北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【EOS-M3特報】第10師団創設55周年記念行事守山駐屯地祭Ⅱ,部隊帰途(2017-10-28)

2017-10-31 20:02:34 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■名古屋の師団司令部前交差点
 第10師団創設55周年記念行事守山駐屯地祭、後半は帰路に就く師団隷下部隊の様子を紹介しましょう。

 第10師団創設55周年記念守山駐屯地祭、EOS-M3&22mmSTGによる撮影は観閲行進のみです。訓練展示は動きが激しすぎて、EOS-7Dmark2を操作するだけで手一杯となり、またKeyMission80はズームが利かない広角限定ですので、予備機撮影できないのですね。

 写真を撮影する機材は、使い難いミラーレス一眼であっても予備機材というものは文字通り予備器材なのですが、せっかくもってきたからには使いたい。しかし、主力機材故障で登場というのも困る、そんな際、この守山駐屯地祭では帰る部隊を撮るという機会がある。

 EOS-M3&22mmSTGですが、しかし式典と訓練展示が終了した後に活躍の機会が守山駐屯地祭では多々あります、それは式典参加部隊の帰途です。師団行事ですので隷下部隊多数が守山駐屯地に集合しており、帰途に就く部隊だけで市街パレードに匹敵する規模となる。

 師団司令部は愛知県名古屋市守山駐屯地にありますが、駐屯部隊は師団司令部および同付隊と第35普通科連隊及び師団通信の主力を担う第10通信大隊と大都市名古屋を特殊武器から守る第10特殊武器防護隊、そして師団司令部に併せて駐屯の第10音楽隊のみでした。

 東海北陸地方を防衛警備管区とする第10師団、その隷下部隊は近接戦闘部隊である第14普通科連隊は石川県金沢市金沢駐屯地、第33普通科連隊三重県津市久居駐屯地に駐屯していまして、式典が終了しますと早速帰途に就きます、その部隊が正門から出発するのです。

 守山駐屯地正門には師団創設55周年の特別飾門が掲げられ、愛知県豊川市の豊川駐屯地から火力戦闘部隊第10特科連隊と第10高射特科大隊、同じ愛知県内の春日井市春日井駐屯地からは第10後方支援連隊と第10施設大隊と第10偵察隊が師団祭に参加しています。

 正門は少し高台にありまして、師団司令部前交差点から82式指揮通信車や軽装甲機動車に各種トラックやレーダーとミサイル等下ってくる様子は市街パレードそのもの、1300時過ぎから帰路につきます、渋滞や寝坊で観閲行進を見る事が出来なかった場合の予備となる。

 82式指揮通信車が信号待ちする様子、迫力は中々ですが師団隷下部隊には加えて、三重県伊勢市明野駐屯地に第10飛行隊と滋賀県高島市今津駐屯地には第10戦車大隊がいます。UH-1J多用途ヘリコプターや74式戦車と96式装輪装甲車の帰路も是非観たくなるところ。

 74式戦車と96式装輪装甲車の帰路も撮影したいのですが、74式戦車は車幅と重量が道路運送車両法に制限されるほど大型である為、特殊車両扱いで輸送は深夜のみ、所轄警察署長への届け出の下で輸送されます。UH-1J多用途ヘリコプターは祝賀飛行後に帰っている。

 道路運送車両法は自衛隊の装甲車両の中で、装輪装甲車の車幅に2.5mという厳しい制約を課していまして、2.8mまで拡幅成れば海外装備導入の機会も増えるのですが、師団駐屯地の入り口で車幅2.48mの3t半トラック同士の擦れ違いを見ますと道路の限界を見た思い。

 FH-70榴弾砲は中砲牽引車により車幅を含め日中に輸送する事は出来るのですが、全長が大きく少し時間を空け帰路に就いたもよう。第14普通科連隊と第33普通科連隊は徒歩行進のみで3.5t半トラックでの参加ですか、昔は高機動車や軽装甲機動車を連ねていました。

 3t半トラックも色々ありまして、帰路に就く車輛も3t半ダンプ車、軽レッカ、3t半有蓋車、道路障害作業車、81式短SAM搭載車、3 t半燃料タンク車、3 t半航空用燃料タンク車、3 t半水タンク車、除染車、生物偵察車、等々の様々な派生型車両が駐屯地を出発してゆく。

 第10師団創設55周年記念守山駐屯地祭はこうした形で撮影を完了しました。翌日日曜日には台風21号が太平洋沖を通過、航空観閲式は荒天で中止されるという前代未聞の悪天候となりましたが、守山は土曜日に挙行されましたのが幸いだったといえるかもしれません。

 名古屋市の守山駐屯地、帰路には守山駐屯地界隈の寺社仏閣探訪と二八日の大須縁日散策と清州城見学を予定していましたが、台風接近中、大須の電気街で若干の買い物と縁日名物のみそ串カツを頂き、名古屋駅前で一杯やったのみで東海道本線が止まる前に大人しく帰路につきました。

北大路機関:はるな くらま
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【EOS-M3特報】第10師団創設55周年記念行事守山駐屯地祭,師団観閲行進(2017-10-28)

2017-10-30 20:07:48 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■即応近代化師団観閲行進
 悪天候写真愛好家の皆様、お待たせしました、土曜日の守山駐屯地祭写真です。

 第10師団創設55周年記念守山駐屯地祭、台風22号接近下で挙行されました。過去には第10師団祭は豪雨により屋内行事となり、式典は屋内関係者参加のみ、観閲行進中止、訓練展示模擬戦のみ繰り広げられた年もありますが、本年は晴天行事を雨天下実施しました。

 師団は、第14普通科連隊、第33普通科連隊、第35普通科連隊、第10戦車大隊、第10偵察隊、第10特科連隊、第10高射特科大隊、第10飛行隊、第10施設大隊、第10後方支援連隊、第10通信大隊、第10特殊武器防護隊、第10音楽隊、を基幹としています。

 即応近代化師団として現在の編成となっています。混成団から始まり、1962年の師団創設と共に乙師団や2004年改編での戦略機動師団を経て即応近代化師団、という呼称で改編を続けていますが、2014年の師団改編により重装備を大幅に縮小し現在の編成となっている。

 甲斐芳樹師団長は第33普通科連隊や第1師団副師団長を経て第10師団長へ着任しました。こういいますのも、甲斐芳樹師団長が連隊長時代に久居駐屯地にてWeblog北大路機関では紹介し、第1師団副師団長時代には練馬駐屯地祭観閲部隊指揮官の雄姿を撮影できました。

 台風22号、日曜日に本州を直撃する事となりましたが幸い行事は土曜日に行われ、先週の豊川駐屯地創設67周年記念行事に今津駐屯地創設65周年記念行事と二日連続で台風21号接近下で挙行された行事と比べれば、曇天に時折小雨の守山駐屯地は幸いと云えましょう。

 祝賀飛行の編隊とF-15戦闘機機動飛行が行えましたので、先週の豊川駐屯地創設67周年記念行事と今津駐屯地創設65周年記念行事が航空機の祝賀飛行や観閲飛行が悪天候で中止された事を考えますと、航空部隊の明野駐屯地や岐阜基地も含め天候が持ったといえます。

 EOS-7Dmark2に観閲行進はEF18-200mmISレンズ、訓練展示では描写力と耐久性に絶対の信頼を置くEF28-300mmISレンズを装着し、予備カメラとしてKeyMission80とEOS-M3&22mmSTGを並行仕様しました。今回は先週の今津と違い小雨でしたのでEOS-M3が充分に描写力を発揮できています。

 首都圏の知人友人は土曜日に土浦駐屯地創設65周年記念行事へと展開されたとの事、なかには大洗一泊という旅程を組み日曜日に自衛隊記念日行事航空観閲式2017を撮影する予定を組んだ羨ましい旅程案を実行されましたが、航空観閲式2017悪天候中止は報道の通り。

 守山駐屯地、この駐屯地ほど撮影場所が豊富である駐屯地は中々ありません、無論、異論は認めます。しかし、観閲行進一つとっても撮影場所が多く、式典会場一般席から師団司令部を背景に撮る、観閲台左右と稀に観閲台両側スタンド席が一般公開される年度もある。

 観閲行進はこの他、厚生会館前の高台から観閲部隊の車両多数を俯瞰する構図、観閲台下りの食堂前からグラウンド式典会場を背景に車列を撮影する構図、年度によっては非開放となりますが第35普通科連隊隊舎側から師団長と師団司令部と共に行進を撮る、などなど。

 司令部庁舎はじめ、守山駐屯地は新しい建物により老朽建築物が逐次転換されている他、周りにマンションが建ち始めるなど、リニア中央新幹線開業へ発達を続ける名古屋市の街並みも広がります、従ってどの角度から何を撮影するか、という構図をいろいろ考える。

 撮影位置は食堂前、という配置から今回は撮影しました。この位置ですと観閲行進から訓練展示まで一通り撮影できるのですが、本年は第35普通科連隊隊舎前が観閲行進時のみ開放されていまして、師団司令部と共にこの位置から、観閲行進車列の構図が最適だったか。

 訓練展示はバトラー交戦装置を使用したものとなりました。実はこれ、撮影する側からは評判が悪い、レーザーと検知器を用いて実際の近接戦闘を想定し実施するのですが、レーザーへ当らないよう皆伏せて遮蔽物へ隠れてしまい、写真には写りが全く良くありません。

 バトラー交戦装置は、相浦駐屯地祭で何も見えなかったという話題、今年の空挺団降下訓練始めも遠距離からは全く何をやっているか見えず、という話題に接しましたが、当方はこの場に居らず、バトラー交戦装置駐屯地祭模擬戦は今回が初見、ある意味楽しめました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【5】観閲式と観閲飛行(2010-08-21)

2017-10-29 20:17:03 | 海上自衛隊 催事
■横須賀地方隊観閲式と観閲飛行
 イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、以下多数の伊勢湾上での観閲式に続き観閲飛行の航空部隊が飛行します。

 横須賀地方隊伊勢湾展示訓練、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き実施されました。横須賀地方隊は護衛艦を有しませんが、地方総監部は指揮機構である為、必要に応じ自衛艦隊から部隊の加入を受け対応する。

 横須賀地方隊、横須賀地方総監部の幕僚機構は、横須賀地方総監へ海将が補職され、幕僚長に海将補が補職、政策補佐官に事務官が補職、防衛部長、管理部長、経理部長、技術補給監理官、監察官、とそれぞれの部長へ1等海佐が補職され幕僚機構を構成しています。

 高嶋博視海将の隷下に地方隊の部隊についてみてみましょう。地方総監部、第41掃海隊、横須賀警備隊、直轄艦艇、横須賀教育隊、横須賀弾薬整備補給所、横須賀造修補給所、横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀音楽隊、観音崎警備所、父島基地分遣隊など。

 横須賀警備隊は隷下に横須賀水中処分隊、横須賀陸警隊、横須賀港務隊を有しています。また、直轄艦は、輸送艇 2号、多用途支援艦えんしゅう、砕氷艦しらせ、以上3隻で、今回展示訓練乗艦のお世話になりました多用途支援艦えんしゅう、は直轄艦となっています。

 2008年まで、横須賀地方隊には第21護衛隊が置かれていました。しかし、護衛艦の減少と大型化が訓練を変え、地方隊管区を越えて脅威へ対応するには自衛艦隊へ護衛艦部隊を集約する事が効率的であるとして自衛艦隊改編の際に地方隊から管理替えとなっています。

 20年ほど前の横須賀地方隊には、第33護衛隊と第37護衛隊が置かれ、第33護衛隊隷下に護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、第37護衛隊隷下に護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、沿岸防備へ実に2個護衛隊6隻もの護衛艦が配備されていました。

 護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、ともに沿岸防備用の小型護衛艦ちくご型ですが、この老朽化と共に護衛艦の減勢が決定、護衛艦隊から大型の護衛艦に当たる護衛艦はつゆき型が配備される事となりました。

 ちくご型護衛艦は駆潜艇の後継、はつゆき型は対空対艦対潜の各ミサイルを搭載しヘリコプターも搭載するシステム艦ですが、その分訓練負担も大きく、これが自衛艦隊への護衛艦就薬へと繋がりました。このおように地方隊の歴史は長く、改編を繰り返してきました。

 横須賀地方隊は海上警備隊発足の1952年4月26日に創設されました。しかし、横須賀に総監部をおくことは決まりましても、横須賀はアメリカ海軍が運用していました。何より1952年といえば朝鮮戦争が最盛期にあたり、日本へ軍事圧力が最も高まっていた時代です。

 朝鮮戦争中に空母が何隻も最前線日本海や東シナ海に黄海とを往復した時代、横須賀基地はアメリカも手放せません。朝鮮戦争では一時、韓国軍と国連軍が釜山まで追い込まれ、即ち長崎県対馬から100km先は最前線、というそれは大変に緊張した時代だったわけです。

 そもそも朝鮮半島は日本が植民地を経て本土に併合し、その間には非常に安定していたのですが第二次世界大戦後の占領とともにソ連側占領地とアメリカ占領地との間に軍事境界線が構築され、戦闘状態となったわけです。今日視点にはしっかりしてくれよ、と思う。

 ドイツ占領のようにイギリス軍等他の占領軍が朝鮮半島でも活動し、中華民国軍が国境を接している地域にも駐屯していたならば、これほど大きな戦争の火種、今日に続く対立構造は回避できたのだろうか、と思ってしまいます。歴史にIFは禁忌ではあるのですが、ね。

 この横須賀の重要度が戦後もっとも高くなっていた時代、旧海軍にも沿岸防備にあたる鎮守府が横須賀にもおかれていたのですが、横須賀鎮守府庁舎についてもアメリカ海軍が使用中でしたので、創設間もない横須賀地方総監部はその司令部庁舎の確保から始めます。

 田浦地区の旧海軍水雷学校庁舎が接収を免れていましたので、横須賀地方総監部は旧水雷学校庁舎を再利用することとなりましたが、終戦後の混乱により重厚な調度品はもちろん事務用品から書棚も無く、窓は窓枠まで扉は蝶番まで亡失した状態から再出発だった、と。

 横須賀地方隊創設式典とともに横須賀地方隊はアメリカから供与艦艇として護衛駆逐艦や中型揚陸艇改修警備船などを受領する予定だったのですが、残念ながらこの頃からアメリカは事務能力に不十分、もしくは大らかな部分があったようで、今日でも米軍は遅刻多い。

 結果、横須賀地方隊が発足してもフネがないという、引き渡しは遅れることとなりました。アメリカからくれるのは仕方ないと思われるかもしれませんが、実はこの艦艇、大戦中にソ連海軍へ供与する予定の艦艇を返還されたもので、東京湾に置かれていたものなのです。

 供与艦艇の一部は既に横須賀へも回航されていたといいますから、すぐ近くに置かれていたものが受領書類不備により引き渡されなかった、というものでして、ちょっと情けない。とりあえず、横須賀回航の艦艇の引き渡し訓練だけ、正式貸与前に訓練を始めました。

 こうしてアメリカ海軍護衛駆逐艦による訓練が海上自衛隊での艦艇訓練の始まりとなりました。もっとも、乗組員の選定は行わず、基礎訓練を教育の形から始めたという構図ではありましたが、ね。横須賀地方隊とともに舞鶴地方隊が創設、海上防衛が始まりました。

 横須賀と舞鶴、現在海上自衛隊の地方隊は佐世保や呉に大湊とありますが、この日創設されたのは横須賀と舞鶴のふたつでした。横須賀地方隊は北海道から本州に四国と九州太平洋沿岸や九州東シナ海側までという、それはもう広大な海域を担当することとなりました。

 舞鶴地方隊は日本海全域を、といいましても現在の舞鶴地方隊は日本海全域を担当しているようなものですが、広大な海域の任務を任されました。地方隊は、船隊と航路啓開隊に練習隊、この三部隊から構成されていました。供与艦と練習部隊に掃海部隊、にあたる。

 しかし、海上保安庁が勇壮な海防艦を運用していたのに対し、海上警備隊に渡されたのは艦隊というには少々貧弱と云わざるを得ない水準の物でして、アメリカ海軍供与の護衛駆逐艦をのぞけば旧海軍から継承しました駆潜特務艇と哨戒特務艇に航空機救難船のみ。

 航空機救難船といいますと響きだけは航空母艦のようで勇壮ではありますが、実際には墜落した航空要員を救助する高速船、ヘリコプターや飛行艇という墜落した搭乗員救難用の機材以上に墜落海域が明確にわかっている場合には高速艇で駆けつける単なる高速船です。

 アメリカ海軍からは魚雷艇が多数供与されていたらば、艦隊の再編に早く進むことが出来たのかもしれませんが、実現しませんでした。PTボートとして哨戒魚雷艇はアメリカが800隻以上を量産、40ノット速力で魚雷を主武装に機銃で針鼠の様に固めた局地防衛用のもの。

 海上警備隊発足当時供与されなかった理由ですが、当時の日本海軍へのアメリカの認識があったのかもしれません。日米関係は今日もっとも良好で、創設当時からアメリカ海軍は日本の海上防衛力再建へ注力、アーレイバーク海軍大将が個人的な尽力がありました。

北大路機関:はるな くらま
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【くらま】日本DDH物語 《第二八回》護衛艦はるな設計開始と砕氷艦ふじ1965年竣工

2017-10-28 20:07:41 | 先端軍事テクノロジー
■ふじ,自衛隊初のヘリ搭載艦
 練習艦かとり、が初の飛行甲板を搭載する練習艦となりましたが、少し前、砕氷艦というかたちで初のヘリコプター搭載艦が竣工していました。

 ヘリコプター艦上運用という新技術、我が国では海上自衛隊よりも海上保安庁の砕氷船宗谷が先行していました。そして海上自衛隊では砕氷艦ふじ、から始まりました。この他、練習艦かとり、が飛行甲板を有しており艦上係留ならばヘリコプター運用能力がありました、実際、南極海におて、ふじ、が流氷に閉じ込められた際には乗員救助へ、かとり旗艦として緊急救援部隊派遣が検討されたほどです。

 ふじ竣工、海上自衛隊最初のヘリコプター運用艦の建造は1965年、S-61輸送ヘリコプター2機等を搭載しています、S-61はHSS-2の輸送型となっていまして、HSS-2B運用後も輸送機として活躍しました、練習艦かとり、は1968年竣工、海上自衛隊ではこの時点で既にヘリコプター搭載護衛艦はるな建造が決定していますが、榛名と香取、練習艦かとり、旧海軍巡洋艦名を引継いだ事例となっています。

 1969年、砕氷艦ふじ、は第11次極地観測支援として南極への輸送任務に当った際に、氷塊に阻まれ、右推進翼4枚全折損という航行能力を半減させる事となり、日本鋼管鶴見造船所にて徹底した修理を行う事となりました。連続砕氷可能氷厚は120cm、最大砕氷能力は6mという性能を有していましたが、厳しい運用環境で船体は急激に痛んでいたのです。

 第12次極地観測支援,輸送任務完了と共に流氷に周囲を囲まれ、航行不能となりました。流氷はますます圧力を増し、時間を経るごとに、ふじ、は氷海離脱困難となり、最悪、船体圧潰という可能性も検討せざるを得ない状況となりました。氷塊に乗り上げ、爆薬使用による振動を利用した離脱を試みるも動かず、後進も推進器が氷塊に接触し、動かせません。

 当時の前田冬樹艦長は海軍兵学校71期、最小限の人員のみ、ふじ、をヘリコプターなどで離脱させ、ふじ艦内での越冬を決意する悲壮な状況となりますが、当該海域は既に日本極地観測拠点の昭和基地より距離があり、ここで海上自衛隊は練習艦かとり飛行甲板へ救難ヘリコプターを係留し、ふじ救出任務への派遣を検討します。近寄れるだけ近寄ればよい。

 S-62救難ヘリコプターは970kmの長大な航続距離があり、人員を満載した場合でも350kmは往復可能です。そして、ふじ、にもS-62ヘリコプターが輸送用として搭載されており、燃料補給や整備支援を受ける事が可能、天候の良い気象条件下ならば、ふじ近傍800kmまで、かとり、が接近し、人員だけでもヘリコプターにて救出という運用が考えられました。

 しかし、観測機により氷床の薄い区間が発見され、完全に航行不能となる前に氷床の薄い海域まで独力航行できるめどが立ちました。最も懸念されたのは全ての推進装置を氷海で破損させ、完全に航行不能となってしまう事ですが、一軸でも推進器が稼動するならば離脱は出来ます。氷海を離脱後は何とかオーストラリアのフリーマントル港へ到達できます。

 ふじ、氷海での航行不能期間は1296時間、実に54日間にも及んでいます。この離脱成功により、練習艦かとり旗艦の救援部隊派遣は見送りとなりました。もちろん、かとり、は飛行甲板を有しているものの航空機格納庫は上部構造物には無く、航空機運用能力は極めて限定的ではありました。しかし、甲板係留で実任務派遣が真剣に検討されていたという。

 HSS-2の運用試験は、揚陸艦しれとこ、での運用実験によりその能力が慎重に検証された後に設計となり、運用に加えて航空要員養成は砕氷艦ふじ、練習艦かとり、等で繰り返し、護衛艦での運用が実現した。HSS-1からHSS-2まで海上自衛隊にはヘリコプター運用の歴史がありましたが、その上で実験と計算を経て、ヘリコプター搭載護衛艦は実現しました。

北大路機関:はるな くらま
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平成二十九年度十月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2017.10.28/10.29)

2017-10-27 20:11:25 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 秋台風がまたしても接近し、明日には暴風圏を伴って沖縄近海に到達するとの予報がありますが、皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末の行事紹介です。

 航空観閲式2017、自衛隊記念日行事として日曜日に茨城県の航空自衛隊百里基地において行われます。防衛省移行10周年行事として実施される航空観閲式は内閣総理大臣臨席の下で航空自衛隊が実施します。行事は一般公開されていません。この為、会場の百里基地へ入場には招待券が必要ですが、茨城空港側から観閲飛行の様子を見上げる事は出来ます。

 百里基地での航空観閲式は1125時から1315時まで予定されています。台風22号の進路が気になるところですが、一部報道によれば観閲飛行への祝賀飛行として、アメリカ空軍のB-2戦略爆撃機、B-1戦略爆撃機、が初参加を予定しており、朝鮮半島情勢緊迫化を受けての強固な日米同盟を誇示するべく、初の戦略爆撃機参加が調整されているとの事でした。

 第10師団創設55周年記念守山駐屯地祭、東海北陸地方を防衛警備管区とする師団の創設記念行事です。名古屋市内の駐屯地、近傍の小幡訓練場に駐車場があり、名鉄瀬戸線守山自衛隊駅から徒歩すぐ。第14普通科連隊、第33普通科連隊、第35普通科連隊、第10特科連隊、第10戦車大隊、第10通信大隊など師団の主力部隊が観閲行進と訓練展示を行う。

 守山駐屯地は、師団司令部駐屯地としてはそれ程広い駐屯地ではありませんが、一般開放される区画が多岐に及び、撮影位置によって全く違う行事の様相となりますので、様々な角度から観閲行進や訓練展示を見学する事が出来ます。本年は一般スタンド席が少なく設定されている為、椅子席等が代替となります。明日の土曜日開催ですのでご注意ください。

 土浦駐屯地創設65周年記念行事、陸上自衛隊武器科職種の専門教育及び戦術研究と新装備研究を行う武器学校の創設記念行事です。旧海軍土浦予科練の跡地に立地し、駐屯地には1929年開発の我が国初の国産戦車である八九式中戦車や本土決戦に備え強力な米軍戦車へ対抗するべく75mm砲を搭載した三式中戦車等など、貴重な保存展示装備も並んでいます。

 米子駐屯地創設67周年記念行事、第13旅団隷下の第8普通科連隊が駐屯する鳥取県米子市の駐屯地です。第8普通科連隊は日本海側の山陰地方中央部の防衛警備を担当し、対岸に朝鮮半島が位置する関係上、沿岸警備の重責を担う普通科連隊です。この為、普通科連隊としての各種装備に加え、情報小隊には監視用の小型無人偵察機等も装備されています。

 山口駐屯地創設62周年記念行事、第13旅団隷下の第17普通科連隊が駐屯しています。本年は海田市駐屯地はじめ日本海から太平洋にかけての駐屯地が北朝鮮によるグアム方面ミサイル発射の予告を受け、航空自衛隊ペトリオットPAC-3によるミサイル迎撃態勢が採られている為、第13旅団祭を行う事が出来ず、こうした連隊行事は貴重といえましょう。

 さて撮影の話題、航空祭にちょっと電車の乗り換えに手間取って大幅に出遅れてしまった場合や自動車が渋滞に巻き込まれた場合はどうするべきでしょうか。ここは航空祭で禁止されている脚立や梯子ではなくレンタカー会社で空中作業車をレンタルして電線工事のフリをしながら作業服で撮影、という選択肢は勿論ありませんので、機転を利かせることで代用とする。

 航空祭が混雑している様子は言い換えれば盛況な様子を撮影するまたとない機会ですし、ほかの方の顔が写ってしまうとプライバシーへの配慮がWeb公開などで求められるものですが、航空祭となりますとき本体班の方が航空機の方角を注目していますので、すると、顔を正面から撮影するリスクはかなり減ってくるものです。雰囲気はかなり出てきます。

 敢えて望遠レンズではなく、広角レンズを駆使して画面の下半分に満員となった会場というアングルを決めまして、上半分に飛行展示にて飛行する航空機、という構図の写真は中々おもしろいものがあります。航空機だけならば予行やそのほかの機会でも撮影できないことはありませんが、満員の会場と航空機の取り合わせは航空祭でなければ撮影できません。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭
・10月29日:航空観閲式2017/自衛隊記念日行事…http://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/airreview2017/
・10月28日:土浦駐屯地創設65周年記念行事…http://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/
・10月28日:第10師団創設55周年記念守山駐屯地祭…http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/
・10月29日:米子駐屯地創設67周年記念行事…http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/13b/yonago/index.html
・10月29日:山口駐屯地創設62周年記念行事…http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/13b/yamaguti/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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ISIL掃討イラクシリアと戦車部隊【前篇】自衛隊の重戦力軽視へ警鐘鳴らす治安戦と戦車威力

2017-10-26 20:14:22 | 防衛・安全保障
■高練度戦車部隊の能力再確認
 2014年から続くISILによるイラクとシリアでの騒擾がようやく終止符が見えてきました。そして、この治安作戦を顧みますと、重戦力軽視の我が国防衛政策への考えさせられる戦訓を痛感します。

 ISILが中東とアジアからほぼ駆逐されました。非常に長い期間を要しましたが、ISILは現在、新しい拠点としてアフリカ地域にて再編成を企図している段階です。ISILは一時期はバクダッド攻略やシリア全域掌握へと向かう勢いでしたが、イラク軍が戦車部隊を中心とした防衛戦を展開し阻まれ、ISILとの戦闘では対非正規戦への戦車の有用性を示しました。

 シリアでもロシア軍の軍事援助により機甲部隊の稼働率を維持したことで、ISILの前進を最終的に阻止できたようです。シリアのISIL最後の拠点ラッカがシリア軍により奪還され、イラクにおけるISIL最大拠点ティクリート奪還完了に続き中東のISIL拠点制圧作戦がほぼ完了、市街地は廃墟となりましたが飢餓状態にある市民多数が漸く解放されたようです。

 ラッカ市内にはまだ百名程度のISIL戦闘員が降伏を拒み潜伏中であり、その掃討作戦が展開中です。ISILの拡大を支えた外国人戦闘員は500名程度がラッカ市外へ遁走しましたが、現在のところISIL戦闘員が再編成を可能とする策源地は、シリアとイラクには残っていません。イラク軍は若干数が残る西部のカイムとラワでの村落解放へ転進を開始しました。

 フィリピンではマラウィ市内のISIL戦闘員を実に半年間もの長期間を掛けようやく掃討完了、ドゥテルテ大統領による勝利宣言が行われました。マラウィでのISIL攻撃は市内警察署への武装勢力攻撃により始まりました。当初は鎧袖一触と見られていたフィリピン軍の治安作戦は非常に難航し、市街地の錯綜地形での彼我混交の状態が戦闘を長引かせます。

 マラウィ市内のISIL勢力は中東からの戦闘員とフィリピン国内のイスラム過激派組織との合流により最盛期800名を数えましたが、フィリピン軍は一つ一つの建物を順番に攻略し包囲網を狭める伝統的な市街地戦闘を展開し、遂に市内全域の掃討を完了しました。ただ、半年間近い戦闘の被害は非常に大きく、戦闘長期化が復興長期化へ至る実情を示しました。

 イラクでのISIL掃討に関する海外報道でよく耳にする部隊名は第9機甲師団というイラク軍部隊です。この第9機甲師団はバクダッド北方に主力を駐屯させており、実はISILのバクダッド攻略に際して師団はアメリカより供与されたM-1A1戦車を緊要地形に緻密に配置、夜間と白昼を問わず接近するピックアップトラック攻撃を遠距離で正確に阻止できました。

 ISILの攻撃は市街地の治安部隊中枢地域へ自爆トラック攻撃を行う事で攻撃の端緒に付くため、戦車の火器管制装置により遠距離の監視と打撃力が最大限威力を発揮できました。またロケット弾攻撃をM-1A1戦車は確実な防御力で被害を回避し、ISIL部隊による近接戦闘を巧みに回避、この戦果を積み重ねることでイラク軍全体の反撃へつなげた、とのこと。

 シリアではシリア軍は陸軍が大量に保有した戦車が大きな損耗を受けつつもロシアより供与されたT-72戦車と整備基盤、また整備支援をもとに着実な戦車部隊の運用を展開、市街地へも禁忌とされる戦車部隊を中心としての攻撃前進を、歩兵部隊では確実に損害を受ける状況下で投入し、仮に撃破された場合も訓練された戦車兵は弾薬庫爆発前に脱出できた。

 中東戦争を繰り返したシリア軍機甲部隊の練度は世界的に視て、イスラエル軍程ではないものの高い水準にあるといえます。僚車が市街地で撃破された場合でもシリア軍戦車部隊は小隊単位での連携により脱出乗員を即座に収容、攻撃を続行する運用が報じられています。戦車が確実に支援しているからこそ、歩兵による掃討も持続できたといえるでしょう。

北大路機関:はるな くらま
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【京都幕間旅情】退耕庵,関ヶ原の戦いと鳥羽伏見の戦いの歴史舞台となった小野小町所縁寺院

2017-10-25 20:06:41 | 写真
■退耕庵,東福寺塔頭の一つ
 紅葉に輝く東福寺は千余年の歴史と共に多くの拝観者と散策の人々を惹きつけますが、との途上に退耕庵という寺院があります。

 退耕庵、明治維新の志士、冥福を祈念する塔とともに東山区の下の方に在り、京阪本線やJR奈良線の東福寺駅から東福寺へ歩みを進めますとその途上にある小さな寺院です。東福寺塔頭の一つに数えられ、応仁の乱以降一時荒廃しましたが再建となり、今に至ります。

 東福寺第四三世の性海霊見が1346年に建立しました。東福寺の通天橋から歩みを進めて三分という指呼の距離にあり、しかし創建当時の伽藍は応仁の乱の戦禍に崩れましたが、安土桃山時代後期の慶長年間に臨済宗の高僧安国寺恵瓊により再建される事となりました。

 小野小町に所縁ある寺院として知られ、拝観には数日程度の特別公開が年に一回ある他には、拝観予約を行い茶室や庭園を拝観する事は出来ます。地蔵菩薩坐像の参拝は通年を通じ参拝者に広く扉を開けており、地蔵菩薩坐像との縁を願う探訪者は快く迎えてくれる。

 地蔵菩薩坐像と共にある退耕庵ですが、幾度も歴史の転換点を左右する舞台となります。安国寺恵瓊が応仁の乱にて荒廃した退耕庵を再建したのは慶長年間の初めごろ、安土桃山時代後期です。この時代には日本の歴史を左右する大きな出来事の渦中にここ京はあった。

 豊臣秀吉の治世下、京都は漸く応仁の乱寄りの大規模な復興に至りました。寺院は堀と壁の要塞の如くの戦時色と応仁の乱後のその廃墟の一群から個々の寺社仏閣の防御から御土井により天下人が京都そのものを防護する都市へ改造なり、平和都市へ転換を果たします。

 客殿と昨夢軒と、そして庭園は池泉観賞式と庭園枯山水庭園という四季折々の風景を湛える情感とともに造営されました。この再興も安土桃山時代、京都の秀吉による再興と新都市計画に合せ進められたのですが、秀吉の没後、退耕庵は歴史を左右する密議の場となる。

 昨夢軒は四畳半の茶室、ここは秀吉の没後に石田三成と宇喜多秀家により徳川家康討伐、関ヶ原の戦いへと続く一連の構成への密議を行った場所で、すぐ南の伏見城が徳川陣営である最中の密議へ、護衛の軍勢を待機させた伏侍の間と併せ、歴史を動かす議事を進めた。

 石田三成と宇喜多秀家の密議の茶室は特別公開の折に今なお風情を伝える現存の建物です。宇喜多秀家は備前国岡山も城主次男として戦国時代に生を受け、豊臣秀吉の備中高松城攻略や中国攻めへ参陣、四国攻めでは讃岐上陸先鋒、朝鮮出兵ではソウルを攻略しました。

 宇喜多秀家は、朝鮮出兵の文禄の役では明軍の李如松将軍を破って京畿道の平定を果たし、慶長の役では順天倭城の築城で連絡線を防衛します。五大老の一人に任じられしかし関ヶ原の戦いにて防御陣地が隣接する小早川秀秋陣地であり、結果、壊滅する事となりました。

 関ヶ原の戦いで潰走した宇喜多秀家はその後伊吹山へと敗走しますが、奇跡的に矢野五右衛門により匿われ、京都太秦を経て薩摩の島津義弘の下へ落ち延びました。しかし、江戸時代に入り流石に無理があり、家臣島津家仕官を条件に幕府へ投降、八丈島配流となる。

 幕末へと時は大きく流れ、退耕庵は再び歴史の舞台へと登場します、鳥羽伏見の戦いにて長州軍が東福寺に司令部を置いた。宇喜多秀家は1616年に刑を解かれ加賀藩所領一部を譲る打診があるもこれを断り、1655年に八丈島で没しましたが、始まりは退耕庵の密議です。

 鳥羽伏見の戦いにて長州藩戦死者は退耕庵に手厚く葬られました。戦闘は接敵行軍の形を取らない幕府軍を長州軍は有利な地形で待伏せ圧勝しました。退耕庵での供養は、しかし恰も関ヶ原に至る密議の無念が、縁の形で結ばれたような、不思議な感慨を抱くものです。

北大路機関:はるな くらま
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【KM-80特報】今津駐屯地創設65周年記念行事,台風21号接近下の晴天行事(2017-10-22)

2017-10-24 20:07:54 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■台風21号豪雨と古参74式戦車
 有名な戦車軍歌Panzerliedには“嵐も雪も太陽燦々たる灼熱の日も凍てつく夜も驀進するは我等が戦車”とありますが、今津駐屯地では超大型台風接近下でも動じません。

 今津駐屯地創設65周年記念行事、日曜日に撮影してまいりました。台風21号接近下、戦車部隊は悪天候に強いとはいえ流石に中止となるであろう、と前日の豊川駐屯地創設67周年記念行事の豪雨を思い出しつつ、楽観視していたらば今津駐屯地HPは実施するという。

 NIKONのKeyMission80カメラを今回は活用しました。豊川駐屯地ではEOS-7Dmark2とともにサブカメラとしてEOS-M3を併用して撮影していましたが、いよいよ台風が九州に到達する状況化では防水機能を持たないEOS-M3は使用不能、メイン機種のみを使う。

 EOS-7Dmark2を完全防水カバーでレンズと共に覆い、レンズ先端部分を別のカバーで撮影直前まで覆うとともに水滴が絞り値の関係上で目立ちにくい望遠ズームレンズ一本に特化し撮影しましたが、暴風圏迫る横殴りの雨では同時にもう一台撮影するのは困難でした。

 KeyMission80は特殊なカメラです。画質の面では新鋭コンパクト機種やスマートフォンには対抗できないもののルート撮影機能として30秒から9分30秒の任意設定で自動撮影する機能が備わっており、防水1m&耐衝撃1.5mという全天候運用性能が付与されています。

 74式戦車が第3戦車大隊と第10戦車大隊という2個大隊が駐屯する今津駐屯地祭、撮影にはEOS-7Dmark2を駆使しつつ、少々出遅れた関係上、前列の方にお願いして小型のKeyMission80だけを最前列に置かせてもらいました、そこから観閲行進を自動撮影する。

 台風21号接近下、防水防滴に豪雨に見舞われました富士総合火力演習2016総合予行の教訓から導入したゴアテックス製雨衣を上下着用し、カメラバックはレインカバーとその上にビニールの二重防護で臨みましたが、台風の豪雨はゴアテックスにしだいに沁みてきた。

 豊川駐屯地創設67周年記念行事では式典最中に全般的に本降りでしたが、訓練展示の際には雨煙に視界不良となる程の豪雨でした。しかし、今津駐屯地創設65周年記念行事では部隊整列の時点で式典会場の一部が池になっているような程の最初から豪雨だったわけですね。

 湖西線は無事か、京阪神地区では琵琶湖西岸を通る湖西線が全線で最初に悪天候の影響を受け徐行や運休となります。しかし、台風接近下、夕刻から部分運休と夜間全面運休がJR西日本により発表されていましたが、早朝では台風接近下も運行に支障などはありません。

 近江今津駅到着は0951時、かつてない程に出遅れましたが今津駐屯地へ到達しますと驚く事に満員御礼、荒天ながら多くの来場者で溢れていまして、駐屯地司令登壇に合せ、やっとの事で撮影位置を確保し、知人を見つけ聞いてみますとなんと晴天行事で実施中という。

 豪雨豪雨で、指揮官訓示は短縮版となり、高島市長の祝辞の後、豪雨である為に来賓紹介と祝電披露を割愛し、ほぼ30分前倒しで観閲行進準備の号令が入りました。訓練展示では雨煙の中に空包射撃の発砲焔が閃光を走らせる情景とともに迫力の行事を繰り広げる。

 訓練展示まで一通り行い、こちらはEOS-7Dmark2で撮影しましたが、74式戦車発砲焔も明瞭に撮影でき、装備品展示も散策の後に1200時前にはバスで駅へ。駅前で鰻丼を頂き長浜城を観光、長浜駅で湖西線運休の一方を聞きつつ北陸本線と東海道本線経由で帰路に。

 台風21号更なる接近情報と共に衆議院総選挙投票へと歩みを進め、主権者の一票を投じ、一息つきました。豊川駐屯地祭と今津駐屯地祭、豪雨に見舞われ特に今津駐屯地祭は凄かったですが最新器材により撮影を完了させ、荒天ながら充実の週末を過ごす事が出来た次第です。

北大路機関:はるな くらま
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【衆院選二〇一七】自民公明連立与党313議席獲得で圧勝,野党希望の党惨敗と立憲民主党躍進

2017-10-23 20:09:09 | 国際・政治
■連立与党,民意獲得と責任重大
 衆議院総選挙二〇一七、台風21号の影響で遅れていた開票が本日完了しました、連立与党圧勝です。

 衆議院総選挙二〇一七、衆議院総選挙は憲法上の衆議院の参議院に対する優越として総理大臣指名選挙を行う為、政権選挙となります。即ち、衆議院議員が首班指名選挙を行う事で内閣総理大臣が決定する民意表明の重要な選挙で、総理大臣は政府専用機含め自衛隊の最高指揮官を選ぶという選挙でもある。森友加計学園問題への追及を契機に安倍総理大臣により衆議院解散が決断された総選挙は、昨日日曜日に投票日を迎えました。

 台風21号、投票日当日は季節外れの超大型台風の直撃を受け、投票箱の一部が開票作業を開始できない等、紆余曲折がありましたが、安全保障問題と経済政策の重視を掲げた与党と、森友加計学園問題追及や安全保障関連法廃止と教育無償化改革に消費税増勢反対と花粉症全廃等様々な政策を提示した野党との全面対決となり、野党再編含め激論となります。

 自由民主党は284議席を獲得し解散前の284議席を維持しました。自民党は単独過半数を維持している他、当初劣勢と云われた森友加計学園問題を背景に奮戦したといえます。連立与党を組む公明党は29議席と解散前の34議席から5議席を失いました。しかし、獲得議席は連立与党で313議席と過半数233議席を大きく上回り、三分の二議席も越え、衆議院総選挙二〇一七から衆議院議員定数が10議席削減されまして自民党の284議席確保は、圧勝と云えるでしょう。

 北朝鮮の相次ぐ核実験と弾道ミサイル実験、中国による南西諸島への軍事圧力増大、フィリピンへ及んだイスラム過激派ISILの脅威等を背景に、野党はそれ以上に森友加計学園問題追及を重要視し国会での徹底追及を掲げた訳ですが、私見で森友加計学園問題追及はミクロ的問題であり、安全保障や経済政策等マクロ問題を有権者は求めたのかもしれません。

 希望の党は、今回の衆議院解散を受け元自民党で現東京都知事の小池百合子知事が立ち上げた新党です。東京都議選を圧勝した新党都民ファーストの会代表で、このまま国政へ勢いづく公算でしたが、党首衆院選不参加や野党連携の在り方から有権者全般からの不信を買い、特に希望の党が仮に単独過半数を獲得した場合、憲法上総理大臣は衆議院議員しか就任できず、小池都知事は資格がありません、適当な希望の党議員が議員辞職し補選を通じ小池党首が立候補し当選しなければ総理就任も不可能で、50議席と当初政権交代を意気込んでいたものの解散前の57議席を割り惨敗しました。

 立憲民主党は55議席を獲得し解散前の15議席から大躍進を果たします。元々は民主党系民進党リベラル派と左派が合流した新党で、野党一本化へ民進党前原党首が希望の党への合流を発表したものの、保守政党目指す希望の党に全員受け入れを拒否され結集、リベラル層の受け皿として、平和憲法護持や労働改革等を地道に訴え、大勝を果たしたようです。

 共産党は今回12議席と解散前の21議席の大半を失う惨敗といえる惨状です、志位委員長は野党連携の足並みがそろわなかった事を惨敗の理由としていますが、問題はそこではないかもしれません。社会民主党は2議席獲得で解散前の2議席を維持しました。維新の会は11議席を獲得、14議席を割り大阪流改革全国化を掲げるも人口過疎地域では劣勢でした。

 三分の二議席を連立与党が獲得した事は、憲法改正の発議に必要な議席数を確保した事であり、1955年結党以来の憲法改正を掲げている自由民主党による憲法改正へ大きな意味を持つ事となります。安倍総理大臣は自民党党綱領を改訂し第三期目の総裁選出馬に意欲を示しており、次の観艦式には三度連続の観閲官を務める可能性も高そうです。今回自民党は、総選挙に際し憲法改正を重要論点に挙げ、安全保障面での自衛隊と憲法九条二項の戦力不保持の命題を正面から挑む姿勢を明示している為です。

 しかし、安全保障面だけを俯瞰しても我が国には喫緊の課題が山積しています。北朝鮮による水爆実験と水爆による日本への軍事恫喝や緊急発進回数1100回を越えた中国による南西諸島への軍事圧力、ロシア軍による軍事圧力の再興、対して財政難やミサイル防衛やゲリラコマンドー対処と防衛政策の数年単位の右往左往により防衛力は疲弊しています。防衛政策を始め様々な分野で如何に喫緊の課題へ取組み解決するかが、主権者たる国民が切望するところでしょう。

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【EOS-M3特報】豊川駐屯地創設67周年記念行事,第10特科連隊は健在(2017-10-21)

2017-10-22 20:04:21 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■台風21号接近下の豊川駐屯地
 台風21号が接近し、衆議院総選挙前日の昨日21日、豊川駐屯地祭が実施されました。

 豊川駐屯地創設67周年記念行事へ行ってまいりました。愛知県豊川市、有名な豊川稲荷に近く、第10師団の火力戦闘部隊である第10特科連隊と防空部隊である第10高射特科大隊及び、中部方面隊隷下の方面混成団第49普通科連隊と施設団第6施設群が駐屯しています。

 台風21号接近の最中、日曜日と月曜日に京阪神地区へ最接近し上陸する可能性があるとの事で、それならば土曜日に動こうという決心、聞けば相模原の防衛装備庁陸上装備研究所一般公開も土曜日という事、どちらにするか悩みつつ、まだ、近場との豊川に行きました。

 第10特科連隊が近く中部方面特科隊新編に伴い廃止改編されるとの事ですが、これは来年度以降であり、2018年度の行事でも第10特科連隊はまだ健在とのこと。第10特科連隊と中部方面特科隊の新編とその去就が注目されていましたが、ひとまず安心、というところ。

 第14戦車中隊の74式戦車が今回、豊川駐屯地創設67周年記念行事へ初参加となりました。第14戦車中隊は年度末の第14旅団改編により廃止改編され、要員の多くは旅団隷下に改編創設の第15普通科連隊即応機動連隊改編で機動戦闘車中隊へ編入されることとなります。

 16式機動戦闘車が配備され、日本原駐屯地祭に続き先日の伊丹駐屯地中部方面隊創設記念行事に3両が参加しました第14戦車中隊、16式機動戦闘車により74式戦車は代替されたのか、と思っていましたが、四国に赤鷲を描いた部隊マークを久々に視る事が出来、幸い。

 第13戦車中隊の74式戦車も今回、併せて初参加を果たしており、式典と訓練展示に参加する戦車が全て岡山県の日本原駐屯地からの参加という、貴重な行事となりました。赤鷲を冠した第14戦車中隊74式戦車の、最後のあいさつ回り、という事なのかもしれません。

 台風21号接近下の豊川駐屯地創設67周年記念行事となりましたが、これは期せずして2009年の豊川駐屯地創設59周年記念行事も土曜に秋台風接近下の実施となっていまして、あの時も豪雨に見舞われましたが、来場者が多少少なく撮影環境が良かった事を思い出す。

 豪雨下の駐屯地祭、豊川駐屯地は荒天でも行事を実施する駐屯地として名高いのですが、同時に観閲行進や訓練展示では泥海に泥飛沫を巻き上げ、雨滴を蹴散らし轟々と前進する情景は、成程、前回もそうでしたが他の行事では見られない程の迫力といえるでしょう。

 豊川駐屯地祭は、駐屯地に隣接し公道を隔てて位置する豊川訓練場が式典会場となっていまして、観閲行進は式典会場と共に式典会場出口に面した歩道付近、観閲行進中は車両通行止めとなる、この位置こそ、観閲後大きく転回して多数同時出場する様子を撮影できる。

 FH-70榴弾砲を装備する第10特科連隊、第10師団の改編以前は5個大隊12個中隊が60門ものFH-70を装備していました。この頃の第10師団は即応予備自衛官主体の第49普通科連隊が隷下に在った時代ですが、戦車火力や特科火力もかなりの水準に在った訳ですね。

 第49普通科連隊が新編された中部方面混成団隷下に編入されると共に、第10師団は第10戦車大隊の第3中隊と第4中隊の廃止、第10特科連隊の第4大隊と第5大隊の廃止が行われ、続く師団改編で普通科連隊の対戦車中隊が第5中隊へ転換、装備が軽量化されました。

 第10戦車大隊は今後の去就が注目されますが、例えば来年度戦車大隊を方面隊に転換する福岡の第4師団は戦車大隊に代え、第4偵察隊を増強し第4戦闘偵察大隊への改編を行うとされ、戦闘偵察大隊が北海道戦車部隊増援到着までの機動打撃力となるやもしれない。

 自衛隊改編についていろいろと考えさせられつつ、最大の疑問は、多くの行事がそうであるように、何故、凄い豪雨であっても訓練展示状況終了と共に雨が上がったり、小雨になるのか、という事でした。豊川駐屯地創設67周年記念行事も状況終了とともに雨あがる。

 台風21号接近下、久々に凄い豪雨の中での撮影となりましたが、幸いカメラ関連の防滴装備を充分実施、上着はゴアテックス雨衣、カメラバックは防滴カバーとビニール密封で対応できました。豪雨下、豊川稲荷参拝と豊橋祭り散策と吉田城探訪へて帰路につきました。

北大路機関:はるな くらま
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