昨日の「君が代」処分撤回・解雇阻止12・14集会で、中島光孝弁護士から憲法19条が保障する「良心」の自由について、ひじょうに示唆に富むお話をお伺いすることができました。本日、そのレジュメを送っていただきましたので、ここに掲載します。
「君が代」強制が『良心』を侵害する
2013年12月14日 弁護士中島光孝
1 「君が代」の起立斉唱拒否にかかわる一連の最高裁判決*[1]は,いずれも校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に反しないとした。しかし,これら判決は「良心」の内容やなにが「良心」に対する侵害なのかについて適切に把握しているとはいえないのではないか。そこで,最近の笹倉秀夫早稲田大学教授の「良心について-憲法19条をめぐる考察」(『労働法と現代法の理論 西谷敏先生古稀記念論集上』所収)を参考に,「君が代」が『良心』を侵害するということの意味を整理しておきたい。また,「戦争と『日の丸・君が代』に反対する労働者連絡会・豊中・北摂」等主催の12.14集会における意見等をふまえることとする。
2 思想及び良心の自由に対する「間接的な制約」であっても違憲ではないとする論理
(1)最判2011年5月30日は,「都立高等学校の教諭であった上告人が,卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること(以下「起立斉唱行為」という。)を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったところ,その後,定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員及び常時勤務を要する職又は短時間勤務の職の採用選考において,東京都教育委員会(以下「都教委」という。)から,上記不起立行為が職務命令違反等に当たることを理由に不合格とされたため,上記職務命令は憲法19条に違反し,上告人を不合格としたことは違法であるなどと主張して,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償等を求めている事案である。」
国歌斉唱の際に起立しなかったという外部的行為が不合格の理由となっている。
(2)判決は,起立斉唱行為は,「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり,「日の丸」や「君が代」に対し敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある(引用者注:敬意の表明を要求することが思想及び良心の自由に対する制約であることは認めている)ことは否定し難い」とする。
続いて,判決は,間接的な制約が許容されるかどうかをどのように判断するかという判断枠組みについて判示する。
すなわち,「このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがある(引用者注:内心と外部的行動を分けて考える発想が現れている。外部的行動が「社会一般の規範等」と抵触することを前提としていることに注意)ところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である(引用者注:このような「総合的な較量」は憲法が有する規範力を弱める方向にも働く)。」
そして,判決は,「職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」とし,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないとするのである。
3 「良心」と「思想,信念等」の同視,混同
(1)最判2011年5月30日は,前記のとおり,内心が外部的行動として現れ,それが「社会一般の規範等」と抵触する場面では,当該外部的行動は制限を受けることがあるとする。これは,「良心」と「思想,信念等」を同視ないし混同しているからではないか。
(2)良心と信念等
ア 判決は,上告人の主張は「日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人,在日中国人の生徒に対し,「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての良心が許さない*[2]。」ということであるとする。
続いて,判決は,「このような考えは,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。」とまとめる。
ここでは,上告人の主張する「良心」が「信念等」に置き換えられている。判決は「良心」と「信念」を同視しているが,これは「良心」と「思想,信条等」を区別する後述の立場からすれば「混同」していると評すべきものである。
イ 良心と思想・信仰・信条・信念等と意味及び関係
良心とは,自分の思想・信仰・信条・信念や道徳感情に照らして,ある行為をしてよいか,してはいけないかを判断し,その結論によって意志を方向づける,心の中の判断器官,すなわち〈自己の内なる裁判官〉*[3]である。したがって,良心の自由とは各人が自分の良心の命じるところをおこなう自由である。
良心が作用する際に判断基準を提供するものが思想・信仰・信条・信念や道徳感情である。
良心は,古来「共同知」だとされ,社会的に形成されるものであり,その意味で客観性を有する。しかし,良心の命令に従うかどうかは各人に委ねられている個人的なものであり,孤独な判断行為である。各人はたとえ他人が見ていなくても,自分の良心の命令によって行為する*[4]。
ウ 良心の自由はなぜ侵害されてはならないか
ある教師Xが,「君が代」斉唱時に起立斉唱を求められた。その教師Xは,ある理由から起立斉唱行為をしてはならないという思想,信条等の行為準則をもっていた。Xの良心は,Xの思想,信念等に照らし,Xに対し起立斉唱行為をしてはならないと命じている。
このような場面に遭遇した教師Xは,X自身の良心の命令に従うか,あるいは外部からの要求(職務命令)に従い起立斉唱行為を行うかという,良心の葛藤が生ずる。良心の葛藤の結果,良心の命令に従った場合でも良心の葛藤という精神的苦痛を受けた事実はなくならない。また,外部からの要求に従ってしまった場合には,良心に従わなかったという良心の呵責が生じ,精神的苦痛はさらに増す。
良心の葛藤,良心の呵責は,自己の人格にかかわる重大なものであり,場合により心身の変調,人格の崩壊をもたらす。このような場面をあらかじめ回避しようとするものが憲法19条が保障する良心の自由である。
良心を内面だけにとどまるものとし,その外部的行為が社会一般の規範等に抵触する場合は,当該外部的行為も制約される場合があるとする最高裁判決の論理は,「思想,信条等」とは異なる「良心」の意味,その機能を正確に捉えていない。
エ 一般的な考え方
最高裁の上記論理は,「思想」と「良心」を区別しない一般的な考え方にも影響されている。
憲法19条は「思想・良心の自由」を保障する。一般的に,内心のうち倫理的・主観的な性格のものが良心であり,それ以外のもの,つまり論理的・客観的な性格のものが思想とされる。両者を明確に区別することは不可能で,また憲法解釈上の実益もない,とされる。このような考え方からすると,思想も良心も内心に止まっている限り,侵害されないことになってしまう。
最判2011年5月30日は,「しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作*[5]としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない(引用者注:起立斉唱行為は内心の自由を侵害しないという発想)。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない(引用者注:起立斉唱行為の命令は内心の自由を侵害しないという発想)。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」としている。
上記下線部分は,思想も良心も同じものとみる立場からの発想である。思想も良心も内心にとどまる限り,これを外部から否定したり,外部から特定の思想を持つことなどを強制することはできない。「内心」にある歴史観,世界観,思想,信仰,信条,信念などは,内心にある限り,これを保持することは可能であるしている*[6]。 しかし,「良心」は,思想,信条等の判断基準や行為準則に照らして,ある行為を行うか行わないかを決定し命令するものである。したがって,良心が内心にとどまることは本来ありえない。良心の命令が外部的行動に現れるからこそ,良心の過重な葛藤や良心の過重な呵責を回避するため,憲法19条は思想とは別に「良心」の自由を保障している。
4 思想・信仰・信条等のあぶり出し
(1)戦前・戦中には,天皇の像,教育勅語,皇居,伊勢神宮を拝する集団行為が強制された。軍隊では,わざと捕虜や非戦闘員を殺害する命令が発せられた。これらの強制や命令は直接的には集団の志気を高め,精神をその方向に形成させるものであったが,間接的には,その対応ぶりをみて,「要注意人物」の思想・信仰・信条をあぶり出すことであった。これらの強制や命令は,良心の葛藤や良心の呵責を生じさせ,精神的・肉体的苦痛をもたらした。
(2)現代にも同様のあぶり出しが始まっている。首長や教育委員会が,起立斉唱行為を公立学校の教師に命令し,さらに児童生徒や親に対しても同調を強要している。これらの命令もその対応ぶりをみて,思想・信仰・信条をあぶり出し,かつ,職務命令違反として処分し,再任用しない。このあぶり出しは,良心の働きを効果的に利用した卑劣な手段である。自分の良心は,自分の教師としての思想・信仰・信条に従い,起立しないことを自分に命ずる。起立斉唱行為を要求する職務命令は,自分の良心の命令に従う教師の思想・信仰・信条を次々とあぶり出す*[7]。あぶり出しを回避しようとすれば,自分の良心の命令に逆らうほかない。そこに良心の過重な葛藤と良心の過重な呵責が生ずる。
憲法19条は良心の働きに対する制約を禁止している。「君が代」強制が「良心」の働きを妨害するものであることを改めて主張しなければならない。
[1]* ①2007年2月27日最高裁判決(ピアノ伴奏拒否訴訟),②2011年5月30日最高裁第2小法廷判決(須藤正彦裁判長),③2011年6月6日最高裁第1小法廷判決(白木勇裁判長),④2011年6月14日最高裁第3小法廷判決(田原睦夫裁判長),⑤2011年6月21日最高裁第3小法廷判決(大谷剛彦裁判長)
[2]* 「教師としての良心」と「人間としての良心」のずれあるいは対立する場面もあるのではないか。
[3]* 〈自己の内なる裁判官〉は比喩的な表現である。思想等が判断基準ないし行動準則であり,これに照らして自己の行動を決定するものが自己の「良心」である。決定するという側面をとらえて「裁判官」という比喩を使っている。「ウソはつきたくない」という信条を持っている人が,具体的な場面で「ウソをいう」ことを迫られる場面に遭遇したとき,「ウソをつくな」と決定し,命令するものが自分の「良心」である。「ウソはつきたくない」という信条が強ければ強いほど,上記のような場面に遭遇したとき葛藤が強くなる。信条に反してウソをついてしまった場合には良心の過重な呵責が生じることになる。ハンナ・アーレントが「小心者で取るに足らない役人」として描いたホロコーストの中心人物アドルフ・アイヒマンは良心の呵責を感ずるほどの人間としての「判断基準」なり「行為準則」を形成せず,また自分の行動を決定する自分なりの「良心」も形成しなかったのではないか。この視点に立ったとき,結果としての大きな悪のなかに悪の凡庸さを見ることができるのではないか。
[4]* 「自意識に基づいて行動を決定する」という表現もありうる。各人は強弱はあれ,自分なりの思想,信条等の行動準則を形成している。そして,だれが見ていようと,また,だれかにアピールするというよりも,自分は自分の自意識において,自分の思想,信条に従う行動をとるといった場合,その自意識はまさに「良心」と同義である。
[5]* 判決は,慣例上の儀礼的な所作であるということを,起立斉唱行為が内心の自由を侵害しないことの理由としている。しかし,慣例上の儀礼的な所作にすぎないのではなく,権力的に儀式を強制するという側面に着目すべきではないか。儀式は,子どもを集団的活動や指示命令に馴化させる機能を有する。儀式は,人格の完成をめざすべきはずの教育活動において,「考えないこと」を押しつけることになる。子どもの立場からすると,上記のような機能をもつ儀式の在り方はたえず問題としなければならない。これを問題として提起するのは子どもとの人格的接触をしている教師ということになろう。
[6]* 表現の自由は内心領域と外部領域がある。出版,放送,デモ,集会などは外部領域における表現の自由である。これに対し良心は主として内心にとどまるとされるのが一般であるが,良心が発動された場合には良心は外部的行為となって現れると考えるべきではある。
[7]* 蟻川恒正・日本大学教授は,間接的な制約が許されるかどうかを判断する際の較量要素となる「職務命令の目的及び内容」について,「不服従教諭のあぶり出し」を企図して職務命令が出されたという消息が特に窺える場合等には,職務命令の「目的」の正当性が欠けると解される可能性があるし,口を動かして実際に歌うことまでを厳しく求める職務命令である場合等には,職務命令の「内容」が「慣例上の儀礼的な所作」の要求を超え,行為要求としての相当性に欠けると解される可能性があるとする(「憲法判例百選Ⅰ〔第6版〕87頁)。