ハフィントンポストに「”みんな”って誰だ?「個の時代」の先にある第三の”みんな”」という記事があった。
この記事の中身についてはまた読み返して考えたいが、「皆は・・・・」「多くの人は・・・・・」などと案外簡単に使う言葉ですが、そういえば、どういう意味での皆か多くの人なのかははっきりとしない。ある意味主観でのものである場合が多いのではないか?
ネット時代ですから、多くの人の意見が聞けるような環境に生きているようではあるが、案外限られた世界の意見を見ているのかもしれない。例えばツイッターならば、フォローという形で自分が「みんな」を選んでいるのかもしれない。ツイッターだけではなくて多くのサイトも皆同じような状態ではないか?
ここに個が出るわけです。
しかしこの個が一面個性的に見えるのであるが、個性的なのは様々な事柄が違うだけで、流れとしては同じ方向に流れているのではないか?例えばスポーツでいえばサッカーが好き、テニスが好き、野球が好きと個性はあるが、一つの流れとして応援が楽しいとか、日本頑張れとか一つの流れが見えうのではないか?こういった流れがあってそこにはまり込むと個性はなくなってしまう。
こういったことが社会の中で政治や経済をはじめ様々なところで出ているのではないか?
会社組織などでの個はどうだろう?
この中でみんなとかと言えば一つの流れの中にいるみんなで、みんなの意見あるいは働き方と値うとやはり流れの中で判断される。
みんなの中においての個とは?
一つの流れの中においての個を主張できることが民主主義や自由なのですが、この民主主義や自由を意識できるかで「みんな」と個の位置づけも変わってくるでしょう。
この記事の中身についてはまた読み返して考えたいが、「皆は・・・・」「多くの人は・・・・・」などと案外簡単に使う言葉ですが、そういえば、どういう意味での皆か多くの人なのかははっきりとしない。ある意味主観でのものである場合が多いのではないか?
ネット時代ですから、多くの人の意見が聞けるような環境に生きているようではあるが、案外限られた世界の意見を見ているのかもしれない。例えばツイッターならば、フォローという形で自分が「みんな」を選んでいるのかもしれない。ツイッターだけではなくて多くのサイトも皆同じような状態ではないか?
ここに個が出るわけです。
しかしこの個が一面個性的に見えるのであるが、個性的なのは様々な事柄が違うだけで、流れとしては同じ方向に流れているのではないか?例えばスポーツでいえばサッカーが好き、テニスが好き、野球が好きと個性はあるが、一つの流れとして応援が楽しいとか、日本頑張れとか一つの流れが見えうのではないか?こういった流れがあってそこにはまり込むと個性はなくなってしまう。
こういったことが社会の中で政治や経済をはじめ様々なところで出ているのではないか?
会社組織などでの個はどうだろう?
この中でみんなとかと言えば一つの流れの中にいるみんなで、みんなの意見あるいは働き方と値うとやはり流れの中で判断される。
みんなの中においての個とは?
一つの流れの中においての個を主張できることが民主主義や自由なのですが、この民主主義や自由を意識できるかで「みんな」と個の位置づけも変わってくるでしょう。