雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

袖ケ浦マル耐 速報

2011-11-24 06:12:35 | M/Cレース

★袖ケ浦マル耐に行ってきました。

写真を中心に速報です。

家を6時に出て伊丹空港7時過ぎのANAで、

羽田に着いたのはこんな時間、9時に迎えに来てくれた村島さんや平井さんと会って、一路袖ケ浦へ。

海ほたるで

こんなメンバーでした。ご存じの方も多いと思います。

10時過ぎには袖ケ浦サーキットに着きました。

まずチームイワキの高木さんとライダーたちと。

このレースの主催者 With Meの丸山浩さんは、先日来NPO The Good Times のメンバーさんである。

お忙しい中を会場jに着くなり、挨拶に来て頂いて恐縮だった、

その時一緒に来られたのが松下佳成さん、名刺も頂いたのに写真も撮らなかった。

このあたりが、いまのレース界に疎いのである。以下はネットから抜粋、超有名人、スターなのに失礼した。

グラフィックデザイナー、イベントMC、レースアナウンサー、レーシングライダー、モデルなど、多彩な活動を精力的に行っている二輪ジャーナリスト。かつては有名バイクスクールにインストラクターとして参加した経歴を持つ。2008年のもてぎ7時間耐久ロードレース(通称、もて耐)ではBMW HP2 SPORTでの挑戦に加わり、チームの勝利に大きく貢献。DE耐、鈴鹿MiniMoto4耐とビッグイベント耐久で立て続けに優勝を飾り、バイクの大小に関わらず、なんでも乗りこなす高いスキルを証明して見せる。本年には自身の夢であった世界最古のバイクレース『マン島TTレース』に唯一の日本人として出場を果たす。

 

右がこのレース主催のWith Meの丸山浩さん、左はアメリカ総合格闘技チャンピオン久保田武蔵さん、お二人とも初対面です。

 お二人に右は雷神マッハの蘇原さん、左はまっしま松島さん。みんなNPO The Good Times のメンバーです。

こちらもThe Good Times Racingチームのメンバーたちと。一番右はかってのホンダファクトリーの渡辺さん、NS500開発者で、春のカワサキの想い出そして未来、以降の再会です。

パドックにはこんな幕も。

午前中、コースを使ってのランニングも。

これはまたオモシロイ顔合わせ、右から久保田武蔵さん、村島さん、鈴鹿8耐のシンガーソングライダー 左嵜啓史さん、そしてjホンダ技研の現役岡部さん、

みんなNPOのメンバー達です。

NPO The Good Times のメンバーズカードと、チャンピオンベルトを持った久保田武蔵さんです

昼食はライダースCafeのBUNNY BEACHさんが用意してくれました。 勿論NPOの会員さんです。

 昼食もこんな不思議な顔合わせで、

午後1時、いよいよ3H耐久スタートです。

元気よく飛び出していきました。

パドックはこんな雰囲気です。

Good Times Racing のマシンの1台、モトボックスセキさんの提供です。

レース場に来ると、一躍スターの平井さん、サインです。

これは三木市から参加の板東聖悟さんとフィアンセのペア。マシンはBMWです。サーキットを走るのはお二人とも初めての経験です。

雷神マッハの蘇原さん、いよいよ登場。

左は松島さん、右は三宅さん。松島さんはかって鈴鹿8耐を何度も走った本格派。当時のツナギで。

途中経過です。チームイワキがトップ。The Good Times Racing のタイム1‘31”936も、ベストタイムも松島さんのタイム、流石です。

戦い終わって板東さんも完走です。右は新人二人を援けて第3ライダーで走ってくれた、内外出版の編集長河村さん、元二輪車新聞で私をご存じでした。

いろいろ有難うございました。

優勝はチームイワキ、岩城滉一は身内に不幸があって来られなかったのですが、見事優勝でした。

 Good Times Racing のメンバー達です。

 参加された皆さんです。

6時のフライトに間にあって、8時に自宅に着きました。

そしてこのブログアップしました。

詳細はまた。 

 

かってKMJにいて、今度NPO The Good Times の団体会員に参加された植村武君と久しぶりに昔話いっぱいできて楽しかったです。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

★Facebookのファンページです

★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。

 

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキのレース関係者のブログから

2011-11-04 06:04:50 | M/Cレース

★レースの世界には若いころ何年かいただけなのだが、

特に年をとってから、この世界を知っていて本当によかったなと思っている。

レース界と言っても旧い昔の人たちが主なのだが、レースは昔の想い出を語るには、格好の材料なのである。

具体的な結果や、想い出を共有しているし、『まさに競争の世界』と言うのが気持ちがいいのである。

結果は、明確でちゃんと順位がつく。

 

1位と2位の差は天地の開きがある。

『2番ではダメなのである』

そんな昔のライダーたちも、だんだんと歳をとって、私が懇意にしているライダーたちはみんな還暦を過ぎていたり、それに近づいている人たちばかりである。

 

★いま、私の周りにいて、

且つネットでブログをやっている人たちとは、毎日ネットの世界で出会っている。

thiraiさんこと平井稔男さんは、『Team Green』なるブログをアップしている

今は、塚本昭一物語の真っ最中である。

私は、ほんのちょっとの間だったが、平井さんはそれこそレースの世界で生きてきている。

いろんな肩書をお持ちだが、『Team Green監督』と言うのが一番気に入っているようである。

 

★山本隆君、ブログのハンドルネームは60おじさん。マシンのNOも60番である。

この人が、ブログを書くなどとは思ってもいなかった。

毎日ではないが、なかなかの人気ブログである。

今は、先日のON ANY SANDA の記事が書かれている

ON ANY SANDA スタートの一瞬だが、この写真を撮った主については後述。

マシンに乗せたら途端に若くなる。先日のON ANY SADDA スタートの一瞬である。

いつシャッターを切っても様になっている60おじさんである。

 

これは、熱烈な加古川の山本隆ファンのkakogawalionyaさんのブログから

 山本レーシングを訪れた『片山 敬済』くんとの会話の動画が貼付されているので、ちょっとだが声をお聞きになりたい方はどうぞ。

 

 

★その山本隆君に、ON ANY SADDA で『大津さんがブログ書いてるよ』と教えてもらった。

現役のころから、何となくご縁があって、よく知っている。

レースの事ばかりかなと思ったら、ブログの名前が『野々池周辺散策』で草花や自然の話題が多いのだが、

 

こんな懐かしい方たちの顔が並んだ写真の貼ってあるブログがあった

みんなカワサキのレース、カワサキの二輪事業そのものを支えた人たちだが、特に二列目のメンバー達は、カワサキのレースの歴史を背負っている。

左から故岩崎茂樹君、鈴鹿8耐でただ1回カワサキが優勝を果たした時の初代モータースポーツ部長である。2代目が大津信君なのである。

その隣が中村治道さん、青野ケ原のモトクロスを率先引っ張ったし、FISCOの日本グランプリの総監督を務められた。カワサキ創成期のレースに色濃く関与されたのである。

その隣が、川崎さん、川崎重工の創業者である川崎正蔵さんのお孫さんである。青野ケ原のモトクロスでも中核的な存在だった。

高橋鉄郎さん、中村さんを援けて青野ケ原の監督をされたリした。

一番右が大槻幸雄さん、創成期のファクトリーレース監督、Z1の開発責任者。

当然のことだがみんなお若い。

 

★この写真も、山本隆君の写真も、実はこの方のブログからである。

Sam's ダイアリーと言う名のブログ、カワサキのファクトリーで長くメカニックを務められたとか。

大津さんもこのブログの影響で、ブログを始められたとか、講釈師、山本隆君の解説である。

 

一度、ご覧になればいい。

写真が見事である。

こんなに丁寧に、こんなに繊細に、写真が扱えたらいいなと思う。

 

カワサキのレースを支えた人たちのブログ、ご紹介しました。

あとの二つはこの1カ月の間に出会ったものです。

お気に入りに入っています。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★Facebookのファンページです

★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。

 

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ON ANY SANDAを覗いてきた

2011-10-24 06:32:45 | M/Cレース

★雨が上がって、三木アネックスパークでの、秋のON ANY SANDA に、山本隆君の呼びかけで、F21Mが集まるということなので、覗きに行ってきた。

永年、バイクの仕事には携わってはきたが、バイクのことは殆どよく解らない。

バイクマニアは逆にマシンの細々としたことに詳しくて、そんな連中と話していたら、無茶苦茶詳しいので余計に敬遠してしまうのである。

そんな私だが、幾らかでもマシンのことで話が出来るとしたら、

このF21Mぐらいかも知れない。

 

 ★これが山本隆君、60おじさんが持ち込んだF21Mである。

カワサキがこのマシンを造ったきっかけは、ズズキが本格的なパイプフレームの250を開発して、モトクロスで久保、小島などがヨーロッパ遠征などやり始めたからである。それまではバックボーンフレームの市販車ベースのマシンが主流だったのである。

クロームモリブデンのヘリコプターのパイプを曲げて、セリアーニタイプのフォーク、エンジンは238cc単気筒、極力軽くと確か90kgを切ったのではなかったか? 21Mは前輪のタイヤサイズから名づけられたのではなかったかと思う。

エンジンは当時のモトクロスチーム監督故安藤吉郎さん(吉郎ノ吉には人遍が付くのだが見つからない)が開発、その他は全て当時のモトクロス職場の松尾勇さん手作りである。設計図など何もなかった。べニア板に釘を打ってフレームの形を合わせ。パイプに海岸の砂をつめてパイプを曲げて作った。鈴木は久保和夫、小島松久の2台だったが、

カワサキは、三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義と確か7台を揃えたのである。作る手伝いを少しはやったので、何となくうろ覚えだが仕様も覚えているのである。

青森のMCFAJの全日本に初出場以来抜群の成績で、モータショーに出品すると言ったら、安藤さんがひどく反対をするのである。なぜ?と聞いたら、

『125ccの市販車ベースのエンジンが238ccのレーサーにまでして、尚持つというのは、如何に過剰品質か、設計者としてはカッコ悪い』と仰るのである。反対を押し切って出品したのだが、そんな話もあった、想い出のF21Mである。

そんな、F21Mは、4台しか集まらなかったと言うべきか、4台も集まったというべきか?

当時のマシンは、グリーンではなくて、『赤タンクのカワサキ』だったのである。

 

★マシンは4台だったが、カワサキのレースを支えたビッグネームが、沢山顔を見せた。

ずっと監督などを務めた大津信君、

ライダー時代もあって、ずっとカワサキのレーシングチームに名を連ねた安井君。今も尚現役なのか?

私が現役最後の国内担当で、レースや遊びに全力投球だった20年前ごろのカワサキファクトリーの中心メンバーたちである。

 

久しぶりに、旧い話に花が咲いた。

 

★これは、ヤマハの往年の名ライダー宇野順一郎さんである。私も名前だけしか知らないまさに往年のライダーなのである。

昨年だったか、ここで初めてお会いした、山本隆君よりはもう少し上で、片山義美さんたちと同年代なのだろう。

一緒に写っているのは、初めてお会いしたが、ヤマハのモトクロス名ライダー故荒井市次さんのお嬢さんだとか。

荒井市次さんとは、直接カワサキとは契約はなかったのだが、いろいろお付き合いのあった懐かしいライダーである。

もう何年も前になるが、このコースで山本隆君と火花を散らしたのが彼の最後のレースとなったのだろう。

 

★このほかにも、いっぱい写真を撮ってきたので、Facebook のアルバムにおさめてあります

興味のある方は、ご覧下さい。

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★Facebookのファンページです

★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レース界のお付き合い

2011-10-10 06:13:39 | M/Cレース

★今から言えば、もう50年も前のことですが、

そのころのレースの世界にいました。

今のレース界と比べて、ライダーたちの数も少なかったからか、

メーカーよりは各クラブ単位の活動も盛んで、横の繋がりも今よりは密接であったのかも知れません。

 

この写真は、今年3月4日に、『カワサキの想い出そして未来』と題して行った催しの時のパ―テ―での写真ですが、

私にとっては懐かしい顔ぶれが並んでいます。

 

この催しにはこのほかにも、山本隆君や、清原明彦、和田将宏、塚本昭一などなど有名ライダーがいっぱいでしたが、

このメンバーもまた最高です。

左から金谷秀夫(カワサキ、ヤマハ)、星野一義(カワサキ、日産)、木村夏也(カワサキ、スズキ)、私、吉村太一(スズキ、ホンダ)、田中隆造(BS)そしてホンダのファクトリーに関係していた渡辺さん.

みんな、活躍した年代は同じです。

ホンダ、ヤマハ、スズキ、BS、と日本の4メーカーのメンバーが集まった『カワサキの想い出』であったことが自慢です。

みんな有名人ですが、田中隆造君は今もMFJのモトクロス委員長などされていますから、若いライダーの方もご存じだと思います。

 

★なぜ突如として、こんな写真を思い出したのかと言うと、

Facebook で昨日、一昨日にこんなライダーたちと再会しました。

この3月4日の催しに顔を連ねていても、決して、おかしくないライダーです、

 

●北川圭一君。 

世界耐久レースの2年連続チャンピオンだとか。 私は彼がそんなに立派になっているのを知りませんでした。

京都の『ヨシケン』のチームからカワサキのチームグリーンに来た頃の初々しい北川君をよく覚えています。カワサキでも活躍しましたが、スズキさんに移ってからの活躍が見事です。

ひょんなことで、Facebookで繋がりました

 

●宮崎祥司君、武石伸也君。

カワサキでのお付き合いは、そんなに長くはなかったのですが、

宮崎君はホンダからシリーズチャンピオンからのカワサキ移籍でしたし、武石君は北海道札幌出身が印象に残っています。

Facebook 触っていたら、吉村太一君も。塚本昭一君も参加されたようなので、『トモダチ申請』しておきました。

 

★昨今、日本でもFacebook が急激にブームのようなのを実感します。

実名登録なのがいいと思いますし、一人からどんどん繋がります。

日本でも、もう1000万人を超えたようですから、スゴイなと思います。

 

もう何十年も前の人たちと、簡単に再会できるのがいいですし、レースの世界のような、独特の繋がりがある世界にいたことに感謝です、

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★Facebookのファンページです

★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スターに戻った山本隆

2011-08-22 05:31:28 | M/Cレース

★こんなツイッターを山本隆君が発信した。 今日はモトクロススクールを利用しての『CM 撮影』だというのである。

 

Mr.モトクロス山本 隆
 
 

 ★ 60おじさんと称しているが、もう65歳は過ぎているのだが、

ご自身のブログを見ても、マシンに乗っている時の山本隆君は間違いなく元気溌剌なのである。

そんなことで、CMの撮影現場、三木アネックスパークに出かけてみた。

山本隆君のピット、いつもとちょっとだけ雰囲気がちがう。 CMの撮影スタッフらしき人たちに囲まれていて、

すぐ紹介して頂いたが、

頂いた名刺はプロデュ―サ―だとか、電通テレビ局ののコミユニケーションデザイナ―など、これはちゃんとしたスタッフなのである。

最近はサプリメントのコマーシャルがあちこちに出回っているが、その一環なのだという。

あるメーカーのサプリメントのCMに、『元気な年寄り』を探していたら、山本隆が見つかったようである。

マシンに乗せたら、間違いなくそこらの年寄りとはケタ違いの元気さだし、

かって3年連続モトクロス全日本チャンピオンの肩書も『サプリメントのCM素材』としては、申し分ないのである。

 

スタッフとの記念撮影である。

スタッフの人と雑談していたが、レースなど初めてのようだし、

この何の変哲もない『おじん』が如何にこの世界では別格の人だということがおいおい解ってくるのだろう。

この時点では、まだまだよく解っていないようである。

この日の会場には、ON ANY SANDAの常連の貴島さんや、

元カワサキファクトリーの立脇君などもモトクロス教室の先生役で顔を見せていた。

バーベキューに余念のないのは、関西オトキチクラブ会長高下さんである

 

そのバーべキューの食事風景ぐらいから、撮影は始まった。

食事が終わって、

山本隆のモトクロス教室である。

かって『講釈師』と呼ばれていた山本隆君、そのライディング理論も話術も天下一品なのである。

この教室は、ぶっつけ本番だったが何の問題もなく使えるだろう。

にこやかに、和やかにスタートしたが、

山本が話しだすと、聞く人たちの顔が変わった。

まさに真剣そのものなのである。

カワサキファクトリーの後輩の立脇や野宮君も真剣に聞いていた。

その昔は、お弟子さんの星野一義が山本のそばを離れずにずっと、テクニックを教えてもらっていたのである。

(余談だが、今週は山本隆とのご縁で繋がった、Custom Infection の綿谷さんが、星野インパルの星野、金子を訪ねることになっている)

そしてそのあと、行われた模擬レーススタート直後だが、一般の人たちは既にこれだけ引き離されている。

下が乾いていたらこんなに差は出ないと思うがコンディションが、より以上の差をつけてしまうのである。

トップを走っているのが山本隆、右後方にテレビCMの撮影の人たちが居る。

トップで戻ってきた。

チェッカーフラッグを受けてからの、インタビュー。

雨でぬかるんでいたが、泥をかぶった姿も迫力があっていいだろう。

撮影は1回で全て上手くいきました、ということだった。

 

山本隆君、いつものことだが、マシンに跨っている限りは、誠に颯爽として元気なのである。

『サプリメントCM』 としても申し分がないと思う。

多分、スタッフの人たちも65歳を超えた『おじん』が、まさかこんなに圧倒的に速いなどとは思っていなかったに違いない。

プロとアマチュアは、それくらいの差はあるのだろうが、山本隆はまた別格である。

 

出来れば、ちゃんと『サプリメント』を飲んで、普段でももう少し『腰を伸ばして』歩いて欲しいものである。

そんなになったら、私もその効果を認めて、それを飲むようになるかもしれない。

 

ところで、いつ頃からのCMですか?と電通の人に訊ねたら、秋以降、来年ぐらいからなどと言ってたのでだいぶ先のことである。

 

 ● Facebook のアルバムに写真纏めました

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんの のブログもツイッターもFacebookも見られます)

★Facebookのファンページです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑顔いっぱいの ON ANY SANDA

2011-04-25 06:00:26 | M/Cレース

★今年初めての ON ANY SANDA

先日の『カワサキの想い出、そして未来』のメンバーがいっぱいで、

さらにここの常連たちも集まって笑顔いっぱいの ON ANY SANDA であった。

 

 Mr.モトクロス山本 隆 motoyrs_spl 東京から毎回参戦の加園さん、もう出発されている事だろう。今回豊橋からも昔の友人パールホワイトの古田君が応援に来てくれる事になった。彼もF21Mで活躍した有名なライダーである。さらに新潟からも、元我が弟子の嘉瀬君が応援に駆けつけてくれる、ありがたいことだ。

今回は、いつものBSAに加えて、赤いタンクのF21Mを持ち込んで張りきっている60おじさん、山本隆君のツイッターだが、

左が嘉瀬さん、右が古田さん、そして平井稔男さんである。

これは貴島さん。

先日の『カワサキの想い出、そして未来』でのチャリテイオークションでも、いっぱい御買い上げ頂いた。

そして、ホ―リーイクイップの堀口さん

今日は主催ではなくて、ライダーとしての出場なのである。

私の腕に掛っているのは、加園さんから頂いたお土産。

 

その関東の加園さん、熱狂的な山本隆ファンである。

八王子ナンバーの車にマシン5台も積んでの参加である。

そして、三木アネックスパークのオ―ナ―山田さん

カバン屋さんも子供さんを連れての参加、山本ファンや名古屋からの常連のライダーさんとの記念写真、

これが新しく造った、F21M, ちょっと見えにくいが山本が肩にかけているのは、現役時代のクしタニ製のパンツとこれも現役時代の神戸木の実レーシングのヘルメット。

 

これはゴーグルも当時のものでの写真である。

 

★昨日の山本隆君、60おじさん、肝心のレースの方は、

BSAで走った午前中のレースも、午後一番のF21Mでのレースもともに結果は、ぶっちぎりのトップ走行だった。

そのレースでの写真。

 

レース前、マシンに乗ると普通の60おじさんからスターに一変する。

山本隆の周りだけファンが囲んでいる。

そしてレースでは1周目からトップを独走、3周ぐらいまでは2位との差もあまりなかったが、

後1周では、完全なぶっちぎりの独走態勢だった。ちらっと見える3人目は、カワサキのファクトリーライダーだった立脇君。

レースが終わって握手しているのは、最初山本を猛烈に追っかけた、立脇チームのライダーとお互いの健闘をたたえていた。

F21Mを囲んで談笑する仲間たち、笑顔いっぱいの ON ANY SANDA だった。

 

★このF21M,整備が完全に出来なくて、クラッチがダメで押仕掛けでのスタートすると言う。

走ってしまえば、クラッチなくてもチェンジはできると、例の山本節で講釈していたが、午後のレースは用事があって見ることは出来なかったのだが、1位になったそうである。

もう67歳だと言うのになぜバイクだけははやいのだろう。

『コケないようなスピードで走って、他の人たちより早く走れたらいい』などと言っていたが、

どんな状態で写真を撮っても、綺麗な形でマシンに乗っているのは確かである。

 

大阪からの常連の人たちもいっぱいで、笑顔いっぱいの ON ANY SANDA  であった。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんのon time のブログもツイッターもFacebookも)

★Facebookのファンページです。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年のON ANY SANDAと・・・・

2011-04-21 05:24:56 | M/Cレース

★ 今年もON ANY SANDA の時期になった。先日は関東の加園さんからもメールでお誘いがあったりした。

例年盛り上がりを見せるON ANY SANDA だが、今年はまた格別のような気もする。 

昨日のブログに貴島さんからご案内のコメントも届いた。

貴島さんは、ON ANY SANDAでは、立脇君のマシンファクトリマシンを並べたり、オークションでいっぱい有名人の提供グッズを買って帰った人でもある。

 

3月に『カワサキの想い出、そして未来』で出会ったこんな人たちにも、また出会え楽しみがある。

ON ANY SANDA の舞台、三木アネックスパークの山田さんにも、またお会い出来る。

 

★つい先日、突然我が家に河本さんがご子息とキャベツを持って訪ねて下さった。

私は解らなかったのだが、先日の『カワサキの想い出、そして未来』にもご一緒だったと言う。

『今度のON ANY SANDA 行かれますか?』 というお話だったし、山本隆君のこともよくご存じだった。

 聞いててみたら、平井稔男さんの安全運転コース関連なのである。

その平井さんも勿論来るし、

先日このブログにアップした歳森康師君も来るらしい。

野宮くんも来るだろうしホ―リ―エクイップの堀口さんとも、今度はゆっくり話をしてみたい。

 

★ 昨日、アメリカから帰ったばかりのカバン屋さんに会ったら、こちらもどなたかに誘われているので子供さんを連れて行かれるそうである。

アメリカでは、月木さんの娘さんご夫婦?に会われたとか、

ジェットスキーの世界チャンピオン金森稔君にも会ったとか言われていた。

 

金森稔君と言えば、元は月木レーシングの出身で、二輪のレースライダーなのである

彼をカワサキに連れてきたのは、平井稔男さんで、

二輪のテストライダーであったのを、ジェットスキーに連れてきて乗せたのは、福井昇君だと思う。

ソウルのオリンピック委員会から招待された開会式当日のデモンストレーションにも、私もその団長でみんなと一緒に参加した。

 

その平井君も、福井君もいまNPO の理事さんで手伝ってくれている。

みんなそのころからのお付き合いなのである。

 

それはそうと、カバン屋さん、今度はハーレーを何か扱われるようである。

アメリカで『安いハーレーがあったので仕込んできた』などと言っていた。

安いと言っても100万円以上は当然ながらするのである。

何事も勉強家で、ハーレーをやるとなると、『ヤフーオークション』で、ハ―レ―の本をダンボールで二箱も買っていた。

 

確か60おじさん、山本隆君はハーレー嫌いだが、僚友の歳森師君はハーレー派である。

カバン屋さんのハ―レ―商売どんなことになるのか楽しみである。

 

★その山本隆君、今回のON ANY SANDA では、この赤いタンクのF21M で走るらしい。

赤いタンクも懐かしいし、当時のカワサキのエンブレムもいい。

こんな経緯で、このマシンを製作したようだ

山本ファンが沢山コメントを寄せている。

『1968年発表の市販レーサーで、エンジンベースはB-1L、125ccがベースですが、238cc28Hpにアップされています。
工場レーサーは250cc目一杯アップしていました。
チャンバーは左サイドが標準ですが、ダウンやらセンター中通しなど色々仕様が有りました。』

と60おじさんは得意の講釈をたれている。

 

60おじさんのブログのすぐ前の記事は、『カワサキの想い出、そして未来』当日のことで、弟分、星野一義と一緒に出てきている。

星野はカワサキの記念車の展示の中に、この赤いタンクのF21Mがないことを非常に残念がっていた。

今年は、春からいろいろあった。

 

このON ANY SANDA でまた何かが起こるかも知れない。

そんな可能性のある、夢のある連中がいっぱい集まる。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんのon time のブログもツイッターもFacebookも)

★Facebookのファンページです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本隆 と 歳森康師

2011-04-15 05:40:36 | M/Cレース

 

★ 4月に入った。 春である。

桜も咲くし、プロ野球も始まったし、レースも始まる。

4月24日は、三木アネックスパークでのON ANY SANDA がある。

先日は関東の山本隆ファンの加園さんから丁寧なメールを頂いた。

関東から参加されるそうで、お会いできるのが楽しみである。

 

 

★今年は幾つになるのだろう。

60おじさんとは言っているが、もう70の方が近いのではないかと思われるのだが、バイクに乗せると何故か元気である。

 

 Mr.モトクロス山本 隆 motoyrs_spl 24日に行う「ON ANY SANDA」第1戦用に準備を進めているカワサキF21M(1968)のタンクが「パウダーコウティング・カトウ」から仕上がってきた、素晴らしい光沢だ。
古市裕一古谷錬太郎

 

今朝もこんな風に、ツイッターでつぶやいていた。  今年からは懐かしいF21M に乗るらしい。

山本隆君が現役のパリパリのころ、神戸木の実のもう一人のファクトり―ライダーが、歳森康師君である。

たぶん彼がカワサキのファクトリー契約の第1号である。

ロードをやるときに金谷秀夫を連れ来たのも歳森だし、一足先に4輪に転向して、星野一義を4輪に誘ったのも歳森である。

天才肌のライダーだったのに目を悪くして引退してしまった。

そんな歳森康師だが、突如として、こんなブログでデビューしてきた

六甲で仙人のような生活をしているらしい。

何をやらしても器用にこなす歳森らしいブログである。

 

山本隆君が見つけてきてコメントしている。

24日のON ANY SANDA には、遊びに来るらしい。

『カワサキの想い出そして未来』にも顔を見せなかったので、久しぶりに会うのが楽しみである。

 

40年以上も前のカワサキファクトリー、神戸木の実の、山本隆、歳森康師、金谷秀夫は、今思い出しても錚々たるライダーであった。

当時は、星野一義が彼らの弟分としてカワサキにいた。

なかなかこんな4人は揃わない。

 

つい先日、3月4日、「カワサキの想い出、そして未来」 での 山本と星野である。

 

ついでに、当時の仲間たち、金谷秀夫、星野一義、木村夏也、私、吉村太一、田中隆造。

みんな、それぞれいい年の取り方をしている。

 

今バイクでレースなどやっているのは、山本隆君。 (木村夏也も速いらしい。)

あれだけバイクを上手く乗るのに、ボールゲームは野球もゴルフもてんでダメなのである。

 バイクだけかと思ったら、釣りもするらしい。

 

★レースの方は5月には、こんなレースにも出るようだ。

先日、NPO The Good Times の総会を5月22日にしたいとピッたら、『その日ダメです。欠席です。』と言うものだから、5月29日にやることにした。

奈良まで遠征するらしい。

 

ON ANY SANDA を開催する、三木アネックスパークも、

この『チキチキVMX猛レース』を 主催するホーリーエクイックも。

どちらもNPO The Good Times の団体会員さんである。

そんなことでこんなチラシが我が家に送られてきたのである。

 

ちょっと奈良までは遠いな。

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんのon time のブログもツイッターもFacebookも)

★Facebookのファンページです。

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸木ノ実レーシング50周年記念祝賀会

2011-04-01 05:22:21 | M/Cレース

 

★ カワサキバイクマガジンの中に特集された、

『神戸木の実レーシング50周年記念祝賀会』 に出席出来て、こんな扱いで記事にして頂いたのは、非常に光栄である。

 

私のレースとの関わりで、一番よかったと思っているのは、カワサキ以外のレース界の人たちとも懇意になれたことである。

特に、片山義美さんには特別の想いがある。

ライダーという職業の人と、初めて話をしたのが、片山義美さんである。そしてそれがきっかけで、レースの世界に入って行ったのである。

 

義美さんのお母さんにもいろいろお世話になった。

金谷秀夫が司会をした、片山義美さんの引退パ―ティ―にも、故岩崎茂樹君と一緒に、ご招待を受けた。

今片山さんは、三木にお住まいである。 それも何かのご縁である。

 

そんなことでこの会合は、グリーンピア三木で行われたのである。

金谷やキヨさんや杉尾さんなど、その人たちが主役でもおかしくないメンバーが、世話役をして、この会は開催された。

 

 

 

 ★ 山本隆、金谷秀夫、村上力、3人とも当時はカワサキに乗っていた。

歳森康師君の顔が見えないのは残念だが・・・・・

私がレースに没頭していたのは、60年代後半なのだが、

80年代から、カワサキのTeam Green の文字通り生みの親の平井稔男さんと一緒に載ったのも、ホントによかったと思っている。

 

 

厚木にあった三橋実が主宰したカワサキコンバットが解散してからは、星野一義もお世話になった。

和田将宏、清原明彦など以下錚々たるライダーがその名を連ねている。

そんな名門神戸木の実の50周年は、私にとってもほぼ50年前の若く元気なころの懐かしいレースの世界を思い出させてくれたのである。

 

カワサキバイクマガジンに感謝である。 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんのon time のブログもツイッターもFacebookも)

★Facebookのファンページです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1960年代のカワサキのレース記録

2011-03-03 06:57:48 | M/Cレース

『カワサキの想い出、そして未来』 で、

昼の部、『カワサキのレース創成期、1960年代 』のトークショーで、大槻幸雄さん、山本隆、歳森康師、金谷秀夫、星野一義と一緒に出ることとなった。

そのころの、資料として解る範囲で纏めてみる。

(60おじさん、記録違っていたり、写真などあればご提供下さい。 どんどん修正したいと思います。)

 

★昭和35年(1960年)

 4月に単車準備室が出来て、10月にモペットの生産が始まった。まだレースはやっていない。

★昭和36年(1961年)

 B7の時代、販売はカワサキ自動車販売が担当、メーカーのレースはまだ始まっていない。

★昭和37年(1962年)

 B8の発売準備が8月に始まった。カワサキ自販で、レースに参加したことがあるかもしれない。

 

★昭和38年(1963年)

 ● 5月19日、兵庫県青野ケ原モトクロス。 生産サイドの中村治道さんをを中心に高橋鉄郎さんなどが、B8のモトクロッサ―を製作し、社内ライダーを中心に、非公式に大会に出場した。会社としての正式出場ではない。結果は1~6位を独占。雨デ水たまりがいっぱい、カワサキは防水対策が完ぺきだったためみんな完走。他メーカーのマシンは止まってしまった。マシン製作の中心は、兵庫メグロから、異動した故松尾勇さんが中心に纏めた。チームマネージャーは故川合寿一さん。ライダーは加藤、飯原、秋山などの社内ライダー中心。山本隆もヤマハのマシンで出ていたとか。その時の写真はカワサキワールドに飾ってあります。私は、営業でこっそりお金を都合させられました。ちょっとだけですが。

 ● この年には、東京のほうで故小野田滋郎さん(フィリッピン小野田中尉の実弟)などが三橋実などと厚木にカワサキコンバットを創り、岡部能夫、梅津次郎、加藤清丸などがいたが、彼らが明石に出入りするようになったのも、青野ケ原以降のことである。

 ● 一方関西では、兵庫メグロの故西海義治さん、片山義美さんの関係で、神戸木の実から歳森康師、山本隆がカワサキに乗るようになった。

 ● この年には、地方草レースに参戦し、成績としては殆ど優勝を重ねていた。マネージャーは故川合寿一さん、ライダーの契約金があったかどうかは不明。専ら営業対策で、強いチームの来るところは避けての参戦だったので連戦連勝だった。モトクロスの実情などみんな知らない時代で、カワサキはホントに強いのだとみんな思っていた。

 

★昭和39年(1964年)

●この年、単車事業部、発動機より分離独立、本社より開発費で年1億2000万円の広告予算を計上、この予算の中でライダー契約もレース運営も実施、予算は潤沢にあった。

●ライダー契約としては、関西は神戸木の実の歳森康師、山本隆の個人契約。関東は厚木のカワサキコンバットの三橋実、岡部能夫、梅津次郎の個人契約のほか、カワサキコンバットに対しライダー育成費、練習、宿舎費などを含めて一括1月20万円を支給し、ライダー育成を委託した。全国より有望ライダーが多数集まった。

● この年の春、相馬が原で、MFJ第1回日本グランプリモトクロスが開催されている。 当時のMFJの記録にも詳しくは載っていない。 このレースに出かける前に、マネージャーの川合さんが、『困った、困った』と言っていたのを思い出す。当時はよく解らなかったが、城北ライダースなど強いチームが来るので、勝てないということだったように思う。確か6位か7位が最高だった。

●6月14日、 MCFAJ 全日本モトクロス オープンに山本隆優勝、これがカワサキの全日本での初めての優勝。

●9月には、安良岡健もカワサキコンバットに参加。

●9月10日、山梨モトクロスには、85J1が90ccにデビュー、このレースには三吉一行もカワサキからエントリ―し90,125ccに優勝。このレースに初めて私は責任者として帯同参加した。メカニックを纏めて援けてくれたのは、田崎雅元さん(元川重社長)である。そのころはレース監督はカワサキコンバットの三橋実がやっていた。

●10月10日、伊豆丸の山で行われたMCFAJ 全日本モトクロスには、90cc三橋実、125cc山本隆、オープン梅津次郎と4種目中3種目に優勝。ちなみに東京オリンピック開会式当日であった。当時は、広告宣伝課にヘリを所有していて現地に帯同、負傷者の空輸、花束贈呈など活躍した。

●関西でのモトクロスの普及と一般への広報を意図して、スポニチ主催のモトクロスの実現を図った。11月8日の紀ノ川モトクロスがその第1回である。カワサキは90cc、125ccで優勝しているが、当日岡部が朝の練習で荒井市次と接触小指骨折のため出場できなかったため、地方レースと言うことでもあり、黙って岡部の名前で、当時はまだ未契約の育成選手であった星野一義が代わりに出場した。朝のレースで転倒、脳しんとうで救急車で病院に運ばれたが、午後戻ってきてオープンに出場、確か6位ぐらいに入っている。これが星野のカワサキでのデビュー戦ではあった。

 

昭和40年(1965年)

●2月に、歳森、山本のBSとの仮契約事件が発生、この解決のために私は片山義美さんと話すことになり、無事二人のカワサキの残留が決まったが、レースチームの運営、契約など、私が直接担当することになった。

●3月231日のMFJ第2回日本モトクロスグランプリが名古屋、東山開催されで、90ccではアマチュア星野、125ccでは歳森がぶっちぎりで、走っていたがパンクとプラグミスで優勝を逸している。

●4月18日の朝霧でのMCFAJの全日本では、星野が90ccに優勝、デビュー数カ月で全国優勝を果たしている。

●この年の5月、鈴鹿で行われたジュニアロードレースに、山本隆がどうしても出場したいと言い出して、車が造れるか聞いたところ故松尾勇さんが大丈夫と言うので、当時は、会社からはロードレースの許可は貰っていなかったが、鈴鹿のモトクロスに出るということでスタートした。車は山本が自分で買うというのを、何とか2台都合してくれたのは、当時工場にいた田崎雅元さんである。モトクロスの山本だけではと、ロード経験のある北陸の故塩本との二人にした。塩本を派遣してくれたのは当時は北陸を担当していた、後UKでケン鈴木さんなどと、レースチームを運営した、故内田UK社長である。

練習タイムは3分40秒ほどと振るわなかったが5月3日、当日の鈴鹿は雨になってモトクロスの山本には有利なコンデイションになったのである。ホンダに次いで3位入賞で、バカでかい優勝カップを持ち帰ったのである。5月の連休中の我が家には現場にいた川合さんから『ヤマ3、シオ8セイコカワ』の電文が届いたのである。ずっとスリップストり―ムでBS滋野の後ろについて走っていて、ゴール直前に抜いての3位だそうである。スリップストり―ムと言う言葉初めてこのとき覚えた。

ホンダに次いでカワサキと言うこともあって、一挙にロードレース熱は燃え上がり、翌月のアマチュア6時間耐久レースに、3台のマシンで出場することが決まったのである。

●1台は加藤、飯原のテストライダー、1台はカワサキコンバットの岡部、梅津、もう1台を神戸木の実の歳森とということだったが、前月に山本はジュニアの資格を取っていたので、出場出来ずに、歳森が連れてきたのが金谷秀夫であった。契約などなにもなく、タダで走った金谷だが、流石にタイムは一番早かった。このレースはスズキもヤマハもみんなモトクロスのライダーたち菅家や鈴木忠さんなどが走ったのではなかったか?

このレースからカワサキにレース監督が出来た。その初代監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんなのである。6月13日のレースは雨上がりでスプーンに水が残っていたりして先頭グループのモトクロスライダーたちが次々に転倒したりした。テストライダーチームが3時間あたりで、途中トップを走ったりしたが、最後はダメだった。

私は、故大西健ちゃんと、6時間記録を取り続けた。記録の取り方もよく解らずに6時間、悪戦苦闘疲れ果てた耐久観戦だった。

●7月からは、MFJ の運営委員として会議に出席することとなった。ホンダ前川、スズキ岡野、ヤマハ内藤と言うべテラン委員さんの中で 、BSの西川さんと私だけがやけに若かったのである。

●7月末には、大槻さんがドイツへ、田崎さんがアメリカに行くことが決まって8月初めにレース仲間で送別会をやっている。大槻さんの後任には故安藤吉郎さんが決まった。(吉は人遍があるのだが見つからない)

●7月31日には、日本でタダ1回開催された鈴鹿24時間耐久レースに、故大西健治君とともに、MFJの役員として参加している。夕方の5時スタート。ほとんどがホンダの車であった。

●この年、安良岡がテストライダーで GP125 の開発が進められていたが、10月にレース運営委員会が発足しこの会議で安良岡の個人出場と言うことで決まっている。この委員会の事務局を引き受けている。ようやくレースに事業部トップが関わってきたのである。委員長は工場長の守田さん、以下山田さん、苧野さん、堀江さん、中村さん、など事業部中枢が顔を並べ、高橋、渡辺、大槻、安藤さんなど若手も、その後の単車事業部も川重をも支えた、単車事業部オールスターという顔ぶれだった。田崎さんはレースチームにはいたが、まだメンバーには入れて貰えなかった。そんなに若い頃のことなのである。

10月23日のレースはリタイヤで終わった。

●11月からはライダーの契約が始まっている。11月13日には片山義美さんと金谷の契約、と義弟の従野孝司のカワサキ入社の話をしている。6月以降金谷は何度かレースを走っているが、多分未契約のままで走っていたと思う。片山義美さんは秘蔵っ子金谷のことは気にかかったのだと思う。従野孝司は最初は工場のラインに入ることを条件に、カワサキに入ってきた。

●11月29日に星野と初めての契約。日記には月額23000円とある。今の星野から見たらどう思うのだろう。まあよく出していると思う。私の年収が45~50万円の時代である。

●山本隆は、80万円を要求、一発回答している。 カワサキの契約額はそこそこよかったのではないかと思っている。翌年山本は確か120万円出しているように記憶しているのだが?

 

★昭和41年(1966年)

●レース担当としては最後の年である。波乱にとんだ1年であった。

●故藤井敏雄君の契約からこの年は始まっている。1月4日、初で初日に藤井君とあって契約の話をしている。

前年の11月10日のMFJ運営委員会で、スズキの岡野さんから、うちの藤井は社員ライダーだから引き抜きなどなさらぬように、との発言がった。その時点ではホントになにも知らなかったのである。ことGPに関しては、技術部の管轄であったから、藤井君の話も、後半のデグナ―の話も、どんな経緯かは全く解っていない。ただ、広告宣伝費を持っていたので契約だけは担当していたのである。

藤井君とは、本人のたっての希望で、マシンだけの貸与契約で、ライダー契約はヨーロッパでの実績を見て、日本GP前に改めてと言うことだったのである。それが8月27日マン島でのプラクティスでの突然の転倒死で、大変なことになった。たまたまマン島に行っていたドイツ留学中の大槻さんが遺体を送ってくれて、私が羽田で迎えたのである。契約内容だけから判断すると、カワサキには何の関係もないと仰る社内の方もいて、GPマシンとはと一から説明が要ったのである。

●その10日後には、FISCOの日本GPの体制が決まった。監督中村治道、現場監督GP 大槻 ジュニア安藤 マネージャ-は私。

●デグナ―の契約の仕方が解らなくて、ホンダの前川さんに、教えて貰いに鈴鹿に訪ねた。そのデグナ―がFISCOの走行中に転倒、脳に出血などあって大変だったのである。

●3月13日にはFISCOで金谷がW1のレーサーに乗って出場。まだチェンジが逆についていたころである。直線ではめちゃ速かったが、カーブでは車体が触れて大変だったようである。350ccクラスと一緒に走って2位、500cc以上では1位だった。

●4月13日のMFJ第3回日本モトクロスGPでは、ファクトリーは優勝はなかったが、125ccノ―ビスで、木村夏也が優勝。大阪赤タンク会からの出場。

●MFJの運営委員会ではFISCOの第1コーナーが危険と、6月にはホンダが日本GP不参加を表明した。

●この年の7月に、モトクロスマシンF21Mが故松尾勇さんのてによって完成している。エンジンは故安藤さんの238ccエンジンだが、フレームは松尾さんの手作りでレース職場で1台づつ完成していった。7月24日の青森岩木山でのデビュー以降、ずっと勝ち続けたマシンであった。F21Mの想い出は多い。 ライダーは山本、歳森、岡部、梅津、星野 と揃って最高の時代であった。そのタンクの色はグリーンではなくて、赤だった。

●FISCOでの日本グランプリでは、ジュニア250で、ガリ―ニクソンと金谷がともに同タイムの最高ラップを記録している。金谷は惜しくも2位だったが、このレースの印象は強烈に覚えている。当時レーサーのつなぎは黒一色の中で、ニクソンの赤いつなぎの色は際立っていた。ニクソンはその後カワサキにも乗ったが、当時既にアメリカでは一流であった。それがなぜジュニアで走れたのか? GPには安良岡、谷口、シモンズなどが出場した。デグナ―とは契約したのだが怪我「で走れなかったのである。

●このFISCOの日本グランプリで、私の4年間のレース担当は、ほぼ終わっている。一言で言えば『赤タンクのカワサキ』の時代であったのである。モトクロスだけでなく、ロードレースも赤タンクで走っていた。誰にも言わなかったが、ロードをやりかけて、鈴鹿でホンダのマシンが赤タンクなので『これはマズイカナ』と自分では秘かに思った。当時はホンダはモトクロスにはファクトリーでは、参戦がなかった時代なのである。

 

●11月9日の日記に、星野が『車を買いたいのですが』と家まで相談に来たと書いてあるが、全然記憶にない。星野は覚えているのだろうか?

星野の印象で残っているのは、18歳ぐらいで、カワサキに来て、『栗山、星野』と二人コンバットの若手では頭抜けていた。栗山が病気でダメになって、星野は明石に来たが、モトクロス職場でとにかくみんなに可愛がられていた。レースでは同年代、同じ時期のデビューの吉村太一ちゃんとライバルで、二人の何度もあったバトルを鮮明に覚えている。

今回の『カワサキの想い出、そして未来』にも、4輪のシーズンインで、本当に出にくいところを日帰りで出席してくれる義理堅さである。

山本、歳森、岡部、梅津、星野にロードの金谷。  梅津が亡くなってなってしまったが、私の想い出に中に一緒に過ごした仲間たちである。そんな仲間たちと40年以上も経ってあの頃と同じような感覚で会えるのは素晴らしいことである。 当時清原明彦はまだカワサキのテストライダーではあったが、モトクロスにはよく出て走っていた。私いとってはキヨさんはモトクロスライダーの印象の方が強いのである。

このようなレース担当の期間も、この年の11月末で、技術の安藤さんはアメリカに、私は仙台への異動が決まって直接のレース担当の4年間は終わったのである。

 

★昭和42年~44年(1967~69年)

●昭和42年からの4年間は、仙台で東北を担当していた。まだファクトリ―に顔が効いたことも、東北が非常にモトクロスが盛んだったこともあって、この期間のレースチームとはいろんなことで関係があった。宮城カワサキの工場長の服部謙治君が東北ではそこそこ有名なライダーだったので、余計に関心があったのかも知れない。

●MFJの第4回モトクロス日本グランプリは郡山で、第5回は札幌の手稲で開催されて、いずれのレースも現地で観戦することが出来た。モトクロスについては、山本、歳森、岡部、梅津、星野がまだ健在であったし、西、清原、従野もモトクロスで活躍した時代であった。

●金谷がヤマハに移り、歳森が4輪に転向、星野が4輪に移ったり、梅津、岡部が後半には引退して、カワサキの60年代は終り、70年代に移ってゆく。

●ロードは和田がカワサキに新たに加わり、アメリカでのレースがグリーンでスタートしたのはいつ頃のことか。

●私がレースを担当した時代は、グリーンではなくて『赤タンクのカワサキの60年代』だったのである。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元カワサキGPチーム監督・ケン鈴木さんのことなどーーー

2011-02-02 06:16:33 | M/Cレース

★ 最近は『カワサキの想い出、そして未来』というイベントのこともあってしょっちゅう、thirai さんから電話がかかってくる。

つい先日、『長野県の鈴木さんという人から電話があって―――』という。 いろいろ仰るのだが 『それは、ケン鈴木さんではないのか?』と言っても何となく要領を得ないのである。

『長野県軽井沢のペンション、シルバーストーン、ケン鈴木』はなかなか有名である。

私は、名前は知ってはいるが、お会いしたこともない。 当然ながら、キヨさんなどはよく知っているようだった。

 

★それから何日かが経って、昨日thirai さんから、『やはりケン鈴木さんでした。そして彼も今度のイベントに来られることになった』との電話。

そんなことで、昨日はいろいろ昔のことを調べたりして過ごした。

ケン鈴木に関しては、

こんなブログや  こんなブログ

当時のKRのことを取材したこんな記事 や

 Mr.Bikeの記事の中に出てきたので、

それらを見ながら、昔を楽しんでいた。

 

★私はカワサキの二輪事業とはともに歩んできたし、レースにもいろいろと関係したのだが、

KRの時代は一番レースからは離れて、東南アジアの市場開発や国内市場の立て直しに躍起になっていた時代なのである。

だからケン鈴木さんの名前も、聞いたことはあるのだが直接お会いしていないのである。

ここから先は私の勝手な推測だから、一部は間違っているかも知れない。

 

当時UKの社長は、メグロからカワサキ自販に転じ、さらにヨーロッパに販社を出すときに川重に移った故内田君がやっていた。

彼はレースには情熱があって、北陸カワサキを担当していた時も、カワサキが初めて鈴鹿を走った時のライダーは、山本隆君と内田君が育てていた塩本くんを借用しての2台の出場だったのである。

UKでも確かチームを持っていて、そのチームの監督を鈴木さんがしていて、ヨーロッパGPのレース運営はUKに任していたのではと思う。アメリカもKMCが独自にチームを持っていたように思う。

明石はマシン開発、海外のレース運営は販社ということになっていたのではと推測している。

83年に私は国内販売から企画に戻って、レース中断を決意している、そんな時期であった。レースどころかカワサキの二輪事業がおかしくなった時期であった。

当時のUKに行った時、内田君と一緒にシルバーストーンのサーキットで、レース観戦などしたりしているが、そのすぐ後にカワサキはレース中断せざるを得ない状況に追い込まれたのである。

 

★そんな時代のKR250,KR500 だったのだが、これがホンダのレースマシン開発に影響を与えたなどとは、思いもよらなかったのである。

昨年の秋、ホンダのレースを担当されていた渡辺さんから、こんなメールが、NPOの会員の雷神マッハさんに届いたのである。

『最新の雑誌「RACERS」カワサキKR特集を観ての私感です・・・

巻頭部分の特集は1980~82にWGPに参戦したKR500になっています、
私が知りたかったKR250、350については詳しい記事や写真が無いのは
大変残念です、しかし1978~83の期間は私にとっても一番忙しくも充実していた
期間だからです、今でもKR250・350とKバリントンは鮮明に記憶に残っています。
それまでの全日本レースレベルだけを観ていた私には衝撃的でした・・・

この時の体験が後のNS500開発時にコンセプト設計とマシンレイアウトに大きく
影響をしているからです・・・

又、元カワサキチームの鈴木様が現在、軽井沢でペンションを営んでいるとの事ですので
是非友人の方々とお尋ねして、当時のカワサキとホンダのGPレース歓談をしたいですね
今なら全て本音で語り合えると考えております、鈴木健夫様と繋がりをお持ちの方に
ご配慮をお願いしたいと思います。』

 

★少しはしょってはいるが、以上のようなメールである。

実は今回の『カワサキの想い出、そして未来』のイベントには、このホンダの渡辺信義さんは参加されて明石に来られるのである。

昨秋、もうホンダを引退された渡辺さんとは、電話だけではお話をしたりした。ホントにひょんなことだが、3月4日にはケン鈴木さんと渡辺さんはお会いになれるのである。

今これを知っているのは、私と雷神マッハさんだけだが、『いい出会い』が待っているように思っている。

 

★昨日は田崎さん(元川重社長)にも電話をした。

このイベントも『ほぼ恰好がついてきたので、来られませんか?』と。

まず、80%出席である。

そんなに驚くことはない。前述した『カワサキが初めて鈴鹿を走ったマシン』を提供してくれたのは、当時製造部にいた田崎さんなのである。

アメリカでW1に初めて乗った日本人は私』などとイバッテいテ結構バイクには乗ったりする。オートポリスやアメリカのサーキットでも走ったりするマニア?なのである。

田崎さんと同期のZ1のエンジン開発の稲村さんも来るし、ライダー始め珍しい人いっぱいである。

今ならカワサキの歴史なら一番詳しいかもしれぬ二輪車新聞の衛藤誠さんも、NPOの会員さんとして会費を払っての出席なのである。

田崎さんも稲村さんも、勿論NPOの会員さんである。

 

2月いっぱい、いい会合になるようにさらに詰めていきたいと思っている。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名門『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』

2011-01-30 12:22:29 | M/Cレース

★土曜日に『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』がグリーンピア三木で行われたので出席した。

50周年と聞いてちょっと意外であったと言うのが実感なのである。

もっと旧いと思っていた。

昨日『青野ケ原モトクロス』のことを書いたのだが、

カワサキのレースのスタートとなった青野ケ原もほぼ神戸木ノ実のスタートと同じ時期だったのだと言うのは新たな発見だったのである。

 

50年前の日本のレース界、特にモトクロス関係は、MCFAJという全国のレーシングクラブからなるクラブ連盟の方がMFJよりもむしろ主力であった。

カワサキがレースを始めたころは、カワサキの契約ライダーのクラブは存在していなくて、

このあたりは推測だが、当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどの手によって、厚木に三橋実が設立した『カワサキコンバット』というクラブがファクトリークラブであったのだろう。

三橋実と厚木周辺の岡部能夫、梅津次郎、加藤清丸などがメンバーでスタートした。

関西にはメーカー直属のクラブはなくて、片山義美さんが主宰する、神戸木ノ実レーシングの歳森康師、山本隆と個人的なライダー契約を結んでスタートしたのである。

 

★当時のモトクロスは、2サイクル車をもたないホンダはファクトリーチームは持っていなかった、CLなどの4サイクル車でのアマチュアの個人参加がちょっとあったくらいである。

ヤマハは、野口種晴のスポーツライダースというクラブでファクトリーライダーを集めていたし、

スズキは、東京の城北ライダース、関西は京都の小島松久のマウンテンライダースなどのクラブがファクトリー契約をしたライダーたちを擁していた。

そんな中で、神戸木ノ実レーシングは、御大の片山義美は二輪はスズキと7、四輪はマツダと契約し、当初そのクラブ員はカワサキやヤマハやBSなどとも契約すると言う独特のスタイルを持つレーシング倶楽部だったのである。

 

カワサキにとっては、歳森康師、山本隆に続いて、ロードレースで金谷秀夫、さらに村上力などとも契約を結んだし、片山の義弟の従野孝司なども一時カワサキの社員だった時期もありその後カワサキの契約ライダーになったりして、カワサキとの関係は非常に強くなっていったのである。

関東のカワサキコンバットが三橋や岡部、梅津などとの契約が切れて事実上倶楽部が解散してからは、

星野一義や清原明彦さらには和田将宏などカワサキの契約ライダーたちがその籍を置いてカワサキ色が強くなった時期はあるが、マツダとも、ヤマハ、スズキやホンダとの契約のあるライダーを有する非常に特色のあるレーシング倶楽部だったのである。

そういう意味では、名実ともに日本最大の名門レーシングクラブだと言っていいだろう。

一昨日はその50周年を祝う会がグリーンピア三木で行われた。

1960年代、70年代、80年代とこんなに大勢のライダーたちが集まった。

50周年だが、60年代の選手たちは、仲間と呼べる人たちばかりで、非常に楽しいミーテイングとなったのである。

既に昨日こちらのブログや、司会を務めたthiraiさんがそのブログTeam Green でアップしている。

そのほかにもこんな写真もあるのでご紹介してみよう。

御大片山夫妻への花束贈呈から始まった。贈呈者は愛弟子金谷秀夫と和田将宏夫人である。

当時の10数段ミションのスズキ50に乗る片山義美の写真を持つのはキヨさん清原明彦。

 

片山義美が加古川まで勧誘に来たと言うのが自慢の山本隆。二人ともご機嫌である。

会場には何故かカワサキKR500のファクトリーマシンも飾られた。

 『これが私』とこれはモトクロスならぬトライアルの山本隆である。

 

メインテーブルに座ったメンバー、前列左から

山本隆、片山義美、清原明彦、  後列左から私、金谷秀夫、和田将宏、村上力。

他にも毛利良一、杉尾良文、近藤博志、など全日本チャンピオンたちも出席していたので、まあ年寄りの特権ということか。

敢えて継承抜きで説明しているが、スターは一般に敬称抜きで呼ばれるものなので、それに従っている。

 

気がついてみると、片山義美以外は、全員がカワサキに関係があったのである。

スズキの契約であった片山義美もしょっちゅうカワサキに出入りしていて、貴重な意見をくれていた。

 

★このパ―テ―の最後に挨拶に立った片山義美さんが、

『神戸木ノ実レ―シングは本日の会合でその歴史を閉じたい。今後は神戸木ノ実クラブとして親睦会として継続したい。』と述べて50年の歴史の幕を閉じたのである。

この会には出席できなかった歳森康師、星野一義や片山敬済など、錚々たるメンバーが名を連ねたのである。

二輪ロード、モトクロス、トライアルさらには、四輪分野も有した、日本最大の名門レーシングクラブだったのである。

 

約1カ月後の3月4日には、この会の司会役を務めた平井さんが主宰する

参加者全員がNPO The Good Times の会員であることがMUST条件の

カワサキの想い出そして未来』で、また多くのメンバーや雑誌記者さんともお会い出来るのは楽しみなことである。

 

 

★私は三木に住んでいる。 

片山義美さんも、三木にお住まいなのである。

 

最後のこの一枚は、一昨日ではない。

道の駅みきで行われた西日本』最大のイベントBUG IN MIKI にメインゲストとして呼ばれた片山義美さん、お隣は二人とも、三木ではなかなかの有名人である。

ちなみにいえば3人ともNPO The Good Times のメンバーである。

 

私の仲間たちはみな、NPO The Good Times で繋がっている。

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木ノ実レーシング創立50周年を祝う会

2010-12-17 15:57:59 | M/Cレース

★つい先日、 こんなブログをアップしたのだが、その中でも神戸木の実の50周年を祝う会について書いている。

早速、山本隆君がキヨさんに言ってくれて、正規の御案内状を頂いた。

それによると、

昭和36年、1961年に創立されて、「木ノ実クラブ」「木ノ実レーシング」「チーム木ノ実」と時代時代に名乗ってきた名前には多少の変化はありましたが、連綿と「木ノ実」の名のもと、日本のレース界を駆け抜けて参ったところです。

と書かれている。勝手に『神戸木の実レーシング』と書いてきたが、『の』はカタカナの『ノ』であったとは今回初めて知ったのである

発起人代表は金谷秀夫、 発起人は清原明彦、杉尾良文、大本十生の4人の名前で、そのうち3人はよく知っているのだが、

大本十生さんが解らなかったので、いろいろ調べていたら、

こんな、『MFJの全日本選手権歴代チャンピオンリスト』に出会ったのである。

 

★このリストによると、モトクロスは1964年から、ロードレ―スは1965年からスタートしている。

私がレースに関与しだしたのが64年からで、66年まではMFJの運営委員も務めさせていただいた。

ホンダ、スズキ、ヤマハは、ベテランの立派な方が委員を務められたのだが 、カワサキとBSはまだ20代の若手の委員だったのである。レースの実力も運営委員の年齢の差ほどの違いがあったのかも知れない。

このリストの72年のロードレースチャンピオンの中に、大本十生さんの名前を見つけた。

 

★カワサキが本格的にレースを始めたのが64年で、その契機となったのが、63年5月の兵庫県の青野ケ原のモトクロス(1位~6位独占)なのである。

64年はモトクロスだけ、65年5月に初めて90ccで山本隆が鈴鹿のジュニアロードレースに出場し、

翌6月の6時間耐久レースに、今回の発起人代表の金谷秀夫君が初めてカワサキノマシンで歳森康師と組んでのカワサキデビューを果たしている。

 

私がレースライダーなる人と最初に話をしたのが、木ノ実の御大、片山義美さんなのである。

当時山本隆、歳森康師の木ノ実の二人がファクトリー契約だったのだが、65年の契約更改時に、片山さんからカワサキのレース運営に対する問題点を厳しく指摘されたのである。

厳しかったが『ごもっとも』と思うところがほとんどで、『私がやりましょう』とレース現場を直接担当することになったのである。

そんなこともあって、片山さんのお母さんとも不思議に気があって、しょっちゅうカワサキにも出入りをされていたのである。片山義美さんのあの性格は、お母さん譲りだと思っている。

 

★『木ノ実レーシング 』には、カワサキコンバットがなくなった後は、星野一義もお世話になったし、綺羅星のように日本を代表するライダーたちが生まれている。

私がレースに関係するようになった直接のきっかけが『片山義美さん』だし、その後もいろんなことで関係があった。

その片山義美さんは今三木にお住まいなのである。

つい先日、BUG IN MIKI での片山義美さんである。

両側のお二人も三木では誰でも直ぐ解る有名人なのだが、『世界の――』と前に付くのはやはり片山義美さんだし、

今度、『祝う会』に集まるメンバーも『世界の――』『日本の――』などの前置きが似合う、Wikipediaにも登場する人たちがいっぱいのはずである。。

 

★先日のブログこんなかたちでツイッターに流したら、

rfuruya1 旧いバイク乗りなら知っているだろう、神戸木の実レーシング、創立50周年とか。それとこちらもちょっと有名な下仁田ねぎ、関係ないようで繋がってるお話。http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/46bb969db9e1f0f250974c26d633e34b

FLAGSHIP雷神マッハNao Murase 【ナオパパ】 』
こんな方が『リツイート』された一番右は、AUTOSPORT誌の副編集長さんである
一番左は、こんなFlagshipを経営されている方だし、

真ん中は、ご存じ『雷神マッハ』さんなのだが、こんな方とオトモダチのカワサキファンでもある。

こんな話も、レース界に関係ある方にはオモシロイのかも知れない。

そんなことで、『カワサキの昔話』リンクをいっぱい貼っておきました。

 

来年1月29日、グリーンピア三木での開催だが、いろんな方に会えるので大いに楽しみなのである。

 

★ The Good Times Tumblr 会員さんのon time のブログ集です

 

Twitterボタン
Twitterブログパーツ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸木の実レーシング―山本隆―加園工業―下仁田ねぎ

2010-12-16 05:55:17 | M/Cレース

★一昨日ツイッターにこんなつぶやきが流れた。

motoyrs_spl MFJランキング認定表彰式が12/26に日経ホールで行われる。招待受けているが、今年も行けそうに無い。

そのかわりと言ってはなんだが、我がふるさと「木ノ実レーシング創立50周年を祝う会」が、1/29にグリンピア三木で行われる、これは楽しみである。

『神戸木の実レーシング創立50周年を祝う会』とあったので早速、山本隆君に電話をして聞いてみた。

神戸木の実レーシングは、片山義美さんが主宰した名門クラブである。

カワサキがレースを本格的にスタートさせたころ、片山義美さんにも、クラブメンバーたちにもいろいろお世話になった。

ある意味、カワサキのレースの『育ての親的』存在であった。

当時は東は三橋実が主宰する『カワサキコンバット』に安良岡健や彼を慕って参加した星野一義などがいて、西には『神戸木の実』に山本隆、歳森康師、金谷秀夫などがいてカワサキのレースを支えてくれた。

御大片山義美は当時はスズキの契約選手であったが、クラブ員の主力がカワサキとの契約であったこともあって、しょっちゅうカワサキに出入りをしていたのである。カワサキのGP125の開発などにも少なからず助言してくれたりしたのである。

そんなことで片山義美さんの引退パ―ティーにも出席したし、今年初めのカワサキファクトリーのOB会には顔を見せたりしてくれた

つい先日も、BUG IN MIKI で会って旧交を温めたばかりである

今回の50周年を祝う会は、清原明彦や金谷秀夫が世話役だと言うので、厚かましく『私も出席してお祝いしたい』とキヨさんに言っておいて欲しいと電話を切った。

 

山本隆君は、NPO The Good Times の理事さんだし、片山、金谷、清原も、ここに名前が上がった安良岡も星野も歳森もみんな会員さんで仲間なのである。

その山本隆君は、もう65歳をたしか超えているのだが、いまだに三木アネックスパークで、春と秋行われるヴィンテ―ジMX, ON ANY SANDA には出場して、トップを走ったりする健在ぶりなのである。

昔々のこととはいえ、3年連続全日本MXチャンピオンの実力は流石と思わせるものがある。

まだまだ、この世界では人気があって何十年前の旧い雑誌に彼のサインを求めたりするファンもいるのである。

 

★突然『下仁田葱』の写真だが、昨日我が家に東京の西多摩郡の加園工業の加園さんから、こんな立派な『下仁田ねぎ』が送られてきた。

その加園さんは、東京から毎年三木であるON ANY SANDAに来られて、自分でも走られる熱狂的な『山本隆ファン』なのである。

山本隆君にネギを贈られるついでに、我が家にも送ってくださったのである。一度お会いしてお話したが、『カワサキコンバットの話』が十分通じるお年だが、今でも元気に走っておられるのである。

下仁田は加園さんの奥さんのお里だそうである。

徳川幕府にも献上されて、「とのさまねぎ」とも称されるとか。下仁田は土質が栽培に適していて名実ともに日本一と称されているそうである。

加園さん、ありがとうございました。また来年4月アネックスパークでお会いしましょう。

ちなみに言えば、NPO The Good Times の三木アネックスパークは団体会員、加園さんは、個人会員さんなのである。

 

★ The Good Times Tumblr 会員さんのon time のブログ集です

 

Twitterボタン
Twitterブログパーツ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レース場での結婚披露宴の予行演習

2010-11-01 05:24:55 | M/Cレース

★昨日の日曜日、午後から雨になったそんな雨の中で、
MIKI ANNEX CUP with TEAM TAKASE と言うモトクロスレースが行われていて、アネックスパークまで出かけたのである。

そのチラシには 
“テーマはLOVE&MX  未だかってない最強のラヴスペクタクル!”
と意味ありげに書かれていたが、

そのご当人も、レース参加者にも知らされてはいなかったようである。

1週間ほど前に、アネックスパ―クの山田さんから電話があって、
来月結婚するライダーがいるのだが、披露宴にどうしても出席できないので、レース場で披露宴もどきのパ―テイをやりたいので、祝電でも打っていただけませんか?
と言うことだったのだが、thiraiさんも出席と言うので、のこのこと出かけて行ったのである。


★レース中からこっそりと入念に準備は進められていた。
その甲斐あって、大成功ライダー仲間たちの温かい祝福のいい催しであったし、
来月、結婚披露宴の本番を迎えるご当人たちにとっても、本番に勝るとも劣らぬいい予行演習であったに違いない。

写真をいっぱい撮ってきましたので、ご覧ください。





雨の日のモトクロス、出走前はまだ綺麗ですが、
走り終わると、こんな様子です。
でも、雨にも負けずみんな元気に完走しました。



今日のイベント、裏方を務めてくれて、こんな盛り上げ隊のぬいぐるみ姿は、
全日本モトクロスレディス2位にランクされている安原さやさんです。
彼女はMiki ANNEX PARK のコースアドバイザーでもあります。



披露宴には欠かせないこんな可愛いウエディングケーキも彼女の作です。






レースも終わって、いよいよ表彰式が始まりました。
レディス、キッズクラスから順番に表彰式も滞りなく終わって
いよいよです。



まず新郎の加藤吏一君が呼ばれました。
続いて新婦も。







元チームグリーン監督のthirai さんが乾杯のご挨拶をされるころには、
流石、現代のモトクロスライダーのカップルです。
その子供さんまで、壇上に登場しました。





その間も雨は降っていたのですが、みんな傘をさして、お二人を温かく見守ってくれていました。
ホントにいい雰囲気での進行でした。



披露宴のクライマックスは、やはりこれです。
ウエデングケーキにお二人でめでたくナイフが入れられました。
元カワサキなどのファクトリーライダーで今は県会議員の杉尾良文さんからも祝電が届いていて、
披露されるなど、本番さながらに行われたレース場での結婚披露宴の予行演習、なかなかのものでした。



新郎、新婦退場です。



そして、引き出物もちゃんと準備されていました。

ここまでやるとは、ホントに思っていなかったので、ビックリが連続のいいイベントでした。


安原さやさんのブログです。
忙しすぎて、写真などはありませんが、11月31日、既にアップされています

Twitterボタン
Twitterブログパーツ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする