北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】松本城-観桜,善政とはなにか-次々代わる藩主と天守閣造営と寛永通宝松本銭鋳造に安政東海地震

2024-05-01 20:23:03 | 旅行記
■複合連結式層塔型五重六階
 複合連結式層塔型五重六階の天守閣はやはりどの角度から見ましてもその威容は凄いものが有ります。

 松本城と小笠原氏の歴史はこれまでに示しました通りで、武田氏により信濃守護の座を追われ流浪のみとなりましたが、世代を超えて帰還を果たしました。それは時間はかかりましたが世代を超えて念願成就というものはある種の大団円といえるでしょう。

 複合連結式層塔型五重六階の天守閣は、ただ、しかし造営にはもう一つの話題も。蕎麦処である信州は言い換えれば耕作不適地が溢れているとは依然示しましたが、実は松本藩の石高は8万石でしかありません、つけくわえると豊前小倉藩15万石の半分強でしかない。

 旧領復帰、しかし8万石であっても世代を超えた悲願である松本復帰、良政を敷くために東奔西走し年貢の融和制度による離散農民帰着推進と街道整備、石川氏時代には城郭造営にくわえてそれもおおきな負担となっていましたが諸役免除など優遇策を行う。

 小笠原秀政は石川家改易後の慶長18年こと1613年に松本入りしていますが、この時今の天守閣はまだなかった、と現在の研究では。元和3年こと1617年に小笠原氏は明石藩主となり信濃松本藩7万石として松平康長が松本藩主となります。時代は変わった。

 松平康長が松本藩主となりましたが、小笠原家の家臣団の多くは小笠原忠真を慕い明石へ移住します。ただ松平康長も第3代将軍家光補佐役という人格者、小笠原時代の制度をほぼすべて継承するとともに検地制度を公平に行うことで領民の支持を得ました。

 出世城、というべきなのでしょうか、松平康長とその子康直は地侍の登用など良政を敷いたことで幕府に評価され、明石藩主に建てられました、けれども。松平直政、徳川家康の孫にあたる越前大野藩主が松本藩主となりますと、その先にはきびしいことがありまして。

 天守閣造営と寛永通宝松本銭鋳造など、この時松本藩は7万石であったのですが無理を押し通しまして。この時までは良かったのですが、次の堀田正盛が藩主となりますと巳午の飢饉という大飢饉が起こり、応急的ですが労役免除や年貢猶予などの善政を敷きました。

 堀田正盛は幕府老中の経験がありましたが、下総佐倉藩へ移封が飢饉の最中に行われ、続いて三河吉田藩主水野忠清が7万石で入封しますと、水野氏の時代となり、財政難から年貢を実質四割増しし、飢饉においても年貢猶予を認めないという、厳しい政策をとります。

 貞享騒動という貞享3年こと1686年の農民一揆は一万もの農民が松本城へ押しかける騒ぎとなる。磔8名と獄門20名の極刑となりまして、実は松本城は天守閣に傾きが見つかるなど無理な工事を経ていることが判明していますが、極刑の祟り、と揶揄される事も。

 天守閣の傾きは明治の写真などに顕著であり、ただこれは祟りなどではなく、この松本という盆地由来の軟弱地形に重量のある天守閣を造営した事と、明治時代に天守閣を支える十六本もの心柱が老朽化により折れ始めたための自重が原因とのことでしたが。

 安政東海地震の影響なども資料には残っていまして、そして今も天守閣内には耐震補強工事などの必要性が示されているところがあるという。ただ、8万石とか7万石という石高のほかの半の城郭を見ますといかにも巨大ではあるとか感じる城郭ではありますね。

 国宝天守閣。ただ城郭が今の平和の時代を生き残るにはそれなりの役割があった訳です、それは城下町松本共に城郭を慕う郷土愛と観光需要とを結びつける熱意があるからにほかならず、故に長い時を経て松本城の天守閣は今も威容を親しまれているのでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】松本城-観桜,松本城と小笠原氏の歴史は敗北と離散と戦火の果ての望郷と帰還への希望

2024-05-01 20:00:57 | 旅行記
■林城の戦いと大坂冬の陣
 歴史は現代史を考えるうえでの一助となる事が多い。

 松本城と小笠原氏の歴史、現代史から見ますとディアスボラという訳では無いのでしょうけれども熱意があれば多少世代を超えることはあるのかもしれませんが、仮に戦火でうまれ故郷を追われたとしても帰ることができるということなのでしょうか。

 武田信玄に故郷を追われた小笠原貞慶、林城の戦いでの敗走を経て塩尻峠の戦いの敗北により小笠原氏は信濃から潰走を強いられることとなりますが、先ず上杉氏を頼り越後に、上杉謙信と武田信玄は永禄4年こと1561年より川中島の戦いで激突します。

 上杉謙信は、しかし川中島の戦いでは勝利を得るには至らず一進一退、このことから実父小笠原長時ともども京都に逃れることとなりまして、三好氏の庇護下に入ります、三好三人衆として形骸化しつつあるとはいえ室町幕府に大きな影響を及ぼしていたゆえ。

 六条合戦として三好三人衆が足利将軍家に刃を向け、その三年前の永禄の変では室町第13代将軍足利義輝を討ったように第15代将軍足利義昭を討ち取ろうとしたところ、室町幕府の要請を受け上洛する織田信長が加わり、三好三人衆は決定的な敗北を被る。

 三好氏に呼応して参陣した小笠原氏も小笠原信定戦死という厳しい状況となり、しかしこの結果として生き残った小笠原氏は織田氏はいかとなり、元亀4年こと1573年には織田氏の武田氏や上杉氏との交渉を一任されるまでとなり、所領に筑摩郡を任される。

 甲州征伐として長篠の戦を経た織田信長の対武田攻勢がはじまると深志城を後の有楽こと織田長益が陥落させ、これを機に旧領回復を目指すのですがこの時はかなわず、ただこの歳に本能寺の変が起きたため、徳川家康に接近、実父小笠原長時が悲願を果たす。

 深志城を松本城と改名しましたのはこの時といいまして、旧武田領の本能寺の変を受けての騒擾を天正壬午の乱としてまとめられるのですが、ただ逆に小笠原貞慶はこのとき小笠原長時が徳川家康との宥和を期して人質に出されます。しかし、結果的にこれが。

 石川数正が家康人質となった小笠原長時を預かるのですが、この日とは徳川を裏切り豊臣方に出奔した事でも知られ、天正18年こと1590年に小田原城落城と共に北条氏が滅亡すると徳川家康の関東移封となります、すると石川数正が松本城城主になってしまう。

 松本城二転三転というところなのかもしれませんが、ただ、この際に石川数正は松本城の大規模拡張を行い、難工事である掘割や石垣の築城を担う。もっともこの時造営されたのは連結式望楼型天守閣であり現存していません、が基礎固めを果たした構図だ。

 江戸時代に入りますと石川氏の当主石川康長が大久保長安事件により改易となりまして、ここに遂に念願の、というべきでしょうか、小笠原長時の松本城入りが叶うのです。関ケ原の戦いでの宇都宮城防衛を評価された故ですが、その後大坂冬の陣で没する。

 小笠原氏は、この大坂冬の陣で小笠原秀政は実子小笠原忠脩ともども討ち死にしますが、次男小笠原忠真が家督を受け継ぎ、なにしろ激戦の果ての家督であるため家康の評価は高く、先ず播磨三木明石10万石加増、続いて豊前小倉15万石移封となる。

 宮本武蔵が仕えたことでも有名な小笠原忠真は、時間こそかかりましたが信濃帰還を果たしたのちに九州の大藩を任され小倉城主となります。とれは鎮西探題といわれるような幕府の九州監視という役割でもあり、時間をかけ帰還、そして拡大を実現しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】松本城-観桜,金華山城の支城としての歴史と小笠原氏狙う武田氏の信濃侵攻

2024-04-30 07:01:20 | 旅行記
■松本城は深志城
 城郭はその細部もさることながら歴史を辿りますと既知の知識と新しい知識の邂逅と体系化が面白いのです。

 松本城はもともと別の城郭の支城に過ぎなかった、というのは今の巨大な城郭を見上げますと驚きまして、ニセコ要塞や琵琶湖要塞のような巨大軍事施設でもあったのか、と訝るところですが、実は当初の松本城は深志城と呼ばれた、小さな城でした。

 深志城と呼ばれた時代にはスミノフ軍、じゃない武田信玄の脅威がありました時代でして、しかしその築城はもう少し時代を遡りまして、永正年間、これは16世紀初頭の西暦1504年から1520年頃の築城となっていました、築城は府中小笠原氏によるもの。

 府中小笠原氏が信濃守護を与った際に造営されました城郭は、しかしいまの松本市の市域でも少し離れた金華山城というところにあります。岐阜城とは凄い離れているなあ、と歴史好きは思われるでしょうが美濃の金華山ではなく松本の城郭の地名でして。

 金華山城とはもう一つ林城ともいい、ここで供されていた陣中飯がハヤシライスであったわけではないのですが、天文年間に武田信玄と小笠原長時との戦いで府中小笠原氏は林城に籠城の構えを見せますが、支城犬甘城陥落とともに防衛線が瓦解してしまう。

 林城跡、としていまも土塁など遺構が現存しているのですが、隣接して井川城跡という遺構が並びましてこの二つで小笠原氏城跡というものを構成している、この立地は松本駅から南方に1㎞程の立地ということで、行こうと思えば行けたのですが。

 足利尊氏、府中小笠原氏が当地を拝領しました際には当主小笠原貞宗が、室町幕府開府前の足利尊氏に付き従い、建武の新政などに際し功績を残したことで信濃守護を任され、その信濃を拠点に筑摩や安曇に勢力圏を広げていった、という歴史がある。

 居館としてこの際先ず井川館を構築、これは発掘作業により伝櫓台跡などが発見されていて、今は水路の縄張りが残る程度なのですが六田川という近隣河川の水源を利用した掘割など、かなり大きな城郭であったらしい、その支城として今の松本城を、と。

 信濃侵攻では、城郭の支城を防衛線とする構えで小笠原氏は迎え撃ちますが、結果は上記の通り、ただ、林城は使用に適さないとして廃城にしたうえで、この松本城を利用するわけです。もっとも、地形を見るとそう離れていないわけで、理由は気になる。

 林城の戦いでは武田信玄と直接戦火を交える前に落ち延び、しかし色々あった上で当主は上杉家に救われるものの後に織田家などの庇護を転々、その最後は会津という、ここ信濃とは縁もないような遠い地にて、戦国乱世の末期に天寿を全うしているもよう。

 武田信玄はこの勝利を以て筑摩平定を完了し、一方で小笠原長時は落ち延び、上杉景勝の配下を経て織田信長に重用、そして奇しくも三男小笠原貞慶は織田信長の配下として有名な長篠の戦に参陣し、一応は武田家への復仇を果たすという歴史があります。

 上杉謙信への備え。松本城は、その始まりが林城の支城ではあったのですが当地一帯を併合した武田信玄が越後の上杉謙信への防衛体制確立を期して大きく拡張した城郭といい、武田四天王の一人である馬場信春を城代として配置していました。

 小笠原貞慶、色々あって織田信長の配下に参陣したという事ですが、実際色々ありまして、しかし実際あったいろいろな先に、最終的には此処松本城を取り戻すという、なかなかに歴史情緒といいますか機運と数奇が交わる歴史が広がっているようです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】松本城-観桜,信州信濃の国は壮大城郭の背景に歴史あり-いまふたたび旅に出よう

2024-04-28 07:02:22 | 旅行記
■信濃国筑摩の国宝天守閣
 いまふたたび旅に出ようというような台詞がひところ流行りましたが今回は遠出した先のお城の話題です。

 城郭、と言えばどこの城郭を思い浮かべるのだろう、といいましたらば筆頭に先ず数えきれないくらい再放送されている時代劇の影響などで国宝姫路城を挙げます方が多いでしょう、此処に国宝天守閣という存在を思い浮かべたうえで現存十二天守閣、と。

 松本城、そう松本城です。ここは国宝天守閣であり、現存天守閣に在っても歴史は古くまた戦災を免れている事でも名高い。そして比較的高い標高の長野県松本市にあって澄んだ空気が快晴の際には抜けるような青空をなによりもの借景としてくれる城郭だ。

 城郭はぐるり一周をまわるだけでも、確かに巨大ではないものの天守閣は凛として五重六階の威容を誇りまして、山城というよりは山間部の盆地の平城ゆえに通常山城にはない掘割はともすれば空や城郭の色彩を鮮明に移す故に、一見して絶景と印象ぶかい。

 歴史と共にしかしこの城郭を振り返りますと、そう不思議というほどの群雄割拠と戦国乱世に遭い揉まれた鮮血と謀略の不協和音の先の調和として現存した歴史がありまして、いや明治と昭和の動乱を経て今も奇跡のようにその姿を探訪者に指し示している。

 信濃国筑摩、何か帝国海軍のような響きの地名が二つも重なる松本は、中央本線が東京と名古屋を結ぶその中間にありまして、それは言い換えれば江戸時代においても重要な街道に位置する城郭となっていました。故にこの壮大な城郭が整備されたわけです。

 中央本線松本駅から城郭へは、時間に余裕があるときは徒歩で、そうでないときはバスやタクシーを利用するのですけれども、やはり時間がない時でもどうにか他の時間をやりくりして、一回だけでも松本の町を歩いてほしいと思うのは、その街の風情ゆえ。

 城下町然としている、こう紹介しますと小京都というような花見小路の一角に影響されたような、いかにもそれっぽいのを新築に近い感じで修繕して維持しましたよ的な観光地ではなく、近代的な市街地なのだけれども都市計画に歴史を感じられるのですね。

 文化的、というところなのでしょうか、近代都市と共に長野県では長野市と並ぶ都市でもありますから、歴史を求める方の好奇心に迎える書店と教育関連、明治維新後の都市計画と城下町の連環性、観光地としての美味の追求、なるほどなあ、と感じるもの。

 深志城とも呼ばれた城郭は、その先に在ります。松本城は、松本市の標高が610mと、そして3000m級の峰々が連なる本州中央山岳地帯の中心にあるのですが、しかし構造上は山城ではなく平城、それでも実は多くの山城よりも標高が高いところに位置する。

 キングギドラに一度瓦屋根を吹き飛ばされる以外にはサスペンス劇場などで目にする程度という、ともすれば歴史映画などからは一歩引かれている城郭という印象はあるのですが、目の前にしますとそれは雄大さに驚かされるものです。そしてそれはしかしですが。

 蕎麦が名産の、と説明される信州では先ず駅前から名店と謳われるらしい軒先が城郭まで点々と伸びていますが、言い換えればそれは米作に向かない地形であることの裏返しでもあり、蕎麦しかとれぬ、訳では無いにしろ穀倉ではない当地には城は際立って。

 壮大城郭の背景には歴史あり、というところなのですが、狭いニッポンと称されるわが国、実際は日本列島を欧州地図に併せてみると北は北欧で南はアフリカに来て驚く、そんな国土でも群雄割拠の歴史ありというところでして、信濃の地もその一幕でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】長浜城-梅花(滋賀・長浜)歴史地震の復興が警鐘ならす能登半島地震復興と中央の関係

2024-03-27 20:22:52 | 旅行記
■復興には中央の熱意が
 湖北の直ぐ北側には福井県があり隣接してその先は石川県となっていまして能登半島までは遠いのですが。

 能登半島地震、地方自治に関する憲法の条文など問題が大きくなることは承知ですが、長浜城から遠く能登半島を思い浮かべますと、政治主導、特に中央が石川県を圧すというよりも、多少平時の手法を乗り越えてでも強引な復興計画が必要になるとおもう。

 南海トラフ巨大地震など次の災害を考えなければならない以上、地域復興に関する指揮権の問題を明確化して前例を一つでも創り復興を実感できるような体制を構築しなければ、ほんとうにこのニッポンという国は戦前の様な事になってしまうぞ、と警鐘を。

 長浜城と天正地震、わたしはその後の歴史などを大きく俯瞰すると、長浜は復興できなかった事例の一つになるのかもしれない、と考えています。そう元々は長浜は浅井長政の小谷城の資材を流用して、山城から港湾要塞へ造り替えた、新しい城郭であった。

 小谷城の資材を流用したのは工期短縮のためで浅井氏滅亡から織田信長による羽柴秀吉の当地拝領まで三年ほど、工期を短縮化する必要がありました。ただ、天正地震で全壊したのは前述の通りで、城内にいました山内一豊の娘が倒壊により亡くなっています。

 西浜千軒遺跡という琵琶湖湖底遺跡群の一つはその際のものなのですが、長浜城は倒壊したまま、なにしろ地盤ごと持っていかれたので再建できないのが痛い。江戸時代に入り徳川家康の異母兄弟である内藤信成が当地を所領に与えられ、仮復興はしたのだが。

 城郭の石垣は、しかし天守閣の再建が為されたかが、これは長浜城の城郭資材がそのまま彦根城に転用されてしまった一方で櫓などには現在明確な長浜城の城郭をおもわせるものが見当たらず、結局豊臣秀吉時代ほど大きな城郭は再建されなかったことを示す。

 彦根城の話題を振りましたが、内藤氏は長浜入城の数年後には大坂の陣への勲功を以て摂津高槻に移封されることとなり、長浜城は廃城となります、そしてそのまま彦根藩の所領となっているのですね。故に長浜市内を散策しますと寺院などに井伊家の影響が。

 湖南地方、いま長浜城にのぼりますと円形に、晴れていればという条件は付くものの、彦根城はみえます。ここ長浜はそのまま彦根藩の一部になりまして、もちろんいまは仲良く滋賀県の一部で、彦根駅も長浜駅も特急停車駅となっているのですけれども。

 佐和山城の城下町であったものを街道防衛のために新しい城郭として彦根城を造営した、こうした事実はあるのですは逆の見方をしますと天正地震の後に長浜の戦略要衝としての価値が被災により消失し、そのまま彦根に湖南地方の拠点が遷ったともいえる。

 能登半島地震、もちろん国家としての注げるリソースが限られるという反論は理解できるのですが、一つの地域が復興に失敗した場合はリソースの源流となる経済圏が一つ縮小するという認識も必要です。なにか施策が必要だ。例えば国家防災備蓄処など。

 国家防災備蓄処を挙げましたが、震災復興の際には次に利用可能な施設を、現地雇用に繋がる形で設置するなど、なにしろ平時の無駄と見えるものに災害時の冗長性があるのだから、施策を考えてはどうか、と思うのですね。自然に復興など、ありえないのだ。

 天正地震、震源地を考えると現在では最も地震リスクの低い地域にある、原発が幾つも並んでいるほどですからね、しかし歴史地震の事例はある、故に何処でも起きうる以上何処でも備えが必要ですし、また復興は中央が青写真を引く覚悟も必要なのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】長浜城-梅花(滋賀・長浜)天正地震被災の城郭遺構から元日能登半島地震に思い馳せる

2024-03-27 20:00:52 | 旅行記
■梅花包む長浜城
 いま長浜城の梅林は紅梅がちょうど見ごろで四月初旬まで湖北の冷たい風が梅花の季節を繋いています。

 元日の能登半島地震には驚かされたものですが、もう一つ、石川県は地震リスクが比較的少ないという政府地震調査研究推進本部の評価を基に、実際には能登半島で群発地震が発生していながら、対策が後手に回っていた、という実情にも驚きました。

 滋賀県長浜城、この城郭を探訪する度に考えるのが、滋賀県の津波被害、という一件考えられないような、しかし調べてみると史実であった、という出来事です。ここは天正13年11月29日こと西暦1586年1月18日、巨大地震に見舞われているのですね。

 天正地震、という歴史地震、いまでは長浜城といえば北陸本線長浜駅の琵琶湖側に小さな、しかし存在感のある、天守閣を昭和後期に再建した事で城下町の気風を漂わせる歴史情緒の一角を形成しているのですが、かつてあった長浜城は天正地震で琵琶湖に沈んだ。

 津波が滋賀県でも、と驚いたのは確か饗庭野演習場、長浜から見れば琵琶湖の対岸の高島、ここにMV-22オスプレイかM-1128ストライカー機動砲が来た際に近江今津駅前の喫茶店でほっと一息ついていた際に、地元の方と雑談を交わした際に知ったおはなし。

 東日本大震災と伊豆大島土砂災害など災害の記憶が鮮明というよりも生々しい頃、滋賀県は災害はあっても津波だけはないから羨ましい、と話しましたところ、いやいや、津波ならあったんだよ、と豊臣秀吉の時代にあった地震の話をお教えいただきまして。

 長浜城の崩壊で、同時に琵琶湖へ大量の土砂が流れ込み対岸の今津のあたりに押し寄せたのだという。日本海から三方五湖を超えてきたわけではないのですが、山体崩壊による大波、海底の沈降隆起による津波とは構造が違うものの、事象はまさに津波という。

 島原大変肥後迷惑、という九州の津波に当てはまるものです。平成にも噴火被害を起こしました長崎県の雲仙普賢岳が、寛政4年4月1日こと西暦1792年5月21日、火山性地震により山体崩壊を起こし不知火海に流れ込んだことで佐賀県側に津波被害が及ぶ。

 能登半島地震の津波も地震発生後短時間で到達したことを精査した結果、東日本大震災の海底沈降隆起による津波発生ではなく、海底地すべりによる波浪、という構造であったことが気象庁の調査により判明していますが、あれが滋賀県でも起きていた訳だ。

 長浜城は、築港の際に港湾要塞化、何しろ当時は琵琶湖の水上交通は最速の移動手段であるとともに兵站輸送の要であり、天下の概念が京都周辺という時代であったために琵琶湖の水運の重要性が大きかった時代、港湾を軍事拠点化した城郭となっていました。

 側方流動という、能登半島地震では耐震基準を満たした建物でも地盤ごと十数m横に圧し動いてしまい破損する事例が石川県内で発生していますが、天正地震の琵琶湖津波発生構造についてもこの側方流動の構造が内陸部の被害拡大に繋がったかは研究すべきか。

 液状化現象、側方流動という単語は阪神大震災では液状化現象という、これも昭和の新潟地震で既に事象としては確認されていたものが阪神大震災で当時世界最大の貿易港であった神戸港が被災した際に再認識されたもので、地学用語さえこう短期間で変わります。

 琵琶湖は長浜城が水中に倒れこむと同時に、対岸で津波被害が及んでいる。さてさて、この事象を再確認しますと、政府地震調査研究推進本部が能登半島の地震リスクをどう評価しようとも、現実にはどこでも起こり得ることを歴史は冷徹に示しているのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)箱根の関所固めた江戸時代と廃藩置県に関東大震災そして今へ

2024-02-01 07:00:55 | 旅行記
■そしていまの小田原城
 太平洋を望む小田原城はかつてその太平洋へ至る相模湾までその城郭を広げていたと遺構が示しています。

 小田原城、豊臣秀吉侵攻の際には総構を完成させていまして、相模湾に至るまでの実に9kmもの城壁を有していました。もちろん城壁といいましても白壁の想像するようなものではなく土塁が中心ではあったのですが、規模としては大坂城に匹敵したという。

 総構の城郭、そう欧州やローマの、それ以前の欧州や中国に在ったような城塞都市というものが日本にはない、という素朴な印象を受けることがありましたが、歴史を紐解けば例えば京都でさえ、秀吉の京都大改造により御土居が造営、あれも城塞都市といえた。

 京都の御土居も一例に挙げましたが当然、大阪の大坂城を中心とした総構も味方によっては城塞都市であり、小田原城もこの一例に含まれるのです。後は熊本城なんかの総構を含めるかどうか。江戸城は総構せずとも周辺が鉄壁であったといいますか大井川など。

 城塞都市が現存しない背景には、使いにくい、というところがあるのでしょうか。京都の御土居も北山通の近くとか北野天満宮のあたりとか、一部が残るのみです。もっとも御土居とともに整備された鴨川の治水は、これで市街地が浸水することがなくなったが。

 小田原城も、江戸時代には、ここは徳川家康の所領となりましたが家臣の大久保忠世を小田原城城代としまして、そして大久保氏入部としました際、大きすぎる城郭をちょうど今の規模まで縮小しているのです。防衛の要衝ではあっても大きすぎると使いにくいか。

 箱根の関所。ただ、大久保氏には江戸城の防衛外郭というべき重要な責務として箱根の関所管理という重責を担うこととなり、小田原城はその行政施設、入り鉄砲出女といわれました厳重な出入管理の要諦を担う事となってゆきました。行政施設には威厳も必要、と。

 北条氏から徳川氏の時代へ、こう移ろいますと縮小されることとなりましたが、明治維新の際に廃城となり大半の遺構が破壊されます、1901年には小田原御用邸が置かれ城郭遺構は二の丸平櫓が明治後期にも現存していましたので、御用邸に併せ修繕されたという。

 二の丸平櫓、しかしここも含め1923年の関東大震災では大破します。石垣も破損し、そしてその修復が文化財保護というよりは適当な復旧工事であった為に、外観は大きく変容してしまったのですが、昭和の時代にはいり、本格的な復興が行われ始める。

 複合式層塔型三重四階天守閣、これが再建されたのは昭和時代といいましても第二次世界大戦後の1950年なのですが、最初の天守閣が造営されたのは1633年、江戸時代のものを一度倒壊したが1706年に再建されまして、今の天守閣はこれを踏襲している。

 元禄地震と関東大震災、小田原城天守閣を倒壊させたのはこの二回の巨大地震といいまして、今考えると鉄筋コンクリート建築物として1950年に再建されました今の天守閣ならば、次の地震に対してもある程度対応できるのだろうか、と熊本城等を思い浮かべる。

 こうしたなかで、今の天守閣は間もなく75年を迎える老朽建築物であるため、当時の通りに木造復元するという、名古屋城のような話が持ち上がっているとも聞きました。ただ、当時の通りに復元すると次の東海地震で当時のように倒壊するのではないかな。

 変化する小田原城、散策は城門から上りますと、ちょっとだけ時間を要するのですが帰路は天守閣から脇道が東海道本線沿いに小田原駅まで伸びて。歩いて行っても下り坂は15分ほど、呆気ない感じもするのですが考えさせられる楽しい城郭散策のひと時でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)堅城は上杉謙信と武田信玄を退け豊臣秀吉と戦う

2024-01-31 20:24:19 | 旅行記
■最盛期の巨大な城郭
 城郭探訪は時間の関係から掘割の散策を割愛して文字通り登城に臨んだのですが見上げる天守閣は青空に映えていて美しい。

 小田原城は広い、そして堅城である。これは現存する城郭そのものの大きさと共に石垣、城郭が籠城するうえでの防御施設と何より必要な兵站物資の備蓄に適しているとともに、上杉謙信と武田信玄の侵攻を防ぎ切った為という一点でもすべてを示す事ができる。

 上杉謙信については、もっとも最初の上杉謙信による小田原攻めは関東管領を目指す上杉氏の示威行動であったともいわれていますが。ただ、永禄12年こと西暦1569年の武田信玄による小田原攻めは非常に危険な状況でもあったようで、城郭は拡張される。

 天守閣へ天守閣へ、と階段を上りそして櫓や城門を往く。これでも廃藩置県の際に相当破壊され、更には関東大震災でも被災している建物を何とか昭和時代と平成時代に修復しまして今に至るというのですから中々に雄大な気分を味わえるというものです。

 日本の城郭で思うのは様式美と共に形式美というところがあります。それは日本が歩兵主体の軍事ドクトリンを構成していたため、工兵により城郭そのものを破壊するという運用が限られ、迷路のような城郭とすることに一定以上戦術的な意味があったため。

 櫓や城門が防御拠点ではあるのですが、工兵が相応に発達している国であれば、迷路のような城郭を一直線に破壊して指揮中枢である天守閣を叩きます。もちろん工兵に当たる集団は存在しましたが、築城に充てるような建設工兵が主体であったといえるところ。

 城郭を攻撃するにも、欧州などでは一般的であった坑道戦などはせいぜい井戸を掘りぬく程度であり、城郭そのものを坑道戦により崩壊させた事例は聞きません。騎兵は、攻城戦には使えませんし。この点で日本の架橋や道路などの面での不思議な部分を感じる。

 将棋の影響ではないか。まえにわたしは日本の歩兵重視の背景には将棋の歩兵が多い部分が心理的に影響しているのではないかと持論を示してみましたが、灌漑整備など工兵の機能が役立つ分野はある程度あるはずなのに、日本では工兵は現代史まで影が薄い。

 城郭が美しいのは逆に、こうした技巧の様な建築設計がそのまま軍事的に意味を有したからではないかといえます。そして日本の城郭が軍事施設であったのは砲兵技術が発達する以前、野砲が誕生したころには江戸時代ですので、城郭は行政施設となっていました。

 永禄十二年の三の丸大普請、という総構への大改修はこの武田信玄による小田原攻めが背景にあったといい、习歳大普請としまして更に天正年間には三の丸周辺の掘割の拡張、天正年間にはもういちど家臣団の屋敷などを総構に収める改修を行っていました。

 小田原城のこの天正時代に入ってからの拡張は大きく分けて五度に上るという事ですが、その背景には豊臣秀吉の脅威というものがあり、そして実際に天正18年こと西暦1590年、天下統一総仕上げとして北条氏と豊臣氏は開戦することとなります。

 小田原征伐と言われました戦いでは豊臣秀吉は徳川家康など本体だけで15万3000名、上杉や毛利にも動員をかけていましてその合計戦力が5万7000名といいますので、ほとんど陸上自衛隊全軍と航空自衛隊全てに攻められたような状況となっていました。

 小田原城は北条氏8万2000名規模、しかし籠城とは支援ありきの持久戦、支城や同盟の見通しが破綻し、また石垣山一夜城築城など心理戦などもあり、小田原城は開城することとなっています。北条氏は生き延び、河内国狭山の大名として明治時代まで続くのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)北条早雲の一大城郭は東海道新幹線小田原駅を眼下に収める

2024-01-31 20:10:13 | 旅行記
■小田原城をあゆむ
 新幹線ひかり号を降りたホームを歩んでいますとそのホームを見下ろしている純白の城郭があります。

 小田原城、もともと好きな城郭で幾度も探訪している城郭なのですけれども、COVID-19新型コロナウィルス感染症のあの2020年以降、もう五年目の2024年ですがますます親近感がわいてくるところです、こういうのもここは新幹線駅から非常に近いのだ。

 東海道新幹線、COVID-19新型コロナウィルス感染症とともに所用で首都圏に行く場合、前は別の用事も兼ねて東京駅へ直接行く事が多かったのですが、神奈川県での所用の場合は基本的に新幹線のぞみ号を利用せず、ひかり号で小田原駅から移動していました。

 新幹線の駅から小田原城は指呼の距離にあり、しかしもちろんの事それほど時間にも心にも余裕があるわけではありませんので乗り換えの時間だけでも少し散策しよう、となりますと、それはもうどうしても城郭の一部しか探訪できず、故に城へ通う事足繫く。

 城郭探訪も、城門はじめもともとここは明治維新の廃城後は天守閣も含め破却されてしまいましたが、幸いにして土塁や石垣や掘割のかなりの部分が残るとともに、城郭に観光地としての価値を見出す余裕が生まれますと次第に修復や再生が行われます。

 探訪して凄いなあと思うのは、小田原城は今も修復事業が進められているところですので初めて探訪したときには、もちろん天守閣はその威容を放っていたのですが、巨大な城郭を湛えるさまざまな櫓や城門などはまさに再生される過程、変化する様子が見れた。

 小田原城、その歴史を遡りますとそう築城年は応永24年、それは西暦でいうところの1417年に北条早雲が大森藤頼からこの一帯を奪い領有化した際の拠点として整備した城郭が、ここ小田原状の始まりと言われています。どうりで小田原駅からも近いわけです。

 伊勢宗瑞と名乗っていました後の北条早雲、室町幕府政所執事たる伊勢氏の出自で、当地では駿河館襲撃に堀越公方の家督争いと伊豆討ち入り、そして小田原城奪取と勢力を伸ばし巨大な北条家の基礎を固めた人物です。もっとも、歴史には小田原城奪取とある。

 明応地震という、1498年に発生した地震は北条氏が小田原城を最初に大改修した時代と重なりまして、これは推測も交じるのですが震災により破壊された部分を補修するとともに櫓などを増強することで城郭としての防御力を高めたのではないかと考えられます。

 平安朝末期、相模国豪族土肥氏一族であった小早川遠平の居館が、そもそもの小田原城の始まりという。そもそもの小田原城、というもったいぶった表現をしましたのは、小田原城は元々上記の北条氏が際限なく巨大化させたために主郭部分のみが城址であるゆえ。

 主郭部分、というのは、当初の小田原城というのは八幡山という、小田原城の向かい側に在ります稜線に沿って聳えていまして、現在は上司としてではなく小田原高校と。そして元々の小田原城と今の小田原城の中間に、東海道本線と新幹線が走る、小田急も。

 八幡山にも土塁などの遺構は残っているといいまして、要するにそれはもう一度や二度探訪しただけでは全容がつかめないほどに巨大な城郭であった、というのが小田原城の醍醐味といいますか、何度探訪しても飽きない場所でもあるのです。そして駅から近い。

 総構という、二の丸総堀と三の丸総堀そして総構堀という防御陣地に守られた城郭となっている小田原城、最盛期には全周で実に9kmにものぼる防御線が築かれ、その背景には武田信玄と上杉謙信、時期は異なるものの歴史に残る武将の侵攻を受けた為という。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都発幕間旅情】彦根城,きみたちはどうひこにゃんと会うか-愛される城郭を支えるものとは

2023-12-28 07:00:58 | 旅行記
■ひこにゃんの彦根城
 年末の彦根城を散策するという今回の旅行記について。彦根城は登城口にあのひこにゃんさんの登城時間なども明示されていまして参考となります。

 彦根城天守閣、国宝天守閣はここ彦根城と白鷺城こと姫路城に信州の松本城と木曽河畔の犬山城、少し前には四国宝天守と呼ばれていましたが、此処に平成の大修理にて建築時期が明確に明らかになった松江城とともに国宝五天守閣、と呼ばれるようになりました。

 三層三階天守閣、ということで実のところこの彦根城は小ぶりな城郭、という印象はあったのでして、そして確かに山頂の天守閣を間近に接しますと、それは決して重厚ではあっても巨大な天守閣ではないのです。けれども城郭を一つの施設と視た場合はどうだろう。

 西丸三階櫓、彦根城は数多くの櫓が現存していまして、この西丸三階櫓もその一つであり、そう気づかされるのですが、三重櫓、これは江戸城の富士見三層櫓と同じだ、という以前に、飾り屋根の有無で印象は違うのですが、三層というのは天守閣と同じ三層なのですね。

 小谷城の施設を移築したものが西丸三階櫓と考えられているのですが、そう彦根城の天守閣は大津城、周りの施設は佐和山城、そして惜しい事に現存しないのですがかつて存在した山崎三層櫓というものは長浜城の移築というもので、一つ一つは小さくとも全体では。

 天秤櫓も、天守閣に向かうあの櫓さえ、なにかこう、明石城を思い起こす規模のものといえますし、佐和口多聞櫓という山麓に広がる櫓も、現存しない大名屋敷本丸御殿をつつむ規模で広がりますので、冷静に現存する部分を見ただけでも、なんと巨大な城郭なのか。

 天守閣だけではなく、全体を見てみますと、それも現存している櫓も数多いものですから、なるほど、天守閣というものは元来その占めるところは城郭の一部にしか過ぎないというところですけれども、実際彦根城では天守閣は城の一部なのだ、と思い知るのですよ、ね。

 愛される城郭、そう、現代において横隔が生き延びるには数多の普請を自らの収入で担うほかありません、すると、資金的な面を含め、いやこれこそが中心なのか、下司な良い方では集客力、こうした面で城郭が多くの方に愛される事で支えられなければ、残れない。

 ひこにゃん。愛される城郭である筆頭には、この元祖ゆるきゃら、というべき巨星、ひこにゃんさんの果たすところが多いのではないか。ひこにゃん、今でこそ、くまもん始め多くのゆるきゃらが全国を盛り上げていますが、しかし始まりは彦根のひこにゃんさんです。

 本丸御殿を模した資料館前にこの日数回登城しました、ひこにゃん。しかし、天守閣の前にひこにゃんさん文字通り登城することもありましたし、ほかの場所に登場することもありますひこにゃんさん。本丸御殿前ですと入場料を払わずともひこにゃんを観られるのだ。

 ひこにゃんだけの集客力という訳ではないのでしょうけれども、彦根城にいけばひこにゃんに会える、というものはあまり軽視できないでしょう、実際子供たちにも大人気でした。それもひこにゃんさんが誕生したのは元祖ゆるきゃら、その人気の長さも実に長いのだ。

 北大路機関が創設された直後あたりでしょうか、ひこにゃんさんの誕生、これだけ息の長いといいますか愛され続けているひこにゃんさんの集客力というものも、彦根城が城郭界の巨人の様に君臨し続けている背景の、ひとつを担っている事は間違いないでしょう。

 ひこにゃんさん、それはキャラクターとしての人気もさることながら、さんまのまんま、随分前のテレビ番組を思い出す際の、まんまさんのような愛くるしい仕草とともに来場者、いや来城者を迎えるからこそ、この彦根城は愛され続けているのだなあ、と思うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする