先日の、「印象バトン-ゴンザバージョン-」で、ゴンザは私と出会った頃の印象に、「会話が上手」と書いてくれた。
が、私は会話というものを非常に苦手としているということを、ここで言わないわけにはいくまい。
実は、対人恐怖症で、思うように気の利いた言葉が出てこず、話したいことを頭の中でぐるぐる回して会話をしているうちに、自分が何を言わんとしていたのかわからなくなり、いつも空回りで終わってしまうということを.....。
そして、その反動が、ここで言葉をこねくり回し、書き散らかす行為に代わっているのだということも、お詫びかたがた言っておく必要がある。
そして。
それもやはり思うようにいかなくて、自分が好き勝手に書いている文の真意がどこにあるのか、自分でもよくわかっていないのだということも.....。
複雑な言語である日本語は、よ~く気をつけて扱わねばならない、危険な両刃の剣のようなものだから、人は皆、毎日を生きていくうちに、人の言葉に傷つき、傷つけ、それが危険なものだと気付いてゆくのである。
実は。
私の母は、人を傷つける言葉ばかりを使う。
「私は人を傷つけるような人間が大嫌いだ」
と言いながら、平気で家族を傷つけてゆく。
だから私は、自分が傷ついたぶん、言葉を恐れ、慎重にならざるを得ない。
弾丸のようにしゃべりまくりながら、言葉を書き散らかしながら、その実、言葉に、会話に怯えているのだ。
昨年のこと。
祖母を温泉へ連れて行こうと、妹と共に下調べをし、母と弟とゴンザを誘って旅行に行った。
吟味に吟味を重ねて選んだ宿は、素晴らしいサービスを提供してくれ、その驚くような値段の手軽さと共に、みんな大満足のはずだった。
しかし、旅行から帰って数ヵ月後。
母はこんなことを言い出した。
「このあいだTVで見たんだけど、今は安くて料理もいいホテルがいっぱいあるんだね。お前らが探してきたホテルなんかより全然そっちのほうがよかったよ。あそこは別に、それほど良くもなかったよ」
と。
私は、
「人が一生懸命探してきたものを、そんな言い方するもんじゃないよ」
と、言ったけれど、彼女がそれを理解する事はきっと一生ないだろう。
そして、私が彼女の意見を聞き入れることも。
しかし。
もしその母の言った事と同じ意のことを、違う言葉で言われたならどうだろう。
「あの時は楽しかったね。宿も良かったし、食事も美味しかったし。ああ、そういえば、この間TVで見たんだけど、他にも良い宿がいっぱい出てたよ。この間の宿も良かったけど、また趣向を変えて、そっちの方に行ってみるのも面白そうじゃない?」
上の文と下の文。
意味はほとんど同じなのに、聞く者が受ける印象は全然違う。
言葉とは.....そんなものである。
だから私はそれを恐れ、それを愛し、それに対する興味をかきたてられ、憧れ、身の程も知らずに書き散らかし、しゃべりまくるのだと思う。
そこにまた、誰かを傷つけている可能性があるのかもしれないと慄きながら。
けれど。
言葉には、危険が伴いながらも人を魅了してやまない奥深さもある。
だから.....。
以前書いた「そのひと言で救われる」ではないが、逆に、そのひと言が、誰かを、何かを壊してしまう可能性もあるのだということを肝に銘じながらも、人は言葉に向き合っていかねばならないのである。
皆.....一人では生きてゆけないから。
ま、要は私が小心者だって話なんだけどね。
が、私は会話というものを非常に苦手としているということを、ここで言わないわけにはいくまい。
実は、対人恐怖症で、思うように気の利いた言葉が出てこず、話したいことを頭の中でぐるぐる回して会話をしているうちに、自分が何を言わんとしていたのかわからなくなり、いつも空回りで終わってしまうということを.....。
そして、その反動が、ここで言葉をこねくり回し、書き散らかす行為に代わっているのだということも、お詫びかたがた言っておく必要がある。
そして。
それもやはり思うようにいかなくて、自分が好き勝手に書いている文の真意がどこにあるのか、自分でもよくわかっていないのだということも.....。
複雑な言語である日本語は、よ~く気をつけて扱わねばならない、危険な両刃の剣のようなものだから、人は皆、毎日を生きていくうちに、人の言葉に傷つき、傷つけ、それが危険なものだと気付いてゆくのである。
実は。
私の母は、人を傷つける言葉ばかりを使う。
「私は人を傷つけるような人間が大嫌いだ」
と言いながら、平気で家族を傷つけてゆく。
だから私は、自分が傷ついたぶん、言葉を恐れ、慎重にならざるを得ない。
弾丸のようにしゃべりまくりながら、言葉を書き散らかしながら、その実、言葉に、会話に怯えているのだ。
昨年のこと。
祖母を温泉へ連れて行こうと、妹と共に下調べをし、母と弟とゴンザを誘って旅行に行った。
吟味に吟味を重ねて選んだ宿は、素晴らしいサービスを提供してくれ、その驚くような値段の手軽さと共に、みんな大満足のはずだった。
しかし、旅行から帰って数ヵ月後。
母はこんなことを言い出した。
「このあいだTVで見たんだけど、今は安くて料理もいいホテルがいっぱいあるんだね。お前らが探してきたホテルなんかより全然そっちのほうがよかったよ。あそこは別に、それほど良くもなかったよ」
と。
私は、
「人が一生懸命探してきたものを、そんな言い方するもんじゃないよ」
と、言ったけれど、彼女がそれを理解する事はきっと一生ないだろう。
そして、私が彼女の意見を聞き入れることも。
しかし。
もしその母の言った事と同じ意のことを、違う言葉で言われたならどうだろう。
「あの時は楽しかったね。宿も良かったし、食事も美味しかったし。ああ、そういえば、この間TVで見たんだけど、他にも良い宿がいっぱい出てたよ。この間の宿も良かったけど、また趣向を変えて、そっちの方に行ってみるのも面白そうじゃない?」
上の文と下の文。
意味はほとんど同じなのに、聞く者が受ける印象は全然違う。
言葉とは.....そんなものである。
だから私はそれを恐れ、それを愛し、それに対する興味をかきたてられ、憧れ、身の程も知らずに書き散らかし、しゃべりまくるのだと思う。
そこにまた、誰かを傷つけている可能性があるのかもしれないと慄きながら。
けれど。
言葉には、危険が伴いながらも人を魅了してやまない奥深さもある。
だから.....。
以前書いた「そのひと言で救われる」ではないが、逆に、そのひと言が、誰かを、何かを壊してしまう可能性もあるのだということを肝に銘じながらも、人は言葉に向き合っていかねばならないのである。
皆.....一人では生きてゆけないから。
ま、要は私が小心者だって話なんだけどね。