北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

近海練習航海部隊 名古屋港寄港 短報

2006-03-28 15:04:19 | 海上自衛隊 催事

 3月26日、海上自衛隊近海練習航海部隊が名古屋港に寄港した。

 近海練習航海とは、幹部候補生教育卒業者を対象として行われる洋上教育で、卒業前に行われる第一次練習航海に引き続き卒業式の直後実施され、第二次練習航海としてのカリキュラムである。

 第56期幹部候補生課程修了者は約190名、21日に江田内を出発し大阪に引き続き名古屋港、27日には名古屋港を出港し、大湊、横須賀に続いて東京港晴海埠頭に寄港予定である。参加艦艇は練習艦“かしま”、練習艦“やまぎり”、護衛艦“あまぎり”の三隻で、名古屋港では“かしま”“あまぎり”が一般公開された。27日付けで統合幕僚監部が発足し、統合運用へと移行する。こうした中で新時代の自衛隊を担う候補生達へ、名古屋港に集った多くの市民や支援団体による歓迎セレモニーが開催された。

 詳報は後日お送りしたい。

 HARUNA

 (本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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速報 陸上自衛隊AH-64D戦闘ヘリ撮影

2006-03-27 21:59:06 | 先端軍事テクノロジー

 速報としてお知らせする。本日、陸上自衛隊明野駐屯地に展開し、AH-64D戦闘ヘリの撮影を実施した。今年度三月に引渡しが始まったばかりの最新鋭ヘリコプターで、詳報は後日お伝えしたい。

 HARUNA

 (本文・写真の著作権は北大路機関にあり無断転載は厳に禁じる)

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北大路機関 新年度4月期5月期活動計画

2006-03-24 16:30:35 | 北大路機関 広報

 北大路機関の当面の活動計画を示した短期活動計画を提示したい。

 短期的に自衛隊公式行事として計画しているものは以下のとおり。

■四月九日:信太山駐屯地祭・・・大阪府和泉市にある駐屯地で、第三師団隷下の第37普通科連隊が駐屯、対戦車中隊配置の近代化改編以前の部隊として106㍉無反動砲などを運用する連隊。(駐屯地広報0725-41-0091)

■五月十四日:千僧駐屯地祭・・・兵庫県伊丹市にある駐屯地で、第三師団司令部が駐屯、他に第三偵察隊、第三通信大隊、第三後方支援連隊が駐屯する他、師団駐屯地祭である為、特科・機甲科・普通科・施設科・飛行科等の各種装備を見る事が出来る。(駐屯地広報072-781-0021)

■五月二十一日:大津駐屯地祭・・・滋賀県大津市にある駐屯地で、第二教育団本部、第109教育大隊が駐屯。未確認情報ながら60式装甲車が展示されるとの情報も。(駐屯地広報:077-532-0034)

■五月二十八日:東千歳駐屯地祭・・・北海道千歳市にある駐屯地で、第七師団司令部、第一高射特科団本部、北部方面教育連隊、第11普通科連隊、第七特科連隊、第七高射特科連隊一部中隊、第七偵察隊、第七施設大隊、第七通信大隊、第七化学防護隊、第七後方支援連隊、第一高射特科群、第101高射直接支援大隊が駐屯する駐屯地で、機甲師団である第七師団創設記念式典が行われる。日本最大の観閲行進や空地一体となった訓練展示が有名。(駐屯地広報0123-23-5131)

 この他、三月二十六日の海上自衛隊HPにおいて発表されていた近海練習艦隊名古屋港寄港なども撮影予定である。

 加えて、京都市内の夜景撮影も桜の時期には多くの夜間特別拝観が実施されることとなっており、写真を本ブログにて掲載したい。なお、駐屯地祭にお出かけの際には、特に遠方の方は一度駐屯地広報や自衛隊のHPなどで検索確認する事をお勧めしたい。本部ログは公的機関ではないため、駐屯地祭に関する情報はあくまで専門誌報道を基にしており、公式情報の添付である為である。

 なお、短報はできる限り迅速にお伝えする所存であるが、詳報に関しては各々若干、東千歳駐屯地祭は大きく遅れる予定である。ご了承いただきたい。

 北大路機関

 (本文及び写真の著作権は北大路機関にあり無断転載は厳に禁じる)

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機甲師団 第七師団駐屯地祭へのご案内

2006-03-21 23:09:53 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■日本唯一の機甲師団

 東千歳に師団司令部を置く第七師団は、日本陸上自衛隊唯一の機甲師団であり、北部地域の防衛における機動打撃部隊としての任務に当たっている。その戦車保有数は286輌にも達し、わが国機甲部隊の三割以上を保有する非核抑止力の中核を担っている。

■5月28日

 来年度における第七師団の師団創設行事、つまり駐屯地祭は5月28日に実施され、隷下の三個戦車連隊を中核とした大規模な観閲行進と、90式戦車や89式装甲戦闘車、99式自走榴弾砲、87式自走高射機関砲が中心となる訓練展示が実施される。

 実弾は使用せず空包のみではあるものの、その迫力は日本最大、中央観閲式や富士総合火力演習を遥かに凌駕するもので、小生も中部国際空港から長躯展開予定である。確かに北海道は遠いが、南千歳駅よりシャトルバスが運行されており、見る価値にかんしては下の写真から判断いただくとして、皆さんも是非この機会に北海道に旅立たれてはいかがであろうか。

HARUNA

(本文記事及び写真の著作権は北大路機関にあり無断転載は厳に禁じる)

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国産練習機 T-1 ・ T-2 の終焉

2006-03-20 13:10:31 | 航空自衛隊 装備名鑑

そして歴史へ

 航空自衛隊とともに歴史を歩み、日本戦後航空史の生き字引というべき国産練習機T-1、T-2の最後の機体がこの程、第一線を退いた。幸運にしてそのラストフライトの様子に立ち会う事が出来、今回はその様子をお伝えしたい。

岐阜基地 三月二日

 航空自衛隊岐阜基地において退役したT-1、T-2の様子を最初に掲載する。この組み合わせの編隊自体、非常に貴重なものといわれている。

Img_7925_1  北大路機関では既に“航空自衛隊 装備名鑑”として航空自衛隊とともに大空を翔けた翼に関する特集を実施しているが、T-2練習機に続き、T-1練習機の特集を行うとともに、そのラストフライトの様子をお届けする。

 既に学生教育の場からは退いた国産練習機最後の機体は、岐阜基地の飛行開発実験団、そして小牧基地の第五術科学校において運用されており、2006年3月は第一世代航空機、そして最初の超音速航空機引退という、いわば、日本戦後航空史の転換点となった歴史的な日となった。

Img_7890  岐阜基地外の滑走路東端には、眺望良好な高台に空所があり、平日でも数人の航空ファンが常時カメラを構えているといい、着陸姿勢に入った航空機を順光で撮影できる。ただ、お手洗いや飲食の為の店舗が非常に遠い事が難点として挙げられる。

 また、滑走路北側面は、国道21号線沿いの歩道から離陸途上の機体を撮影でき、午後から逆光となるが、喫茶店やコンビニ、レストランがある為好評である(つまり先日MCH-101を撮影したポイントは悪い見本)。

Img_7898  T-2練習機ラストフライト!

 この情報を何処から聞きつけたか、首都圏を含む遠方からも多くのファンがカメラの砲列を成し、自家用車で訪れてはキャンプ道具一式で珈琲ブレイクを始める人も現れ、同じ航空ファン同士の交歓もあったようである。

 飛行開発実験団は、航空自衛隊各種装備の実験を行う関係からほぼ全ての機体が配備されており、この日もF-2支援戦闘機が五回ほどタッチアンドゴーを繰り返していた。

Img_7915   1140時、東方から鋭い金属音が聞こえてくる。こういう場合は航空無線を聞く事が出来るエアバンドという機械があり、これを持っている人(トランシーバーサイズ、イヤホンをしてアンテナを立てているので判る)が動けばその方向に動き、その人がカメラを、向けている方向にカメラを向けると判る。

 たしか、電波法ではこうして得た情報を第三者に教えてはならないとされていたはずだが、見えてしまうものは仕方ない、と有難く小生もその方向を向くと、望遠レンズ越に機体が見えてくる、待つこと二時間半、遂に来た!

Img_7926_1  T-2高等練習機、T-1初等練習機が並び、滑走路を東から西にフライパスしていった。

 T-1とT-2が編隊を組んで飛行する様子は、このニ機種を同時に保有しているのが岐阜基地だけであり、これまでも航空団や教育航空隊にて同時に運用された例は例外を除き無い為、岐阜基地航空祭が雨天にて多くの飛行展示が中止になったということを踏まえれば、幸運にして航空祭予行を見る事が出来た人を除き、最後にして非常に貴重な様子を見る事が出来たといえよう。

Img_7918_1  小生がいたところには30名ほどのファンがいたが、デジタルから銀塩までキャノン、ニコン、コニカミノルタの一眼レフが一斉にシャッターを切る音が響き、平面人工蛍石レンズ(非常に高価で、それを見分ける為にレンズに赤い筋がいれてあり、通称“赤ハチマキ”といわれる、宇都宮のキャノンの工場で職人さんが一つ一つ手作りで作っており、中古でも二十万以上する)が林立している光景は壮観ともいえた。

 また、ビデオカメラを回すものも多数おり、TV局や新聞社のカメラマンは皆無であったものの、ラストフライトを数千枚のフィルムやCCD素子に焼き付けていた。

Img_7937  そして歴史へ、T-2練習機が岐阜基地に向け着陸していく。

 二機編隊はそのまま岐阜基地上空を観閲の為にフライパスした後、単機ごとに滑走路に向かった。

聞くところでは、新田原基地第五航空団にF-1支援戦闘機とともに配備されたT-2は後日(曖昧ながら確か16日)退役しており、厳密にはラストフライトではないようだが、この際、細かいことは抜きにしておこう。

Img_7938  T-2高等練習機は、1967年より三菱重工を中心に開発が始まり、1974年に初飛行、25号機から機関砲と火器管制装置を搭載した後期型が製造され、1984年に96号機(最終機)の調達を行い、そして2006年3月退役する。

 ハードポイントは5箇所あり、爆弾搭載量は2700kg。有事の際には補助戦闘機として運用する事を想定し、このラストフライトを行った機体は機種下に機銃孔が開いている事から後期型である事がわかる。

Img_7939  以上三枚は連続写真だが、この写真を見ると後部座席にはフードが被せてあり、搭乗員は一名である事がわかる。

 飛行開発実験団では、T-2は天候偵察機として用いられており、FSX計画に際しても日本海上にある実験空域に先んじて展開し、実験を行う環境が整っているかを調査する任務にあった。現在、航空自衛隊ではF-15Jの近代化改修に関するプロジェクトが進行中であり、これに関してもおそらくT-2は貢献していた事であろう。

Img_7943  岐阜基地滑走路へ向かい、防音林の向うに消えていく機体。

 着陸後は、ラストフライトの機体の搭乗員、若しくは飛行勤務を終える搭乗員に対し、航空自衛隊の伝統としてバケツで水をぶっ掛ける伝統がある。

 どんな由来か、誰が始めたかは浅学にして存じず、事情をご存知の方は御教授いただけると嬉しいが、これは整備員の歓送の意味もあるようで、雑誌報道をみればバケツだけではなく、場合によっては消防車が出動する事もあるという。

Img_7951  T-1が続いて滑走路に向かう。

 航空自衛隊最初のジェット機として富士重工が中心となり開発された機体で、低速での操縦特性といった性能は素晴らしく、T-34メンターやT-8テキサンといったプロペラ式の機体から機種転換したばかりの学生にも操縦が容易で好評であったという。

 また、多くの搭乗員が初めて経験するジェット機とあって、思い出深い機体であると多くの搭乗員が回顧している。

Img_7956  この位置から見ると、かつての航空自衛隊第一世代主力要撃機F-86を思い出す。F-86も多くの基地において保存機区画に永久保存されており、航空祭にお出かけの際には是非ご覧頂きたい。

 なお、本機が富士重工において開発された背景には、新三菱重工(現:三菱重工)がF-86のライセンス生産に忙殺されていたという事情があったが、富士重工で手に余る分野は、、新三菱重工、川崎重工が協力して設計を行ったという事で、本機は第二次世界大戦敗戦によって失った航空技術再興の鏑矢というべき機体であった。

Img_7958  そしていつまでも、蒼穹の彼方に消えた金属音が響いていた。

 なお、小生は実はピンボケに終わったMCH-101の再度撮影を青空に誓い、激写を期して長躯岐阜基地に展開した際に偶然撮影したもので、文字通り“タナボタ”であった。

 で、くだんのMCH-101であるが、飛ばなかったのはザンネンである。飛ばないモノは小生も撮れない。で、今度の今度こそ撮影を期してカメラを磨き、機会を窺っていたらば・・・、・・・、海上自衛隊に引き渡されて厚木に飛んでいってしまったのであった・・・。観艦式で飛んでくれる事を祈ろう。

小牧基地 三月三日

 岐阜基地に続いて翌日、小牧基地においてT-1Bのラストフライトが実施された。

Img_8012_1  岐阜基地で遠方からの航空ファンと話に花を咲かしていると、小生はT-1の方がスタイルが好きという話になり、『なら、明日、小牧に行かれるのですか?』と。

 ここで、三月三日、小牧基地においてラストフライトが実施されるという事を知った。実は、他の方からも一日か三日に小牧でラストフライトが実施されるというお話を聞かせていただいており、しかし一日は烏丸御池にて所用があり、てっきり小牧のT-1Bには縁が無かったと諦めていたところである。

 T-1Bラストフライトに関する情報を下さった皆さんありがとうございました、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 情報に際し、即断決断、小生は長躯名鉄牛山駅を目指し展開した。

Img_8018  小牧基地は旧名古屋空港、ボーイング747をはじめ多くの旅行客を世界へ日本各地へ旅立つ窓口として機能し、滑走路南端部分には公園が整備されている。また、滑走路南端付近には公園の自販機、お手洗いに加え喫茶店があり、歩道橋の上からは滑走を見渡す事が出来る。

 牛山駅から思いのほか滑走路南端までは遠く、背嚢が背中に食い込む中歩きつつけて四十分、滑走路南端にたどり着いて十五分後、金属音とともにT-1Bが四機、誘導路を滑走路に向かい進入してくる。

Img_8019  このとき、歩道橋上に二名、公園に三名ほどカメラマンが居り、フェンス沿いには定期健診に着陸したF-15Jの撮影を期して五名ほど待機していた。望遠レンズで見ても全部で十五名ほどだったろうか、T-1Bが出てくるまでは実は小生も半信半疑でカメラを構えていたが、突如向うの方から四機を確認でき、心の中で快哉を叫んだ。カメラ本体の書店機能を含め、480㍉相当の望遠レンズで撮影した為近く見えるが、機体までの距離は1500~2000㍍ほどの距離があり、カメラを三脚に乗せ撮影した事で、手ぶれを最小限に抑える事が出来た。

Img_8023  1958年1月19日、富士重工宇都宮工場において初飛行を成し遂げたT-1練習機は、失った航空産業復興に大きな役割を担った。第二次世界大戦敗戦は、質的に日本の技術が劣ったのではなく、単に物量で押し迫る連合国の過飽和攻撃に圧倒された、と信じたいものがあったのは確かだ。

 サンフランシスコ講和条約において国家主権を回復した日本は禁止されていた航空産業の復興を願ったのはいうまでも無い、一時は日本から重工業全てを撤去し、農業と軽工業にて細々とする小国への解体をGHQが期したことは確かであるが、朝鮮戦争の勃発が皮肉にも日本に取り僥倖となった訳だ。

Img_8028  1952年になると、立川飛行機、東洋航空、日本大学が次々と軽飛行機を開発したが、やはり悲願は世界に通じる第一線航空機の開発である。しかし、中島飛行機が戦時中に国産ジェットエンジン“キ20”を搭載して開発した橘花からの航空技術の進歩は目覚しく、1954年の航空自衛隊発足とともにライセンス生産を開始すると、F-86やT-33を目の前にし、敗戦から九年間の技術的格差の大きさを痛感したのはある種当然ともいえよう。

 ここで、航空技術復興の第一として第一線戦闘機を開発するのではなく、練習機を開発するという方針が定まり長官決済の後、1956年3月31日に提案書が出された。

Img_8037  小牧城を望みいよいよ滑走準備を開始する第五術科学校最後のT-1B。

 要求性能の一つにマッハ0.85とあり、果たしてそれだけの高性能機を開発しうるかという議論は当然沸き起こったが、東北大学から富士重工に戻った渋谷巌技師や各社技師達は冷静に技術の分析を行い、可能となりうるとの結果に至ったようだ。

 富士重工案はT-33のような機体とは異なり、高速性能に達しうる後退翼が採用されていた点が他の案より抜きん出ており決定に至ったといわれている。

Img_8044  1957年3月31日、富士重工を主契約企業として試作機三機が3億7000万円で契約され、初号機ロールアウトは同年12月19日という早い時期に完成、翌年初飛行となった。日本航空技術再興という目的はともかく、敗戦から空白を経て十二年間でこれだけの機体を完成させたという事実は、ある意味驚きと感動を禁じえない。

 機体は一応12.7㍉機銃を搭載可能で、機上操作訓練の他、必要に応じて補助戦闘機としても用いられる機体であった。

 しかし、搭載する石川島播磨重工の国産エンジンが遅れており、英国製ブリストルシドレー・オルフェースエンジンを搭載して初飛行を成し遂げた。初号機は高岡1佐が操縦桿を握り滑走距離280㍍で浮き上がり、フェンス沿いに歴史的瞬間を待った一般市民からも歓声が上がったという。

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 不鮮明で恐縮だが名古屋市内上空を小牧基地に向け飛行する四機編隊。

 1964年1月8日、T-1の愛称を『初鷹』と防衛庁は発表し、一次量産20機は36億円で契約され生産が始まった。

 難航していたJ-3エンジン開発は、1959年1月10日にC-46輸送機に搭載し実験が開始され、1961年12月27日にT-1Bの製造契約14機が決定した。その後、タービンエンジンのタービンブレードがエンジン発動中に破損し吹き飛ぶという深刻な事故が生じたが、石川島播磨重工の技師による献身的且つ必死な努力により改善し、今日に至った。

Img_8056_1  T-1練習機はA型、B型併せ、64機が生産。1963年7月12日、宇都宮において完納式が実施された。

 T-1練習機のホームスコードロンである第13飛行教育団は、宇都宮から岐阜、そして芦屋に移駐したが既に教育訓練ではT-1は全て引退している。

 最後の編隊飛行を見事なダイヤモンド陣形にて小牧基地上空を通過する第五術科学校のT-1B練習機。

Img_8061_1  操縦特性のよさを挙げると、1965年4月19日のオーストラリアT-1調査団来日が挙げられる。当時、同級の練習機としては特筆すべき性能を有しており、豪州空軍次期ジェット練習機の候補筆頭にT-1練習機が挙げられ、芦屋基地に視察団が来たのである。

 豪州空軍調査団のT-1に関する評価は高く、関係者の多くは輸出決定を確信し喜んだものの、政治的理由によりMB236が決定されたという。C-1輸送機も米空軍のC-123後継機案に挙げられたものの、性能上は上位にありながら政治的理由から決定に至らなかったのは残念でならない。

Img_8066  三月三日、1000時、ラストフライトを実施したT-1Bは一機が永久保存の為に小牧基地に着陸し、三機は三月九日に実施の退役セレモニーに向かい飛び去っていった(小生はそれを知らず帰還を信じ、悲しいかな三時間粘っていました)。

 基本操縦技能を修得するためには一大傑作機と多くの搭乗員が評価した機体は、いよいよ航空自衛隊を去った訳であり、戦後日本航空史の転換点というか世代交代なのであるけれども、何かもの寂しいものを感じたのは小生だけではないだろう。

Img_8069  ラストフライトを終え、小牧基地に着陸するT-1B。

 なお、ラストフライトに参加した四機を除いても十三機が各地において永久保存されている。内五機が静岡県の浜松基地や喫茶店、企業に展示されているという。

 対して七機が48年間の運用の間に事故損失によって失われている(他に二機が事故を起こしているが修理の後、第一線に復帰している)。航空管制に関する教育を行った第五術科学校は今後、航空機を用いず教育訓練を行う事となる。こうしてT-1は48年の歴史に幕を閉じた。

Img_8101  T-1Bが着陸した小牧基地も少しの静寂をおいて小牧基地第一輸送航空隊のC-130H輸送機が滑走路脇の誘導路を滑走路に向かい進んでいく、T-1が育て上げた空の荒鷲は、T-1が退役した後も、日々、わが国含め世界の平和と安全の為に大空を翔け続けるであろう。

 ♪エンジンの音、轟々と初鷹は往く、雲の果て翼に輝く日の丸と、尾翼に描きし金鯱の、翼は我らが国産機 ♪  大空は待つ、次なる若き荒鷲を!!

HARUNA

(掲載写真及び文章の著作権は全て北大路機関にあり、無断転載は厳に禁じる)

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岐阜市消防局防災訓練・巡視船みうら入港

2006-03-19 13:21:37 | 写真

岐阜市消防局防災訓練

 2月23日に撮影した写真で少々遅くなり恐縮だが、詳報としてお送りしたい。消防出初式や府警県警観閲式、都道府県中心の対テロ訓練などは北大路機関の特性上、扱わなかったが今回は特別に情報があり、小生も展開を行った。

Img_7592  人口40万の人口を抱える岐阜市は、200万の岐阜県県庁所在地であると同時に、東海三県にあって名古屋市に次ぐ大都市であり、一宮市・岡崎市・小牧市・春日井市・大垣市・豊橋市とともに名古屋都市圏を構成している。

 その為、複合商業施設や航空産業といった工業地域も所在し、岐阜市消防局はこの広域を責任範囲として任務に当たっている。また、岐阜県は北部に三千米級の飛騨山脈を有する関係上、岐阜県警とともに山岳災害に対する責任も負っている。今回は、岐阜市南部の複合商業施設において火災が発生したとの想定で県警・市消防局が協力し対処する訓練を実施した。

Img_7580  これまでは、岐阜市内に高層建築物は極限られていたが、目下岐阜駅周辺に100㍍クラスの超高層ビルが建築中であり消防局はその需要に応じ大型の梯子車を装備している。

 浅学にして梯子車に関する詳細な知識を持ち合わせないが、十階程度の中層建築物に対しては対応可能な装備である事が写真から判別できる。

 梯子車は人命救助と同時に、高所からの放水による延焼阻止という任務を有している。

Img_7569  要救助者を吊り上げる岐阜県警航空隊のBK-117ヘリコプター、川崎重工とユーロコプター社が共同開発した機体で、容量の大きな胴体には10名の人員を収容可能、ユーロコプター社ではHOT対戦車ミサイルと機銃搭載の武装ヘリ型を提案している。

 同機は先日、岐阜基地においてスキーをスキッドに装着し訓練している様子が報道されており、冬季の山岳救助にも大きな威力が期待できる。3190㍍の穂高を中心に連なる飛騨山脈では例年多くの登山者が事故にあっており、航空救難は県警航空隊の重要な任務の一つである。

Img_7599  放水を終わり装備品を格納する消防車。

 東海地震の危険区域に区分される岐阜県であるが、広大な面積を誇る岐阜県に対して、県内には陸上自衛隊は地区施設隊(岐阜分屯地)の一個中隊のみで、災害派遣は名古屋市の第十師団の協力を得るより無いが、第十師団も名古屋や愛知県南部の災害派遣という重責がある。東海地震発生時には救援活動の拠点となるであろう航空自衛隊岐阜基地の機能維持が限界であると見られているため、その分、市消防局の双肩にかかった責任は非常に大きいといえよう。

Img_7600  梯子を格納中の梯子車。

 航空自衛隊の航空事故対応型消防車に見慣れた小生には、梯子車というものを詳細に見たのはこれが初めてかもしれない。

 高所火災消火に不可欠な梯子車であるが、その分重量があり、現場到達までの機動性に限界があるのが難点だ。

 尚、警察は犯罪の広域性に対応して都道府県単位、消防は火災の延焼範囲の局地性を考慮し市町村単位に本部が設けられている。

Img_7593  見事な機動飛行を展示するBK-117。

 機種部分にサーチライトが装備されており、地上灯火の豊富な都市部であれば、視界が良好である限り夜間飛行が可能である。

 機体左側面にはウインチが装備されている。BK-117は愛知県警航空隊も装備しているが、同機はスタビライザー付の球状カメラを装備しており交通監視・犯罪対応に重点を置いているが、ウインチ装備の本機は災害時における救難を主眼としている事がわかる。

 このように充実した訓練を行っており、情報次第では京都・岐阜・愛知の対テロ訓練も展開を今後考慮したいと思った次第だ。

Img_7620  さて、小生は当日、名古屋にて別法があり、同時に巡視船入港の情報を得た事から早めに名古屋市に展開した。

 名古屋市は人口220万名、パリ市が230万名であるから世界的に見ても大都市であり、愛知県内のGDPはベルギーやオランダ一国に相当する規模を有している(ただし、東京都域内GDPはイギリス一国に相当するが)。写真は名古屋駅前の大名古屋ビルヂングと建設中の豊田ビル(新)である。現在名古屋市では急速に高層化が進んでいる。

Img_7634  巡視船を撮影すべく名古屋港に展開した際の写真である。写真は永久保存されている海上自衛隊の退役砕氷艦『ふじ』と、南極観測隊に同行したカラフト犬、“タロ”“ジロ”の銅像である。

 無神経で非道徳なアメリカ人がリメイクした『南極物語』が劇場では好評と聞くが、高倉健・渡瀬恒彦の南極物語は、戦後初の南極観測隊派遣に際して、日本の昭和基地を舞台とした実話である。当時は南極といっても簡単に行けるものではなく、第一次越冬隊は遺書をしたため、砕氷艦『宗谷』も恐らく沈没するのではないかと晴海埠頭を見送る家族や一般国民は一大壮挙としつつ、永久の別れを覚悟したという。

Img_7625  現在運用されている砕氷艦『しらせ』は基準排水量11600㌧、この『ふじ』も5000㌧であるが、『宗谷』は2500㌧、『はつゆき』型護衛艦よりも遥かに小さく、また建造は戦前であった。しかし、南洋航路航行中に魚雷を受けても不発であったり、また主要航路を航行しながらも米潜水艦に中々遭遇しなかったなど、幸運艦であった。戦艦『榛名』、駆逐艦『雪風』など数多の戦闘を運というより無いほどの中で生き延びたフネは多々あり、『宗谷』もその一隻であったが、悪天候の中やむにやまれずカラフト犬は置き去りにされ、二匹が奇跡的に生還したという実話である。ヴェトナム戦争に大量の軍用犬を送り、輸送手段がありながらも見捨てて帰国したヤンキー共とは違う事は留意しておくべきだろう。

Img_7627  『ふじ』は『宗谷』の後継として建造され、運用は海上保安庁から海上自衛隊に移った。ヘリコプター格納庫を有する最初の艦として建造され、南極観測隊を昭和基地まで送り届けた。

 砕氷艦とは、艦首部分を氷に叩きつけ、それでも突破できなければ後退して再度加速、駄目ならば氷に乗り上げて艦内の重量物を左舷右舷と移動させ振動によって氷を破砕する。『ふじ』以降実施されないと聞くが、最後の手段では氷に爆薬を仕掛け、一列に連続爆破させるという最終手段がある。

Img_7622  こうした南極観測は日本国内でのコンテナハウスや極地用無線機、雪上車というような、いわば後方支援と技術的下支えの下で完成している。

 写真は雪上車であるが、戦後日本、軍事超大国としての地位を敗戦によって失った日本にとり、経済成長を実感させる国威発揚にも南極観測は有形無形の成果を示し、安定した顕在大国の地位を不動とした今日では、オゾンホールや地球温暖化観測と対策の最前線として各国は南極に観測隊を送り続けている。

Img_7672  『ふじ』の撮影を終え、イタリア村のあるガーデン埠頭方面に歩いていると時間通り、名古屋港に海上保安庁の練習巡視船『みうら』が入港してきた。

 『みうら』は既に既報ながら、災害対策型巡視船の二代目として建造されたもので、平時にあっては舞鶴港を母港とし、若い海上保安官のシーマンシップ育成に当たっているが、災害時には練習巡視船から災害対応巡視船に転用される訳である。

Img_7655  災害対応型巡視船とは、その必要性が痛感されたのが1995年の兵庫県南部地震、いわゆる阪神淡路大震災である。

 災害救難の中心となるべき第七管区海上保安本部が被災してしまい、通信や人員といったその指揮機能が麻痺した事に端を発する。

 『みうら』には、講堂として用いられている区画を急速に災害対策指揮所に変更する事が出来、洋上から指揮命令系統を維持できる。

 他にも、医療設備も他の巡視船と比して高度なものが搭載されており、応急的な病院船としての機能を持つことに加え、毛布や非常食糧、医薬品などを平時から備蓄している。

 無論、巡視船であるから、20㍉多銃身機銃を有し、必要に応じて警備救難任務にも対応できる他、ヘリコプターの発着支援設備も有している。

Img_7694  なお蛇足ながら、昭和50年代に建造された海上保安庁の1000㌧型巡視船の多くは耐用年数を向かえ若しくは超えており、急務として代用船舶の建造が急がれているが、北朝鮮工作船侵入事案に端を発する、高速性能やダメージコントロール機能、火器充実といった警備救難任務の強化とともに、災害対策という重大課題もあり、対して予算増額は難しいという現況が海上保安庁にある事を頭の片隅においておくべきと小生は考える。

 練習巡視船『みうら』に続いて、ということでもないが、3月26日には、海上自衛隊の近海練習航海部隊が三隻、名古屋港に入港予定とされている。

Img_7704  『みうら』を撮影した後、名古屋市内に戻った。

 星野書店、三省堂というような書店が名古屋駅前の名駅には多く所在し、中心部栄にもBOOK1st、旭屋書店、紀伊国屋という書店街が、そして鶴舞・上前津周辺には30軒程の古書店が並んでおり、学術書に関しても京都大学隣の古書店外よりも充実している。

 小生も友人と合流するまでのあいだ書店を回り、必要な書籍を探す事が出来た(海上自衛隊機密情報漏洩事件の第一報が入電したのはこの頃である)。

Img_7712  その後、友人と別法にて酒を酌み交わした。

 友人のY氏は中国文学を専門とする古くからの友人で、非常に博学である。インテリ肌という訳ではないが、中々鋭い。

 今回の別法は、彼の大学院合格祝いというカタチであるが、鍋を囲み、ビールを幾本か空け、熱燗も空け店を出たらば、名古屋市のシンボルであるツインタワーが点灯しており、その写真も撮影し撤収した。

Img_9292  昨日、舞鶴に展開した際に『みうら』を探したが、残念ながら見ることは出来なかった。出港していたのだろうか。

 舞鶴基地の自衛隊桟橋は舞鶴の観光名所となっており、護衛艦に多くの一般市民が写真を撮ったり質問していたりした。

 写真は第三護衛隊群旗艦『はるな』と、第63護衛隊隷下の『しまかぜ』。

HARUNA

(掲載写真及び文章の著作権は全て北大路機関にあり、無断転載は厳に禁じる)

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岐阜基地一周 MCH-101を追って

2006-03-18 22:21:51 | 先端軍事テクノロジー

新型機を追って

 既報ながら、2月24日、海上自衛隊の新型掃海輸送ヘリコプターMCH-101を撮影すべく、川崎重工岐阜工場が所在する岐阜基地を徒歩にて一周した。今回はその様子を写真にてお伝えしたい。

Img_7716  『被写体を前に、並の腕前さえあれば、誰でもスクープとなりうる写真を収める事が出来る、しかし、その被写体に辿り着く事が難しいのだ』と、軍事写真撮影の大家、柴田三雄氏は言っている。

 『どれだけピンボケであろうと、欠けていようと、撮ったヤツはエライ!撮れんかったらアホである』と、報道写真家の宮嶋茂樹氏は著書に述べている。

 この言葉を重く受け、小生は長躯、新型機が飛び、次期輸送機・哨戒機の格納庫建設が進む岐阜基地に進路をとった。

Img_7724  岐阜基地は川崎重工岐阜工場と同じ敷地にある。

 これは第二次大戦中、航空産業の中心地である三菱重工名古屋工場に滑走路が無く、わざわざ完成した機体をバラして岐阜まで運んだ事の反省からかどうかは不明だが、航空基地と航空工場が同居しており、これは小牧基地においても同様の事(三菱重工名古屋工場)が言える。しかし、航空機の大きさが示すように、その工場も非常に大きく、高い防音壁が何処までも何処までも続いていた。

Img_7731  ようやく工場を抜け、滑走路東端を越えたあたりでジェットエンジンの音が聞こえる。独特の音に聞き覚えがあり望遠レンズを空に向けると、飛行開発実験団所属のT-1B練習機が飛行していた。

 写真は拡大である為非常に不鮮明であるが、既報のように今日では既に退役したT-1Bが飛行している。飛行開発実験団にはこの時、1機が在籍していた。

 機体は上昇すると共に大きく旋回し、再び着陸したようだ。

Img_7739  その直後であった。

 1320時、山越しに今回の撮影対象であるMCH-101掃海輸送ヘリコプターが飛行しているのを発見、直ちに撮影した。

 同機はMH-53D掃海ヘリコプターの後継機とされており、海上自衛隊の艦載ヘリコプターとして初めて掃海機能を有し且つ、補給物資の海上航空輸送(ヴァートレップ)を行う機体であると同時に、海上自衛隊初の欧州機であるという点が画期的である。

 即ち、洋上作戦能力の向上という直接的影響、そして米軍機一辺倒であったこれまでの機種選択肢に欧州機採用を契機とする柔軟性の付与という間接的影響が存在する。

Img_7740_2  現在海上保安庁が進める次期ヘリコプター計画では、同じく欧州機のNH-90が選択されつつあり、また同じく国際共同開発のS-92も米国でS-70シリーズの後継機として声が上がっている。S-70シリーズは、日本でもUH-60JAやSH-60シリーズとして陸海空自衛隊で運用されているが、天井が低く機内で立ち上がれないという問題点があり、EH-101、NH-90、S-92が後継機として名乗りを上げている。欧州機という、これまではある種当て馬的な扱いであった機体に、実力本位というかたちの障壁撤廃が為された事は、大きな前進であると小生は考える。

Img_7746  さてさて、更に足を進めると航空祭でも滑走路の反対側に望む事が出来る第四高射群の陣地が見えてきた。一般道路や住宅街から東海地方防空の要が丸見えというのもどうかと思うが、射撃官制のレーダーは高い方が見通線が長く取れ、その分迅速な目標の発見と対応が可能である。

 運用しているペトリオットはPAC-2で、射程は約100km、岐阜基地を中心に琵琶湖東岸から豊橋市までをその射程に収めており、限定的な弾道弾迎撃能力があるとされている。

Img_7751  エンジンの音轟々と、離陸していく飛行開発実験団所属のF-15J要撃機。

 いわずと知れた航空自衛隊の主力機で、八個飛行隊に203機が配備されている。初号機がアメリカより太平洋を越えてこの岐阜基地に到着したのが1981年。航空自衛隊がF-15Jを受領してから今年で25年になるが、いよいよ旧式化著しいF-4EJ改要撃機の後継機選定が大詰めであり、その後継機も恐らくこの飛行開発実験団より配備が始まることとなろう。

Img_7770  そうこうしている内に、『かがみがはら航空宇宙博物館』に到達した。1994年開館の同博物館は体験型の航空史博物館として建設されたものの、バブル期に計画された多くのテーマパークと同じく赤字の累積という状態を続けている。

 野外展示の機体は、川崎重工によってライセンス生産が行われ陸海空自衛隊のみならずサウジアラビアなどに輸出されたV-107ヘリコプター、その後ろに展示されているのが日本初、そして目下唯一の国産旅客機であるYS-11である。同機は日本国内の民間路線からは全て退役したが、海上・航空自衛隊や海外のエアラインでは現役の機体だ。

Img_7761  写真はP-2J対潜哨戒機。

 ロッキード社製P-2Vのエンジンをターボフロップに近代化し、補助ジェットエンジンを搭載、加えて床と天井を改良し10㌢高くなったことで機内を歩行できるようになったいわば準国産機である。

 全機無事故にて任務完遂用途廃止という輝かしい功績を残しつつ退役したが、当然沸き起こった後継機の純国産機案であるが、米国からの政治的圧力により現行のP-3C導入となった。しかし、四半世紀以上を経た今日、培った技術的蓄積の上で目下、川崎重工が中心となり次期哨戒機が開発中である。

Img_7775  航空宇宙博物館駐車場より撮影したF-2支援戦闘機。

 各種試験を円滑に行う為の派手なカラーリングが特色である飛行開発実験団所属機。

 当初は国産開発案があり、ラビとグリッペンを足して二で割ったような外見の三菱重工案、F/A-18Cを丸くしたような川崎重工案、両案を統合した米JSF計画の一案のような形状の案が提示されたが、日米貿易摩擦の影響により日米共同開発、今日のかたちとなった。しかし、兵装搭載量8085kgというF-2の実力は大きく、石破防衛庁長官時代に調達数の下方修正(130機案を98~99機に縮減)は惜しまれる決定であった。

Img_7790  101機が調達され、20機がモスボール、80機が8個航空群において運用される海上自衛隊のP-3C哨戒機。一機で四国島に相当する海域を哨戒可能とされる高性能機で、海洋国家日本にあって、冷戦時代にはソ連太平洋艦隊を相手としたシーレーン防衛、今日では沖縄県・鹿児島県島嶼部の排他的経済水域哨戒任務に大きな威力を発揮している。

 第二次世界大戦中、シーレーンを潜水艦により絶たれ、飢餓状態に近くなり敗戦に追い込まれた日本は、一国で欧州NATO諸国の二倍、米海軍が全世界に展開する部隊の半数を、国内の基地(八戸・厚木・鹿屋・那覇)に展開させている。

Img_7799  岐阜県警航空隊のベル412中型ヘリ。

 富士重工によってライセンス生産が為されており、陸上自衛隊のUH-1J多用途ヘリ後継機の有力候補とされているが、双発により高いエンジン出力、そして四枚ローターによる高い機動性を持ちながらも、エンジン着脱に非常な時間が掛かるという野戦運用では致命的といえる整備上の問題点が指摘される。

 なお、岐阜県警航空隊は岐阜基地滑走路東端に置かれている。

Img_7796  220機が生産され、航空自衛隊の主力練習機の地位を確立したT-4練習機。純国産機である。

 ブルーインパルスも使用する機体で、T-2退役後はジェット機による学生教育は全て本機により実施されている。

 蛇足ながら、火器管制装置や固定武装は有しないものの、1400kg程度の兵装搭載量を有しており、IRSTのような簡易式の火器管制装置を搭載すれば近接航空支援に最適な機体となるだろう。

Img_7788  さてさて、岐阜基地一周もようやく終わりが見えてきた。目的はMCH-101撮影、一応それは成功した。

 岐阜基地一周、外柵外側一般道路を歩いた為、地図上では16km歩いた事がわかった。新管制塔と新格納庫群が国道21号線を走る自動車越しに見る事が出来る。

 航空基地がこうした住宅街を国道一本隔てたところに所在する事は諸外国からは特異に思われるかもしれないが、小牧基地や入間基地のようにこうした光景は意外に多い。わが国において最も古い飛行場の一つである岐阜基地は、航空の街として共に歩んだ歴史があり、市民と共にある基地、といえるだろう。

Img_7803  旅路の最後に、国道21号線越しにみた、国産練習機T-2初号機の写真を掲載したい。

 ジェラルミンが眩しく輝くこの機体は、日本航空技術が初めて音の壁を越えた歴史的機体であり、長きに渡って航空自衛隊とともに歩んだ機体である。

 岐阜基地において永久保存が決定されており、滑走路西端の保存機展示区を見る限り、航空自衛隊の保存機は良好な状態に保たれる事が多いと確信しており、今後も日本の空を見守り続ける事となろう。

舞鶴基地展開

Img_9356 蛇足ながら、本日(3月18日)、特急舞鶴号にて長躯、海上自衛隊舞鶴基地に展開し、第三護衛隊群、及び舞鶴地方隊隷下の艦艇を撮影した。

 本日展開した際に、護衛艦五隻、掃海艇二隻、ミサイル艇二隻が在泊しており、これに関する詳報は、後日、舞鶴の歴史と共にお伝えしたい。

 お楽しみに。

HARUNA

(掲載写真及び文章の著作権は全て北大路機関にあり、無断転載は厳に禁じる)

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京都 清水東山花灯路 夜景写真集

2006-03-18 07:30:37 | 写真

 昨年度、清水寺夜間特別拝観に関する夜景の写真を二度にわたり掲載したが、今回は2006年最初の夜景撮影として昨夜展開した、例年好評の“東山花灯路”の夜景撮影写真を掲載したい。

 これは清水寺周辺の文化地域で実施されているもので、本日が最終日である。京都近傍にお住まいの方は是非足を運ばれる事をお勧めしたい、一味違った京都をみることができる。尚、桜花シーズンには、清水寺の夜間特別拝観が実施されるとのことで、その際にも写真を本ブログにてお伝えしたい。

 HARUNA

 (画像は北大路機関に著作権があり、無断転載は厳に禁止させていただきます)

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平成十七年度 春日井駐屯地祭 詳報

2006-03-17 14:44:54 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

 2006年3月5日、愛知県春日井市に所在する陸上自衛隊春日井駐屯地において駐屯地祭が実施された。今回はその詳報をお伝えしたい。

Img_8456  既報ではあるが、此処で改めて春日井駐屯地の部隊について詳述したい。

 春日井駐屯地には、第十師団隷下の第十後方支援連隊、第十施設大隊、第十偵察隊の隊員1100名が駐屯しており、隣の名古屋市守山区にある師団司令部から陸路で十五分ほどのところに所在している。中部方面隊の愛知静岡県境から東海三県、北陸地方の防衛を担う第十師団が任務を遂行する上で欠くことのできない部隊が駐屯している。

Img_8449_1  式典に際して、指揮官訓示では、北朝鮮拉致事案や国際的なテロリズムの拡散という国際情勢の厳しさや陸上自衛隊イラク派遣任務、間もなく開始される陸海空自衛隊の統合運用といった内容に触れつつ、更なる練度向上と団結の強化を受閲部隊に対して訓示した。

 式典にはその後、祝電や地元代議士、春日井市長の訓辞が行われたが、JR春日井駅からの連絡バスも大車輪で活躍し、地元以外にも遠方から多くの市民が駆けつけ、式典を見守った。

Img_8445_1  指揮官巡閲を行う駐屯地司令。

 整列した隊員が携帯している小銃は、施設大隊と偵察隊に89式小銃が配備されており、後方支援連隊の隊員は64式小銃を携帯していた。

 師団の目となる偵察隊は戦闘職種である機甲科に属するが、国連平和維持活動や国際人道援助任務に活躍する施設科も、ドーザーやホイールローダー、作業車、架橋設備などといった装備は本部管理中隊所管であり、施設中隊は普通科に準じた近接戦闘任務に充てられる事もある為、小銃は必須の装備品である。

観閲行進

Img_8498  観閲行進が開始され、観閲官に対して部隊指揮官が敬礼を行う。最初は第十後方支援連隊から行進を実施したが、これは指揮官が1佐である“連隊”だからであろうか。

 なお、同連隊は二年前の第十師団師団改編時に守山駐屯地から移転してきた部隊である。既報ながら改編に当たって第十対戦車隊が廃止され、各普通科連隊の無反動砲小隊に代わり対戦車中隊が新編、師団の対戦車能力は大幅に向上した。

Img_8474  観閲行進を軽快な行進曲と共に盛り上げる音楽隊は中部方面音楽隊で、昨年の伊丹駐屯地における中部方面隊創設記念行事においても演奏を行った部隊である。室内音楽になれた小生にとり、各駐屯地で行われる野外演奏はまさに迫力であり、これは皆さんにも体験してもらいたい見事な演奏である。

 音楽隊の後方に車輌が控えているが、春日井駐屯地祭の特色としては、観閲行進に徒歩行進が無く、テンポの速い車輌行進によって進められている点である。

Img_8510  観閲行進を行う74式特大運搬車、所謂タンクトランスポーターである。戦車部隊は滋賀県の今津駐屯地に第十戦車大隊が駐屯しているが(駐屯地祭は既報)輸送隊は第十後方支援連隊に所属している。例年、同車は74式戦車を搭載して行進しているが本年は戦車を搭載していなかった。尚、重トレーラーとの相違点は後部にタイヤが露出していない点である。この車輌は帰路、駐車場から駐屯地を出る際に少なくとも五輌程が駐車していた。全部行進したらさぞかし壮観だろうと思った次第だ。それもその筈、最大積載量は実に40㌧に及び、運搬車自体も9.7㌧の重さを有している。

Img_8522  施設大隊の81式自走架橋装置。

 地皺や河川に対し迅速に74式戦車も通行可能な橋梁設備を迅速に架橋する事が出来、天然・人工問わず障害物突破に威力を発揮する。

 従って、90式戦車といった一部の装備を除く師団の全ての装備を渡河させる事が可能であるが、一方で油気圧パイプなどが外部に露出しており、砲迫火力に曝された場合に弾片によって破損する恐れがあり、可能ならばセラミック製のチキンプレート装着が望ましい。

Img_8528  同じく施設大隊所属の83式地雷原敷設車。

 73式大型トラックや73式装甲車により牽引し、迅速に地雷原を形成する事が出来る。なお、オタワプロセスの対人地雷全廃条約批准によって対人地雷の保有が発効後、訓練用を除いて禁止され、対人障害としては官制式の指向性散弾地雷が用いられる事となっているが、同車も対戦車地雷の敷設に使用が継続される。

 省力化が進む陸上自衛隊にあって、迅速且つ有効な対戦車障害物を形成できる地雷は重要な装備品であり、この他航空機から地雷を散布する装置も陸上自衛隊には装備されている。敷設する92式対戦車地雷は一定以上の圧力を感知すると2000㍍程度までのジェット熱流を発し、戦車を無力化する。

Img_8534  施設大隊の道路障害作業車。

 ウインチやドリル、バケットといった様々な装備を73式大型トラックに搭載して、迅速に障害物を形成、有事にあっては、敵部隊の侵攻を鈍らせ、増援が到達するまでの時間をつくる遅滞行動には大きな威力を発揮する。

 前述の地雷敷設車では舗装道路上に地雷原を形成しても秘匿する事が出来ないが、同車であればアスファルトに対戦車地雷を埋没させる事もでき、またコンクリート塊や路肩のガードレールなどを有効な障害物に変える事が出来る。山間部の多いわが国において、極めて大きな威力を発揮する。

Img_8543  続いて偵察隊の斥候用オートバイが観閲行進を行う。

 偵察任務には、敵部隊に対して小規模な攻撃を加えその反応を図り、敵部隊の規模や装備を調べる“偵察”と、敵の有無を調べる斥候任務があり、まさにオートバイ斥候は敵の有無を調べる重要な任務をおっている。

 単身、彼我入り乱れる競合地域に潜入する任務上、高い技量が求められ、駐屯地には、野外アスレチックのようなオートバイ運転訓練場があった。こうして日々厳しい訓練を行う彼らは、運転しつつ小銃射撃を行うというような技術も有している。

Img_8546_1  続いて観閲席の前を通過する偵察隊の73式小型トラック。車体には5.56㍉分隊機銃MINIMIが搭載されている。これは7.62㍉62式機銃から更新されたものであるが、MINIMIに関して、米軍はじめ多くの国で使用されているものの、イラク戦争では威力や射程の問題も指摘され、12.7㍉機銃の運用も視野に入れるべきとの声もある。

 なお、旧73式小型トラックは急速に新型に更新されているが、車体全面のフロントガラスに装着されたワイパーに問題があり、特に降雪時に雪を掻き下ろす上で問題があった為、急遽運転席上面に補助ワイパーを搭載するという改良型が開発されている。

Img_8549  偵察隊の最後を締める87式偵察警戒車。

 既に約100輌が調達され、25㍉機関砲によって威力偵察を行う。また、微光増倍方式暗視装置を搭載しており夜間の任務にも搭載している他、二名の斥候員が同乗でき、必要に応じて降車、偵察を行う。

 本来、軽戦車の任務であった威力偵察には25㍉機関砲では限界があるのではないかという指摘や、昼間でも使用可能で偽装に対抗できる熱線暗視装置の搭載を求める声もあるが、近年では軍事情報革命の進展により、単に師団の前進部隊としての偵察隊よりも、武装に代え高度なセンサーを搭載した車輌が各国で開発されており、主流となりつつある。

 観閲行進には、例年であれば施設大隊の92式地雷原処理車や75式装甲ドーザー、資材運搬車などが参加するのであるが、本年は参加しなかった。現在、第十師団は国際緊急人道支援任務の待機部隊に指定されており、その関係で参加しなかった可能性を感じたのだが、どうであろうか。

訓練展示

Img_8571  観閲行進の後は訓練展示が行われた。

 訓練展示とは、自衛隊の任務を空包などによって再現するもので、大変迫力があり好評である。本年はゲリラコマンド対処を想定した市街戦戦闘を想定したものが展示された。

 訓練展示は、第十飛行隊に所属するOH-6観測ヘリコプターの飛来から状況開始となった。観測ヘリは特科火砲の弾着観測や対戦車ヘリの支援を任務としているが、小型で且つ軽快な空中運動性能を有している事から、生存性が高く、敵対空火力が限定されているゲリラコマンド対処には普通科部隊の上空からの支援にも用いられるようだ。

Img_8576  状況では、当該地域(グランドと建物)に対して少数のゲリラが浸透したという想定で開始され、斥候の為に観測ヘリの支援の下、オートバイ斥候が前進するという方式で開始された。

 蛇足ながら、訓練展示を撮影するに当たって重要なのは、想定敵陣地の位置や戦車の向かう方向が重要となり、観閲行進から訓練展示に移行するまでの間、音楽隊の演奏もそっちのけでカメラマンは望遠レンズにより駐屯地内を見回し、その位置を見極める。

Img_8582  敵ゲリラ、発砲!

 12.7㍉機銃を階段の踊り場から突如発砲する想定敵。ゲリラにしては豪勢な武器を持ち込んだと思ったが、徹甲弾を用いれば軽装甲車も撃破出来る重機関銃は、第二次世界大戦以来多くの国で使用されているが、別名重銃身機銃といわれるほど重量が大きいのが難点である。

 しかし、二発命中すると胴体が千切れるという程の威力を持っている(某ドラマでは人に向かって撃ちまくるシーンがあったが)。

Img_8587  オートバイ斥候によって発見した敵に対して、偵察隊が威力偵察を行う。

 アルジェリアやヴェトナム、アフガニスタンの戦訓をみる限り、車輌は格好の目標になる為、73式小型トラックから隊員が離れている。後方には87式偵察警戒車が25㍉機関砲を向け、目標を威圧している。同軸機銃として7.62㍉機銃を搭載しているが、高度な照準器と安定した砲塔に搭載されている関係で、普通科部隊による野戦使用よりは高度な命中精度を有している。

Img_8598  フォーメーションを展示しつつ前進する偵察隊員。

 機銃を敵が持っている以上、数秒でも身を晒せば壊滅的な損害を被る可能性がある為、フォーメーションは臨場感を出す為に建造物の壁際や偵察警戒車の後ろでやって欲しかったと思ったのは小生だけであろうか。

 市街戦では膝や肘を壁に殴打する事が多く、また跳弾によるコンクリート片や埃により目を傷める事が多い為、プロテクターやゴーグルを装備している。

Img_8608  また、壁を垂直降下し、外壁から敵部隊に迫る偵察隊員。想定ではヘリコプターから降下したとアナウンスされていたが、OH-6はフライパスで終わった為、もとから居たようだ。

 こうした近接戦闘では、取り回しが容易である程度命中精度の高い9㍉拳銃が見直されており、実用性に問題の声が挙げられる9㍉機関拳銃よりも従来のP-220が使用される場合が多いが、今回は89式小銃が使用されていた。

 なお、写真のようにロープを先に垂らすと、敵に降下準備中を知らせる事になり待ち伏せられることから、足にロープバックを取り付け使用するのが望ましい。

Img_8613  銃撃戦(擬爆筒と爆竹)の後、負傷者が出たという想定で、後方支援連隊衛生隊救急車小隊から救急車が展開してくる。

 救急車は、第一線で砲迫火力の弾片防護という観点から装甲車の派生型が使用される場合があるが、残念ながら自衛隊には予算の関係からか装備されていない。

 キャビン容量に余裕のある82式指揮通信車の派生型として“場外前進救急車”というようなものがあっても良いのではなかろうか。

Img_8617  救急車から現場に急行する衛生隊員。

 手には64式小銃を携帯しているが、ジュネーヴ条約で自衛用の武器携行を認めているものの、主体的に戦闘に参加してはならないこととなっている(戦闘員による衛生兵に対する攻撃は原則禁止)。

 訓練展示は負傷者を搬送し、終了となった。

 小生としては市街戦闘を想定した訓練展示が見れて満足であったが、火砲や戦車も登場しない訓練展示は一般の人にはキビしかっただろうか。

Img_8634 例えば、施設大隊がいるのだから地雷敷設、もしくはM-1破壊筒による地雷処理展示や後方支援連隊輸送隊による輸送コンボイにゲリラが待ち伏せを加えた、という想定。道路上の障害物をドーザーが撤去する途中にゲリラが攻撃を加え施設隊員が応戦とか、78式戦車回収車が破損した車輌を回収、というような展示もあってよかったのかな?と。

 訓練展示を終えて25㍉機関砲の仰角を大きくとりつつ撤収する87式偵察警戒車を見ながらそんな事を思った次第である。

Img_8641  訓練展示の第二部というか、ドーランを顔に塗りたくったレンジャーによる銃剣格闘の展示。通常はバイクドリルや毎回拍手に犬がパニックになる航空自衛隊の警備犬展示が行われるのだが、今回の銃剣格闘は新鮮であった。

 銃剣とは元来、単発式先込銃時代に突撃破砕射撃失敗時、騎兵から自衛する目的で発明されたが、日本では明治建軍以降、銃剣道として宝蔵院流槍術などの影響と共に発展したれっきたる日本武道である。で小生は待機していた隊員を仮想敵と勘違いしていたと。

装備品展示

Img_8704 式典の最後に行われたのが装備品展示である。

 陸上自衛隊の様々な装備品をグランドに並べ、一般の人も普段中々目にする事が出来ない自衛隊の装備品を身近に感じる事が出来るイベントである。

 装備品展示において交通整理を行う隊員。大型トラックよりもはるかに大きい車輌が行き来するため、当然グランドは立ち入り禁止となるが、人が入り乱れる展示開始までにカメラマンは全てをカメラに収めなければならない。

Img_8723  多くの駐屯地祭では装備品展示の際には装備の周りにロープが張られるが、春日井ではそうした事は無く、市民からは『何に使うの?』というような単純な質問が隊員との間で交わされていた。

 平和ボケ平和ボケといわれるわが国であるが、戦争が国家間の政治行為から生じる暴力である事を考えれば、国民が平和でいられるのも武力紛争を一貫して抑止し続けた自衛隊の努力の賜物である。言い換えれば、“平和ボケ”とは平和だからこそ許されるありがたい贅沢であるというべきだろう。

Img_8732  で、小生も質問。

 写真は93式待機時娯楽機器、演習中長い待機時間にゲームを行う機器で当時最新鋭のスーパーファミコンが内蔵されておりバッテリーにより六時間の使用が可能である・・・、というのは嘘で、93式近距離地対空誘導弾のリモコンである。ダッシュボードに格納でき、航空攻撃の危険が生じた、というような必要に応じてサッと取り外して車輌から離れ、遠隔運用が可能とされているが、それは周知。で、恐る恐る重量を聞くと“40kgくらい”と。ううむ、訓練を頑張ればこの重さをサッと取り外す事が出来るのだろうか、そして走れるのか、気になった。

Img_8741 装備品展示に並ぶ74式戦車。

 装備品展示には豊川駐屯地からFH-70榴弾砲や93式近距離地対空誘導弾に81式短距離地対空誘導弾、守山駐屯地から軽装甲機動車や対戦車誘導弾、そして長躯、今津駐屯地から74式戦車が展開し、その威容を並べていた。

 しかし、観閲席隣に鎮座していた虎の子74式戦車が訓練展示に参加すると思い、砲焔を今日こそ、と思っていた小生は肩透かしを受けた形だ。

Img_8424  74式戦車の向こうに見えたナゾの新戦車。

 全周にリアクティヴアーマーが取り付けられているように見える車体形状は三菱重工において開発中と伝えられる新戦車とよく似ており、先行試作車の可能性とも考えられるが、砲身が突風に揺れていた事から低圧砲の可能性があり、後部にメルカヴァ戦車を思わせる大型扉が配置されていたことから89式装甲戦闘車の後継車輌、近接戦闘車のモックアップである可能性も高い。ロシア製14.5㍉機銃とよく似た重機関銃が配置されているが、M-2重機関銃の後継が遂に開発されたか、と多くのカメラマンが撮影していた。

 さてさて冗談はさておき、このように師団駐屯地祭や戦車部隊駐屯地、航空部隊駐屯地の盛況に隠れたイメージのある様々な駐屯地であるが、このように多種多様なイベントが開催されている。皆さんも一度、身近な駐屯地の記念行事に足を運ばれては如何であろうか。

HARUNA

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海上自衛隊情報漏洩事件に関する一考察

2006-03-13 10:13:43 | 防衛・安全保障

第一線に責任押し付けず真の原因究明を

 私事ながら先日、別法にて名古屋に展開し、早く着きすぎたので巡視船を撮影したり三省堂にて書籍を物色していると幾度か携帯電話に四件程メールが入る。これが小生が知った海上自衛隊情報漏洩事件の第一報であった。

 海上自衛隊の情報漏洩は、佐世保地方隊の護衛艦“あさゆき”乗艦の1等海曹からのもので、流出した情報は500点以上とされる。“軍事研究 06年4月号”から引用の形で列挙すると『自衛艦識別時のコールサイン一覧』『暗号表一覧表』『符号変更装置操作手順』『側方観測換字表』『監視経過概要』『訓練計画表・評価書』『乗員名簿(注:緊急連絡簿や福利厚生など)』。他に聞くところでは『電信室ジュースアイス争奪戦(禁酒の海自艦艇にあってはこうした嗜好品を如何に分配するかが海曹の力量で決まる)』など、合計500点以上の情報が流出し、“秘”扱いの情報が100点以上含まれていたことで、関係者の中には「太平洋全体の安全保障に深刻な影響を及ぼす恐れがある」との声も上がっている。

 結果的に海上自衛隊は暗号体系を再構築する必要に迫られ、これに費やされる費用は莫大な額に及ぶものと見られている。

 原因は、私物のパソコンWinnyをダウンロードしたところ、情報流出ウィルス“仁義なきキンタマウィルス”に感染し、21日頃から発覚する23日まで流出が続いていたとされている。

 当然ながら、機密区分が為されている情報を自宅に持ち帰った事は問題である事は確かであるが、その深層原因として業務用パソコンの旧式化が挙げられる。伝聞にして聞くところ、業務用パソコンはPC9801世代が未だ現役であったりするようだ。同ソフトはNECの国産ソフトで、登場当時は様々なバリエーションと上位互換性を有する傑作ソフトとされていたが、時代はウィンドウズ、しかもXPの時代である。

 会計検査院的な発想からすれば電源が入る以上、経年劣化は深刻ではなく「現用の業務用パソコンはまだ充分、実用に耐えうる」と判断し、代替を“予算節減”の美名の下、遅らせてきたことは想像に難くない。残念ながら、パソコンは三年間、若しくは四年間で陳腐化する。しかし、業務量は扱い情報量を含めて増大する一方であり、仕方なく私物の使用という事になるのだろう。

 また、自宅に情報を持ち帰った海曹は当然、情報漏洩を期しての訳はなく、いわば在宅勤務の一環として、若しくはノートパソコンであれば官品のパソコンが性能不足であり、対して私物デスクトップを艦に持ち込むわけにも行かず、業務改善という努力の末に生じた結果であり、責める訳にも行かない。

 即ち、深層分析を行えば“性能劣化”で図るべき命題を“経年劣化”で図った為、こうした結果に至った訳である。

 小生が最も恐れるのは、ノモンハン事件の責任を第一線に押し付けたように、若しくは高校球児の喫煙を無理やり全体責任として終えるように、情報漏洩を行った海曹に責任を押し付け、旧式のパソコンで21世紀の仕事を行う事を強いるものである。根本的に“私物を使用せずとも対応できる環境を”と提言したいわけだ。

 さて、「暗号に関する情報漏洩を招いた事で自衛官を危険に曝した」との批判があるが、性能劣化を看過した責任は、そのままパソコンを旧式化著しい74式戦車や62式機関銃に置き換えれば、同様の結果にたどり着く。赤外線アクティヴ暗視装置を用いる74式戦車や、発射連射機能に欠陥が提唱されている62式機銃は、平時には創意工夫にて機能するものの、経年劣化ではなく、性能劣化の観点に立てば残念ながら、有事の際には自衛官を危険に曝す結果になる。

 今回の情報漏洩事件は、即物主義的な官僚機構に一石を投じた事案である。これを機に、“経年劣化”から“性能劣化”へ、深層結果を是正する動きに転じれば、幸いである。

 HARUNA

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