよむ」ほか。