再び巡ってきた8月6日、今日は69回目の「原爆の日」でした。
生憎の雨 69年前のあの日が今日のような雨だったら、広島の悲劇は起こらなかったのに。
あの日は晴天だったそうです。そして私の記憶の中にも雨の原爆の日はありません。
私は広島生まれの広島育ち、しかし終戦の翌年に生まれました。
二つ違いの姉と既に亡くなった両親は被爆者です。父と母が亡くなって今年でもう18年になります。
今日は原爆の日であると当時にまた父の命日でもあります。
ブログを書き始めた2008年(以前のブログです)の8月6日、「原爆の日に寄せて」というタイトルで、
下記の記事を書いています。
広島では今年被爆者が20万人を割り、平均年齢は79,4歳となりました。
こうした中、被爆体験を語り告ぐ語り部の減少が懸念されています。
父の体験をここに再び記すことが、少しでも平和の大切さを考えるきっかけになればと思い、
6年前の記事をここにコピーいたします。
「原爆の日に寄せて」
2008年8月6日(旧ブログ「プラチナのように輝いて」より)
私達夫婦は生まれも育ちも 広島 です。
今日8月6日は私達、特に私にとっては、重たい重たい忘れられない日です。
私の父母、姉、そして夫、義父、全て 被爆者 です。
私の父母、姉は爆心地から直線距離で3キロ地点の自宅で被爆しました。
私はといえば、その翌年の8月に生まれ、辛うじて胎児被爆も免れました。
父母は悲惨な被爆体験を多くは語ろうとしませんでしたが、裏覚えに覚えている父母の話をここに記します。
平和を考える何かのきっかけになってもらえればという思いで・・・。
昭和20年8月6日の朝
広島は晴れわたっていました。
原爆が投下される少し前、空襲警報が解除され、大勢の人々が戸外にでていたそうです。
父は前日が出張であったため、会社の規約で30分出社を遅らせていました。
玄関先で靴のゲートルを巻き上げていたその時、午前8時15分
突然の閃光とドカーンという爆音 !
父は自宅の裏庭にB29が爆弾を投下したと思ったそうです。
一瞬にして家の中はめちゃめちゃになりました。
つぶれることはありませんでしたが、家は傾き、ガラスは粉々に飛び散りました。
実家の2階の部屋に知人夫婦が間借りして住んでいましたが、
奥様は全身に飛び散ったガラス片が刺さり、生死をさまよわれたそうです。
実家の2階の柱にはそのままガラス片がいくつか刺さったままで、
障子や襖と柱は合わさることなく、隙間だらけでした。
このことは私の子供達(父母にとっては孫)もよく覚えています。
父はその後、即会社(爆心地のすぐそばにありました)へ向かいましたが、
その爆弾が新型爆弾の ピカドン であることは当然知りません。
(広島の人は原子爆弾のことをピカドンといいます)
ただ会社へ向かう道すがら、これはただごとではないと気がついたといいます。
道には焼けた丸太のように、沢山の人たちがごろごろと転がっていたそうです。
その中の一人、全身焼けただれた若い女性が、
「○○さん、私は○○課の○○です。父母に知らせてください」と住所を言い、助けを求めました。
あまりの惨さに誰だかわからなかったそうです。
その住所は爆心地、ど真ん中、父はどうすることも出来なかったと悔やんでいました。
会社は跡形もなく、父は無念にもまた来た道を引き返し、黒い雨を全身に浴びながら、
助けを求める人々や転がる死骸をまたぎまたぎ、母や姉のもとへ急いだそうです。
その 地獄図 は想像にあまりあるものがあります。
幸いに母も姉も怪我ひとつつなく、無事でした。
父が前日出張でなければ、普通通りに出社していたら、父の命は無かったでしょう。
父は運の強い人です
もうひとつの偶然があります。
当時 建物疎開 というのがありました。
あらかじめ特定の建物を取り壊し、空襲の折、火災がひろがるのを防ごうという目的で、
多くの主婦、学生、一般市民が強制動員されました。
母の属していた班(路地ごとに区切ってあったようです)は翌日がお当番でした。
お気の毒に8月6日がお当番にあたっていた一本前の筋の方たちは、全員お亡くなりになったそうです。
原爆投下がもう一日後だったら・・・。
母もまた運の強い人です
この二つの偶然と強運が重なって、私が今ここにいます
昭和20年 8月6日、父はその命を強運によって救われました。
しかし12年前、まるでその命をその日にお返しするかのように
8月6日その日に、静かに 他界 しました。享年80歳。
今日は父の 命日 でもあります。合掌。子供達、孫たちのためにも、核廃絶、世界平和を祈ります。