夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「3月 8日という日」

2024年03月08日 07時40分05秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
1-3月期の景気はあまりよさそうではない。
日銀は賃上げに期待をする。出口に向かうにしても賃上げに期待をする。
政府も賃上げに期待する。
しかし企業も内部留保は溜め込んでいるが、企業業績からすればそうは賃上げもできないでしょう。
この企業業績は実体経済の派内で、金融商品では溜め込んでいる。
期待。。。。

≪過去の記事≫

【2004年】
昼食にコーヒーショップでコーヒーと「○○サンドC」をたのんだ。
野菜がたくさん挟まったおいしいサンドイッチだったはずなのに、今日はほとんど野菜がない。チェーン店でも店によってぜいぶん違うのかな?
損した気分です。
今夜は何にしよう?
                悩みます。

あなたには帰る家がある
                      集英社文庫
          山本 文緒  著

人は、今ある自分が幸福なのかと思った瞬間に自分の幸せを手放す。
人は、今の自分には他の生き方があると思った瞬間に自分の生き方を見失う。
もっと幸せがあるはず、もっと違った生き方があるはずと思うこと、これはいつも漠然としている。意外と、何が幸せで、何がしたいのかが見えていない。
この作品の主題はこんなところにあるのではないか。
この作品は、佐藤秀明・真弓と、茄子田太郎・綾子の二家族の物語である。
秀明は女にもてるタイプの男であり、太郎はまったく女にもてないタイプ。真由美は子育てや家事に幸せを感じられないタイプで、綾子は家庭の中に幸せを感じるタイプ。
このようなさまざまな生活観を持つ四人が、それぞれに自分自身の幸せがどこにあるのかを描き、その幸せに一歩踏み込んでいく様子を描く。
秀明は、家庭的でない真弓に不満を持ち家庭的な綾子に恋をする。太郎は、自分は愛情を込めて家族に接しているからとそこに喜びを持つ。真由美は仕事ばかりで優しさのなくなった夫に不満をもち仕事に生きがいを見つける。綾子は少女のようなままの乙女心で秀明に恋をし王子様を求める。
しかし、この四人の幸せや生きがいはもろくも崩れ去り、最後の修羅場に進む。
この最後の修羅場は、読んでいると悲しみとともに笑いを誘われる。山本文緒さんに「人それぞれは修羅場に生き、そんな修羅場でさえ喜劇なのよ」と微笑まれているような気にもなる。
思い描がいていた幸せに完全な幸せなど存在しないということだろう。
また、この作品のもうひとつの主題は、理想的な男や女も存在しないということだろう。
結婚生活の幸せは、男女間が一緒に生きるということであるが、完全な幸せなど存在いないのと同じように、完全に理想とする男や女もいないということである。
真弓は男から見ればいやな女と見える。太郎は、女遊びをする助平な中年男である。それに対して、綾子は健気な妻として男が好む女、秀明は、スマートで女に好まれる。このようにこの作品の前半では見えるが、やはり最後の修羅場に向かってその見方も裏切られていく。
結局は、やはり思い描く幸せと実際の幸せは一致しないということだろう。
もちろん、今の生活に我慢をして生きるしかないのだというような消極的なことを言うつもりはない。もっと幸せが、もっと違う生き方がと、一歩出たとき、そこにあるのは日常からそうは遠くない世界ではないのかということである。
金がないよりあったほうが幸せであることに間違いはない。出世をしたり金持ちになることへの幸せ感はある。しかし、もしそのために家庭をもてないとしたらその金という幸せはやはり幸せではなくなる。多くの人が思い描く幸せの条件を全て兼ね備えて持っている人などいないのではないか?
そうならば、そこには必ず誰でもがもっと違う幸せや生き方を思い描き、そこに今ある幸せを忘れることになってしまう。
幸せの条件、それはさまざまであるが、その幸せを思い描く人全てが持つものそれは、平凡な日常である。
それぞれの人の条件は違うが、この平凡な日常に喜びや幸せを感じ取れなければ、好条件にいる人も幸福感はもてないだろう。
銀色夏生さんの言葉に次のようなものがある。
「自由さは時には心細いものなので、信じられるなにかを持つ人はたいへん力づよいです。その信じられる何かが、「かわいらしいものをちらっと見てしまったときのよろこび」や「おもしろいことをふいに思いついたりすることのしあわせ」のように、いつでもどこでも存在するものだったりするなら、あなたは大丈夫です。
    (角川文庫「このワガママな僕たちを」背表紙より)
この言葉の中に平凡な日常があるのではないかと思います。
秀明はつぶやく、「もう帰ろう。自分には帰る家があるのだから」と。
ここに不満を持ちながらも平凡な家庭があるのだ、生活がありそこに帰ろうというものが見える。
そして山本文緒さんは、この作品の題である「あなたには帰る家がある」と読者に言う。
金があるだけでは幸せとは限らないが、金があることは幸せの条件である。
仕事も家事も男女平等は理想かもしれないが、この平等は幸せの条件でもある。
これらは、個人(家庭や夫婦間)の条件ではあるが、同時に根本的には社会的条件である。
このことは忘れてはならない。

【2005年】
風もなく暖かでした。春。。。。!!
娘と買い物に行きました。買ったものを袋に入れてのんびりぶら下げて歩いていたら、昨日に引き続きばあ様が。。。。
いきなりカートで僕の買い物したビニール袋にぶつかってきた。グシャっと変な音がしたのですが、帰って袋を開けたら卵が二つ割れていた。。。。。ムカッ
謝りもしないそのばあ様。
帰ってから妻に言ったら、そういう時は「ぶつかりましたよ」と強く言わないとだめよと。でも、そのばあ様怖い感じだった。。。。いくら年寄りでも昨日に引き続きムカッとしてしまいます。
小学校5年生頃だったかな?仲のよい友達と駅に向う道を歩いていたら、クラスのガキ大将と一緒に体の不自由な子が近寄ってきた。いつも先生からその子は体が不自由なので助け合ってくださいといわれていました。ところがその日、その子はガキ大将と一緒だったので強気になったのか、僕の友達に向って何度も「バカ」と言ってきたのです。友だちは怒りまくってその子につかみかかろうとしたので僕は止めました。先生に怒られるのは結局友だちのほうですから。
友だちはくやしくて泣き出しました。
このことがずっと原体験として僕の心の中にあるのです。
小学生ながらも平等って何かを考えさせられました。体の不自由な子には、たしかに腕力の喧嘩はよくない。それは不公平ですから。しかし口喧嘩ならと思ったものです。
喧嘩することがその子と真の意味での平等だよなぁと、そんなことをその友達と歩きながら話しました。
このことがいつも心の片隅にあるのです。

【2006年】
6日の風は、やはり春一番だったようです。
今日は汗ばむような暖かさでした。
しかし暖かくなるのはよいですが、気候の変化に対応できずにだるさが出てしまいました。どうもこの春のだるさにはお手上げです。
それでも頑張ってスポーツジムに行ってきました。こういうだるさがあるからこそ体を動かさなくてはなりませんね。体が軽くなりました。
携帯電話機がいよいよだめになりました。
たぶん、電池が劣化をして充電ができなくなったようです。
1,2回電話をすると電池補給の赤印が出てしまいます。
もう8年も使ってるからなぁ。。。。
というわけで携帯電話機を買いに行ったのですが、古い機種はもうありませんなぁ。。。。
基本使用料など聞いたのですがよくわからない。。。。とらえず、考えてくるからと帰ってきました。
考えるといってもどう得なのか、どのような基本料金にしたらよいのかまたくわからない。息子に聞いてみよう。。。
買い換えるとなると、今度はカメラが使える!!(ハハハ・・・古い電話機を使ってます)
携帯の写真はパソコンで使えるのでしょうか?
HPに写真を入れると重くなってしまうので、今、ブログを検討し始めています。名づけて「夕螺のメモ帳」
読んでいる本のページと重要点。ぶらり旅での写真など。。。。メモ程度のブログです。でも、こういうブログではみんな読んでくれないかな(笑)
HPを補完するブログ。。。。検討中です。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
今夜はブログからリンク。。。。
毎日を過ごしていると、ううう。。。んと考え込むような世の中の大きな出来事を思うときもありますが、ふと心に感じた瞬間という何気ないものが見えるときがあります。
この「ふとした瞬間」を感じたとき、時々今の気持ちは何なのだろ?と考えるときがあります。
その時「ああ。。。この気持ちは・・・・・」となんとなくわかったときの楽しさがあります。小さな小さな喜怒哀楽。
そんな気持ちが湧いたときにブログやホームページに詩的なものを書きたいな、少し笑えたり自嘲したりするものを書きたいなと思います。そういう瞬間を大切にしたいし、ブログというものの醍醐味かもしれません。
夏生さんの「つれづれノート」という日記エッセイがなぜ好きかとあらためて想うと、この「ふとした瞬間」の心の動きがあるということかなと思いました。「ふとした瞬間」ですからその時は整理されていない心そのものです。ですから時には読者にも反発されたりもするのでしょう。でも、僕は好きだなぁ。。。。
「ふとした瞬間」の俳句というのも好きです。というよりも俳句の楽しさもまたこの「ふとした瞬間」のゆららっとした微風のような心の動きにあるのかもしれません。この俳句的なものが川上弘美さんにあるのかもしれない。
好きな漱石やその弟子たち(特に寺田寅彦)にはこの俳諧趣味があります。時には滑稽を、時には皮肉を、時には自嘲も。
こう考えると、20代半ば頃から一つの流れに沿って読書をしてきたのかもしれない。文学だけではなく、いろいろな本の読み方も。。。。。だから一方では嫌いなものも激しい(笑)
このまま頑固に読書!(笑)

晴れて暖かい日差し。でも風は冷たくて。。。。。
春先独特な一日でした。
もう2週間もすれば桜の季節。蕾が大きくなっているかなと公園の桜の木を眺めています。我が家のベランダの鉢植えたちは、よく観察できるので目を近づけてみています。植物をいうのはゆっくりと変化すると想っていたのですが、その動きは早いものですね。枝や葉っぱの芽が出るというのは、そこには細胞分裂があるはず。その速度がすごいなぁ。。。と。
見にバラの枝が伸び始めて葉っぱがたくさん出てきました。アマリリスはまだ。。。。。。でも土の下で変化しているのでしょう。。。。

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
さっと朝日が射していた
出窓の結露の粒が
光っていたよ
柔らかい日差しが
粒子となって
花に降り注いでいたよ
僕は見つめていた
心の中で見つめていた
君は笑顔かなそれとも。。。
光の粒子がまぶしかった

【2011年】ツイッターつぶやき
政治的民主主義を考えた場合、その制度として政党を作る自由がありその政党を通して国民のあらゆる意見を国会で集約をして議論をして解決をしていくことが理想であり、国内に一党制しかなくあるいは個人による独裁政治は民主主義とはいえない。
しかし、これは制度的な問題である。もちろんこの制度的民主主義は守らねばならないが、。政治的民主主義は、上にも書いたように国民のそれぞれの意見が反映されることにある。これがあって多数政党を作る自由は機能する。
今のように保守二大政党という政権交代もある政治的自由と民主主義は生かされているようだが、中身を見ればその自由と民主主義は機能しなくなっている。二大保守政党の政権交代があるかどうかよりも、55年体制での自民党の圧倒的な数の力の中でも社会党を通じた労働運動や市民運動が保守に対立していた当時のほうが本来の意味での政治的自由と民主主義は維持されていたのではないだろうか?国民の意見は自民党を通しても提起され、一方社会党を通して提起された。それは階級闘争という面はあったが、主張の違いの中に互いに妥協した形での政策は決定された。今、この国民の一部(社会党が吸収していた国民の声)の声が届かなくなっている。だからこそ保守二大政党なわけです。
保守的な政策がどちらの政党が政権を握っても同じように現れる中に今の矛盾が噴出すわけです。
もちろん経済情勢が違うという見方もありますが、しかしその経済情勢そのものがまた保守政治による一方的な政策にあったとも考えられるのです。
民主党が一時国民生活第一として政権をとるまでになったのですが、中身を見れば今の状態です。何も55年体制復活ということは形はもうできないでしょうが、政治的民主主義の有り様は変化を求めています。それが社会民主主義でしょう。55年体制下の社会党も綱領的には社会主義でしたが現実の政策は社会民主主義でした。

【2012年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2013年】ツイッターつぶやき
アベノミクスにおいて2%という数字は「2%のインフレ」であったはずです。
しかしこのインフレ目標という言葉が最近隠れてきているのではないか。安倍総理は予算委員会で「2%の物価目標」という言葉を使ったようです。または安定的な物価という言葉も使われるようになった。次も日銀総裁かという黒田さんは、「2%の物価安定目標」という言葉を使ったようだ。
政府との約束をして「2%のインフレ目標」という言葉を今も使っているのは白川総裁だけではないか?
日銀の責任は「インフレ目標」の達成である。それは政府の責任でもある。
しかしこのインフレ目標という言葉を明確にしないで「物価目標」だとか「物価安定目標」などという言葉にすり替えることは卑怯でしょう。
誰が見たって「インフレ」と単なる「物価上昇」は違うのである。
インフレ目標というのは、経済全体の成長によりその成長が過熱して労働者の賃金も上がり市場の貨幣量が不足するような時期において日銀の貨幣発行量増加による貨幣価値の低下でしょう。そのために物価は上がる。
このインフレによる物価上昇と単なる物価上昇は違う。単なる物価上昇とは、今の経済情勢や経済政策に見た場合、政府と日銀の緩和政策による円安からの物価上昇です。そして火力発電の燃料が問題になっていることのような中での円安によるエネルギー価格の上昇による電力をはじめとした様々な商品への価格転嫁あるいは危惧されるのは便乗値上げなどです。これは明らかにインフレではなくて国民へのしわ寄せだけの人為的物価の値上がり以外のものではありません。
このインフレからの物価上昇と単なる物価上昇の違いを見て先の言葉を見てみると、インフレ目標という言葉を隠すという事によりいつの間にかインフレによる物価上昇を目指すのではなくて、円安などによる単なる物価の上昇を目指すという事にもつながる危険性があります。そして単なる物価上昇を2%のインフレ目標と見せかけたペテンが出てきます。そして2%のインフレ目標が達成されたから、株価や不動産のバブルが発生したから、これを景気の回復として判断するというひどいイカサマが出てきます。もちろんこれは消費増税実施の根拠にされてしまいます。
「2%のインフレ目標」と「2%の物価目標」という違いからどういう結果が出るか。。。。
国民生活は単なる円安の物価上昇に苦しみ、そこへ消費増税が襲ってくるという事です。もちろん単なる物価上昇が目的ですから賃上げの必要性は消えうせる。政府は賃上げに積極性を示さないわけですから相当ひどい国民生活となるでしょう。
この経済という下部構造の悪化に改憲などの上部構造がくっついてくる。。。。

【2014年】ツイッターつぶやき
利子率が上がらないのはインフレになっていないから。。。。悪性の物価上昇と緩和資金が死金だから?
インフレなら経済が好景気になっているのが前提ですから金利も上がり利子も上がる。しかし現在の物価高が経済の好調さのないところでの悪性の物価高ならばそれはインフレではないので金利も上がらないで利子も上がらない。これは商品市場での貨幣の必要額が少なくて済むし回転が悪いから銀行から高い金利で金を借りる必要性もない。
一方では現実に日銀の緩和の貨幣量は増大をしているのですからその金がどこに吹き溜まっているのか?
商品市場は最終的には大衆消費財に価値移転しなければならないし、その大衆消費財はもちろん一般大衆が消費をしなければならない。しかし先にも書いたようにこの一般大衆には懐の貨幣量が足りなくなっているの消費は伸びない。そうするとここには貨幣が金利を上げるほどにはインフレとはなっていない。結局は企業や投資そして富裕層の懐に緩和の貨幣は吹きだまっている。この金のだぶつきは株価の高騰やそこからの利益となりさらに企業や投資富裕層に吹き溜まり利益の拡大となる。
一方においての貨幣の吹き溜まりによる貨幣のインフレ状態と一般大衆の消費という商品市場の貨幣量の減少という側面でのデフレが起きる。
こういった経済状況もスタグフレーションといえるのでしょうか?

【2015年】
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
gooブログお題「好きな水木しげるの作品は?」
水木しげるの作品と言えば。。。。。
やはり『ゲゲゲの鬼太郎』と「悪魔くん」ですね。。。。
どちらも人の心の影を感じます。水木さんは戦争で片手を失っていますが、作品にはこの経験が出ているののではないでしょうか?
戦争はもちろん、今の時代のように敵をつくって戦争の準備をすることにより人の心も変わっていくと思います。すでにヘイトや国民間の分断も進んでいます。「反日」という言葉が不通に使われるようになってしまいました。心と心の触れ合いは話し合いから始まりますが、ヘイトや反日あるいはバカで議論をしなくなっています。
ヘイトや反日そしてバカの羅列が言論とされています。
このような社会においては人の心も劣化をしていきます。それは人の心の影を大きく膨らませるでしょう。表面上の「美しい」とか「正義」とかという言葉と裏腹に影が大きくなっていきます。
この心の影が妖怪という形に具現化されているのではないでしょうか?
水木さんの作品は、この妖怪が独り歩きをしてしまってその妖怪が人間に襲いかかってきます。
人が作り出した妖怪に人が苦しめられる。。。。今の社会です。
子供が小さいころ、古本屋さんに連れて行けと言われて付き合ったことがありました。
子供が本を探している間に僕も暇なのでコミック誌を眺めていました。
その中に「墓場の鬼太郎」がありました。
今はテレビで何となくかわいさすらある『ゲゲゲの鬼太郎』ですが、初期の作品はまるで違う世界です。どのように鬼太郎が誕生するか。。。。。母親の墓から鬼太郎が出てくるところは衝撃的です。
先日スカット何とかというテレビ番組を見ていたのですが、笑ってスカットなどしていられない時代になっていると感じます。ゲゲゲの鬼太郎の可愛さは子供の夢を壊さないように何も言いませんが、大人として何を底から見出すのかは忘れてはならないと思います。
日本は昔から八百万の神々(自然神)人を守ってきました。しかしその裏には神々の数ほどの妖怪が出てきてしまっている。下手をすればその妖怪を信仰してしまう勘違いが出るかもしれない。

【2018年】ツイッターつぶやき
福島原発の事故からもうすぐ7年ですね。
凍土壁による汚染水の解決は無理かもしれません。凍土壁の効果に疑問符が出ているようです。
今でも海に気が遠くなる核物質が流れているのでしょうか。
車や飛行機の事故は一周の時間の中で終わります。もちろん事故の処理は必要ですが。しかし原発事故は事故自体が7年間も続いているという事が出来るかもしれません。それは核物質は消えないからです。
原発事故さえなければ。。。。。
テレビや新聞などを見ているとこう強く感じます。
「死の町」発言で民主党政権時代人大臣が辞任しましたが、7年たっても人が住めない町があります。帰還してもよいといわれても多くの若い人は帰らない。自主避難の方の生活が今後どうなっていくのかという問題もあります。
食料などの安全基準は核汚染時の緊急の基準ではないでしょうか?その意味でも原発事故は7年たった今も続いているのです。
太陽光などの自然エネルギーへの経済的理由が言われてすすみませんが、その中で原発の再稼働が続いています。原発の電力は安い?結果は事故の終息や廃炉を考えればとんでもない費用が。それは国民あるいは消費者に回ってきます。
あらためて脱原発を考えないといけないです。

【2019年】ツイッターつぶやき
今日3月8日は国際婦人デーです。
朝、昼のワイドショーや夕方のニュースも見ていますが、国際婦人デーに関するものはありませんね。
アメリカでの婦人参政権運動から始ったようですが、これは日本にも広がって参政権を要求しました。今では選挙に女性も行けることは当たり前になっていますが、では女性が平等に扱われているかといえばそうではないでしょう。生涯賃金は男女格差がひどいですね。セクハラがあまり問題視されないし。。。。。社会の隅々で女性は損をしていることがたくさんあるでしょう。
選挙には参加できる!と喜んでいる場合ではなくて、社会の中においての女性の立場は先進国では最下位といわれています。
中国では3月8日は女性は半日で仕事は終わるそうです。
ロシアやベトナムという旧社会主義国では大きな取り組みがあるようです。
日本でも労働運動が強かった時代には国際婦人デーには大きな集会などもありました。
女性の解放は右派がないがしろにして左派が強く求めます。
なぜかといえば女性の解放が男の解放にもつながるからです。
保守思想の中では女性の敵が女性だとなることがあります。
女性の解放は保守思想や保守社会を変えていく運動でもあります。

【2020年】>ツイッターつぶやき
学校の休校が行われてしまいましたが、これについてはこのブログでは子供たちの健康が守られるのか、そして子供たちが外遊びをすることになぜ批判が必要かを書いてきました。
政府は休校を取り消すことはしないでしょう。
しかしせめて子供たちが外で体を動かすことを見守るぐらいはしなければならないでしょう。
公園で子供たちが体を動かすことは大切です。
子供たちの成長や免疫力のためには太陽の光が必要です。
公園での子供たちの見守りに不安があるならば、学校の校庭を開放すべきですね。公邸に入るときは手の消毒と検温を先生が行えばいいだけです。都庁で入庁者全員を検温器で検温をしていますが、同じものを各学校に置けばいい。
そして給食も感染防止の工夫をしながら子供達に食べさせるべきです。
親の弁当やコンビニ弁当もうまいですが、給食の暖かさが子供達には必要です。
子供を公的な学校から切り離して自助として家庭に押し込めるのではなく、公助として子供たちを守る工夫が必要でしょう。

3月8日は「国際女性デー」です。
安倍政権でも女性の自立や経済的貧困そして社会進出は貧弱なものになりました。
シングルマザーや離婚後の老後生活。多くの経済的な苦しみがあります。
しかしこういう女性がおかれている実態を「男社会だから」という視点だけで見てはいけないし男と女の対決という視点で見ることは大間違いです。
女性の解放は労働者の開放でなければなりません。
夫に家事の分担を求めても朝のゴミ出しぐらいというのはよく聞きますね。
男が長時間労働で深夜まで仕事では家事の分担はできないでしょう。この労働者としての労働時間の問題と経済的問題を解決していかないと家事の分担もうまくいかないでしょう。
昔は国際婦人デーは労働組合運動と深く結びついていました。
女性が低賃金で働き寿退社するという安い労働力を掘っておけば男の低賃金も解決されないし、労働時間の短縮をしないと家庭生活が成り立たなくなります。そして少子化問題も解決できない。
女性の解放は労働者階級の解放につながります。

【2021年】ツイッターつぶやき
NHKを見ていたら、女性の地位の現状はお寒いようである。
そもそも国際女性デーという言葉がテレビを観ていても出てこない。
森さんの件もあり忖度しているのでしょうか。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
経済のグローバル化。
政治の保護主義。。。。。。
アメリカが保護主義に動き自国の国益のために動くことが多くなっている。
それは対中国との経済摩擦でもあり、中東での国益の戦争に現れている。
そこにNATOや日本との安保が組み込まれ同盟国が形成される。
しかしアメリカとその同盟国は条件的に違いすぎる。
ロシアに対する経済制裁ではロシアからの輸入禁止が言われるが、すでにヨーロッパは天然ガスや石油はロシアとの関係なくして経済の影響は大きくなるし、脱原発もすすまなくなる。
これは日本も同じではないか。
政治軍事の保護主義や同盟化に対して経済はグローバル化を深める。
日本も含めヨーロッパや各コムもアメリカに付き合いきれなくなる時期が来るのではないか。
これは戦争の危険性を産むかもしれない。

【2023年】ツイッターつぶやき
温州ミカンは終わりましたが、スーパーにはいろいろな柑橘類が並んでいます。
そろそろ伊予柑は終わりかな。ハッサク、デコポン、不知火、見たことのない大きな蜜柑。。。。。。
そうそう、キンカンもありますね。
伊予柑は粒の袋がペロンときれいに取れるので味も含めて好きです。
デコポンと不知火は産地が違うだけで同じかな?粒の袋の外側が柔らかいので温州ミカンと同じように食えるので味も含めて好きです。
キンカンもうまいですなぁ。。。。。

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