明楼を西側から見たものです。写真右手に明楼、写真左手に前宝城の中の塚(棺が入っていたところ)が見えます。写真中央に明楼下の通路から見える影壁が映っています。
顕陵の地図(7月2日付ブログ参照)を思い出して頂きたいのですが、明楼を起点にして円形の城壁があり、前宝城と書かれてます。この3枚目の写真がそうです。そしてその前宝城の後ろのもう一つ円形の城壁がありこれは後宝城と書かれています。宝城の中に皇帝の棺があるわけですが、何故前宝城と後宝城と円形の城壁が二つもあるかと言えば、前宝城は藩王として葬られた時のもので、後宝城は皇帝として改葬されたということです。息子の嘉靖帝は母親が逝去した時、前宝城に父親と一緒に葬ろうとしたのですが、既に塚(墓)は浸水していたので、後方に後宝城を造り、父親を改葬して母親と一緒に葬ったようです。
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