電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

メンデルスゾーンとバッハ

2013年08月05日 06時04分50秒 | クラシック音楽
 フェリックス・メンデルスゾーンと姉ファニー・メンデルスゾーンたち兄弟姉妹の父親アブラハム・メンデルスゾーンは、祖父モーゼスの反対をおして、ユダヤ教からキリスト教に改宗し、ルーテル派プロテスタントとして子供たちに洗礼を受けさせ、地名を取ってバルトルディと名乗ります。祖父モーゼスは、哲学者らしく本質を重視し、「ユダヤ教の孔子がいないように、クリスチャンのメンデルスゾーンも存在しない」と、迫害や偏見が止むことはないことを指摘しますが、産業革命が進む時代の進展に合わせて、銀行家として事業を拡大しようとするアブラハムは、現実の状況の改善に賭けようとしたのかもしれません。

 父母は、子供たちに最高の教育を与えるように心を配ったようで、音楽教育も優れた教師たちに師事していたようです。その一人、カール・フリードリッヒ・ツェルターは、ベルリン・ジング・アカデミーの会長となった人で、ヨハン・セバスチャン・バッハの自筆稿を収集していました。また、母方の叔父が選び、父も使わせようとしたバルトルディという姓を嫌ったファニーとフェリックスは、大叔母のサラ・レヴィの影響を受けて、J.S.バッハに親しむようになります。サラは、大バッハの息子ウィルヘルム・フリーデマン・バッハの教え子であり、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのパトロンでもあり、優れた鍵盤楽器奏者で、ベルリン・ジング・アカデミーのオーケストラと共演もしていた女性だったそうです。そのサラ大叔母さんが、1823年のクリスマスに、14歳のフェリックスに、J.S.バッハの「マタイ受難曲」の自筆稿の写本をプレゼントします。すでに天才と呼ばれていたフェリックスは、この曲を研究し、その価値を確信し、バッハの音楽にどっぷりとつかりながら、ツェルターによる対位法の指導を身に着けていったのでしょう。

 若いメンデルスゾーンの作品が持つ対位法的な性格、たとえば弦楽四重奏曲第1番や第2番などを耳にするたびに、ロマン的な響きの中にあるがっちりとした構築感の由来は、おそらくこのあたりにあるのではないかと思います。

(*):フェリックス・メンデルスゾーン~Wikipediaの記述より

【追記】
大叔母からマタイ受難曲の自筆稿の写本を贈られた年齢を訂正しました。

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