【2024年】ツイッターつぶやき
日米の金利差から円安に向かうという論理からも長期金利を上げていく。
同時に国債の買取りを減少させるという。
日銀が保有する国債の価値が下がりますね。
同時に国が発行する国債の利率はある。
日銀が10年を過ぎた国債を回収し、政府は新たに国債を買ってもらう。この場合金利は上がりますから国の借金は大きく増加する。
銀行に巨額の金が転がり込む。しかしその金の投資先が国内にはない。アメリカを中心とした国外に流れれば円安はさらに進む。
国債も海外に買い取ってもらうことがおきるでしょうか。真の債務国化に?
日米の金利差が問題視されるが、それを改善するには大きなリスクを伴う。
そのリスクに耐えるだけの経済力があるかどうかですね。
≪過去の記事≫
【2004年】
7月ですね。。。。
梅雨明けが待ち遠しいです。
新しい洗濯機が届きました。今度のは縦の長さが大きく、洗濯機置き場ぎりぎりでした。あぶないあぶない。。。。。置けなくて持って帰ってもらうのは気が引ける。。。。ハハハ
洗濯層にはカビもなく気持ちよく先ほど試運転をしました。絶好調!
つれづれノート⑬
庭を森のようにしたい
角川文庫
銀色 夏生 著
夏生さんはひとつの転機を迎えたのだと思います。
(ホームページトップ・・・「ちんまりと」・・・「40才頃」参照してください)
この転機は昨年あたりから読者にも見えていたと思います。40才頃は人生の折り返し点です。
社会的な人間関係、仕事、生活全般など人生の前半の自分が結果として現れます。結婚生活子育ても転機を迎えます。
同時にこれは、一度振り返って自分を見つめる時期でもあります。
「つれづれノート13」は、エッセイとしてこの夏生さんの転機を現しています。
2度の結婚とその失敗を振り返り、自分には入籍をするような一般的な結婚は無理だったと書いています。これは、夏生さん自身の結婚観と一般的な結婚形態との差を感じますし、日本の男一般の結婚観との違いでもあります。夏生さんは家族生活を平等な「共同生活」と書くことが多くありますが、そのような意味での「共働き」を作れなかったのだと思います。夏生さんも世間一般の妻がするような夫の世話をすることへの嫌悪感が強すぎますし、詩人という職業を持つ妻への理解も夫にはなかった。この結婚の失敗を40歳を超えた夏生さんは振り返っているのだと思います。
こんなお互いの不足していたものを書いていますが、「共働き」は、素直な気持ちで助けたり助けられたりが大切だったのではないかと思います。
子育ても転機に来ています。
娘さんの「カンチ」との中をたくさん書いていますが、今までは子供として世話をして楽しく暮らすことだけで足りていましたが、11歳という女の子はもう半分大人になっています。「親離れ・子離れ」をだいぶ夏生さんは意識しはじめています。娘さんに対して本気で怒り、怒りをぶつける。生き方を本気で伝えようとしています。一方では思春期を迎えるにあたって性の問題などを自然な形で教えています。夏生さんの様子を読むと、娘さんへのひどい言い方などに反発をするような場面もあるようですが、娘さんの成長に合わせた親子関係をものすごくよく考えているのではないかと思います。それはまた夏生さん自身のこれからも本気で考えるということです。老後を娘さんに託すような考えは微塵もないです。
同じように犬のマロンへの接し方も、「1歳過ぎると大人」という認識です。犬と人間は違いますが、犬という動物の限界内で冷静にマロンを見ているのでしょう。子供も犬も子供の頃は思いっきりかわいがったりしつけをしたり、しかし大人になっていけばまた違う接し方を模索する。「愛犬家」という方から見れば違うだろう!というものがあると思いますが、育てている間に犬という動物にとってどのような飼われ方が一番よいのかを(他人に迷惑をかけないことも含めて)夏生さんは考えていると思います。犬小屋の近くのところに屋根を付けてこれでマロンのためにもなると考えたりしていますし、無責任さと大人というものへの接し方は違います。
子供や犬を通しても夏生さんは感情丸出しでぶつかりながら本気で考えていることがわかります。失敗は誰にもありますが、大きな失敗はないのではないか。
友人対人関係、ファンの方との関係を悩みます。
夏生さんは、自分の生き方を邪魔するものは許さないというような態度ですし、ご自身の自由を妨げるような行為には怒ります。
その中で、お子さんの通う保育園の壁にEを書き始め、休憩中に暖かく先生方に「ご苦労様です」と言われ、夏生さんも家の工事の方に「ご苦労様」といおうと書いています。ここに自然な形での人と人との関係の大切さを書いています。理不尽な強要をする人間関係はこれからも否定をするでしょう。しかし日常の自然な形での人間関係は、先の夫婦関係からのこれからの恋を含め含めて自然な人間関係を追い求めていくのではないかと思います。その意味ではいくらファンとはいえ大人としての人間性を求めるでしょう。
つれづれノート⑬は、今までの自分の人生を振り返りながら、これらのことをいろいろな視点で悩みながら書いているのだと思います。
同時に夏生さんは内面へと向かいます。
死を考えます。40才頃は、この死が見えてくる年頃です。今までの自分を振り返りながら、この後人生の後半を死にむかってどのように生きるか。夏生さんは考えています。
まだ「これだ!」というものはないようですが、今までのようにやりたいことを実現していくだけでは満足感は長続きしないというようなことを書いています。もっと心が落ち着く何かを求めているのではないかと思います。たぶんそれは、日常や仕事でしょう。その前兆が見られます。もちろん恋も!!
夏生さんは、「家ができました」の中で、今研究中のものは庭造りと死だと書いていらっしゃいました。死を見つめながら変わりゆく夏生さん。つれづれノートも変わっていくようです。
ファンとしては夏生さんと一緒に年をとってゆきましょう。
もしかしたらファン層が変わるかもしれない転機ではないかと思います。
つれづれがどれだけ続くかは、この夏生さんの転機をどのくらい真剣に読もうとするファンがいるかどうかでしょう。そして夏生さんがどれだけ読者の心をつかむ詩を作れるかにあります。それには、今回のつれづれノートでいろいろな夏生さんの書かれたものを心の中で整理できるかだと思います。
【2005年】
夏生さんの「つれづれ」を読んでいたら、3日ほど留守にして帰ってくると、何だか銀杏が腐ったような匂いがしたとありました。母親のゲイリーに家事を頼んでおいたら、洗濯したものを丸一日干さないで忘れていたという。その洗濯物の匂い。。。。
なんかその匂いわかります。
東京もこのところ雨や曇りが多いのですが、部屋干しするとまさに銀杏の腐ったにおいが。。。いやなので今年はせっけん洗剤をやめて合成洗剤を使っています。それでも気をつけないと匂いが出ますので雨でも風に当てるようにしています。
天気予報では、梅雨も半ばとのことですが、あと2週間ぐらいかなぁ?
早く夏の空を見たいです。
【2006年】
身延山久遠寺 2006年7月1日
出かけたのはいいのですが、途中、咳が止まらなくなり帰ってから熱がでてしまいました。朝起きたときにどうも体がだるいと思ったのですが、無理をしてでかけたのがよくなかったようです。
咳とだるさに、久遠寺と山梨方面に向う途中の南アルプス市にある和紙の里だけを見て帰ってきました。
我が家のカーナビは何でこうも細い道を案内するんだろ?
この日もなんだか曲がりくねった細い山道を。。。。。舗装されていたのでよかったのですが不安になります。
この山道を抜けたところに久遠寺の門前の道がありました。
お土産やさんが並ぶ細い道を入っても良いものかと迷いながら人をよけながら登ると駐車場がありました。今は門前の町も立派なお寺ですが、山の中のお寺には変わりなく、こんな山奥に立派なお寺を作ったことに昔の人の信仰心の深さを感じます。お堂などそうは古いものはなく、江戸頃に建て替えられたもののように感じました。境内では五重塔の再建が進められようとしていました。整然と美しく並ぶお堂と五重塔の再建。。。。お堂の前では信者の方がお経を唱えていました。その雰囲気の中には僕のような観光客は異質です。今も信仰の場であり信仰の山なのです。
観光客は、ケーブルカーへ。。。。
奥の院まではこのケーブルカーで登ります。
東京は曇り空だったのですが、山梨県に入る高い山を抜けた頃から雨。幸いにもこの雨も身延町に入る頃にはやみました。雨上がりの山。。。神秘的ですね。ケーブルカーで登っていくと、富士山には傘雲がかかり山々も霞んでいました。下の門前町や川にも靄がかかり、山の谷には雲が立ち上っていました。
娘が昼飯はファミレスと決めていたらしく、何でここまできてファミレスなのかとぶつぶつ言いながら山梨市方面に下りました。
昼食も済まし(無事ファミレスを見つけ・・・トホホ)、なかとみ和紙の里に向いました。
道の駅を思わせるようなところで、工芸展示室や和紙の販売、食事処もあるきれいなところでした。
竹ヒゴのような骨組みに和紙を貼り付けたスタンドがあり、いいなぁ。。。と思ったのですが高くて躊躇。
そこで自分でも作れないものかと一念発起。和紙を買って帰りました。
スタンド作りはこの夏の夏休み工作の宿題です。。。。。ハハハ
風邪をひいてしまいました。
娘とドライブに行ったのはいいのですが、途中から鼻水と咳が止まらなくなってしまいました。
朝、少しおかしいなと思ったのですが、無理はいけませんなぁ。。。
帰ってか来社に電話をしたのですが、やはりもう診療時間は終わってしまいました。仕方ないので、薬局で漢方薬を買ってきました。
今夜は早く寝ます。。。。ううう
今熱をはかったら、38度5分。。。
僕は平熱が低いので、37度を越えるとふらふらするのですが、コウも高いと、歩いている途中を滑っているような感覚です。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
ワールドカップでの日本の敗退
これからワールドカップに燃える人が
ほんとのファンで静かに観戦できるでしょう
「ニッポン チャチャチャ」ファン
マスコミも参議院選挙に集中できるだろう
日本の財政危機・国債発行
誰も日本国家が誰から借金をしているか教えてくれない
外国にどれだけの国債が流れているんだろ?
少ないなら家族間での借金と同じはず
国民は国に金を貸し国の借金を心配している
国民というのは法人などの組織も含まれる
国民の経済的分断と格差
持つものが国に金を貸し持たざるものが借金を返す
笑ってしまうような日本家族である
「ニッポン チャチャチャ」ではすまされぬ
やっといろいろなことを考え本の感想も書けそう
自分をもっと取り戻そう
僕はもうだめだとなると切るような冷たい人間
うん。。。冷たいんじゃなくて違う道を探すだけ
目的地は霞んでいるが同じはず
心はわからないが仕方のないもの制御できないもの
でも心も自分であるのには変わらない
どうにかなるだろう。。。。。。
ゴーヤの苗を買ってきた実がなるかな?
ジャスミンの蔦に絡ませた
花の芽らしきもの・・・・・・・
空はどんよりと暗い
心も暗いがこれはどうにかできるだろう。。。。自分だから
【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2012年】ツイッターつぶやき
今夜、多くの反対をうったえる市民の声が届かずに大飯原発3号機が再稼働してしまいました。
大きな権力を持つ政府が国民の声(デモなどだけではなくて世論調査という形でも)を聞かずに動くとき、それを方向修正させるには大変です。これは今回の再稼働反対だけではなくて昔から政治と市民の声の乖離を政府はその政治力において押さえてきました。そして生活や労働に対する多くの犠牲を国民に向けてきました。その結果が今の社会に矛盾として現れています。その矛盾は国自体にも表れて政権の運営はもちろん経済も下降線を示しています。
この中で、この社会の下降線を押しとどめようとして更なる国民の犠牲を求めたのが、消費増税でしょう。国民の生活は疲弊をしていき格差は広がっているその上に消費増税なわけです。その戦場に大飯原発の再稼働もあります。国民生活の安全よりも経済そして国の安全(安全保障)を優先とした中での再稼働だからです。国の安全といえば聞こえは良いですが、ある階層への利益の分配を減らさずに多くの国民生活を犠牲にする格差社会の象徴なのです。
再稼働反対は多くの市民がデモに参加をしてその数はここ数十年なかった規模に広がりました。またデモという形だけではなくて今はインターネットの時代となり、ネットを通した国民の意思が多くの人々との共通項を作りました。それはある程度知識層や文化人そして政治家にも影響を与えました。
この国民の主体が大きく広がったことが今回の脱原発そして再稼働反対というものを通して国民が持つ怒りが顕在化したというのが成果なのです。
でうsからこの国民の主体の顕在化・発展を再稼働反対に負けたとしてだけ見てはならないのです。それでは本当の負けです。再稼働反対の運動を通して今の政治の現状が見えたと思います。政治とは何か、政府とは何か、政党とは。。。。。
ここを一人一人が総括をしてもう一度政治の世界や社会の動きを見てみるべきかと思います。そこには消費増税の問題やなおも拡大する雇用の不安定化や賃金の切り下げなど格差社会が見えてくるでしょう。沖縄の問題、もちろん福島の原発事故の現状や地震・津波の被災地の現状。様々な問題点は再稼働反対で知った今の政治の現状と共通するものがあるはずです。原発と福島の現状は沖縄に共通します。
さらに再稼働反対を進めるには、拡大させるには今の社会の根本矛盾をあらゆる角度から考えて共有することではないでしょうか。再稼働反対にはそうは足を向けないが消費増税なら怒りを持っているとか、国民意識は様々です。しかしぶつかるのは国家と個人の問題や民主主義の問題そして政治の在り方の問題です。この共通項において今回の再稼働反対に見た国民の主体の発展はさらに発展していくでしょう。焦っても駄目です。主体の強化という成果を見ながらさらなる発展は未来への希望です。それは必ず心ある政治家をも動かすでしょう。文化人や知識階層も動かすでしょう。そしていつかは労働組合も。。。。。。
【2013年】ツイッターつぶやき
BLOGOSに「感情捨て、冷静な議論をしよう」という文があった。
「人類には天敵がいないので自然淘汰に晒されておらず、遺伝的に弱くなる心配がある。このままでは危ないのではないか」 (上記リンクページより引用…・以下も太字は引用)
たしかに人類はその進化の過程において動物的な遺伝子を退化させてしまったのかもしれないが、人類はそのかわりに社会をつくり科学を発達させてきた。その社会の発展過程に社会的な遺伝子を伝えてきた。ですから人間は動物的な遺伝子と社会的な遺伝子により未来に向けても存続しようとするでしょう。
生まれた子供のほとんどが成人まで生きることが「生物学的に異常であり弊害を生じるのではないか」とされるがほとんどの子供が成人まで生きる事は動物的遺伝子ではなくて社会的遺伝子の支配にあるからです。他の天敵から命を守るという動物的遺伝子よりも社会的な動物として命を守ることに重点が置かれる。これは動物と人間動物の違いですから生物学的に見ても異常とは言えないでしょう。
ですから「出来の悪い人間を間引く」、「定期的に病原体をばら撒いて、生存率を下げる」、「街中にライオンを離して、逃げ遅れた人には死んでもらう」といった自然淘汰と社会的淘汰をごちゃまぜにした様な論理は必要ないのです。
このような自然淘汰を社会に持ち込むような論理は危険でしょう。
「今を犠牲にして、将来を救うことを真剣に議論することができるか、我々は試されているのだ。
何時までもこういった大問題の先送りを続ければ、「法定制限年齢を70歳にしよう(70歳を超えては生きられない)」といったことを「真剣に」議論する日が来ないとも限らない。つまり非人道的な解決方法しかなくなる可能性が確実にあると、私には思えるのだ。今こそ、我々は、感情を捨て、いかに自分にとって不都合な事実でも受け入れる勇気を持つべきだろう。」
ここには大きな論理のすり替えが現れる。何も非人道的な方法が不可避だと結論することはないのです。ですから今を犠牲にする必要もない。現在も犠牲にされ、その犠牲を受け入れないなら未来にも非人道的な犠牲が生じるといった論理では人類の未来は相当暗いものになる。
人間もこの地球(宇宙)という自然の中に生存しているわけですから自然からの限界は受けるでしょう。この自然に順応することは犠牲ではなくて人が生存するため法則性です。ですからこの対自然に対しては人間も淘汰されるかもしれない。しかし自然に働きかけること、例えば化石エネルギーなどに働きかけることは人間の社会的な活動にあるわけです。この化石エネルギーに対しても「犠牲」という言葉を使う必要はなくて、ただ人間が化石エネルギーに依拠する割合を少なくするといった社会の発展を考えればいいわけです。その中で原発の再稼働だあるいは太陽光などの自然エネルギーだと冷静に議論する必要が出ているわけです。
自然淘汰での人類の生き残りが困難になってもそれ自体は犠牲ではない。犠牲になるのは人が作り出した社会の中につくられるものです。生活の質を全体が同じレベルに引き下げるならそれは犠牲を伴わない。しかし階層社会における格差自体や政治的な地位関係の中において初めて犠牲にする者と犠牲にされる者が出るわけです。ですから自然を語り社会を語る中に「犠牲」を強調する論理はどこか間違った方向に行くかの世があるわけです。いつの日か人は70で死ななくてはならないことが決まったとしても、決めた人と決められた人の関係から必ず70で死ぬ人と70以上生きる人が出るわけです。その中において70で死ぬ人が初めて犠牲となる。みんなが70で死ねばその世代内では犠牲になる人は出ない。そうはならないのが今の人間社会です。
今現在を見てもわかるでしょう。日本社会が発展するにはとして、一部の富裕層が生まれる反面、多数の貧困層が生まれる。この中において「今を犠牲にする」とはどういうものかがはっきりと見えてきませんか?
地球全体にはたくさんの民族がいてそこに格差がある。
その中において「出来の悪い人間を間引く」という「感情を捨てた、冷静な判断」がどういう論理的な帰結を産むか。。。。。
犠牲という言葉に以上のような懸念を見ました。
【2014年】ツイッターつぶやき
まだニュースはみていないのですが、与党自公による内閣において集団的自衛権が容認されるのは確実になった。
昨夜は解釈改憲による集団的自衛権反対のデモが大規模に行われ、様々な反対意見も地方議会から上がっている。与党党内にも慎重論が出ている。
内閣によって憲法解釈が行われそれが憲法に反するものであっても強硬に押し通すことへの不信は広がっているだろう。それは立憲民主主義の否定となるとして解釈改憲反対でなければならない。
戦争の道を広くしていく集団的自衛権や集団的安保は、今の時代は宣戦布告をしない戦争が行われてそれは「正義の戦争」「テロとの戦い」という言葉で言い表さられ、宣戦布告をしていない中でアメリカの論理や安倍政権の「積極的平和主義」という言葉に表現されます。
このように憲法9条はないがしろにされます。
しかし憲法解釈による集団的自衛権は9条だけにとどまらない問題です。内閣はこの解釈改憲を憲法65条の「行政権は、内閣に属する」というものを持ち出しています(朝日新聞)。しかし内閣や国会が持つ行政権とは憲法の勝手な解釈ではなくて立法権です。憲法の解釈は裁判所です。内閣の憲法解釈といってもそれは立法の中に明記されねばなりません。しかしそれは後回しでしょう。このように見ると9条だけではなくて憲法が持つ民主主義の規定にも触れるものかもしれません。
ですから解釈改憲と集団的自衛権に反対をするということは改憲にも反対をしなくてはいけないということです。
今の内閣のやり方はおかしいとして正々堂々と会見をすればいいのだというのは右派ももちろん持っていますし、左派も解釈ではなくて名分でやってみろなどという意見とも読めるものがあります。また憲法改正で集団的自衛権が矛盾しなくなれば国民の判断だから仕方ないといった見方も。
しかし、そうでしょうか?
改憲自体は9条に限ったものではなくて幅の広い国民主権や民主主義全般にかかわる問題です。ですから解釈改憲での集団的自衛権を限定的に抑えるにしてもやはり改憲自体には反対をしなければならないということです。
民主党政権時、ねじれ国会といわれて「決められない政治」という言葉により批判が大きかった。世論もマスコミもこの「決められない政治」に激しい批判を浴びせた。
その後自公による安倍政権となりねじれは解消されて「決められる政治」が行われた。決められない政治を続けているのは民主党だけである。
今の時点でこの「決められない政治」と「決められる政治」とはなんであったのかと疑問を持たずにはいられない。
「決められない政治も」数の力でのねじれが問題だっただけである。民主党政権末期は二大政党が保守二大政党であったことが露わになり、保守二大政党であることがはっきりした。この保守二大政党には大きな政策の違いはなくなっていたのである。その中で国会のねじれは政策ではなくて数の力であることがはっきりした。ですからねじれの解消あるいは「決められる政治」は絶対多数の与党が必要ということだけになってしまった。国民もマスコミも強いリーダーシップを求めた。当然選挙も含めて大きな政治の流れは保守二大政党に属する。
ですから安倍政権というような内閣はある意味必然的だったということです。
しかしこのような経過の中で国民が失ったものはなんでしょうか?
決められる政治と比例をして国民の主権や民主主義・自由そして平和の維持などの危うさを増しただけなのです。
決められる政治とは国民自らが決められる政治という自由と民主主義の拡大にあったのです。
デフレとは物価が継続して下がり続けることらしいが、これはある意味経済法則なのである。
企業の生産性が上がり必要とする労働力量が減少すればその企業の商品価値は減少する。商品市場においてはこの価値と価格とは一致しない場合が多いが、ある商品を生産する産業全体が一定の生産性まで高められた場合は価格は価値に一致をしていくだろう。その時価値は価格を支配をして商品の価格は下がっていく。
商品の価値低下の中で価格自体も下がっていくと企業の利潤率は下がるでしょう。ただし生産性の向上は商品を生産する労働力量の減少ですから、同じ労働力量を用いればより多くの商品量を市場に流せることができますからその生産量を維持すれば企業の利潤量は一定に保つことができる。しかしこの商品量の増加は消費されるというものが前提ですからこの産業において過剰生産が起きれば企業の利潤量は低下をしていく。
このようにデフレとは単純に商品の価格が減少して物価が下がり続けることだけではなく、企業の利潤率の低下を引き起こすことによるまたは過剰生産による不況がその根底にある。ですから今のアベノミクスのように物価が上がればデフレからの脱却だというのは皮相的な見方なのである。物価は上がるが不況は残るのである。デフレとデフレ不況とは違うもので、デフレという物価中心の考え方からすれば上にみたように生産性の向上自体が物価を下げるのですから経済法則ということになる。
利潤率の低下した企業は今はグローバル化の世界ですから海外に安い労働力を求めて進出していく。国内は労働力商品の価格を価値以下にまで引き下げるという禁じ手である賃下げを行う。それを生産性の向上と見誤る。官製の物価上昇に対して実質賃金も下がり続ける。こうなると商品価値の低下の中で商品がその法則通りに価格が下がらずに同時に実質賃金は下がるという賃下げは加速をする。その上に消費増税である。商品は相対的な過剰を引き起こすでしょう。消費の減退から。そうすると不況はさらに深刻なものとなる。経済はその法則性を失う。だぶついた金の使い道は金融・株である。しかし企業の実質的な業績に裏打ちされない株価はいつしか下落をするでしょう。銀行は貸付という黒字を増やせずにやはり資金はだぶつく。
恐慌の始まりではないか?
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
「タバコ7つの神話という神話」の続きです。太字はこちらのサイトからの引用です。
一つ目の神話「タバコを吸うとリラックスできるという神話」
「喫煙後には血中のコルチゾールというホルモンの濃度が上昇するが、コルチゾールは別名ストレスホルモンとも呼ばれ、身体がストレスを感じているときに分泌される。
つまり、生理学的に体はストレス状態にあるにもかかわらず、本人は主観的に「リラックスできている」というパラドックスが生じている。」
なぜストレスを感じるとコルチゾールが分泌されるのだろうか?
それはストレスを受けたときに体の変調を調整するためでしょう。ストレスに対応するために体が様々な作用を発揮するという説があります。これは生命維持にも関連する大切な作用だそうです。
ストレスがあるからコルチゾールが分泌される。コルチゾールが分泌されたからストレスが生まれるわけではない。
ですから「生理学的に体はストレス状態にあるにもかかわらず、本人は主観的に「リラックスできている」というパラドックス」というパラドクスは逆立ちした神話です。生理的にストレスが発生したときにコルチゾールが分泌され対処されるのですから、ストレスのある時にたばこでコルチゾールが増えるということはある意味リラックスをさせるということです。
またコルチゾールは血糖値の調整にも関連するようですが、山のてっぺんに着いて飴玉をしゃぶるのも煙草を一服するのも同じ効果でしょう。
長引く会議の途中喫煙者が「ヤニが切れたから休憩しようよ」ということがよくあります。長引く会議でのストレスと集中力の低下や時には居眠り。この状態における煙草は効果があるものです。ストレスの解消とともに集中力や眠気の解消がされる。ストレスを緩和しながら適度の興奮は残す。「ヤニが切れた」は何も煙草依存からだけではなくて、煙草の効能を言う場合もあるのです。
「喫煙とは、金を払ってストレスを吸い込む行為にほかならない。」
なんて、ひどい汚い言葉を使わない方がいいです。
【2018年】ツイッターつぶやき
梅雨明け♪
6月末の頃、あと一か月は梅雨だからなぁ。。。。と、どんよりしていましたが急な梅雨明けにびっくりするとともに気持ちも楽になりました。
どうも低気圧に弱いのか、朝晩の気温差に弱いのか、梅雨時期は体もだるくて気持ちも落ち込むのですが、梅雨も明けて陽ざしも強く暑い日が続くころになると体のだるさも消え失せます。
たしかに暑さにはまいるのですが、昔から夏になると食欲も出て夏痩せどころか夏太り。。。。。
さすがに海に行ったりなどとそのような元気はないのですが夏の風景を満喫したいと思います。
風が通る和室で昼寝をしました。風が汗を引かせて涼しい・・・・・この涼しさを感じる一瞬がいいですなぁ。
木陰の気持ちよさも。
花たちは急な暑さに面食らっているようですが水をたくさんまいているうちに大きく育つでしょう。
【2019年】ツイッターつぶやき
安倍総理は参議院選に向けて
・安定した政治か再び混迷か
・改憲を議論する政党か議論しない政党か
の二つの争点を言い出している。
ここには政策論争が全くなくて、イメージや期待を煽る論理しかない。
今の社会に対する不平や不満は大きくなっている。それはアベノミクスと日銀緩和という金融政策の誤りにある。自らこの6年の間に勤労国民の生活を破壊しておいて、ここには触れずに安定した政治家混迷化を国民に問う。誰もが安定した政治が良いと考えるでしょう。しかしその安定の中身はどうなのかというものを隠されている。数の力での安定は確かにあるが、それが政治の安定なのか?数の力で押し通せば何でもありの社会になる。数の力が安定ではないはずである。政治家と官僚の衰弱そしてそこからの民主主義の形骸化が進んでいる。数の力だけの安定の土台は腐って不安定化をしている。民主主義の形骸化は日本政治がどこに転がるのか相当不安定でしょう。
日本政治をどこに向かって転がすか?さらに自由や民主主義の形骸化という現憲法に保障されたものがないがしろになっているわけですから、数の力でどこに転がすかは今の腐敗した政治そして社会を当たり前とする憲法が必要というだけである。
具体的な政策抜きで何の説明もないイメージや期待感だけを煽る抽象的な二つの争点化。
具体的なもののない争点化は、選挙結果としても中身のない勝った負けたからで改憲が支持された、今の数の力による政治が支持されたとすり替えられるでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
今日は七十二候の半夏生です。
七十二候の中でも存在感のある言葉ですね。俳句では季語にもなっています。
梅雨入りを中心に夏至と対の位置にあるものだそうです。そろそろ梅雨明けが気になるころですね。
民間の言い伝えでは空から毒気が下りてくるので井戸に蓋をしなくてはいけないそうです。ですからこの半夏生前に田植えは終わらせなくてはいけないそうです。
半夏というのはカラスビシャクという花だそうで、根っこは生薬に使われる。
空から毒気が下りてきて井戸に蓋を閉めるのですから、生薬としてのカラスビシャクは吐き気の薬だそうで、胃腸薬にも。毒気が下りるという民家の言い伝えも根拠がないわけではないようですなぁ。
半夏生の頃、蒸し暑さも強いですからこの心持を俳句にするようです。
半夏生も過ぎて一カ月すれば立秋ですからねぇ。
陽が短くなっていくという気持ちをこの半夏生に感じます。
夏も後半戦。
(以上ネットでいろいろと調べてみました)
【2021年】ツイッターつぶやき
東京の10万人当たりの感染者数がステップ4となりつつある。
東京都のモニタリング会議は現在の感染拡大について早い時期に第三波を超える可能性を出している。第四波はそれほど感染者数の増加はなかったが、これが踏み台になって実はこれから第四波が本格的になるのかもしれない。
第四波は早い時期に緊急事態宣言を出してそれなりの効果があったかもしれないが、それはインド株の関係だけかもしれない。第四波後にインド株の増加が目立ってきている。
ミニたリング会議では緊急事態宣言解除後
「6月21日以降の10日間で、都内の主要繁華街の夜間滞留人口が21・5%、昼間滞留人口が5・1%増加したと報告。飲食店での酒類の提供が可能な夕方~夜だけでなく、営業時間短縮要請の閉店時間を過ぎた午後10時~午前0時の滞留人口も急増しているとした。」(朝日新聞)
と分析している。人の移動と流れが大きくなっている。
人の滞留もこれまで路上呑みが問題になっていたが蜜の状態も増加しているということでしょう。
しかしこの状態でも東京都は「不要不急の外出自粛」という言葉を使わなくなっている。
使わなくなっているのではなくて、人の移動と滞留そして蜜を作り出すオリンピックを前に都民に向けてこの言葉はつかえないのでしょう。ましてや数万人の外国人が押し寄せる。オリンピックを中止しないならこの言葉はつかえないことから死語となる。
このジレンマを抱えながらオリンピックに突入していくしかなくなっている。もちろん都議選の結果によっては中止論も浮上するかもしれませんが今となっては議会の数ではどうにもならず、やはりと知事の決断が必要です。そのためには都議会の勢力図がどうなるかは大きい。
オリンピックごり押し。。。。。
現在これに対して批判などが出て矛盾が明らかになっていますから国も含めて政治は国民に目を向けざるを得ない。この国民に目を向けざるを得ない状態をなくすのが改憲です。緊急事態宣下を出せば国民を無視できる。強権で押さえられる。ごり押しというのがこの改憲なのです。会見しなければコロナも抑えきれないという論理は嘘で、国民の命や健康を無視してごり押しで何でもできることを目的とするのが改憲です。
世界大戦で戦争を阻止できなくなったこととオリンピックの中止の議論もできなくなるというのは同じことなのです。
【2022年】ツイッターつぶやき
石油・天然ガス開発事業サハリン2について、1カ月の間に事業権益に参加をするかどうかをヨーロッパを含め日本も答えをせまられているようです。
事業に参加しないならさらに安定した石油や天然ガスの供給が不安定になる。政治的に見れば西側のロシア制裁に対するロシア側からの「どうする?」という恫喝でもあり制裁につながりますよということでしょう。
経済的にはロシアも日本の消費をあてにしているでしょうが、日本も電力の逼迫があるわけですから安定した経済活動を脅かされる。
ヨーロッパも含め西側の結束力は脆弱な面があります。
ロシアからのエネルギーやウクライナも含めた食糧。どうにか安定しているのはアメリカぐらいでしょう。
政治的にはウクライナ政治のナチ化が見えはじめています。
日本もどこまでアメリカに付き合えるか。。。。。
内政では危険な改憲に向かう。孤立した危険な国になればアメリカも手を切る。
【2023年】ツイッターつぶやき
フランスの暴動が全国に広がっているようです。
はじめは、17歳の不良ぽい少年が警察官に撃ち殺されたことからはじまったようです。イスラム系の少年だったようで、この間フランスでは黒人やイスラム系の市民が白人に比して多く撃ち殺されているようです。ヨーロッパでは移民問題が極右勢力と結びついていますから、警察官にもその影響が出ても否定できないでしょう。
ですからイスラムの17歳の少年が撃ち殺されたことについて心ある市民が抗議を行った。
しかしこの抗議が暴徒化した。これまで年金支給年齢引き上げでも大規模なデモがりましたし、狂乱物価に市民は苦しい生活を強いられている。こういった市民の常態が暴徒化することに結びついたのかもしれない。
抗議運動やデモが暴徒化するとその運動は終末状態です。
この後に反動がやってくる。極右のイスラム排除が強まるでしょう。
このフランスの内政の混乱は、ロシアへの制裁とウクライナ指示にもその原因があるでしょう。
日米の金利差から円安に向かうという論理からも長期金利を上げていく。
同時に国債の買取りを減少させるという。
日銀が保有する国債の価値が下がりますね。
同時に国が発行する国債の利率はある。
日銀が10年を過ぎた国債を回収し、政府は新たに国債を買ってもらう。この場合金利は上がりますから国の借金は大きく増加する。
銀行に巨額の金が転がり込む。しかしその金の投資先が国内にはない。アメリカを中心とした国外に流れれば円安はさらに進む。
国債も海外に買い取ってもらうことがおきるでしょうか。真の債務国化に?
日米の金利差が問題視されるが、それを改善するには大きなリスクを伴う。
そのリスクに耐えるだけの経済力があるかどうかですね。
≪過去の記事≫
【2004年】
7月ですね。。。。
梅雨明けが待ち遠しいです。
新しい洗濯機が届きました。今度のは縦の長さが大きく、洗濯機置き場ぎりぎりでした。あぶないあぶない。。。。。置けなくて持って帰ってもらうのは気が引ける。。。。ハハハ
洗濯層にはカビもなく気持ちよく先ほど試運転をしました。絶好調!
つれづれノート⑬
庭を森のようにしたい
角川文庫
銀色 夏生 著
夏生さんはひとつの転機を迎えたのだと思います。
(ホームページトップ・・・「ちんまりと」・・・「40才頃」参照してください)
この転機は昨年あたりから読者にも見えていたと思います。40才頃は人生の折り返し点です。
社会的な人間関係、仕事、生活全般など人生の前半の自分が結果として現れます。結婚生活子育ても転機を迎えます。
同時にこれは、一度振り返って自分を見つめる時期でもあります。
「つれづれノート13」は、エッセイとしてこの夏生さんの転機を現しています。
2度の結婚とその失敗を振り返り、自分には入籍をするような一般的な結婚は無理だったと書いています。これは、夏生さん自身の結婚観と一般的な結婚形態との差を感じますし、日本の男一般の結婚観との違いでもあります。夏生さんは家族生活を平等な「共同生活」と書くことが多くありますが、そのような意味での「共働き」を作れなかったのだと思います。夏生さんも世間一般の妻がするような夫の世話をすることへの嫌悪感が強すぎますし、詩人という職業を持つ妻への理解も夫にはなかった。この結婚の失敗を40歳を超えた夏生さんは振り返っているのだと思います。
こんなお互いの不足していたものを書いていますが、「共働き」は、素直な気持ちで助けたり助けられたりが大切だったのではないかと思います。
子育ても転機に来ています。
娘さんの「カンチ」との中をたくさん書いていますが、今までは子供として世話をして楽しく暮らすことだけで足りていましたが、11歳という女の子はもう半分大人になっています。「親離れ・子離れ」をだいぶ夏生さんは意識しはじめています。娘さんに対して本気で怒り、怒りをぶつける。生き方を本気で伝えようとしています。一方では思春期を迎えるにあたって性の問題などを自然な形で教えています。夏生さんの様子を読むと、娘さんへのひどい言い方などに反発をするような場面もあるようですが、娘さんの成長に合わせた親子関係をものすごくよく考えているのではないかと思います。それはまた夏生さん自身のこれからも本気で考えるということです。老後を娘さんに託すような考えは微塵もないです。
同じように犬のマロンへの接し方も、「1歳過ぎると大人」という認識です。犬と人間は違いますが、犬という動物の限界内で冷静にマロンを見ているのでしょう。子供も犬も子供の頃は思いっきりかわいがったりしつけをしたり、しかし大人になっていけばまた違う接し方を模索する。「愛犬家」という方から見れば違うだろう!というものがあると思いますが、育てている間に犬という動物にとってどのような飼われ方が一番よいのかを(他人に迷惑をかけないことも含めて)夏生さんは考えていると思います。犬小屋の近くのところに屋根を付けてこれでマロンのためにもなると考えたりしていますし、無責任さと大人というものへの接し方は違います。
子供や犬を通しても夏生さんは感情丸出しでぶつかりながら本気で考えていることがわかります。失敗は誰にもありますが、大きな失敗はないのではないか。
友人対人関係、ファンの方との関係を悩みます。
夏生さんは、自分の生き方を邪魔するものは許さないというような態度ですし、ご自身の自由を妨げるような行為には怒ります。
その中で、お子さんの通う保育園の壁にEを書き始め、休憩中に暖かく先生方に「ご苦労様です」と言われ、夏生さんも家の工事の方に「ご苦労様」といおうと書いています。ここに自然な形での人と人との関係の大切さを書いています。理不尽な強要をする人間関係はこれからも否定をするでしょう。しかし日常の自然な形での人間関係は、先の夫婦関係からのこれからの恋を含め含めて自然な人間関係を追い求めていくのではないかと思います。その意味ではいくらファンとはいえ大人としての人間性を求めるでしょう。
つれづれノート⑬は、今までの自分の人生を振り返りながら、これらのことをいろいろな視点で悩みながら書いているのだと思います。
同時に夏生さんは内面へと向かいます。
死を考えます。40才頃は、この死が見えてくる年頃です。今までの自分を振り返りながら、この後人生の後半を死にむかってどのように生きるか。夏生さんは考えています。
まだ「これだ!」というものはないようですが、今までのようにやりたいことを実現していくだけでは満足感は長続きしないというようなことを書いています。もっと心が落ち着く何かを求めているのではないかと思います。たぶんそれは、日常や仕事でしょう。その前兆が見られます。もちろん恋も!!
夏生さんは、「家ができました」の中で、今研究中のものは庭造りと死だと書いていらっしゃいました。死を見つめながら変わりゆく夏生さん。つれづれノートも変わっていくようです。
ファンとしては夏生さんと一緒に年をとってゆきましょう。
もしかしたらファン層が変わるかもしれない転機ではないかと思います。
つれづれがどれだけ続くかは、この夏生さんの転機をどのくらい真剣に読もうとするファンがいるかどうかでしょう。そして夏生さんがどれだけ読者の心をつかむ詩を作れるかにあります。それには、今回のつれづれノートでいろいろな夏生さんの書かれたものを心の中で整理できるかだと思います。
【2005年】
夏生さんの「つれづれ」を読んでいたら、3日ほど留守にして帰ってくると、何だか銀杏が腐ったような匂いがしたとありました。母親のゲイリーに家事を頼んでおいたら、洗濯したものを丸一日干さないで忘れていたという。その洗濯物の匂い。。。。
なんかその匂いわかります。
東京もこのところ雨や曇りが多いのですが、部屋干しするとまさに銀杏の腐ったにおいが。。。いやなので今年はせっけん洗剤をやめて合成洗剤を使っています。それでも気をつけないと匂いが出ますので雨でも風に当てるようにしています。
天気予報では、梅雨も半ばとのことですが、あと2週間ぐらいかなぁ?
早く夏の空を見たいです。
【2006年】
身延山久遠寺 2006年7月1日
出かけたのはいいのですが、途中、咳が止まらなくなり帰ってから熱がでてしまいました。朝起きたときにどうも体がだるいと思ったのですが、無理をしてでかけたのがよくなかったようです。
咳とだるさに、久遠寺と山梨方面に向う途中の南アルプス市にある和紙の里だけを見て帰ってきました。
我が家のカーナビは何でこうも細い道を案内するんだろ?
この日もなんだか曲がりくねった細い山道を。。。。。舗装されていたのでよかったのですが不安になります。
この山道を抜けたところに久遠寺の門前の道がありました。
お土産やさんが並ぶ細い道を入っても良いものかと迷いながら人をよけながら登ると駐車場がありました。今は門前の町も立派なお寺ですが、山の中のお寺には変わりなく、こんな山奥に立派なお寺を作ったことに昔の人の信仰心の深さを感じます。お堂などそうは古いものはなく、江戸頃に建て替えられたもののように感じました。境内では五重塔の再建が進められようとしていました。整然と美しく並ぶお堂と五重塔の再建。。。。お堂の前では信者の方がお経を唱えていました。その雰囲気の中には僕のような観光客は異質です。今も信仰の場であり信仰の山なのです。
観光客は、ケーブルカーへ。。。。
奥の院まではこのケーブルカーで登ります。
東京は曇り空だったのですが、山梨県に入る高い山を抜けた頃から雨。幸いにもこの雨も身延町に入る頃にはやみました。雨上がりの山。。。神秘的ですね。ケーブルカーで登っていくと、富士山には傘雲がかかり山々も霞んでいました。下の門前町や川にも靄がかかり、山の谷には雲が立ち上っていました。
娘が昼飯はファミレスと決めていたらしく、何でここまできてファミレスなのかとぶつぶつ言いながら山梨市方面に下りました。
昼食も済まし(無事ファミレスを見つけ・・・トホホ)、なかとみ和紙の里に向いました。
道の駅を思わせるようなところで、工芸展示室や和紙の販売、食事処もあるきれいなところでした。
竹ヒゴのような骨組みに和紙を貼り付けたスタンドがあり、いいなぁ。。。と思ったのですが高くて躊躇。
そこで自分でも作れないものかと一念発起。和紙を買って帰りました。
スタンド作りはこの夏の夏休み工作の宿題です。。。。。ハハハ
風邪をひいてしまいました。
娘とドライブに行ったのはいいのですが、途中から鼻水と咳が止まらなくなってしまいました。
朝、少しおかしいなと思ったのですが、無理はいけませんなぁ。。。
帰ってか来社に電話をしたのですが、やはりもう診療時間は終わってしまいました。仕方ないので、薬局で漢方薬を買ってきました。
今夜は早く寝ます。。。。ううう
今熱をはかったら、38度5分。。。
僕は平熱が低いので、37度を越えるとふらふらするのですが、コウも高いと、歩いている途中を滑っているような感覚です。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
ワールドカップでの日本の敗退
これからワールドカップに燃える人が
ほんとのファンで静かに観戦できるでしょう
「ニッポン チャチャチャ」ファン
マスコミも参議院選挙に集中できるだろう
日本の財政危機・国債発行
誰も日本国家が誰から借金をしているか教えてくれない
外国にどれだけの国債が流れているんだろ?
少ないなら家族間での借金と同じはず
国民は国に金を貸し国の借金を心配している
国民というのは法人などの組織も含まれる
国民の経済的分断と格差
持つものが国に金を貸し持たざるものが借金を返す
笑ってしまうような日本家族である
「ニッポン チャチャチャ」ではすまされぬ
やっといろいろなことを考え本の感想も書けそう
自分をもっと取り戻そう
僕はもうだめだとなると切るような冷たい人間
うん。。。冷たいんじゃなくて違う道を探すだけ
目的地は霞んでいるが同じはず
心はわからないが仕方のないもの制御できないもの
でも心も自分であるのには変わらない
どうにかなるだろう。。。。。。
ゴーヤの苗を買ってきた実がなるかな?
ジャスミンの蔦に絡ませた
花の芽らしきもの・・・・・・・
空はどんよりと暗い
心も暗いがこれはどうにかできるだろう。。。。自分だから
【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2012年】ツイッターつぶやき
今夜、多くの反対をうったえる市民の声が届かずに大飯原発3号機が再稼働してしまいました。
大きな権力を持つ政府が国民の声(デモなどだけではなくて世論調査という形でも)を聞かずに動くとき、それを方向修正させるには大変です。これは今回の再稼働反対だけではなくて昔から政治と市民の声の乖離を政府はその政治力において押さえてきました。そして生活や労働に対する多くの犠牲を国民に向けてきました。その結果が今の社会に矛盾として現れています。その矛盾は国自体にも表れて政権の運営はもちろん経済も下降線を示しています。
この中で、この社会の下降線を押しとどめようとして更なる国民の犠牲を求めたのが、消費増税でしょう。国民の生活は疲弊をしていき格差は広がっているその上に消費増税なわけです。その戦場に大飯原発の再稼働もあります。国民生活の安全よりも経済そして国の安全(安全保障)を優先とした中での再稼働だからです。国の安全といえば聞こえは良いですが、ある階層への利益の分配を減らさずに多くの国民生活を犠牲にする格差社会の象徴なのです。
再稼働反対は多くの市民がデモに参加をしてその数はここ数十年なかった規模に広がりました。またデモという形だけではなくて今はインターネットの時代となり、ネットを通した国民の意思が多くの人々との共通項を作りました。それはある程度知識層や文化人そして政治家にも影響を与えました。
この国民の主体が大きく広がったことが今回の脱原発そして再稼働反対というものを通して国民が持つ怒りが顕在化したというのが成果なのです。
でうsからこの国民の主体の顕在化・発展を再稼働反対に負けたとしてだけ見てはならないのです。それでは本当の負けです。再稼働反対の運動を通して今の政治の現状が見えたと思います。政治とは何か、政府とは何か、政党とは。。。。。
ここを一人一人が総括をしてもう一度政治の世界や社会の動きを見てみるべきかと思います。そこには消費増税の問題やなおも拡大する雇用の不安定化や賃金の切り下げなど格差社会が見えてくるでしょう。沖縄の問題、もちろん福島の原発事故の現状や地震・津波の被災地の現状。様々な問題点は再稼働反対で知った今の政治の現状と共通するものがあるはずです。原発と福島の現状は沖縄に共通します。
さらに再稼働反対を進めるには、拡大させるには今の社会の根本矛盾をあらゆる角度から考えて共有することではないでしょうか。再稼働反対にはそうは足を向けないが消費増税なら怒りを持っているとか、国民意識は様々です。しかしぶつかるのは国家と個人の問題や民主主義の問題そして政治の在り方の問題です。この共通項において今回の再稼働反対に見た国民の主体の発展はさらに発展していくでしょう。焦っても駄目です。主体の強化という成果を見ながらさらなる発展は未来への希望です。それは必ず心ある政治家をも動かすでしょう。文化人や知識階層も動かすでしょう。そしていつかは労働組合も。。。。。。
【2013年】ツイッターつぶやき
BLOGOSに「感情捨て、冷静な議論をしよう」という文があった。
「人類には天敵がいないので自然淘汰に晒されておらず、遺伝的に弱くなる心配がある。このままでは危ないのではないか」 (上記リンクページより引用…・以下も太字は引用)
たしかに人類はその進化の過程において動物的な遺伝子を退化させてしまったのかもしれないが、人類はそのかわりに社会をつくり科学を発達させてきた。その社会の発展過程に社会的な遺伝子を伝えてきた。ですから人間は動物的な遺伝子と社会的な遺伝子により未来に向けても存続しようとするでしょう。
生まれた子供のほとんどが成人まで生きることが「生物学的に異常であり弊害を生じるのではないか」とされるがほとんどの子供が成人まで生きる事は動物的遺伝子ではなくて社会的遺伝子の支配にあるからです。他の天敵から命を守るという動物的遺伝子よりも社会的な動物として命を守ることに重点が置かれる。これは動物と人間動物の違いですから生物学的に見ても異常とは言えないでしょう。
ですから「出来の悪い人間を間引く」、「定期的に病原体をばら撒いて、生存率を下げる」、「街中にライオンを離して、逃げ遅れた人には死んでもらう」といった自然淘汰と社会的淘汰をごちゃまぜにした様な論理は必要ないのです。
このような自然淘汰を社会に持ち込むような論理は危険でしょう。
「今を犠牲にして、将来を救うことを真剣に議論することができるか、我々は試されているのだ。
何時までもこういった大問題の先送りを続ければ、「法定制限年齢を70歳にしよう(70歳を超えては生きられない)」といったことを「真剣に」議論する日が来ないとも限らない。つまり非人道的な解決方法しかなくなる可能性が確実にあると、私には思えるのだ。今こそ、我々は、感情を捨て、いかに自分にとって不都合な事実でも受け入れる勇気を持つべきだろう。」
ここには大きな論理のすり替えが現れる。何も非人道的な方法が不可避だと結論することはないのです。ですから今を犠牲にする必要もない。現在も犠牲にされ、その犠牲を受け入れないなら未来にも非人道的な犠牲が生じるといった論理では人類の未来は相当暗いものになる。
人間もこの地球(宇宙)という自然の中に生存しているわけですから自然からの限界は受けるでしょう。この自然に順応することは犠牲ではなくて人が生存するため法則性です。ですからこの対自然に対しては人間も淘汰されるかもしれない。しかし自然に働きかけること、例えば化石エネルギーなどに働きかけることは人間の社会的な活動にあるわけです。この化石エネルギーに対しても「犠牲」という言葉を使う必要はなくて、ただ人間が化石エネルギーに依拠する割合を少なくするといった社会の発展を考えればいいわけです。その中で原発の再稼働だあるいは太陽光などの自然エネルギーだと冷静に議論する必要が出ているわけです。
自然淘汰での人類の生き残りが困難になってもそれ自体は犠牲ではない。犠牲になるのは人が作り出した社会の中につくられるものです。生活の質を全体が同じレベルに引き下げるならそれは犠牲を伴わない。しかし階層社会における格差自体や政治的な地位関係の中において初めて犠牲にする者と犠牲にされる者が出るわけです。ですから自然を語り社会を語る中に「犠牲」を強調する論理はどこか間違った方向に行くかの世があるわけです。いつの日か人は70で死ななくてはならないことが決まったとしても、決めた人と決められた人の関係から必ず70で死ぬ人と70以上生きる人が出るわけです。その中において70で死ぬ人が初めて犠牲となる。みんなが70で死ねばその世代内では犠牲になる人は出ない。そうはならないのが今の人間社会です。
今現在を見てもわかるでしょう。日本社会が発展するにはとして、一部の富裕層が生まれる反面、多数の貧困層が生まれる。この中において「今を犠牲にする」とはどういうものかがはっきりと見えてきませんか?
地球全体にはたくさんの民族がいてそこに格差がある。
その中において「出来の悪い人間を間引く」という「感情を捨てた、冷静な判断」がどういう論理的な帰結を産むか。。。。。
犠牲という言葉に以上のような懸念を見ました。
【2014年】ツイッターつぶやき
まだニュースはみていないのですが、与党自公による内閣において集団的自衛権が容認されるのは確実になった。
昨夜は解釈改憲による集団的自衛権反対のデモが大規模に行われ、様々な反対意見も地方議会から上がっている。与党党内にも慎重論が出ている。
内閣によって憲法解釈が行われそれが憲法に反するものであっても強硬に押し通すことへの不信は広がっているだろう。それは立憲民主主義の否定となるとして解釈改憲反対でなければならない。
戦争の道を広くしていく集団的自衛権や集団的安保は、今の時代は宣戦布告をしない戦争が行われてそれは「正義の戦争」「テロとの戦い」という言葉で言い表さられ、宣戦布告をしていない中でアメリカの論理や安倍政権の「積極的平和主義」という言葉に表現されます。
このように憲法9条はないがしろにされます。
しかし憲法解釈による集団的自衛権は9条だけにとどまらない問題です。内閣はこの解釈改憲を憲法65条の「行政権は、内閣に属する」というものを持ち出しています(朝日新聞)。しかし内閣や国会が持つ行政権とは憲法の勝手な解釈ではなくて立法権です。憲法の解釈は裁判所です。内閣の憲法解釈といってもそれは立法の中に明記されねばなりません。しかしそれは後回しでしょう。このように見ると9条だけではなくて憲法が持つ民主主義の規定にも触れるものかもしれません。
ですから解釈改憲と集団的自衛権に反対をするということは改憲にも反対をしなくてはいけないということです。
今の内閣のやり方はおかしいとして正々堂々と会見をすればいいのだというのは右派ももちろん持っていますし、左派も解釈ではなくて名分でやってみろなどという意見とも読めるものがあります。また憲法改正で集団的自衛権が矛盾しなくなれば国民の判断だから仕方ないといった見方も。
しかし、そうでしょうか?
改憲自体は9条に限ったものではなくて幅の広い国民主権や民主主義全般にかかわる問題です。ですから解釈改憲での集団的自衛権を限定的に抑えるにしてもやはり改憲自体には反対をしなければならないということです。
民主党政権時、ねじれ国会といわれて「決められない政治」という言葉により批判が大きかった。世論もマスコミもこの「決められない政治」に激しい批判を浴びせた。
その後自公による安倍政権となりねじれは解消されて「決められる政治」が行われた。決められない政治を続けているのは民主党だけである。
今の時点でこの「決められない政治」と「決められる政治」とはなんであったのかと疑問を持たずにはいられない。
「決められない政治も」数の力でのねじれが問題だっただけである。民主党政権末期は二大政党が保守二大政党であったことが露わになり、保守二大政党であることがはっきりした。この保守二大政党には大きな政策の違いはなくなっていたのである。その中で国会のねじれは政策ではなくて数の力であることがはっきりした。ですからねじれの解消あるいは「決められる政治」は絶対多数の与党が必要ということだけになってしまった。国民もマスコミも強いリーダーシップを求めた。当然選挙も含めて大きな政治の流れは保守二大政党に属する。
ですから安倍政権というような内閣はある意味必然的だったということです。
しかしこのような経過の中で国民が失ったものはなんでしょうか?
決められる政治と比例をして国民の主権や民主主義・自由そして平和の維持などの危うさを増しただけなのです。
決められる政治とは国民自らが決められる政治という自由と民主主義の拡大にあったのです。
デフレとは物価が継続して下がり続けることらしいが、これはある意味経済法則なのである。
企業の生産性が上がり必要とする労働力量が減少すればその企業の商品価値は減少する。商品市場においてはこの価値と価格とは一致しない場合が多いが、ある商品を生産する産業全体が一定の生産性まで高められた場合は価格は価値に一致をしていくだろう。その時価値は価格を支配をして商品の価格は下がっていく。
商品の価値低下の中で価格自体も下がっていくと企業の利潤率は下がるでしょう。ただし生産性の向上は商品を生産する労働力量の減少ですから、同じ労働力量を用いればより多くの商品量を市場に流せることができますからその生産量を維持すれば企業の利潤量は一定に保つことができる。しかしこの商品量の増加は消費されるというものが前提ですからこの産業において過剰生産が起きれば企業の利潤量は低下をしていく。
このようにデフレとは単純に商品の価格が減少して物価が下がり続けることだけではなく、企業の利潤率の低下を引き起こすことによるまたは過剰生産による不況がその根底にある。ですから今のアベノミクスのように物価が上がればデフレからの脱却だというのは皮相的な見方なのである。物価は上がるが不況は残るのである。デフレとデフレ不況とは違うもので、デフレという物価中心の考え方からすれば上にみたように生産性の向上自体が物価を下げるのですから経済法則ということになる。
利潤率の低下した企業は今はグローバル化の世界ですから海外に安い労働力を求めて進出していく。国内は労働力商品の価格を価値以下にまで引き下げるという禁じ手である賃下げを行う。それを生産性の向上と見誤る。官製の物価上昇に対して実質賃金も下がり続ける。こうなると商品価値の低下の中で商品がその法則通りに価格が下がらずに同時に実質賃金は下がるという賃下げは加速をする。その上に消費増税である。商品は相対的な過剰を引き起こすでしょう。消費の減退から。そうすると不況はさらに深刻なものとなる。経済はその法則性を失う。だぶついた金の使い道は金融・株である。しかし企業の実質的な業績に裏打ちされない株価はいつしか下落をするでしょう。銀行は貸付という黒字を増やせずにやはり資金はだぶつく。
恐慌の始まりではないか?
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
「タバコ7つの神話という神話」の続きです。太字はこちらのサイトからの引用です。
一つ目の神話「タバコを吸うとリラックスできるという神話」
「喫煙後には血中のコルチゾールというホルモンの濃度が上昇するが、コルチゾールは別名ストレスホルモンとも呼ばれ、身体がストレスを感じているときに分泌される。
つまり、生理学的に体はストレス状態にあるにもかかわらず、本人は主観的に「リラックスできている」というパラドックスが生じている。」
なぜストレスを感じるとコルチゾールが分泌されるのだろうか?
それはストレスを受けたときに体の変調を調整するためでしょう。ストレスに対応するために体が様々な作用を発揮するという説があります。これは生命維持にも関連する大切な作用だそうです。
ストレスがあるからコルチゾールが分泌される。コルチゾールが分泌されたからストレスが生まれるわけではない。
ですから「生理学的に体はストレス状態にあるにもかかわらず、本人は主観的に「リラックスできている」というパラドックス」というパラドクスは逆立ちした神話です。生理的にストレスが発生したときにコルチゾールが分泌され対処されるのですから、ストレスのある時にたばこでコルチゾールが増えるということはある意味リラックスをさせるということです。
またコルチゾールは血糖値の調整にも関連するようですが、山のてっぺんに着いて飴玉をしゃぶるのも煙草を一服するのも同じ効果でしょう。
長引く会議の途中喫煙者が「ヤニが切れたから休憩しようよ」ということがよくあります。長引く会議でのストレスと集中力の低下や時には居眠り。この状態における煙草は効果があるものです。ストレスの解消とともに集中力や眠気の解消がされる。ストレスを緩和しながら適度の興奮は残す。「ヤニが切れた」は何も煙草依存からだけではなくて、煙草の効能を言う場合もあるのです。
「喫煙とは、金を払ってストレスを吸い込む行為にほかならない。」
なんて、ひどい汚い言葉を使わない方がいいです。
【2018年】ツイッターつぶやき
梅雨明け♪
6月末の頃、あと一か月は梅雨だからなぁ。。。。と、どんよりしていましたが急な梅雨明けにびっくりするとともに気持ちも楽になりました。
どうも低気圧に弱いのか、朝晩の気温差に弱いのか、梅雨時期は体もだるくて気持ちも落ち込むのですが、梅雨も明けて陽ざしも強く暑い日が続くころになると体のだるさも消え失せます。
たしかに暑さにはまいるのですが、昔から夏になると食欲も出て夏痩せどころか夏太り。。。。。
さすがに海に行ったりなどとそのような元気はないのですが夏の風景を満喫したいと思います。
風が通る和室で昼寝をしました。風が汗を引かせて涼しい・・・・・この涼しさを感じる一瞬がいいですなぁ。
木陰の気持ちよさも。
花たちは急な暑さに面食らっているようですが水をたくさんまいているうちに大きく育つでしょう。
【2019年】ツイッターつぶやき
安倍総理は参議院選に向けて
・安定した政治か再び混迷か
・改憲を議論する政党か議論しない政党か
の二つの争点を言い出している。
ここには政策論争が全くなくて、イメージや期待を煽る論理しかない。
今の社会に対する不平や不満は大きくなっている。それはアベノミクスと日銀緩和という金融政策の誤りにある。自らこの6年の間に勤労国民の生活を破壊しておいて、ここには触れずに安定した政治家混迷化を国民に問う。誰もが安定した政治が良いと考えるでしょう。しかしその安定の中身はどうなのかというものを隠されている。数の力での安定は確かにあるが、それが政治の安定なのか?数の力で押し通せば何でもありの社会になる。数の力が安定ではないはずである。政治家と官僚の衰弱そしてそこからの民主主義の形骸化が進んでいる。数の力だけの安定の土台は腐って不安定化をしている。民主主義の形骸化は日本政治がどこに転がるのか相当不安定でしょう。
日本政治をどこに向かって転がすか?さらに自由や民主主義の形骸化という現憲法に保障されたものがないがしろになっているわけですから、数の力でどこに転がすかは今の腐敗した政治そして社会を当たり前とする憲法が必要というだけである。
具体的な政策抜きで何の説明もないイメージや期待感だけを煽る抽象的な二つの争点化。
具体的なもののない争点化は、選挙結果としても中身のない勝った負けたからで改憲が支持された、今の数の力による政治が支持されたとすり替えられるでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
今日は七十二候の半夏生です。
七十二候の中でも存在感のある言葉ですね。俳句では季語にもなっています。
梅雨入りを中心に夏至と対の位置にあるものだそうです。そろそろ梅雨明けが気になるころですね。
民間の言い伝えでは空から毒気が下りてくるので井戸に蓋をしなくてはいけないそうです。ですからこの半夏生前に田植えは終わらせなくてはいけないそうです。
半夏というのはカラスビシャクという花だそうで、根っこは生薬に使われる。
空から毒気が下りてきて井戸に蓋を閉めるのですから、生薬としてのカラスビシャクは吐き気の薬だそうで、胃腸薬にも。毒気が下りるという民家の言い伝えも根拠がないわけではないようですなぁ。
半夏生の頃、蒸し暑さも強いですからこの心持を俳句にするようです。
半夏生も過ぎて一カ月すれば立秋ですからねぇ。
陽が短くなっていくという気持ちをこの半夏生に感じます。
夏も後半戦。
(以上ネットでいろいろと調べてみました)
【2021年】ツイッターつぶやき
東京の10万人当たりの感染者数がステップ4となりつつある。
東京都のモニタリング会議は現在の感染拡大について早い時期に第三波を超える可能性を出している。第四波はそれほど感染者数の増加はなかったが、これが踏み台になって実はこれから第四波が本格的になるのかもしれない。
第四波は早い時期に緊急事態宣言を出してそれなりの効果があったかもしれないが、それはインド株の関係だけかもしれない。第四波後にインド株の増加が目立ってきている。
ミニたリング会議では緊急事態宣言解除後
「6月21日以降の10日間で、都内の主要繁華街の夜間滞留人口が21・5%、昼間滞留人口が5・1%増加したと報告。飲食店での酒類の提供が可能な夕方~夜だけでなく、営業時間短縮要請の閉店時間を過ぎた午後10時~午前0時の滞留人口も急増しているとした。」(朝日新聞)
と分析している。人の移動と流れが大きくなっている。
人の滞留もこれまで路上呑みが問題になっていたが蜜の状態も増加しているということでしょう。
しかしこの状態でも東京都は「不要不急の外出自粛」という言葉を使わなくなっている。
使わなくなっているのではなくて、人の移動と滞留そして蜜を作り出すオリンピックを前に都民に向けてこの言葉はつかえないのでしょう。ましてや数万人の外国人が押し寄せる。オリンピックを中止しないならこの言葉はつかえないことから死語となる。
このジレンマを抱えながらオリンピックに突入していくしかなくなっている。もちろん都議選の結果によっては中止論も浮上するかもしれませんが今となっては議会の数ではどうにもならず、やはりと知事の決断が必要です。そのためには都議会の勢力図がどうなるかは大きい。
オリンピックごり押し。。。。。
現在これに対して批判などが出て矛盾が明らかになっていますから国も含めて政治は国民に目を向けざるを得ない。この国民に目を向けざるを得ない状態をなくすのが改憲です。緊急事態宣下を出せば国民を無視できる。強権で押さえられる。ごり押しというのがこの改憲なのです。会見しなければコロナも抑えきれないという論理は嘘で、国民の命や健康を無視してごり押しで何でもできることを目的とするのが改憲です。
世界大戦で戦争を阻止できなくなったこととオリンピックの中止の議論もできなくなるというのは同じことなのです。
【2022年】ツイッターつぶやき
石油・天然ガス開発事業サハリン2について、1カ月の間に事業権益に参加をするかどうかをヨーロッパを含め日本も答えをせまられているようです。
事業に参加しないならさらに安定した石油や天然ガスの供給が不安定になる。政治的に見れば西側のロシア制裁に対するロシア側からの「どうする?」という恫喝でもあり制裁につながりますよということでしょう。
経済的にはロシアも日本の消費をあてにしているでしょうが、日本も電力の逼迫があるわけですから安定した経済活動を脅かされる。
ヨーロッパも含め西側の結束力は脆弱な面があります。
ロシアからのエネルギーやウクライナも含めた食糧。どうにか安定しているのはアメリカぐらいでしょう。
政治的にはウクライナ政治のナチ化が見えはじめています。
日本もどこまでアメリカに付き合えるか。。。。。
内政では危険な改憲に向かう。孤立した危険な国になればアメリカも手を切る。
【2023年】ツイッターつぶやき
フランスの暴動が全国に広がっているようです。
はじめは、17歳の不良ぽい少年が警察官に撃ち殺されたことからはじまったようです。イスラム系の少年だったようで、この間フランスでは黒人やイスラム系の市民が白人に比して多く撃ち殺されているようです。ヨーロッパでは移民問題が極右勢力と結びついていますから、警察官にもその影響が出ても否定できないでしょう。
ですからイスラムの17歳の少年が撃ち殺されたことについて心ある市民が抗議を行った。
しかしこの抗議が暴徒化した。これまで年金支給年齢引き上げでも大規模なデモがりましたし、狂乱物価に市民は苦しい生活を強いられている。こういった市民の常態が暴徒化することに結びついたのかもしれない。
抗議運動やデモが暴徒化するとその運動は終末状態です。
この後に反動がやってくる。極右のイスラム排除が強まるでしょう。
このフランスの内政の混乱は、ロシアへの制裁とウクライナ指示にもその原因があるでしょう。
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