音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

愛の楽章

2023-10-21 22:12:00 | ロマン派
金木犀の花の香りがしてきました。

木犀や夕じめりたる石だたみ 
           芥川龍之介

今日の天気予報では
雨が降るということでしたが、曇ったきりでなかなか降りません。
夕方から降るのかもしれません。

金木犀の犀は、動物のサイのことで樹皮がサイの皮のようだから…
改めて見てみたら

サイ
似てるかな?
あまり風流じゃない。

オレンジの花を金木犀、白い花を銀木犀と呼ぶそうです。
中国原産。

桂花茶はこの花を乾燥させて飲むお茶です。香りがいいのでいいかも。

ジャムやお菓子、お酒にも使われています。

中国の民間伝承では、月には金木犀が生えています。

ウー・ガンという男は、妻が3人の子どもを産むくらい長い間不倫していたのを知り、激怒し、相手の男を殺してしまいます。
炎帝は罰のために、月の金木犀を刈る役割をウー・ガンに与えます。

金木犀は切っても切っても生えてきて、ウーガンは今も金木犀を刈りつづけています。月が満ち欠けするのは生え続ける金木犀と刈り続けるウー・ガンのせいなのです。
芳年による日本の版画1886年
グスタフ マーラー(1860-1991年)オーストリア帝国ボヘミア王国カリシュト生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

の交響曲第5番は1902年に完成しました。
1901年「嘆きの歌」をウィーン交響楽団を指揮し初演したマーラーは、1週間後、指揮した後に、痔による出血を起こしてウィーンフィルを辞任します。

この辞任はマーラーがベートーヴェンやシューマンの曲を編曲して上演して保守的な批評家や聴衆から非難されたことにもよります。
「ユダヤの猿」「音楽の狂人」などひどい中傷がありました。
マーラーが独裁者のように楽団員に振る舞い、彼らとの軋轢もあっての辞任でした。

1901年の夏の休暇に、ヴェルター湖畔

のマイヤーニックの作曲小屋

で交響曲第5番の作曲をします。

11月休暇を終えたマーラーは交響曲第4番を初演しますが不評でした。

その月、アルマ シンドラーと出会い、1902年3月に結婚し、11月に長女マリア アンナが生まれています。

1902年の夏の休暇にマイヤーニックで第5番を完成させました。


第1楽章
葬送行進曲

第2楽章
Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz. (嵐のような荒々しい動きをもって。最大の激烈さをもって)

第3楽章
スケルツォ Kräftig, nicht zu schnell.(力強く、速すぎずに)

第4楽章
Adagietto. Sehr langsam. アダージェット 非常に遅く

第5楽章
Rondo-Finale. Allegro giocoso ロンド - フィナーレ。アレグロ・楽しげに

第4楽章
ハープと弦楽器だけで演奏されます。
アルマがメンゲルベルクに宛てた手紙でマーラーがこの楽章にアルマへの愛を込めた「愛の楽章」であると書いています。
そこにはマーラーのアルマへの詩が添えられていたそうです。

「Wie ich dich liebe, Du meine Sonne, ich kann mit Worten Dir's nicht sagen. Nur meine Sehnsucht kann ich Dir klagen und meine Liebe. (私がどれほどあなたを愛しているか、我が太陽よ、それは言葉では表せない。ただ我が願いと、そして愛を告げることができるだけだ。)」

1971年トーマス マンの小説「ヴェニスに死す」をルキノ ヴィスコンティが映画にし、その中でこの楽章が使われたことでマーラーブームが起きました。

映画ヴェニスに死す
私はこの曲を聴くと潮の満ち引きや、月の光を感じます。







ソーダ水の頃

2023-10-20 21:01:00 | 古典
木曜朝は塚口のt-raumでハープのレッスンでした。

阪急電車と

近松門左衛門の赤硯を作っていた町。
t-raumの猫さんとは今日も会えず。
ちょっと寂しく…。
やっぱりねこ好きな先生も、「いい気候になってきたから、日向ぼっこしててもいいのにね。」って寂しそう。

レッスン後は梅田のいつものパン屋さんで1人ランチ。

前はなかったソーダ水が。

久しぶりに頼みました。
大学生の頃、叔父が教えている中学校のブラバンの子たちにフルートを教えてと頼まれました。
「お礼に美味しいコーヒーを入れてあげる。」と、音楽準備室のミキサーで豆を挽いてアルコールランプで温めたお湯でコーヒーを入れてくれましたが、「コーヒー苦いからいやや。クリームソーダがいい!」とわがまま。

叔父は駅前の喫茶店でクリームソーダをごちそうしてくれました。
フルートを教えて何かを貰う。初めての経験でした。
大好きな叔父に頼られたのがうれしかった。

炭酸水は炭酸ガスを含む水のことで、ソーダ水、ソーダと言われます。
湧き水や、温泉で産出しミネラルウォーターとして飲料されます。

初めの炭酸水はレモネード(レモンの果汁にはちみつやシロップ、砂糖などで味をつけ冷水で割ったもの。)

に重曹(炭酸水素ナトリウム)を加えたものだそうです。
重曹とレモン果汁に含まれるクエン酸の化学反応で炭酸ガスが発生します。

1769年 ジョゼフ プリーストリー(1733〜1804年)


が、イングランド リーズにある醸造所でビールの大桶の上に、水が入ったボールを吊るしておくと水に二酸化炭素が溶け込むことを発見し、炭酸水を発明しました。

1771年 スウェーデンの化学者トルビョルン ベリマン


も独自に炭酸水を生成する方法を発見します。

マジャル人のイェドリク アーニョシユ(1800〜1895年)
がソーダ水の大量生産を法を発明し、ハンガリーのブダペストに、世界初の炭酸水工場を建設し、ヨーロッパ中に広がりました。

1800年代後期には重曹を用いたソーダサイフォンが家庭にまで普及していました。

1920年代のソーダサイフォン

1889年、日本に定住していたクリフォード ウィルキンソン


が、兵庫県有田郡塩瀬村生瀬(現在の西宮市塩瀬町生瀬)で、天然の炭酸鉱泉を発見し、ウィルキンソンのタンサンとして国内外の27地域で販売し始めました。

ソーダが発見された1769年というと、ハイドンが交響曲第26番をおそらく作曲しただろうと言う年です。
はっきりはしていません。

ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

のいわゆる「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」にあたり、乗り切ってどんどん曲を書いていた時期です。
その頃、仕えていたエステルハージ家では演奏されていず、教会からの依頼で書かれたと言われています。

「受難と哀歌」assio et lamentatioと呼ばれています。

第1楽章アレグロ アッサイ コン スピリートにはグレゴリオ聖歌の受難コラールが使われています。

第2楽章にはグレゴリオ聖歌のエレミヤの哀歌「インピチト ラメンタチオ」哀歌が始まるという旋律が使われています。

第3楽章はメヌエット。カノン方式が使われています。




音楽出版と作曲

2023-10-19 20:57:00 | 古典
今日はヴィオラの金重さんが牧野に来てくれました。
まずはお昼ごはん。
樟葉モールのタニタ食堂で腹ごしらえ。
金重さんのカレーデリ

究極の卵かけご飯定食
鶏南蛮

卵かけご飯

美味しい!
ホフマイスターのフルートとヴィオラのための二重奏。
三楽章仕立てのソナタ形式で3曲。
初見で3時間ほど喋ったり、弾いたり充実の時間でした。

フランツ アントン ホフマイスター
(1754ー1812年)
ビュルテンベルク王国 ビュルテンブルク アム ネッカー生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1780年代までウィーンで最も人気のある作曲家の一人でした。
しかし、最も評価されているのは音楽出版社としての活動です。
1785年までに音楽出版を開始しました。
ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなどの作品を出版しました。

オフマイスターはモーツァルトは弦楽四重奏曲第20番

を彼に捧げ、この作品は「ホフマイスター」と呼ばれています。
また、ベートーベンは手紙に「最も愛しい兄弟」と綴っています。

1791年出版活動はピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしました。
彼のオペラの多くは1790年代初めに作曲上演されました。
しかし、ビジネスセンスが欠如していて、その後は作曲数も減っていきました。

1799年ホフマイスターとフルート奏者のフランツ トゥルナーはロンドンまでのコンサートツアーに出発します。しかし、ライプツィヒでオルガン奏者のアンプロージ キューネルと友人になり、2人で1年以内に楽譜出版で提携する約束をして旅は中断されました。

ライプツィヒにビュロー ド ミュージックを設立し、ウィーンとライプツィヒを行き来していました。

その間バッハの鍵盤曲集第一巻を出版したりしました。

1805年ライプツィヒの会社をキューネルに譲渡します。(1914年買収され現在も続くペータース社

ペータース刊のベートーヴェン・ピアノソナタの楽譜(1890年頃)
になりました。)

ウィーンの会社が危機にあったからでしたが、1806年結局はケーミッシュ ドゥルッケライに売却されました。

1812年ホフマイスターはウィーンで亡くなりましたが、作曲者としても同時代の作曲家たちに高く評価されました。

多様な作品の中で最も有名なのはフルートのための作品で協奏曲、室内楽をフルートのために書きました。
8つのオペラ、50以上の交響曲、多数の協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲集を残しました。

ホフマイスターの「フルートとヴィオラのための二重奏曲Gmajor」1番第一楽章





東西の「塔」の物語

2023-10-18 21:19:00 | 近代
いいお天気が続いて、オレンジの雲が出ていました。

花博記念公園の前を通りかかったので撮りました。
ハナミズキホールといのちの塔が見えています。

こちらは市民プール。
ほとんどは植物園。後は運動公園になっています。
大きなお祭りの後の利用が大変。
いのちの塔では、100万人募集のはずだった会費2000円の会員は30万人しか集まらず募集を続けるも1990年開幕時点で赤字。

10年後閉鎖。

永遠に保存閲覧できるはずだった会員の写真データをよそに
2019年撤去の方針が決まったと報道がありましたが、どうなったのか?

いのちの塔はまだそこにありました。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サンジェルマン アン レー生まれ、フランス共和国パリ没
1903年作曲の「塔」は1989年パリ万博博覧会で聴いたジャワ音楽に衝撃を受けて書かれました。

1889年パリ万国博覧会は、パリで開催された4回目の国際博覧会で、フランス革命バスティーユ襲撃から100周年に開催されました。



最大のシンボルはエッフェル塔

入場アーチ門として使用されました。
エレベーターが完成しておらず、当初は登れず、不満が高まったため、途中から階段で観客を入れました。
9日目にようやくエレベーターが完成し!観客は入場料を払って登りました。

中には建築者のエッフェルの私室があり、フィガロ紙の編集室と印刷機、気象観測や空気抵抗の実験が行われる部屋もありました。
一階にはフランス料理、ロシア料理、フランドル料理の3軒のレストランがあり、アングロ・アメリカンバーミーズがありました。

エジソンが会期中に私室に招かれ、感激した彼は蓄音機を贈り、万博のハイライトになりました。

1867年第2回パリ万博の会場シャン・ド・マルス公園を利用、建て増しされて開催されました。

ジュール マスネが喜歌劇「エスクラルモンド」が発表され、会期中、50回以上上演されました。

事業支出 4150万フラン
事業収入 4950万フラン
来場者  3225万人
出品者  6万人(55%がフランス人)
参加国  35カ国

黒字!

ガムラン

ガムランは叩く、打つ、つかむという意味で、大中小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による民族音楽です。
大体は青銅器です。

このような音楽を聞いて、ドビュッシーは自分の音楽に取り入れようとしました。

「版画」という曲集の中の一曲です。
後の2曲は、グラナダの夕べはハンガリー音階を使ってスペイン情緒を、雨の庭はフランスの童謡を使ってフランス庭園を描いています。

「塔」はパゴダpagodaと書かれていて、東洋風の塔を表現しています。エッフェル塔のLe tour Eiffelなどの塔とは同じではありません。

1889年パリ万博のパゴダ
ペンタトニック(5音階)が使われています。1908年マ・メール・ロワで「パゴダの女王レドロネット」で中国の人形と塔パゴダでもこの手法が使われています。
版画「塔」



ジャック・オ・ランタン

2023-10-17 21:23:00 | 現代
15日、ジャック・オ・ランタンは、よちよち歩きしかできないのに、お尻をふりふり踊ったり、こどもたちになでられたり大活躍でした。


ジャック・オ・ランタンはアイルランドやスコットランドに伝わる伝説からきているそうです。

ジャック オブ ランタン
ジャックのランタン(灯り)がなまってジャック・オ・ランタンになったとか…。
生前に遊び過ぎて
天国にも地獄にも行けなかったさまよえるジャック。

悪魔からもらった石炭をカブをくり抜いた中に入れ、それを持って彷徨っているとか。

以前はかぼちゃではなくカブだったそう。白いカブの代わりに本当の髑髏を使っていたそうです。
それがカブになり、アメリカに渡ると扱いやすいかぼちゃになったそうです。

中南米に行くとランタンに灯が灯ると故人の魂が宿り、家族と過ごせるとそう。
祖先の魂が家族を守ってくれると考えられました。

スコットランドではいまでもカブをくり抜いたランタンを使い、善き霊を引き寄せ、悪しき霊を退けると考えられているそうです。

キリスト教では魂が物に宿るとか、彷徨える魂になることは不名誉極まりなく、背徳感漂うジャック・オ・ランタン。
ハロウィンの時だけはヒーローになり活躍するのでした。

子どものためのピアノ曲
2006年発刊の「かぼちゃのおばけ」Jack o lantern jamboree

ジェーン バスティン(1936-2018年)アメリカ合衆国カンザス州ハッチンソン生まれ、カリフォルニア州ラホーヤ没

が、作曲しました。
1957年バーナード大学を卒業、コロンビア大学ティーチャーズカレッジで修士号を取得しました。
在学中にニール スミスに出会い、後に彼のミュージックカンパニーの社長になりました。

1961年ジェームス バスティンと結婚します。

チューレーン大学の教鞭を取りました。
ピアノ曲の作曲と教授法とテクニックに関する著作を出版し、500以上の本を出し、16カ国語で出版されました。

ジェーン バスティン自身の演奏で「かぼちゃのおばけ」
)






ハロウィンでドッキリ!

2023-10-16 21:01:00 | 近代
10月15日(日)TURUMIこどもホスピスに演奏に行って来ました。
「イベントやってるので、こどもたちが集まったら演奏して下さい。午後から20分2回ほど」

ふーんなんのイベントだろう?
と思いながら、行ってびっくり。
この時季、やっぱりね。
ここの館長さん。

ピ、ピカチュウ…と恐竜に乗ったお兄さん

ドラえもんチーム
デビルマン

本格的なスパイダーマン

ペイントチームに私もかわいいペイントをしてもらいました。

隣はバルーンアートのお姉さん。
ギターのお兄さんは熱が出てお休み。ギター弾ける人を探し回りましたが、見つけられず一人で来ました。

一人でバッハの管弦楽組曲のポロネーズ、ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女、後はディズニー、ジブリ、唱歌、勇気100%などなどを演奏。

聴いてくださってありがとうございます。
こどもたち、喜んでくれたかな?

ドミトリー ショスタコーヴィチ(1906ー1975年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

1948年ジダーノフ批判によりショスタコービッチは追い込まれていました。


アンドレイ ジダーノフ
スターリンによる統制を乱す芸術や言論を批判。糾弾しました。1948-1958年まで続けられました。
交響曲第9番を聴いたスターリンがベートーベンの交響曲第9番のような作品を期待していましたが、全く異なる作品だったため、激怒したことが関係しています。

その頃は映画音楽や他の曲を発表し、避難を避けるように当局に迎合するかのように振る舞います,
1953年スターリン死の直前にこの曲を発表して問題となりました。

ソビエトの楽壇では、この曲の評価は真っ二つに分かれ、3日間にわたる討論会が行われました。
ショスタコーヴィチは「この曲は欠点が多いが、それでもかわいいものだ」と発言しています。

「戦争三部作(第二次世界大戦中に作られた交響曲第7.8.9番のことです。
大祖国戦争の大勝利を描いたはずの第9番は軽妙で第5楽章はユダヤ民謡が使われ、スターリンを激怒させました。)
の真の完結編は第9番ではなく、これからの作品第10番だ。」とも言っています。
この討論会で、私は人間的な「感情と情熱を描きたかった。」といっています。

しかし後に発表された「ショスタコーヴィチの証言」で「あれはスターリンとスターリンの時代について書いたものであった。」と書き、第2楽章は「音楽によるスターリンの肖像である」
スターリン(1878-1953年)
と書き、最終楽章の4楽章では、ショスタコーヴィチ自身を表すDSCH (レ♭ ド シ)音形を多様して、スターリンからの開放を表現しているのではと言われています。

この第2楽章が怖い。
ハロウィンの頃、人気の曲だそうです。粛清を繰り返したスターリンの肖像…わかるような気がします。












風邪や病気の時に聴く曲

2023-10-15 20:54:00 | バロック
金曜日は長居公園の前を通って先生宅に向かいます。

京阪準急で淀屋橋まで行き、地下鉄御堂筋線に乗り換え。二本で行けるので時間はかかっても身体は楽です。

快晴でした。
朝晩は寒いくらいですが、昼間は半袖1枚でも行けそうでした。
体調を崩している人が多いようです。
お大事になさってくださいね。

今も最も人気のあるクラッシック(バロック)音楽でヒーリング音楽の元祖とも言える曲は、パッヘルベルの「カノン」だそうです。
体調の悪い時、風邪の時効果のある音楽ベスト30にも入っているそうです。

病気の時は、聴いて効果のある曲の特徴は、
1.ゆっくりとした曲
2.繰り返しが多い曲
3.言葉のない曲。外国語で意味がわからない曲も含まれるそう。器楽曲はもちろん!
4.起伏が少ない曲

だそうです。

もちろんこれは一般的な話しで、すべての人が当てはまると言うわけでは無いと思います。

なには、ともあれ1-4にバッチリあてはまるのが「カノン」

ヨハン パッヘルベル(1653-1706年)
神聖ローマ帝国自由都市ニュルンベルク生没

ゼーバルドゥス教会

聖歌隊に入り、そこで音楽教育を受けます。
1669年アルトドルフ大学に入学、聖ローレンツ教会のオルガン奏者に任命されます。
経済的な理由で1年足らずで大学を辞めざるを得なくなりましたが、優秀な彼は1670年レーゲンスブルクのギムナジウムポエティクムの奨学生になり、学問を納めました。
1673年ウィーンのシュテファン大聖堂

の次席オルガン奏者として雇われます。
ここは当時巨大なハプスブルク帝国の中心でパッヘルベルも当時流行っていたイタリア風の音楽の影響を受けたと思われます。

1677年エアフルトのフレディガー教会

のオルガン奏者として雇われます。ここでバッハ家と交流がありました。
12年暮らします。

1681年エアフルト市長の娘であるバルバラ カプラと結婚をします。
しかし1683年妻と一人息子はベストで亡くなっています。
妻子をなくした10ヶ月後、1684年パッヘルベルは2回目の結婚をしています。銅器職人の娘ユディット ドロンマーです。2人は五男二女を設けています。

生前から成功していたパッヘルベルですが、より良い職を求めて推薦状付きで職を辞します。

1690年ヴュルテンブルグ公国の宮廷音楽家宮廷オルガン奏者に就任しました。良い仕事でしたが大同盟戦争(1688.1689ベルギー ドイツ イタリア)が勃発し、


フランス軍が攻めてきたため、そこから避難し2年で職を奪われました。
次の職場はゴータ市のオルガン奏者を2年。
1692年アウグスト修道会のマルガレーテ教会に勤めました。

ここでヨハン クリストフ バッハが1694年に結婚した時、音楽を提供するためにパッヘルベルは招待され、参加しました。その時、当時9歳のヨハン セバスチャン バッハとあったと思われます。

1695年古巣の聖ゼーバルドゥス教会からの要請でここのオルガン奏者に帰ります。

「カノン」は、パッヘルベルが書いた唯一のカノンです。
原題は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ」pwc 37
この前半のカノンのみがよく知られています。

パッヘルベルはオルガン曲や、教会音楽を多く残していますが、室内楽曲はほとんどを残っていません。
カノンとジーグは19世紀の写本
がベルリン州立図書館に残っているのみです。





ホイップクリームのバレエ

2023-10-14 21:00:00 | 近代
金曜日午後から、ヴァイオリン木村直子先生、ヴィオラ金重美代さん、チェロ木村雅雄先生とフルート久米素子のカルテットレッスン。
今回はドヴィエンヌの6つのフルート四重奏の4番から。

初見ですが
相変わらず直子先生のヴァイオリン、雅雄先生のチェロは美しいです。
金重さんと私も頑張りました。
雅雄先生と金重さん
今日もレッスンの後はケーキ。
メロンケーキといちじくケーキがハイライト。


かわいいもの好きな直子先生がくまちゃんを食べてくださいました。

音楽とケーキの幸せ〜。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)ドイツ連邦バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン没

1922年作曲されたバレエ音楽は
その名もSchlagobersシュラークオーバース=泡立てたクリーム。ホイップクリームのことです。

ウィーンの人々は第一次世界大戦(1914-1978年)で、中欧で650年間支配していたハプスブルク帝国の崩壊を経験します。

シュトラウスは敗戦のショックに沈むウィーンでウィーン国立歌劇場の監督職を務めています。
経済的にも困窮する付属のバレエ団の再興を画策してこのバレエを企画します。

しかし、ハイパーインフレがウィーンを襲い、振付、演出、衣装代など経費がかかりすぎ、「億万長者のバレエ」と呼ばれ評価は散々でした。 

シュトラウスは評価に対して
「私は現在の悲劇に耐えられない。
喜びを創り出したいのです。」と言ったそうです。

あらすじは、ウィーンのお菓子屋さんで子どもたちが生クリームたっぷりのお菓子を食べているうちに、たくさんのお菓子に囲まれる夢を見るというお話しです。
マジパンの行進、チョコレートの踊り、プラリネ王女のパーティーが開かれ、香り高いリキュールのトリオと、ビールでなだめられたケーキの騒動が始まりました。

バレエ ホイップクリーム SCHLAGOBERS, Ballet, Op. 70
1時間以上の中の一曲。
ホイップクリームのワルツ
Langsamer Waltzer








秋の交響曲

2023-10-13 21:05:00 | ロマン派
蟲鳴くや 花露草の 晝の露
        正岡子規
露草は、万葉集にも読まれた東南アジア原産の花。古くは月草と呼ばれていました。

病院の庭に萩も咲いていました。

秋風は 涼しくなりぬ 
馬並(な)めて いざ野に行かな 
萩の花見に
   万葉集 作者不詳
萩は Lespedeza bicolor
    var. japonica
名前も日本原産。
両方とも秋の季語ですが、結構暑い時から咲いています。

それでも見たら秋の気分になってきます。
中秋の月にすすきと月見団子と萩や露草を備えたそうです。

「秋の交響曲」はヨハネス マルクス(1882-1964年)オーストリア=ハンガリー帝国 グラーツ生まれ、オーストリアグラーツ没(カールマルクスとは関係ない)


1921年39歳の時の作品です。

父の希望で法学部に入りますが、哲学、芸術史に移り、父と決裂します。
26歳から作曲。
150曲の作品を残しました。

1914年から1917年までウィーン大学の音楽理論の教授になります。
1922年ウィーン音楽アカデミーの院長になります。
1932.33年にトルコ政府の委嘱でアンカラ音楽院の設立に寄与します。
1922年ウィーンで初演されました。
全67分の大作です。

ヨーゼフ マルクスの公式ホームページ
http://www.joseph-marx.org/en/herbstsymphonie.html#top
「秋の交響曲」
第1楽章 A Song to Autum(秋に寄せる歌)
第2楽章 Dance of the Noonday Spirits(真昼の精霊たちの踊り)
第3楽章 Autumnal Thoughts(秋の想い)
第4楽章 Poem to Autum(秋に寄せる詩)

第一楽章「秋に寄せる歌」



フルート博物館

2023-10-12 21:00:00 | 楽器
フルートアンサンブルエスカル合宿の後、かねてからお誘いのあった笹山さんの別宅に大阪エスカル組4人で訪問させて頂きました。

リビングに足を踏み入れた途端、目に入ったのはこれ!
「わぁっ!これは?!」
と叫びました。
「榎田先生のコレクションです。」
「フルート博物館ですか?」
「いや、整理されるまでの保管かも…。」
「吹いてもいいですか?」 
「どうぞ。」
「わあーい!」ということで

ベーム式以前のフルートもあります。

アウロスのトラヴェルソまで

4人とも夢中になって吹いてしまいました。
象牙の頭部管もありました。
「こんなにフルートに食いついた人は初めてですよ。」と笹山さん。
散々吹かせてもらった後、
所蔵のレコード

蓄音機で
真空管

…ベネット、ランパルを聞かせてもらいました。
ポツポツいいますが、まろやかな音です。

最後に笹山さんの楽器、ルイ ロット2本。ボンヴィル。
ヘインズのピッコロ2本。
1本はCシャープ管。



私はルイロットをお借りして、みんなとグリーグの「春によす」四重奏。
ライヒャの「シンフォニコ」のメヌエットをフルート四重奏を5人で初見で吹きました。

ロットが素晴らしかったです。

素晴らしい隠れ家!
「いいなぁ!ロットも別荘も!」と言うと「買ったら、この向かいの家は1200万。ちょっと下は土地だけだけど300万円出でてましたよ。」と笹山さん。
…安い…けど私には高い😅💦

梅田で今川さんと夕食食べて帰りました。

アントン ライヒャ(1770-1836年)
ボヘミア王国プラハ生まれ、フランス王国 パリ没

チェコ語ではアントニーン レイハ。
ライヒャはドイツ語読み
後半生フランス語ではアントワーヌ レイシャ。
10歳で孤児になり、ドイツでチェロ奏者をしていた叔父に引き取られます。

15歳でケルンのマクシミリアン選帝侯の宮廷楽団のフルート奏者としてボンに移ります。
この時同じ年齢のベートーヴェンがヴィオラ奏者としていました。
叔父が指揮するケルン歌劇場管弦楽団にも加わります。

1803年ベートーヴェン

1789年ベートーヴェンとボン大学に入学しますが、フランス革命軍によりボンが占拠され、宮廷楽団は解散。
ハンブルグに移り、作曲とピアノ教師になります。

1801年ウィーンに移り、ベートーヴェンに再会。
ハイドン、グルック、モーツァルトに影響を受けます。

1808年38歳でパリに移ります。
1817年パリ音楽院の作曲鹿の教授になります。
リスト、グノー、ベルリオーズ

フランクを育てます。

1829年フランスに帰化

24曲の木管五重奏曲、フルートのための二重奏22曲、オペラ、カンタータ、7曲の交響曲、オペラ、管弦楽曲を作曲しています。

理論家としては現代に通じる書法を作っています。
「高等作曲教程」

は没後、評価が高まり、世界各国で教材内容としてつかわれました。

4本のフルートのためのシンフォニコは、12番、19番、27番を残しています。
12番D durの第二楽章メヌエット

ゴールウェイ、ランジュバン、ホスクルドソン、ブリアコフ、フルート界のドリームチームカルテットです。