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日本のオペラ勃興期

2022-07-25 22:10:39 | 日本
大阪 中之島の中央公会堂。
フェニックスホールの途中、淀屋橋の上から写しました。
1909年渡米した株式仲買人の岩本栄之助


が、アメリカの事業家が功成り遂げると社会に還元することから学び、株で儲けた150万円(数十億)を寄付し中央公会堂が建てられました。

その後、岩本は第一次世界大戦の暴落で事業を失敗。
莫大な負債を抱えます。
一部でも返してもらったらという周囲の勧めに「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と断固として断り、1916年ピストルで自殺します。
39歳でした。

中央公会堂のホームページを見ると年表があり、
クラッシック音楽では
1919年ロシア歌劇団来日公演で「アイーダ」を、
1922年三浦環主演プッチーニの「お蝶夫人」
1923年イタリア歌劇団によるヴェルディ「椿姫」と書いています。

他の出し物は記録されていませんが、内外の音楽家が公演し、テレビなき時代、その影響は凄まじかったと思われます。

三浦環(1884-1946年)日本東京都京橋区生まれ、東京帝国大学附属病院没。

東京音楽学校在学中の1903年、日本人歌手による初めてのオペラ公演に出演。卒業後、1911年日本初のクラッシックレコードを吹き込みます。

1913年ドイツ留学、第一次世界大戦の戦火を逃れイギリスへ、そこでプッチーニの「蝶々夫人」を演じ、成功。アメリカへ渡りボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで公演。好評を博します。

1920年ヨーロッパに戻り、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリで客演します。

1922年長崎に帰国、蝶々夫人ゆかりの土地を訪ね演奏会を開きます。
レコードは東京市だけで8万枚を売上たそうです。

1924年再び渡米。サン・カルロオペラ団に出演、その後イタリアで歌手活動を続け、

1936年シチリア島のパレルモで「蝶々夫人」出演2000回を達成します。

これを期に帰国。
リサイタルや、オペラ、レコーディングを重ねますが、1944年太平洋戦争で山中湖に疎開します。


戦後すぐにシューベルトの歌曲でリサイタルを開くなどしていましたが、1946年5月亡くなります。

トッレ デル ラーゴのプッチーニ博物館やローマ歌劇場には歴代のプリマドンナと共に三浦環の写真が今も飾られています。