NHKの100分de名著には、「銀河鉄道の夜」と「宮沢賢治スペシャル」の2回にわたって宮沢賢治が取り上げられている。賢治の童話はむかし読んだことがあるが、私の本棚にはすでに無い。そこで、100分de名著の別冊「宮沢賢治」を新たに本棚に加えることにし、「銀河鉄道の夜」については図書館で借りて読むことにした。「銀河鉄道の夜」は、ますむら・ひろしにより、原作の登場人物を猫の擬人化により表した漫画となったが、これをもとに杉井ギサブローが監督し細野晴臣が音楽を担当したアニメ映画が作られ、その内容が評価されて文部省特選の映画になっている。そのレーザーディスクを持っていたのだが、すでに処分してしまい、今はジャケットが残るだけである。
【書誌】
別冊NHK100分de名著・「集中講義・宮沢賢治」。山下聖美著。NHK出版。2018年。
宮沢賢治の五感は鋭敏で共感覚も有していたという。独特な表現もそのことに由来するのかも知れない。賢治の童話には分からないところがあるが、それは作者も承知していた事であり、いろいろな読み方が出来る点も魅力の一つになっている。「銀河鉄道の夜」は幻想文学に分類されることもあるが、小学生にも読める物語であり、童話に分類されることもある。分類はややこしいが、大人向けでもある児童文学といったところだろうか。
「銀河鉄道の夜」は、病床にあった宮沢賢治が四次稿に及ぶ改稿を行ったものの、未完のまま終わった作品である。残された草稿などをもとに、三次稿までを初期形、四次稿までを最終形として出版されているが、仮に賢治が病から回復していたとしたら、少なくとも五次稿までは改稿していた筈である。この作品については多くの文献があり様々な解釈がされているようだが、今回は自分なりの解釈で読んでみることにした。
この物語はケンタウル村で行われた銀河の祭での話になっている。ケンタウル村はケンタウルス座の見える南の場所のようだが、実在する地名ではなさそうである。物語の主人公ジョバンニの父親は北方に漁にでたまま、今も帰って来てはいなかった。ジョバンニは家が貧しく放課後には活版所で仕事をし、病身の母のいる家に行ったあと牛乳を取りに行き、牛乳の準備が出来るまで牧場の後ろの丘に上がる。その途中でクラスの皆と会った時、ザネリがジョバンニをからかい、皆もそれに同調する。ただ一人、親友のカムパネルラだけは、黙って気の毒そうにジョバンニを見ていた。ジョバンニは天気輪の柱の下で草に寝転んでしまうが、ここまでが物語の序になっている。汽車の音が聞こえてきたり、夜空が小さな林や牧場や野原のように見えたのは、既に夢の中だったからだろう。ジョバンニは星座図にも関心があったので、白鳥座の近くにある琴座を見つけたとしてもおかしくはない。ジョバンニはケンタウル村から、遥か北にある白鳥座の近くまで、夢の中で来ていた事になる。
宮沢賢治は岩手県花巻の生まれ。東京から先には行っていないので、ケンタウルス座は一部しか見ず、南十字星は見ていない。そして、この物語の主人公ジョバンニは、賢治に成り代わって、白鳥座の北から北十字星を経て南十字星へと、星座図による想像の旅をするのである。「銀河ステーション」という不思議な声が聞こえてくると、いつの間にかジョバンニは軽便鉄道の車内に居た。車内にはカムパネルラも乗っていて、ここからは二人で銀河鉄道の旅をすることになる。ジョバンニは汽車が石炭をたいていない事に気が付くが、カムパネルラはアルコールか電気だろうと言う。初期形ではここで、「銀河鉄道は蒸気や電気で動いているのではなく、動くようにきまっているから動く」という声が聞こえてくるのだが、この声は最終形ではカットされている。車窓からは様々な三角標が見えてくるが、未知の星を探す際に頼りとなる星や、星座を構成する星などは三角標になっているのかも知れない。星座図による旅では季節を決めなければならないが、カムパネルラが「りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねぇ」と言っていることや、白鳥の停車場の場面に、さわやかな秋の時計という記述がある事から、季節は立秋以降の8月か9月と思われる。
カムパネルラがいきなり「お母さんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」と言いだした。事情の分からないジョバンニは、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙色の三角標のあたりにいらっしゃって・・と思い、ぼんやりしてだまっていた。橙色の三角標とはケンタウルス座のα星の事と思われるので、ジョバンニはケンタウル村に居る母の事を考えていたのである。カムパネルラは「誰だって本当にいいことをしたら、いちばん幸なんだねぇ、お母さんは、ぼくをゆるして下さると思う」と言い、何か本当に決心したように見えたとある。
銀河鉄道は十字架に見立てた北十字星から南十字星へと向かうことになるが、キリスト教にかかわる内容が多くなっている。賢治は法華経の信者であったが、キリスト教にも関心があり調べてもいた。賢治は海外に関心があり、果たせはしなかったが海外渡航すら希望していたらしい。キリスト教の記述が多いのは、この作品で扱っているテーマが人類共通のものであり、この作品が世界中で読まれる事を希望していたからなのだろう。
列車は定刻かっきりに白鳥の停車場に到着する。ジョバンニとカムパネルラは20分の停車時間を利用して、プリオシン海岸に化石の発掘の様子を見に行き、定刻までに戻っている。プリオシンとは地質時代の鮮新世のことで、この物語では120万年前の事としている(現在では、地質時代の更新世(285万年前~1万年前)の前期から中期と考えられている)。賢治は北上川の河畔で足跡やクルミの化石を発見したことがあり、東北大の助教授を案内した事もあったが、その記憶が少し形を変えて銀河の上に再現されていると思われる。
白鳥の停車場からは鳥捕りと燈台守が同乗する。燈台守は渡り鳥が群れて灯りの前を通過したため、燈台の点滅の時間が変わったという苦情が来たと話しているが、実際にあったことかも知れない。それを受けてか、この物語では天の川の分岐点に櫓を立てて、渡り鳥の交通整理をするようになっている。アルビレオの観測所(はくちょう座のβ星という二重星)が見えてくると白鳥区も終りで、車掌が切符の確認に来る。カムパネルラは鼠色の切符を見せたが、ジョバンニはポケットから折りたたんだ緑色の紙を取り出した。車掌は「三次空間からお持ちになったのか」と聞き、鳥捕りはその切符を見て、幻想第四次の銀河鉄道ならどこまでも行ける切符だと驚く。三次空間とは時間が瞬間にしか存在しない現実の世界のことであり、幻想第四次とは時空を自由に通行できる幻想の世界のことで、亡くなった人に会えたり、過去に戻れたりする。また、瞬間移動も可能なようで、ジョバンニもプリオシン海岸から戻る時、風のように走りいつの間にか車内に戻っていた。鳥捕りはこの辺りで鳥を捕る商売をしていたが、一瞬にして車内から外に出て鳥を捕り、一瞬にして車内に戻っている。
銀河鉄道は鷲の停車場に近づく。気が付くと鳥捕りの姿はもう無かった。次に乗車して来たのは少女と少年を連れた青年で、青年は、ランカシャイヤ(イングランド西北部のランカシャー州か)か、コンネクテカット州(アメリカ合衆国北東部コネチカット州か)に来たのかと迷うが、天上の印に気付き、天へ行くことをさとる。1912年4月、イギリスのサウサンプトンを出航しニューヨークに向かったタイタニック号は、北大西洋で氷山と衝突して沈没した。賢治はその事を知っていたので、銀河鉄道の乗客に加える事にしたのだろう。鷲の停車場と北大西洋とは距離も離れており季節も違うのだが、幻想第四次ではその事は問題にならない。青年は家庭教師で、二人の子を助けるのが義務だと思っていたが、他の子を押しのけてまで助けることは出来なかった。ジョバンニは、遭難はパシフィックでの事と思ったらしく、太平洋の北の果てで働く人達の方に関心を寄せている。その後、燈台守がりんごを配り、この辺りでは農業もあるが、この先に進めば農業は無いという。この辺りは天上に至る道の中間に当たり、鳥捕りや燈台守は、未だ、この地に居続けることになるらしい。
やがて、川下の向こう岸に青く茂った橄欖の林が見えてくる。橄欖とはオリーブのことで、その実は熟すにつれて緑から赤に変わる。その林の辺りからは讃美歌も聞こえてくる。讃美歌を唄いながらオリーブ山に上がる情景が見えてくるようである。この先、列車は崖の上を走るようになり、とうもろこし畑の中を進んで小さな停車場に止まる。新世界交響曲が聞こえてくるのは、アメリカ合衆国に来たことを示していると思われる。場所はコロラドで、とうもろこしの撒き方や川までの高さが話の中に出てくるが、賢治がコロラドについて調べたことが元になっているのかも知れない。列車は出発すると急な下りになり、星の形とつるはしを描いた旗が見えてくる。工兵が架橋演習をしているらしく発破の音がすると書かれているが、賢治の記憶の中のものが、形を変えて銀河の上に現れているようにも思える。列車が南に向かうにつれて、南の星座に命が与えられて車窓に現れる。孔雀、インディアン、鶴、双子の星、サソリがそれである。
列車がケンタウル村を過ぎると、鷲の停車場から乗って来た青年と子供達は下車の準備を始める。ここで、こども達の間に本当の神様か嘘の神様かの言い争いが起きる。十字架が見えてくると程なく南十字の停車場となる。ここで青年と子供たちは下車して天上へと向かう。南十字を出発した列車の中でジョバンニは「本当の幸は一体何だろう」と問い、カムパネルラは「僕わからない」と答える。やがて天の川の中に大きな真っ黒い穴、石炭袋が見えてくる。石炭袋の存在は古くから知られていたが、ガスや塵によって背後の星が見えなくなる暗黒星雲と考えられるようになったのは後のことである。ジョバンニは何があるか分からない石炭袋を見ながらも、「暗闇でも怖くない。本当の幸を探しに一緒に行こうと」と誘い、カムパネルラも同意はするものの、人の集まっている野原の方が気になるらしく、「あそこが本当の天上だ。あそこにいるのは母さんだ」と答える。しかし、ジョバンニには何も見えない。そして、振り返るとカムパネルラの姿はもう無かった。
この後、初期形では次のような内容になっている。カムパネルラとの突然の別れに泣き出してしまったジョバンニに声をかけた人がいた。黒い帽子の大人で、カムパネルラは遠くに行ったので探しても無駄だと言い、それより、あらゆる人の一番の幸福を探しに行けという。そして、自分の切符をしっかり持って、一心に勉強しなければいけないと諭す。さらに続けて、信じる神様の違いや、考え方の違いがあっても、実験で本当の考えと嘘の考えを分けられるならば、信仰も化学も同じようになる。ただ、昔は正しいと思っていた事も、時代が変われば変わるので、難しいことではあると話す。そのあと、空を見上げて、あのプレシオス(プレアデス星団)の鎖を解かなければならないと話す。これは、ヨブ記の中でヨブに対するヤハウェ(神)の諭しの中に、“まとまりの悪いプレヤデス星団を締め付けたり、オリオン星座の鎖をゆるめる事が出来るか。”とある事に由来するのだろうが、鎖を解くというのは、どういう事なのかは分かりにくいが、この星団について科学的に本当のことを調べるということだろうか。ジョバンニはマジェラン星雲を烽火と考え、本当の幸福を探す覚悟をすることになる。ジョバンニはブルカニロ博士と会って、実験だったことを聞き、その後、目を覚ます。
最終形では上記の部分は削除されている。確かに、物語としては、その方がすっきりとまとまるように思われる。この物語では、ジョバンニが目を覚まし、丘の草の中で眠っていたことに気付くところから、現実の世界に戻ってくる。銀河鉄道のことは夢だったのだ。ジョバンニはとび起きて丘を下り牛乳を受け取る。それから家に帰る途中、カムパネルラが川に落ちたザネリを助けようとして溺れたことを知らされる。ジョバンニは本当の幸を共に探そうと思っていた親友を失ったことになったが、それでも、一つだけ良いことがあった。北方の漁に出たまま帰らなかった父親が、近く帰ってくるという話を聞いた事である。
「銀河鉄道の夜」では、みんなの幸と自己犠牲がテーマになっている。さそり座のアンタレスという赤色の星のことを蠍の火と呼び、蠍がみんなの幸のために自分の体を燃やして夜の闇を照らしているという話が、このテーマを表しているが、そんなに簡単な話ではないことを作者は分かっていたに違いない。カムパネルラはザネリが川に落ちたとき、自己犠牲などを意識していたら間に合わなかった筈で、咄嗟に飛びこんだのだろう。結果としてザネリは助かったが、カムパネルラは溺れて亡くなり「おっかさんは、ぼくを許してくださるだろうか」と、後悔をすることになった。しかし、「誰だって本当にいいことをしたら、いちばん幸なんだねぇ、お母さんは、ぼくをゆるして下さると思う」と考え直してもいる。沈没した船に乗っていた家庭教師の青年の話も自己犠牲がテーマになっているが、預かっていた二人の子を助けるのが義務だと思っていたにもかかわらず、他の子を押しのけてまで助けることはしなかった。それで良かったのかどうか。
ところで、賢治が療養中であった時、農民が肥料について相談に訪れることがあった。家人は病気だからと断ったが、賢治は起き上がって相談に応じていたという。仮に、その事で病状が悪化したとしても、賢治は自己犠牲とは思ってなかっただろう。もし、病だからと言って断っていたとしたら、その事をずっと後悔していたに違いない。
ところで、病床にあった宮沢賢治は、手元に「銀河鉄道の夜」の原稿を置き、推敲を続けていたものの完成には至らず、この原稿は私の迷いの跡だから適当に処分して下さいと伝えたという。賢治にとって、本当のことは何なのか、まだ答が見つからなかったのかも知れない。昭和8年9月、賢治は37年という短い一生を終えた。通夜の席での父親の言葉どおり、短い時間に激しく働いて、そして燃え尽きた、そんな生涯だった。