3月13日は、ちびくんの二度目の命日だった。
彼が旅立った、あの小雪のちらつく日から、もう二年。
ちびくんは相変わらず、ソファの定位置にいるが、
彼の小さな骨壷のカバーは、私たちに毎日撫で回されるせいで、
すっかり汚れてきてしまった。
今朝はあの日と正反対のいいお天気で.....
東の空には、ちびくんのまあるい頭とそっくりな、
まあるいまあるい朝陽が昇っていた。
『その時間』が過ぎたら、私たちは家を出て、
ちびくんの供養のために新しく建ててもらった卒塔婆と、
彼を見守って下さる延命地蔵尊にお参りしようと、
霊園へと向かうことが決まっていた。
車に乗り込めば、その窓には、
まるで春本番を思わせるような、強い陽射しがふりそそぎ、
霊園に着けば、以前と変わらず、敷地内で暮らす猫たちが、
のんびり、フレンドリーに迎えてくれる。
立派な供養塔の周囲には、ちびくんと同じように旅立っていった、
誰かの愛する大切な家族の卒塔婆が無数にならび、
そのどれにも、心からの愛情をこめてつけたのであろう、名前が記されている。
名前の上には、動物の種類も記されており.....
『愛犬』『愛猫』『愛ハムスター』『愛山羊』『愛アヒル』.....『愛うなぎ』まで。
動物の種類や大きさは違えど、そこにはみな、同じ思いがこめられている。
「どうか安らかでありますように」
「そしてまた、いつか一緒に暮らせますように」
それはきっと、旅立ちから、どれほど時間が経とうと変わらない。
私たちは、たくさんある中からちびくんのための卒塔婆を探し出すと、
そのすぐ側にある卒塔婆に『23年忌』の文字があるのを見つけ、思いを強くした。
「このワンちゃん。23年。毎年ご供養してもらってるんだね」
「そうだね。どれだけ経っても気持ちは変わらないもんね」
ゴンザは祈ったのち、遠くに目をやり.....
そこへ今日も、誰かの家族が旅立つために抱かれてやってきたのを見つけ、
堪えきれずに泣き出した。
お友達の猫ちゃんも近所の深大寺に眠っています。
お友達が言ってました「いなちゃん お彼岸とかお盆とかね、たくさんの人がお参りに来るんだよ。もしかしたら、人間のお墓参りより来てるかもしれないよ。」
九太郎を飼う前だったら、「まっさかぁ~」って笑い飛ばしていたかもしれない。 今は、素直にうなずけます。
ちびくん いつでも傍にいるんだね。 合掌
相棒やGONZAさんが忘れない限り、ちびくんは生きていると思う。
本当の別れは、忘れてしまったときだから。
こちらでは、動物霊園のようなものがないので、
ゴンが逝った時は、それまで飼ってたすべてのペットとおなじように、近くの河川敷に父と一緒に埋めた。
その河川敷は、とても広々してて気持ちよくて、
何かの行事があれば、人で賑わう。
そして何より、川を挟んで向こう側に
ゴンが13年暮らした町や家が見える。
「ここだったら、寂しくない」
と、父はそう言って、ゴンを土に帰した。
今でもその河川敷の横を通る度に、
川にかかった橋を渡る度に、
ゴンや、ゴンよりも前に逝ったかけがえのない家族を思い出すよ。
もちろん、その後私のもとから、あっけなく去ってしまった父のことも。
そして必ず、「寂しくない、覚えてるから」と
心の中でつぶやくんだ。
ずっとずっと忘れられない、かけがえのない存在との出逢い。
それだけでも、「ああ、生まれてきてよかった」と、最近よく思うんだよ。
オレたちの生きている意味を考えるとき、
相棒やGONZAさんにとってのちびくんや、
オレにとってのゴンは、逝ってしまってもなお、
大きな役割を果たしてくれてるんだなあ。
だからちびくんはいつでもそばにいるよ。心の中にもいる。
家の中にも、そこここのちびくんの居場所があるしね。
死んでも、この世に姿がなくなっても、なお家族。
縁あって家族になったんだもの。忘れることなんてないんだなって私も思う。
本当ならば10年は生きられるかもしれないのにたったの4ヶ月で命を落とした我が家で飼っていた魚の1匹、小豆(こまめ)は、やはりここならば淋しくない、自然を感じられるだろうと思い、多摩川のほとりに流れる小川の側に生えた大樹の下に埋めたの。
何度もお墓参りに行ったし、引越しの時も業者が荷物を持っていった後に最後に小豆のところに挨拶に行った。
「しばらく離れるよ。ここで待っててね」って。
私たちが思う限り、心にその存在を感じる限り、きっとみんな側にいてくれる。
ちびちゃん、幸せですね
小さいころから、何匹もいろんなペットを見送りましたが、いつかまた、出会えると思っています。
そして、どんなに私がおばあちゃんになっていても、すぐにわかってくれるでしょう
いつか、一緒に遊べる日まで、のんびりお昼寝していてね
ちびくんも3月だったね。
偶然1日違いで天国へ旅立った子があちらでこちらで
こうやって愛おしく愛おしく偲ばれる。
思いはいつまでもかわらない。
ちびくんはとっても幸せものだよ。
そしてerimaさんとゴンザさんも(^^)
以前にもどこかで書いたのですが、誰かが言った、こんな言葉が思い出されます。
「一匹の動物も愛したことがない人は、人生の喜びの半分を知らないに等しい」。
それが本当であることは、いなひこ様のお友達がおっしゃるように、霊園へ行くとよくわかります。
人間の霊園よりも、多くの花に彩られ、たくさんの人たちが行き交うペット霊園。
家族より身近に寄り添ってくれ、一点の曇りもないその愛情は、私たちに多くのものを教えてくれるのですね。
その姿は今は見えないけれど、私たちの中にはいつもちびくんがいる。
いなひこ様、ありがとうございます。
そして九太郎ちゃん、いつまでもいつまでも元気で長生きしてね!
そういえば昔は犬や猫が亡くなると、どこか広く見晴らしのいい場所に埋めて「天国へ行っても、ここで元気に走り回れますように」と願ったものだった。
今は状況が許さなくなって、霊園というものが登場することになったが、これもまた、お友達がいっぱいで、寂しくないかなぁと思う。
墓地に埋葬することを選ぶ人。
遺骨を連れ帰り、いつか一緒の墓に眠ることを願う人。
その供養のスタイルも様々になって、これはもう、いかに小さな体の物言わぬ彼らが、人間にとって大きな存在なのかって、それを物語っていると思う。
俺はさ。
自分がちびくんに会えたことにも大きく感謝してるが、ゴンザがちびくんに会えたことが、自分のこと以上に本当によかったなぁと。
そう思うんだ。
ちびくんにとってもそれは素晴らしい出会いで、俺はちびくんとゴンザが出会う架け橋となれただけでももう幸せだなぁと。
ちびくんはゴンザと会ってはじめて、自分を解放することが出来たと思うから。
ちびくんのこの綺麗な瞳は、人を見つめる時、小刻みに左右に動く。
それはいつも控えめで、自分を表現するのが苦手な彼の心そのものを映していたと思うんだが、ゴンザにだけは違った。
相棒にとってのゴンちゃんが運命の猫だったように、ゴンザにとってもちびくんは運命の猫で(もちろん俺にとっても)、ちびくんにとってはゴンザが運命の人だったんだ。
だから、きっとちびくんも「生まれてきてよかった」と、そう思ってくれているんじゃないかな。
大好きなハムを毎日のように食べて、運命の人と出会えて、17年9ヶ月の猫生。
ちびくんは高いところすら登れないのんびり坊っちゃんだったけど、やっぱり大物だったと思うよ。
人生というのは多くの出会いで出来ているが、相棒の言うとおり、俺たちにとっての愛する猫との出会いは、その根幹をなすような大きく素晴らしいもので、これ以上の幸せはない。
相棒、ありがとうな。
今もあまりに私たちが撫で回したり話しかけたりするので、もしかするとちびくんは「ボク迷惑~」って言ってるかも(笑)
彼の定位置はどうしても動かすことが出来ないし、ホントはソファ自体もボロボロなのに、買い換えることが出来ない。
本当にちびくんは今も一緒に暮らしているんだと思う。
ちびくんとの出会いや、ゴンザとの出会いは本当に説明がつかないほどの運命の力に引っ張られて繋がっていて、それは、やはり同じくどの家族にも共通しているんだと思う。
出会って互いにかけがえのない存在と思えることは、人にとっても、また動物にとっても、これ以上ない素晴らしいことだと思う。
だから小豆ちゃんも待っててくれるね。
まきまき様、ありがとう。
こちらこそ、コメントありがとうございます♪
リコ様はたくさんの動物たちと暮らしてこられたのですね。
出会いも別れも、何度経験してもどれひとつとして同じものはなく、すべて大切な大切なものですが、やはりどれだけ時間が経っても、『家族』の顔は忘れませんね。
もしかすると今も彼らは私たちのそばで遊んでいてくれるのかも。
どこにいても、家族はいつも一緒、ですね!
そうでしたか...
そのマルチーちゃんは、ちびくんと一日違いで旅立ったのですね。
もしかしたら、お空に行く途中でお友達になれたでしょうか。
そのマルチーちゃんも、とっても愛されて旅立っていったのですね。
過ごした時間や出会った経緯は違っても、本当に思いは同じ。
旅立ってから、どれだけ経とうとも、思いは同じ、ですよね。
家族だから。
命日には、彼の大好物のハムを山盛りお供えして、いつも以上にぐりぐりと撫で回してしまいましたが、ちびくん。
喜んでいてくれるかなぁ。
それとも、「やめろぉ~!ボクしつこいのキライ~」と言ってるでしょうか(笑)
じゅりりん様、いつもありがとうございます。