教育改革 子どもを「人材」とみるか?「人間」と捉えるか?
子どもを持つ保護者は、誰しも今のままの学校でいいとは思っていない。教育改革が必要だと考えている。それは現場の教員とて、教育行政とて同じだ。しかし、学校からすでに縁遠くなった多くの市民にとっては、教育は漠然とした問題でしかない。自らの体験や子どものことを振り返れば実に様々な意見が出てくる。それはそれとして大事なのだが、まったく対極的な意見も多い。政治家にとっても教育は魅力的な「題材」かもしれない。誤解を恐れずに言えば、批判さえすれば一応の政策らしきものに見えてくる。まさに百家争鳴。世の中からはいろんな声が聞こえてくる。ところが、議論はかみあわない。立場がそれぞれ異なることもその一因であろう。親の立場、子どもの立場、教員の立場、行政の立場、企業トップの立場、労働者の立場、政治家の立場、塾など教育産業に携わる立場等々。あからさまに言えば、教育における「利害」が異なるのだから、そりゃあ、そう簡単に結論なんて出て来ない。
では、いったい何を軸にして教育を、教育改革を考えればいいのだろうか?
3月3日NHKクローズアップ現代「教育現場の“閉鎖性”を変える?~大阪・教育改革の波紋~」を観たとき、中原教育長が進めようとしている教育改革に違和感があった。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3470_all.html
そして、昨日、前から観たいと思っていた関西テレビザ・ドキュメント「みんなの学校」をようやく観ることができた。評判通り、いろいろと考えさえられる内容であった。
http://www.ktv.jp/document/cq50ge000001mjlu.html
前者は教育行政を主軸とした教育改革を描き、後者は大空小学校の教育実践いわば学校現場のルポである。そもそも視点が異なるのだから一概に比較することはできない。しかし、映像から感じる、この違いは何だろうと考えた。そこへ、昨夕は、報道特集でも特集「官民一体型小学校その是非」を観た。佐賀県武雄市の学習塾と提携した新たな公立小学校創設に向けての取り組みがおもに政治・行政主導のこれまでにない改革として紹介されていた。
三本の公教育を題材とした番組を観て、当初の違和感がはっきりしてきた。それは、子ども観の違いである。大阪府教委中原教育長は、実際に府立高校を視察し高校生に質問すし、そして府立高校改革を進めていく。改革の旗手であることは間違いない。しかし、それは、子どもを「対象」と見たうえで、合理的に子どもを「分けて」教育する改革である。なぜ「分けて」教育を行うのか。子どもを「人材」として見ると、その方が合理的であるからだ。佐賀県武雄市長の教育改革も、どこもやらないことをうちがやると熱意はわかるが、地域住民すら戸惑うような小学校改革を政治力で一方的に進めようとするところに違和感があった。ここには子どもを「人材」としてみると同時に、市長にとっては学校そのものも政治改革の題材なのかもしれないと思えてくる。
さて、「みんなの学校」大空小学校では、いろんな問題が起こる。子ども同士、子どもと教員、きっと現実はもっともっといろんな問題が起こっているだろう。その都度、教員は奔る。校長はベテラン教員でもある。若手教員にかかわる。むろん子どもにかかわる。職員も地域もかかわる。それは決してマニュアル通りというわけではなく、生きた子どもとのかかわり合いのなかから、言葉や行動が生まれてくる。校長には、これまでいろんな子どもたちと接し対話をしてきたところから培われて来た子どもへの愛情が根底にある。そしてなにより、そこは一方通行で教員が子どもを「教える」場ではないこと。子どもたちは学び合う。子どもだけではなく、校長さえ、時には子どもの確かな感性に驚き、そして感動する。つまり大空小学校では、常に、それが教員であれ子どもであれ、人間と人間の双方向性の関わり合いがあり、その根底には人間に対する信頼がある。観ていてそれが伝わってくる。
教育に対する思いや要望は人さまざまである。厳しい躾を望む声もあれば、子どもの自主性にできるだけ任せたいという人もいる。しかし、どちらにせよ、人への信頼が根底になければ、子どもは育まれていかないのではないだろうか。三本の番組を比較すれば、学校現場と教育行政という立場の違いがあるにしても、中原教育長や佐賀県武雄市市長は、子どもを対象として見、社会の「人材」として育てていくには、という発想から出発しているように思えた。つまり一方通行のベクトルしかそこにはない。それは政治主導あるいは行政主導の教育改革であり、トップダウンで行われる。合理的でさえある。しかし、そのとき、大空小学校のような一人ひとりが作る学校の可能性は消えざるを得ないのではないだろうか。子どもらがかかわり合うなかで思いもかけないものが生まれ、失敗したり感動したりの世界は政治主導・行政主導の教育改革とは対極だ。子どもたちは「人材」ではなく、どの子も一人ひとり果てしない可能性を秘めた人間であり、教員でさえ、一方方向に子どもを導くことはできないだろう。対話が生まれるには信頼がベースになければならない。子どもが育まれていくときに最も大事なことは人間への信頼感かもしれないと思った。
かつて先輩教員から聞いた言葉「子どもから学ぶことがなかったら、この仕事(教師という仕事)はやっていかれへん」。教育改革において、子どもを信じず、教師を信じずトップダウンで子どもを合理的に「人材」として育む方法をいくら求めてもうまくはいかない。なぜなら、子どもは単なる「人材」ではないのだから。政治や行政がなすべきことは、子どもを信じ、教師を信じ、双方向のかかわりを学校に構造的に保障すること。そうすれば、学校は思考錯誤のなか、子どもや教員は悩みながらも考えていくことだろう。それはそう難しことではない。むしろ容易いことかもしれない。しかし、それが教育という営みの原点ではないだろうか。