雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、
 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。
 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、
 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  


 1977年8月のことだが、
 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、
 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、
 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、
 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、
 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、
 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、
 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。
 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、
 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、
 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。
 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、
 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、
 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。
 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、
 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 


 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、




  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、





  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで
  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。





  
 原住民はこんな海の上に住んでいたり





 そのスラム街はこんな状態だから、
 ラゴス島との格差が大変なのである。
 
 




 ナイジェリアの人達は色は黒いが、
 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで
 流暢な英語を話すので良かったのだが、
 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので
 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。
  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。






★そんなナイジェリアのラゴスだったが、
 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。
 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど
 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、
 川崎重工の出先事務所もあった。
 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、
 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、
 私はテニスをしたのはこの時だけである。
 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、
 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、
 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、
 いまはどうなっているのだろう?


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カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって
 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、
 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 
 


 その命名の由来は、
 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた
 全日本選手権ロードレースで、
 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから
 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、
 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。



  



カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、
 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、
 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、
 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、
 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、
 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。
 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、
 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。
 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、
 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。
 
その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 
契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、
疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。
 
契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、
その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。
山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、
一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。
 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、
 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。
 
 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、
 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、
 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、
 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、
 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、
 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、
 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、
 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。


★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され
 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、
 GP125は安良岡健が7位に入るのである。
  

  
  


カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。
 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、
 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。
 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、
 カワサキがデグナーと契約したことなど、
 殆どの方はご存じないのである。
 
 
★デグナーとの契約では、さらに後日談があって
契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。
当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。
 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。
 
 若し、カワサキのデグナーが実現していたら
 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。
 
 そんなカワサキ単車の昔話である。



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カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは
 1960年(昭和35年)のことで、
 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。
 
 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、
 技術屋さんも、事務屋も、
 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。
 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、
 なんとか単車のことが解っていたのは、
 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、
 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、
 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、
 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、
 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、
 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。


★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、
  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。
  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 
 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。
 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。


  
  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、
 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。
 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。
 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。
 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。
 
 こんな錚々たるメンバーに伍して、
 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さん最前列にお座りなのは、
 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。
  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。
  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。
  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。
 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、
 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、
 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。
 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、
 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、
 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、
 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、
 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って創り上げたのである。
 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って
 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、
 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 
  



  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、
  すべ松尾さんが創り上げたもので、
  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。


  


 
★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、
  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。
  その辺の町工場のような感じだったのである。
  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、
  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。
  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、
  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、
  マシンの名称KXがつく時代からである。
  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。
  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、
  『松尾勇さん時代』で、
  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、
  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。
  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。


★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、
 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、
 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 


 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで
 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、
 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。
 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。
 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、
 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。


  
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カワサキ単車の昔話  19     山本隆のこと 3

2023-09-10 07:24:09 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキ一筋に長くレース界に貢献された山本隆だが、
 そんな功績をたたえて
 久保和夫・鈴木忠雄・吉村太一と並んで
 『MFJ モーターサイクルスポーツ殿堂』入りをされている。
 
 私がレースの世界に入った時、
 久保和夫はすでにモトクロス界の第一人者だったが、
 山本隆鈴木忠男も新人だったし、吉村太一星野と同期で、
 まだノービスだったのである。



 


 山本隆は最盛期には3年連続全日本チャンピオンにも輝いて、
 その褒章でヨーロッパの二輪市場見学旅行などにも行っているので、
 この殿堂入りも当然だと思う。

 二輪のライデングにかけては独特の理論派
 現役時代『講釈師・山本』と言われたのだが、
 確かにそのライデイングは理に適っていて
 いつどんなところで写真を撮っても様になるのである。


 この写真はタンクが「グリーン」だから
 晩年の山本隆だと思うが、
 綺麗な逆ハンでカーブを周っているが、
 力がどこにも入っていなくて、綺麗なライデングである。

  
 


★ 私とは長いお付き合いなのだが、
 私が初めて4輪の免許を取った時には、いろいろと運転技術を教えてくれたので、
 そう言う意味では、私のライデイングのお師匠さんである。
 私は二輪は持ったことはないのだが、会社のマシンで山本譲りのライデイングを結構練習したので、何となく『逆はん』も切れたりするのである。

 レースでは、二輪も4輪もレースは早く走るのだが、
 ひっくり返っては元も子もないので基本は安全運転なのである。
 ブレーキを踏むときはバックミラーを
 カーブではスローイン・ファーストアウトなどは
 レーステクニックだけではなくて、安全運転の基本だと思っている。
 二輪でも四輪でもアクセルを踏んでいる時が一番車は安定しているので、
 カーブでもアクセルが開けれるミッション選択が肝要だと言って、
 4輪の「ヒール・アンド・トウ」などのテクニックも教えてくれて出来るようになったので、
 東北6県の砂利道や雪道の走行では大いに役に立ったのである。
 
 お陰様で事故は一回も経験がない。


★ これはもう20年も前になるのだが、
 山本隆、60歳の頃に『60おじさん』と自ら称して
 ゼッケンも「60番」を付けて頑張ってた時代があったのだが、











 マシンに乗せると、その辺の若い人たちでは
 彼の敵ではないのである。
 こんな感じでずっとTOPが彼の定位置だったのである。






  これはまだ1周目だが、
  そのうちに60おじさん一人旅になってしまうのである。









★カワサキのライダーたちとは
 現役を卒業してからも長いお付き合いが続いて、
 これは私がシャッターを切ったのだが、
 私と山本が東京に行ったときに星野岡部と金子を連れてやってきたのである。
  これに金谷秀夫がいたら、私が一番関係のあったライダーたちだと言える。

  



 最近でもいろんなところで、山本隆や昔の仲間たちと会うのだが
 これも昨年11月 明石であった『Z40周年記念』の時の写真である。





  
 こうしてみると、現役時代は兎も角、
 みんな立派に成長されたものだと思う。


 今は、山本隆さん、私が立ち上げたNPO 法人・The Good Times の2代目理事長を務めてくれている。
 これはその事務局での私との2ショットなのだが、
 彼は私よりちょど10歳若いので
 最近、80歳を迎えられたようである。
 
 
    



  そんなこんなで、山本隆さん、私とは何となく約60年も密接に繋がっている。
  ひょっとしたら、私の人生でも山本隆が一番長いお付き合いかも知れない。
  
  彼、何歳の時に結婚したのだったかな?
  突然、やって来て『私に仲人を』と言うのである。
  私も結婚したばかりの頃で、30歳ちょっとだったと思うのだが、
  『どうしても』と仰るので、仲人を引き受けたのだが、
  多分、世の中にこんなに若い仲人などいないと思っている。

  そんな、ご縁があって
  山本隆さんとは特別な仲なのである。


 
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カワサキ単車の昔話  18     山本隆のこと 2

2023-09-09 07:43:19 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースチームに最初に契約をしたのは歳森康師なのだが、
 そのあとすぐに契約を結んだのが山本隆で、 それは1963年のことだと思う。
 当時の契約ライダーはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人で
 主として地方の草レースに出場していたので、どこでも連戦連勝だった。
 私は当時広告宣伝課担当だったのでそのニュースを全国の販売店に流していたのだが、
 『兎に角、強いのだ』と思っていたのである。
 
 ところがMFJの第1回モトクロス日本グランプリ相馬が原で開催されたのは、
 その翌年の1964年の春だったのだが、他メーカーのファクトリーチームが集まる全日本では確か山本隆だったと思うが7位ぐらいに入ったのが最高で、最初の全日本は歯が立たなかったのである。

★カワサキが初めて全日本で優勝したのは、
 同じ年の春だが富士の裾野でMCFAJの全日本が開催されて、その時初めて山本隆がオープンで優勝したのである。
 当時のスズキの城北ライダースの久保和夫やヤマハのスポーツライダースの荒井市次など当時の第一人者の実力は群を抜いていて、
 なかなかそれに勝つことはムツカシカッタのである。

 その年の秋、東京オリンピックの開催された年だが、同じ時期に
 伊豆の丸の山高原で行なわれたMCFAJの全日本
 カワサキは4種目中3種目90cc三橋実オープンが梅津次郎
 そして日本選手権の250㏄に山本隆久保・荒井の両雄を抑えて
 見事優勝を飾ったのである

 その時の表彰式の写真だが
 TOPが山本隆、2位荒井市次、3位が久保和夫で、
 この表彰台の写真はなかなかカッコいい。
 山本隆も20歳ちょっとの頃である。



  

 
 一番右は梅津次郎で、この大会でカワサキのモトクロスの地位が確固たるものとなったのである。


★ 明けて1965年は年初から『山本・歳森のBS仮契約』問題から幕を開けるのだが、
 この年の5月に開催された鈴鹿サーキットのジュニア・ロードレース
 山本隆がどうしても出たいというのである。

 まだ会社ではモトクロスは認められていたが、ロードレースはまだ許可されていない頃だったのだが、
 山本隆は「自費で車を買ってでも出たい」と言うものだから。
 モトクロス職場の松尾勇さんに『ロードレーサーを造れるか』と聞いたら、
 「大丈夫」と言う返事なので、出てみるかと言うことになったのである。
 車は当時製造部にいた田崎雅元さん(後・川重社長)が都合してくれて、
 レースの費用は『鈴鹿のモトクロスに行った』ことにしようと言うことでスタートしたのである。
 順位などは誰も期待などしていなかったのである。

★ 当時北陸カワサキにいた内田道雄さんが山本はロードは初めてだからと、北陸のロードに経験のある塩本を貸してくれたので、
 2台のロードレーサーを準備して、
 松尾勇さん以下数人のメカニックを付けての出場だった。
 現場から来た連絡でもなかなかタイムが出ないというので、誰も期待などしていなかったのだが、
 レース当日は鈴鹿は雨になったのである。
 
 5月の連休で休んでいた自宅に現場の川合さんから
ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
 喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。
 その時代、電話もなくて、電報の時代なのである。

 それもホンダの神谷・鈴木が1,2位だったのだが、
 ずっと3位を走っていたBSの滋野の後を『スリップ・ストリーム』でついていって
 最終コーナーの下り坂のところで滋野をかわしての3位入賞だったのである。
 そのゴール寸前の写真でTOPを走っているのが山本隆である。


  



★ この話は『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と言う題目で
 2009年11月にブログをアップしているが、
 カワサキが初めて鈴鹿を走ったのはこの日だったのである。

 会社には内緒で出たレースだったのだが、
 思わぬ3位入賞、それもホンダに次いでカワサキと言うことで、
 社内も盛り上がって、モトクロスだけでなくロードレースもやろうという機運になったのである。

 その翌月の6月に鈴鹿サーキットで初めての
 『アマチュア6時間耐久レース』が行われたのだが、
 このレースに3台のマシンを用意し 
 カワサキコンバット・神戸木の実社内のテストライダーチーム
が出場することになったのだが、
 山本隆は『ジュニア・ロードレース』に出場したので出場できないので、
 歳森康師が相棒として急遽呼んできたのがあの金谷秀夫なのである。

 
★ カワサキも山本も、なかなかの幸運を持っていると思う。
 モトクロスの青野ヶ原では走ったライダーはテストライダーなど素人ばかりだったのだが、
 結果の1位から6位まで独占の完全優勝も、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、みんなマシンが止まってしまった結果なのである。
 当日山本隆も自分のヤマハで出ていたらしいが、マシンが止まってしまったのだという。
 その山本隆が初めて走った鈴鹿だが、若し天候が良かったら
 多分3位入賞など考えられなかったと思う。
 いずれのレースも。雨がカワサキを援けてくれたのである。

 そんな結果なのだが、
 この山本隆の鈴鹿での入賞で、カワサキもレースに本格的に取り組むことになり、
 1か月後のアマチュア6時間耐久レースで初めてレース監督なるものが実現したのである。
 レース監督は後あのZの開発責任者となった大槻幸雄さん、
 助監督田崎雅元さん、レースマネージメントだったのである。

 そんなことで山本隆は『私がカワサキのロードレースの道を拓い』と大威張りなのだが、確かに間違いないのである。
 後、『ミスターカワサキ』と言われる山本隆だが
 若いころからそんな華を持っていたような気がする。


 
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カワサキ単車の昔話  17     山本隆のこと 1

2023-09-08 04:58:17 | カワサキ単車の昔話

★ 私がレースに関係したきっかけを作ってくれたのは実は山本隆なのである。
 なぜそんなことになったのかと言う経緯を『山本隆のこと』を書く第1弾としてお話してみたい。

 話は飛ぶが、日本で一番最初に本格的なロードレースが行われたのは、
 鈴鹿サーキットが出来た1962年11月なのだが、
 このレースの優勝者は250ccが三橋実・350ccが片山義美で、
 当時はいずれもヤマハの所属なのだが、
 後二人は三橋実がカワサキコンバット片山義美は神戸木の実クラブというレーシングチームを主宰したので、
 お二人ともカワサキとは密接な関係が出来たのである。

 その鈴鹿の第1回ロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行って、モーターレースの素晴らしさに感動して
 翌年6月兵庫県の青野ヶ原で行われたモトクロスに出場したのだが、
 初出場ながら1位から6位までを独占するという完全優勝で、
 これがカワサキの二輪事業を本格的にスタートさせ、
 カワサキもレースチームを創るきっかけになったのである。

 この5人が一番最初にカワサキが契約したライダーなのだが、
 三橋実・岡部能夫・梅津次郎カワサキコンバットで、
 山本隆・歳森康師神戸木の実クラブ所属だったのである。


  




★ 私はその頃、新しく出来た広告宣伝課の担当で、
 青野ヶ原モトクロスも、その後のレース関係も担当分野ではあったのだが、
 直接の担当者は青野ヶ原モトクロスのチームマネージャーをやった川合寿一さんが担当していて、
 彼にすべてを任していたのでレースのことなど全く知らなかったのである。

 ところが1965年2月に突然山本隆と歳森康師の二人から辞表が出て、
 BSと仮契約をしたというのである。
 それがどのくらい重大なのかもよく解らなかったが、
 川合さんは『これは大変なこと』だから『止めねばならない』と言うのである。
 どうすればいいのかと聞くと、
 神戸木の実クラブ の片山義美に会って、二人がBSに行くのを止めるように頼んで欲しいというので、
 私はレースのことなど全く解らず、神戸木の実片山義美も全く知らなかったのだが、
 言われるままに片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと頼んだのである。
 こんなことだから、私がレース関係者と話したのは片山義美が初めてだったのである。
 片山義美がどれくらいの有名人なのかも全く知らぬままにお会いしたのである。

   
   
    

★それは1965年2月13日のことだった。
 片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと単純に頼んだのだが、
 片山義美カワサキのそれまでのレース運営についての問題点をいろいろと鋭く指摘して、
 こんなことを直さない限り、ライダーたちはカワサキに留まらないだろうと言うのである。
 言われてみると『尤もなこと』ばかりなのである。
 そんなことで『今後は私が直接担当して、ご指摘の点を直しましょう』と言ったら、
 それなら『山本・歳森』を呼んで直接言ってあげると言うことになって、


 2月20日に片山義美・兵庫メグロの西海義治 社長 山本隆・歳森康師と私の5人で会って、
 片山から「カワサキに残れ」と言う一言でこの問題は解決したのである。


★初めてレース界の方と話をしたのは片山義美さんなのだが、
 そんなこともあってその後片山さんとは何度もいろんなところでお会いをしたり、
彼の現役引退パーテーでも一番最初にご挨拶をしたのは
スズキでもマツダでもなくカワサキの私だったのである。

 こんな神戸木の実クラブの集まりにも、
 私を招待して頂いたりしたのである。

  
 


 カワサキのレースのOB会にも片山義美さんは来てくれて、
 真ん中に座っての記念撮影なのである。





 そんな片山義美を偲ぶ会に集まったメンバー、
 勿論、山本隆も星野一義もいる。







  ★そんなことから、私はその後レースの世界に関係することになったのだが、
 これは私にとっても『レース界に関係』したことが一生の財産となったのである。

 そういう意味では2月20日の会合が本当に大きかったのだが、
 この席には兵庫メグロの西海義治社長も同席されたのである。
 カワサキの製造部に鈴鹿のロードレース観戦のバスを仕立てたのも
 青野ヶ原のモトクロスを主催されたのも実は西海さんで、
 カワサキにレースをスタートさせた張本人は西海さんなのである。

 西海さんは元プロのオートレースのライダーで、
 この日西海さんをお呼びしたのは私ではなくて、
 片山義美さんがレース界の先輩として呼ばれたのだと思う。


   


 これはずっと後、兵庫県で開催された全日本モトクロスでの
 本田宗一郎さんと西海義治さんとのツーショットなのだが、
 本田宗一郎が「鈴鹿サーキット」をあの時造らなかったら、
 あのレースをカワサキの製造部が観戦しなかったら
 カワサキの二輪事業は今のようにはなっていなかったと思う。

 そう言う意味でカワサキの二輪事業にとってはこのお二人は恩人と言えると思う。


 カワサキのその後のレースには私も直接関わることになるのだが、
 そのきっかけを創ってくれたのは山本隆なのである。

  
  
   
山本隆のこと」の第1回はこんなことで、山本隆のことは少なかったが、
 これから何回かに分けて書いてみたい。
 私は今でも山本隆とは親交があるのでもう70年近いお付き合いなのである。

 因みに山本隆・星野一義・片山義美などと敬称抜きにしているのは有名人は通常敬称抜きで語られるもので、
 そう言う意味では山本隆・星野一義は有名人なのである。



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カワサキ単車の昔話  15     アメリカ視察団

2023-08-29 05:31:12 | カワサキ単車の昔話

★昭和47年(1972)1月のことだからもう50年も前の話だが、
 当時の日本の二輪市場はまだモペット全盛期で、
 ひとりカワサキだけが中大型車中心で『二輪専門の販売店』を創ろうとしていた時代である。
 そんなことで、カワサキは当時の販売店約100店に、
 まさに中大型市場であるアメリカの市場視察を行ったのである。
 
 私は大阪母店長時代であったが、視察団の団長役を仰せつかったのだが、
 まだ海外旅行など殆どない時代で、私も初めての海外だったし
 視察団全員が初めての海外旅行だったと思う。

 1月7日から1月15日までの9日間の日程だが、
 その当時の日記帳にどのように書いているのかその一部を紹介してみたい。

 
  
 


1月8日(土)
 愈々アメリカ視察団の出発日である。
 日付変更線を通過する関係で8日は実に長い。
 午後伊丹をたち羽田・東急ホテルで結団式、ジャンボジェットでシヤトルへ。
 シヤトル着は8日の朝、飛行機を乗り換えてロスへ。
 そしてショウを観に行き、夜はKMC主催の歓迎レセプションに出席、そのあとKMC浜脇社長とホテルのバーで懇談。
 宿舎はグランドホテル、
 長い1日がやっと終わった。

1月9日 (日)
 ロス近郊のサウンドバックパークと言うトレールランドを見学
 スケール大、素晴らしい自然の中にオートバイが一家のレジャーとして完全に沁みついている。
 6~7歳の子どもがコースを逆ハンで駆けているのには驚いた。
 親は殆ど子供に構わずに自由にさせている。
 午後デズニ―ランド見学、ユーモアたっぷり規模は大。

1月10日 (月)
 KMCを訪問。美しく広い。
 浜脇さん以下各マネージャーの部屋は日本の重役室並みの広さと美しさである。
 サービス工場の管理の良さは抜群。
 昼、KMCとの懇談会をグランドホテルで開催、午後市内のでーらー2軒を見学する。
 日本の販売店と規模が全然違う。ショールームの広さ、部品の豊富さ、ロス1000万人の市内にはバイク屋は約700店と言う。
 すべてが羨ましい。夜ナイトツアー。

1月11日 (火)
 ロスは1年で雨の日は10日ほどしかないという。毎朝霧が出るが10時ごろには綺麗な青空が広がる。
 市内観光でヨットハーバーを見学。街は非常に美しい。
 高級住宅は如何にもアメリカ的で開放的である。緑の芝生が手入れされて広々としている。
 街にはいたるところに星条旗が上がっている。国旗に対する敬意、アメリカの国家に対する帰属意識をそこに見た。
 夜サヨナラパーテイー。アメリカのデーラーを読んで開催。

1月12日 (水)
 飛行機でサンフランシスコに移動する。どこまでも続く大陸、実に広大である。
 サンフランシスコは第一印象は土地の狭さ。狭いと言ってもそれは比較の問題でロスに比べてのことである。
 2階建てが多く、家と家との間が狭いのはロスでは見られなかったことである。
 時間が遅れて、デーラーの正式訪問は1軒だけにして、6時ごろから希望者だけで2軒目を訪問する。
 東京組が大挙押しかける。この旅行で東京の販売店の質はまさに最高であった。

 この旅行には全国から約100店が参加したのだが、東京が50店その他全国から50店ということだったが、
 東京だけはすでに二輪専門店ばかりで各店とも遊覧気分が少なく、知識習得に熱心だった。
 他地区の店は多分に遊覧旅行気分だったように思う。
 私の担当してた大阪地区は丁度カワサキ協栄会を創った時期で、東京に次いで非常にまじめに新しいものを身に付けようとしていた。

1月13日 (木)
 サンフランシスコ2日目、1軒のデーラー訪問。
 そのあとは市内観光。ゴールデンブリッジ、美しい眺めである。
 その背景にある街とか民家が自然た絵になっている。
 アメリカ本土最後の夜、ナイトツアーに出掛ける。
 いま日本で流行語になっているポルノ。米国では映画も写真も本も公然と販売され上映されている。
 ものすごい世の中になったものである。

     

1月14日 (金)
 ホノルルに飛行機で飛ぶ。太平洋の真ん中に浮かぶ島ハワイ。
 空港から市内観光での印象は大したことはなかったが、ワイキキのホテル街と浜辺に来てみて
 流石に観光地の面目躍如たるものがある。
 景観も素晴らしいがそれ以上に雰囲気がいい。二人で遊び来るなら最高の場所だろう。
 お土産に清美に260ドルのオパールを買い、夜は本場ハワイのフラダンスを観に行く。

   
    
1月15日 (土)
 午前中、ハワイ買物などして午後の飛行機で羽田に向かう。
 ジャンボは我々の借り切りのようで他の客はほとんどいない
 僅か10日間のアメリカ旅行であったがいろいろなものを観たし、いろんな経験をした。
 それは今後の生活態度にそして考え方の中に生かされてゆくのだろう。
 東京に着いたらホッとした。そしてもう一度乗り換えて伊丹へ。
家へ帰る。本当にほっとした。落ち着くと言うのはこういうことを言うのだろう。

★ざっとこんな9日間のアメリカ市場見学視察団の旅程であった。
 まだこの時期に海外に出かける日本人など殆どいなかった時代で、
 ハワイのワイキキの浜辺も日本人など殆どいなかったし、
 そんなことで帰り飛行機も誰も日本人は乗っていないそんな時代の旅行だったのである。

 日記を読み返してみて、勿論覚えていることも多いのだが、
 完全に記憶に残っていない部分もある。
 この視察旅行で、カワサキの二輪販売店の意識は、相当に変わったと言っていい。
 当時大阪では全国に先駆けての『特約店制度の導入』を目論んでいたのだが、
 この視察旅行が後押しして、この年10月に正式スタートを切ることが出来たのである。
 そう言う意味でカワサキにとっても販売店にとっても私個人にも、
 大きな転機となった素晴らしいものだったと思っている。 


 


 


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カワサキ単車の昔話  12    星野一義さんのこと

2023-08-14 05:41:19 | カワサキ単車の昔話

★Facebook で繋がっている中尾省吾さんから、
9月1日発売のSOBマガジンで、星野一義さんのインタビューを掲載させていただきます。
つきましては、星野さんのバイク時代のお写真や雑誌の記事などお持ちでしたら、お貸し願えませんでしょうか。」
 と言うメッセージを頂いたのは7月のことなのだが、
 
「 ところで星野がカワサキのマシンに初めて乗ったのは、和歌山でのスポニチ主催の第1回モトクロスです。
 彼はカワサキコンバットのトラックの運転手として来てたのですが、 当日の朝、岡部能夫が練習中に荒井市次と接触して指骨折で出られなくなったので、岡部の代わりに岡部の名前で出場したのです。 
この話はオモシロいので是非聞いて上げて下さい。 」
などとご返事して手元にある星野の写真を送ったのである。

 この写真は私がシャッターを切っているのだが、
 この4人に金谷秀夫がいたら、私のレース担当時代に一番思い出に残っているライダーたちなのである。
 金子豊・岡部能夫・星野一義・山本隆の4人で、星野にとっても一番関係の深かったライダーたちなのである。

 

  
 中尾省吾さんからは星野のオモシロい話が満載のメッセージを送ってもらっているのだが、
多分雑誌のインタビュー記事なので、そのまま記載することは出来ないのだが、
和歌山のモトクロスの件はこのように星野は喋っている。

「そんなとき、秋だったかな、突然、レースに参加するチャンスがやってきた。 和歌山県でカワサキ本社主催のレースがあって、我々コンバットのメンバーも遠征してたんだけど、練習のとき、岡部ヨシオ先輩がヤマハの荒井イチジさんとぶつかって手の指を骨折。 
ミツハシ監督だったと思うけど、オマエ、オカベの代わりに走るかと声をかけてくれて、もちろん、ハイと答えた。 90だったか125だったかオカベさんのバイクに跨って、オカベさんの名前とゼッケンのまんまで、走る用意は何もしてなかったから、ヘルメットも綿のツナギもブーツも先輩たちから借りてさ、いやあ嬉しくて張り切り過ぎたんだろねー。
 スタートしたらすぐにぶっ飛んだらしくて、気がついたら病院のベッドの上。 幸いケガは脳しんとうだけで済んだけども、カワサキ本社のレース担当者は、上役からこっぴどく怒られたらしい。」
 と語っているのだが、この本社のレース担当者が私なのである。

 当時の直接の上司だった苧野豊秋部長からは、未契約の選手を走らせたとこっぴどく怒られたのである。
 確かにあのまま星野がおかしくなっていたりしたらこれは大変なことだったのである。

★そんな星野一義と私の出会いなのだが
 翌年は彼はまだ17歳だったと思うが、年額24万円で契約したのである
 まだ星野も新人だったが、この写真の左から4番目が星野である。

 

 
 ノービスの頃からべらぼうに速くて、
 契約してすぐのMCFAJの全日本モトクロスで優勝したりしたのだが、
 ノービス時代の好敵手がスズキにいた吉村太一ちゃんだった。
 星野の和歌山での岡部の名前でのデヴュー戦1964年11月8のことだったが、
2年後にはセニアライダーとして、山本隆とともにカワサキのエースライダーに成長していたのである。

★ 星野はその後1969年にカワサキのライダーだった歳森康師の推薦で日産の4輪ドライバーに転向し、『日本一速い男』と言われるまでに大成するのだが、
 さらにモトクロス時代の仲間であった金子豊と「ホシノインパル」を設立したのが32歳であったとか。

 カワサキを離れてからの星野一義は、日本でも超有名人で忙しいのだが、
 本当に義理堅くて私が関係したイベントには必ず顔をだしてくれているのである。

 これは片山義美を偲ぶ会での星野と清原と私のスリーショットだが、
二人ががレースをスタートしたのも私のレース担当時代だったのである。

 


 同じ会合での星野がカワサキ時代のレース監督だった大槻幸雄さんとの2ショット。

  



 これはごく最近、昨年11月の『カワサキZ40周年記念祭』だが
 この時も明石まで来てくれて、
 当時のカワサキの仲間たちと旧交を温めているのである。

  

 

 同じ会合で、村上力さんとのスリーショットである。





★こんな星野一義とカワサキや私との関係だが、
 私も短い間だが、レース界に関わったお陰で
 私の人生は大いに豊かになったと思っている。


 今回もSOBマガジン9月号に『星野一義インタヴュー記事』が載るようだが、 
 その記事の内容は如何にも星野らしくて面白いので、
 是非、関心のおありの方は買ってお読みになってみて下さい。


  


  
これが多分前月号、鈴木忠さんです。
 


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カワサキ単車の昔話  11   田舎なれども南部の国はよ

2023-08-08 05:28:01 | カワサキ単車の昔話

★ 昭和42年(1967)1月から新しく仙台事務所を創れという命を受けて、仙台事務所長として赴任した。
まだ34歳の時で明石を離れるのは、初めての時だった。
 当時のカワサキはまだ海外市場はなく国内市場だけで、
 125ccの実用車中心の『実用車のカワサキ』の時代で、全国で東北6県が最大の市場だったのである。
 山坂に強い登坂力などがウリだったから、広大な東北の山坂にはもってこいの商品だった。

 どれ位広大かと言うとざっとタテ600km、ヨコ200kmという広さで、
 200kmと言うと、関西で言えば明石から名古屋までだから、
 その間5県に跨ってる距離なのである。

 
 


★ そんな中でも日本一の広さを誇る岩手県全国一の販売実績を誇っていたという、
  考えられないような時代だったのである。
 「田舎なれども南部の国はよ 西も東も金の山」と南部牛追い唄に唄われた南部の国岩手県は、日本一の実績を誇ったこともあってよく訪れたし、
 当時の社長久保克夫さんには単車の販売の実際をいろいろと教えて頂いたし、私のマーケッテングの実地の先生だったのである。
 久保さんを乗せて岩手県の販売店を走り回ったので、
 その時の販売店への対応などは非常に参考になったし、
 岩手カワサキ独特の販売システムはその後の私の販売手法の展開に大いに役立ったのである。
 
 一言で言うと「差別化戦略」で他県・他銘柄とは完全に差別化されていて、それが徹底されていたのである。
 私の人生の生き方の基本が「差別化」になったのも久保さんの影響なのだと思う。


 


 当時はまだ南部とか伊達などと昔のお殿様の領地の感覚が色濃く残っていて、
 岩手県でも南部の一関辺りは「あそこは伊達」だと言っていたし、
 青森県の八戸はもともとは南部の国で、
 それぞれ「八戸カワサキ会」と「津軽カワサキ会」に分かれていたが、
 これはかって戦ったことがあり一緒に会合などすると、酒の席では喧嘩が始まるからだとか言っていた。

 福島県でも福島地区会津地区は代理店が別に存在していたという
 まだ、そんな時代であった。


 
 

★カワサキの車で言えば、125B1が販売の主体で、

 

  
  120-C2SS などのスポーツ車が発売され始めた時代で、

 




 250A1などもあったが、まだ東北ではそんなに売れなかった時代である。
 


 


★ 仙台には4年間いたのだが、まだ各地には代理店が残っていた時代で、
 東北地域の各地に点在した10店ほどの代理店のそれぞれの経営方式も勉強になったし、
 兎に角、販売第1線の担当は川崎航空機籍では最初だったので、
 その後「販売の第1人者」と言う位置づけになったし、本当に役立ったのである。

 仙台の肉屋には牛肉がなくて豚肉ばかりで『すき焼き』も豚肉だったのだが、
 その仙台で「牛タン」が産まれたのは驚きで、どうやら始まったばかりの年代だったのだと思う。
 この仙台時代の4年目に、川重・川車・川航3社合併があって、崎重工業となるのである。

 今から言うと50年も前の「カワサキ単車の昔話」である。


 
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カワサキ単車の昔話  10    創成期のカワサキを支えた人たち

2023-07-31 06:43:05 | カワサキ単車の昔話

★カワサキは昭和35年(1960)に明石工場を単車の一貫工場としてスタートさせるのだが、
私自身は1961年に初めて単車営業課が出来て、
そこに配属されたので、スタートしたばかりの単車事業を知る一人となるのだが、
上司も全然単車事業のことなど解っていない素人ばかりだったので、
具体的な指示などは全くなく、結構自由に自分の裁量で物事が進められたのである。

★最初に世に出した125B7が散々の出来だったし、
 当時の世の中は50ccモペット全盛期で、カワサキはそんな小型部門は不得意だったから、
 スタートから5年ぐらいは事業としては全然ダメな時代が続いたのだが、
 昭和39年(1964)に岩城良三事業本部長になられて、カワサキの単車事業として本格的に歩きだしたと言ってもいいのだろう。
岩城さんは、それまでの「カワサキ自動車販売」と言う社名を「カワサキオートバイ販売」と改称されて、
 販売促進部門のメンバーは当時の川崎航空機工業からこの通称「ワ販」に出向となり、
 私もその「カワ販」の一員として広告宣伝とレース部門を担当することになるのである。

★ 青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占したことが再建へのきっかけと言うこともあって、
レース関係は何となく「特別なもの」と言う認識もあって、
レース運営委員会」という技術・生産・営業から構成されたメンバーで基本方針が創られ、
 広告宣伝費とともに1億2000万円と言う膨大な予算で運営されていてその担当が私だったのである。

そのレース運営委員会には、青野ヶ原のチームの中心だった中村治道・高橋鐵郎さんのお二人が製造部門から加わったし、

 


 技術部門からは当時の技術部長の山田熙明部長以下大槻幸雄・安藤佶郎さんがメンバーだったし、
 営業部門からは苧野豊秋部長がメンバーで、
 私がこの委員会の事務局を担当していたのである。

 レースチームそのものはエンジン開発が技術部門
 マシン製作は製造部のモトクロス職場が担当しその管轄を田崎雅元さんがやっていたし、
ライダー契約は私が担当するという開発・製造・販売の3部門の協力体制で運営されていて、
 そのウエイトは単車事業経営の中で大きな比率を占めていたのである。 
 
このレース運営委員会は昭和39年からカワサキが初めてGPレースに参戦した昭和41年(1966)まで続いたのだが、
その後も約30年間、カワサキの単車事業の経営はこのメンバーたち中心に経営がなされたと言っても過言ではないのである。


★私自身も東南アジアのCKD事業のスタートを高橋鐵郎さんとのコンビで担当したし、
 ずっと後だが国内7万台販売達成時代も
 高橋鐵郎さんとコンビでその目標達成に尽力したのである。


  



★1988年10月には、高橋鐵郎本部長時代なのだが、
 国内市場7万台目標と言う大目標を背負って、国内市3度目の出向となるのだが、これは大変な目標だったのである。

 さて何からやるべきか?と考えたのだが
 一番最初にやったことは10月15日に、
カワサキファクトリー結成25周年記念」と銘打って、
 かって創成期に一緒にレースをやった方たちを一堂に会して、
 私としては「7万台達成への決意表明」のような気分だったのである。

 この写真におられるメンバーたちが出席されたのだが、
 これは素晴らしいメンバーなのである。

 カワサキの単車事業をスタート以来、この当時で25年間支えてきたメンバーだし、
 さらにこの後も10年以上に亘ってづつ
 川崎重工業の経営の中枢を支えた方たちなのである。
 このメンバーの中から川重の副社長が2人社長と常務が一人づつおられるし、

 


 当時のライダーたちも、安良岡・和田・金谷・山本・歳森・岡部・梅津・星野・清原と
 カワサキは勿論、日本のレース界を背負ったと言ってもいいような方たちが揃っていて
 当時の現役ライダーも宗和・多田・杉本五十洋 の時代だったのである。
 

 そう言う意味では
 この「カワサキファクトリーチーム25周年記」の出席メンバーは、
 即「創成期のカワサキを支えた人たち」と言って過言でないと思っている。 

 この会からすでに35年が経過して、
 もう逝ってしまわれた方も多いのだが、
 私にとっては本当に懐かしい方たちなのである。


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カワサキ単車の昔話  9    ヘリコプター

2023-07-21 06:01:06 | カワサキ単車の昔話

★広告宣伝課がスタートしてからのことだが、
 広告宣伝課はカワサキのヘリコプターを持っていたのである。

 当時の上司の苧野豊秋さんはジェットエンジン部門から来られたので、
 航空機事業本部にも顔が効いたのだと思うが、
 中古のヘリコプター100万円ちょっとで購入してくれたのである。
 
 このヘリで、全国のいろんなイベントなどにも応援で飛んで行ったし、
 全日本モトクロスなどにもやって来て、
 そこで、ヘリに乗せて貰ったライダーも結構いるのだが、
 その仲介を私がやっていたので、他メーカーのライダー諸氏とも仲良くなれたのである。


 これは伊豆丸の山での全日本モトクロスだが、
 麓の町からお嬢さんがカワサキのへりでやって来て、
 開会式での花束贈呈をしているところの写真である。


 

 因みにこのレース東京オリンピックの開会式と同じ日だったのである。



★ カワサキのベルヘリコプター
 これと同じ型だったのだが、ヘリの償却期間が短いので、
 償却済みのような機体だったから安かったのである。 
 何でもそうだが償却物件は償却済み価格は大体1割ぐらいになってしまうのである。

 



 FISCOの第1回日本グランプリの時も飛んできたし、
 写真撮影で鳥取の砂丘にも来てくれたりしたのだが、
 鳥取まで行くときは京都周りで大変だったのだが。
 帰りのへりに乗せて貰ったら、明石まで30分ほどでついてしまったのである。


 このヘリコプターも2年余りで手放したのだが、
 エンジンのオーバーホールの時間が来て、
 オーバーホールするとまた乗れるのだが、
 オーバーホール代が1000万円以上もするというので、
 手放してしまったのである。

 広告宣伝課のスタート時期はいろいろとオモシロいことがいっぱいあった時代だった。




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カワサキ単車の昔話  8   岩城良三本部長

2023-07-08 06:37:39 | カワサキ単車の昔話

★ 私自身は約40年間カワサキの単車事業に関係したのだが
 その間この事業のTOPに立たれた方は
 山本福三・神武敏彦・岩城良三・塚本碩春 ・青野格・大庭浩・高橋鐵郎
 と7人の方が続いて本部長の重責を務められたのである。
 それぞれの本部長と私自身は密接に関係があったのだが、
 一番印象に強く残っている方と言えば、3代目の岩城良三本部長だろう。
 
 岩城さんと言えば私の川崎航空機の入社時には塚本さんが人事課長、岩城さんが総務部長をされていて、
私の面接では第1問が塚本さんの「君は成績が悪いねえ」と言う意地悪い質問から始まったのである。
そんな質問にも何ら臆することなく持論を展開し、「成績など悪くても会社の仕事など絶対に人には負けません」と言い切ったりしたのである。
ところで君は野球をやってたな」と話題を変えて下さったのが岩城総務部長で、
私の面接はその後も延々と続いてほかの人の倍ぐらいの時間が掛かったのだが、
あとで私の入社時のコネだった砂野副社長から「君は面接だけはよかったよ」と褒めて頂いたのである。

 ただこの時に「人には負けません」と言い切った一言は、40年間ずっと私の胸の中に生き続けたのは間違いない。


★その私の入社当時のお二人の写真だが
 私はお二人ともご縁があって、後には本部長としてお仕えすることになったのである。

 

 
その岩城本部長はいろんな機会での訓示には
隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず 」で始まっていたのだが、
ホンダ・スズキ・ヤマハとの厳しい企業競争の中で、
自らの「指揮の一点」だけは絶対に譲らないという意志の表れで
まさにTOPらしいTOPだったという印象が強く残っている。

 私自身はまだ係長にもなっていなかった頃なのだが、
 広告宣伝課を任されて、その予算・1億2000万円については額が膨大で、本部長直轄管理だったこともあって、
 私は岩城本部長に直接承認印を頂いていたので、二人だけで話をする機会も多く、いろんなことを教えられたのである。

 当時まだ「カワサキ自動車販売」であった販社の社名を「カワサキオートバイ販売」に変えられたのは岩城さんだし、
 アメリカに販社KMCを創られて初代社長を兼務されたのも岩城さんなのである。

 これがスタート間もないころのKMCのTOPメンバーで
 左から杉沼・マセック・浜脇・岩城さんである。

 



★そんな岩城さんは、国内販社のカワサキオートバイ販売の社長も兼務されていたのだが、
 当時最大の市場であった東北6県の代理店の社長会に出席されて、
 社長連から「仙台事務所を創るように」と言われたようなのだが、
 即座に「創るようにする」と即答されたというので、これは誰が担当するのかが社内で話題になったのである。
 直属の部長から直接その指名を受けたのだが、
 どうやら岩城さんが私を指名されたようで、
 岩城本部長は後にわざわざ私の席まで来られて
 「ご苦労だが頼むな」と仰ったのである。

 そんなことで昭和42年(1967)1月1日からは、「仙台事務所長」となるのだが、
その肩書だけで事務所は勿論私一人が決まっただけで、
他はなのもない白紙の状況から「仙台事務所」はスタートするのである。

そんなこともあったので、私にとっては一番印象に残っている本部長なのである。
 
  
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カワサキ単車の昔話  7    創成期のカワサキのレースライダー

2023-07-05 06:01:34 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの単車事業は昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタートし、
昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課が出来て、私はその当初からその営業課に参加するのだが、
昭和37年(1962)鈴鹿サーキットが出来て、確かMFJもこの年のスタートだから、
日本の二輪事業が本格的に動き始めたのはこの年だと言ってもいいのかも知れない。

この年の11月に行われたMFJ第1回全日本ロードレースでは、
250cc三橋実・350㏄片山義美がいずれもヤマハで優勝を飾るのだが、
その優勝者の二人は、その後のカワサキのレースで密接な関係が出来るのである。

そして創成期のカワサキの販売は国内市場だけであったし、
当時の主力車種は50㏄モペットだったから、
販売分野ではカワサキは全く振るわなかったと言っていい。
創生期のカワサキの国内での動きと言えば、レース活動であった。

当初はモトクロス中心だが、こんなライダーを揃えて、
モトクロス分野では「赤タンクのカワサキ」で一世を風靡したと言っていい。


  
 

 
昭和41年(1966)5月には、
モトクロスライダーの山本隆鈴鹿ジュニアロードレースに参加し、
初出場ながらホンダ・ホンダ・カワサキと3位入賞を果たして、
翌月からは正規にカワサキもロードレースに参画することになり、
片山義美の秘蔵っ子・金谷秀夫と契約し、
三橋実・安良岡健の二人もモトクロスからローライダーに転じることになるのである。

これはFISICOで行われた、日本GPのジュニアロードレースで、
当時のアメリカのTOPライダー・ガリーニクソン(ヤマハ)と金谷秀夫が、
息詰まる大熱戦を展開し、
二人が「同タイムのベストラップ」を記録するなどしたのである。
 

 
★そんな創生期でのレース活動で一緒だったライダーたちは、
 当時は単なる若いライダーだったのに、
 みんな素晴らしい成長を遂げられて、
 「世界」とか「日本」を代表する素晴らしいライダーに成長されたのである。
 そんなライダーたちとの写真は私の宝物である
 

 そんな中からの何枚かをご紹介してみよう。
 神戸木の実関連、御大片山義美さんを囲んで、

 


 
これはその「片山義美を偲ぶ会」の開会前に・・
  




 これは東京で私がシャッターを切ってる。
 かってのカワサキのライダーたち、みんな立派になられた。
 金子豊・岡部能夫・山本隆・星野一義
  





 マウンテン・ライダーの50周年記念パーテーで
 吉村太一ちゃんと。





 みんな立派になられたな。






 久保和夫さんとは、何故か近かった。


  



  金谷秀夫とは特にいろいろとあって想い出いっぱいなのである。
  この日が金谷と最後になってしまった。
  山本隆さんも今や大スターなのだが、彼は私より10歳若い。
  彼に頼まれて仲人をしてるのだが、
  こんなに大スターになるとは当時は思ってもいなかった。

  
  


 
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カワサキ単車の昔話  6   F21M 誕生物語  

2023-07-01 06:38:42 | カワサキ単車の昔話

★ KAZEの機関誌の今月号にF21Mのこんな写真が載っていた。

  
  


 F21Mのデビュー戦は昭和41年(1966)7月の青森県岩木山山麓のスキー場で行われたMCFAJのモトクロスだが、
 これからしばらくの間F21Mは連戦連勝で、界
 日本のモトクロス界を席巻したと言ってもいい。
 抜群の強さを発揮したマシンなのである。

★それまでのマシンは、実用車をモトクロス車に改造したもので、
 このF21Mがカワサキのモトクロスマシンで初めて本格的なマシンとして作られたものである。

 このF21Mが出現したのは、その前の年だったと思うが、
 スズキRH250という本格的なモトクロス車を2台創って、
 当時の久保和夫・小島松久の二人のTOPライダーに乗せて、
 ヨーロッパ遠征なども行い大いに当時のモトクロス界の話題となったのである。

 当時のカワサキのモトクロスチームは技術部の安藤佶郎さんが監督で、
 私がライダー関係を纏め、製造部がモトクロス職場を持っていて、
 技術・製造・営業の3者の協力体制で行われていたのだが、
 スズキのRHに対抗できる本格的なモトクロッサーを創ろうということになったのである。
 エンジンは安藤佶郎が当時の175ccのエンジンを238ccまでボア・アップしたのを用意したのだが、
 フレーム関係はモトクロス職場の松尾勇さんが個人的に設計図もないまま、
 べニア板に形を釘で打って作り、ヘリコプターのクロモリのパイプを貰ってきて、
 それに海岸から採って来た砂を摘めて創り上げたものなのである。

★ フロント・フォークもセリアーニタイプのものを新調したし
スズキと違って、当時の契約ライダー山本・歳森・三橋・安良岡・梅津・岡部・星野の全員の7台を造って、青森のモトクロスにデヴューさせたのである。

 これは当時のモトクロス業界では画期的な出来事で、
 注目を集めたし、現実にそれ以降のモトクロスは山本隆が3年連続チャンピオンを取るなど、
 その名声を欲しいままにした名車であったと言っていい。

 後には工場レーサーから技術部が正規に市販レーサーなども創り上げるのだが、

   


 最初に造られた7台は間違いなく、設計図もなしに 
 松尾勇さんが個人的に創り上げたものである。

★この年の秋の東京モーターショーにこのF21Mを記念車として出品したのだが、
 これを出品すると聞いて、エンジン開発の安藤佶郎さんが反対されたので、
 「なぜ?」とその理由を聞いたら、
 「このエンジンの基礎は125ccエンジンで、それを150㏄にし、さらに175㏄にし、235ccのモトクロッサーエンジンにしてなおかつ持っているということは、
最初の125㏄のエンジン設計過剰品質であったということで、
設計者としてはカッコ悪い」と仰るのである。
 「そんなこと、誰も思わない」と押し切って出品したのだが、
 設計担当としてはそんなことも思うのか?と私はある意味、感心したことを想いだすのである。

 いま思い返してみても、このF21Mは名車であったことは間違いない。
 多分これが松尾勇さんの最後の作で、
 それ以降は「KX」と名付けられてすべてが技術部によるものとなり、
 「レース職場」も消滅してしまうのである。
 逆に言うと、今となっては「レース職場」のあった昔のカワサキが懐かしいのである。


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カワサキ単車の昔話  5   スタート時の二輪事業

2023-06-28 05:36:59 | カワサキ単車の昔話

★日本の二輪業界が何とか形になってきたのは朝鮮戦争以降の昭和28年(1953)頃からだと思うが、
当時はまだ川崎航空機工業は単車のエンジンをメイハツ工業に出荷していただけで、
二輪業界に後発メーカーとして参入するのが昭和35年(1960)からである。
その頃には 一時は200社近くあったと言われたメーカーも、
浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの3社とトーハツやスクーターの富士重・三菱などの数社に減っていた。

当時の二輪車の販売方式は、地方の自前の代理店から自転車屋・サブ店に「委託販売」するのだが、
自転車屋が二輪の修理能力があったわけでもないのに、
各地の代理店は中心機種であった50㏄モペットを5万店以上もあった自転車屋さんに委託して回る「委託競争」という今では考えられないことが行われていた。
そんなことで当時は「サブ殿様のデーラー乞食」などと言われたりしたのである。

★そんな時代のことをご存じの方は今となっては私ぐらいで、
そう言う意味では、カワサキではホントに一番旧いと言ってもいいのかも知れない。
スタートからの10年間を振り返ってみると私はまだ20代で若かったが、
事業が若かった関係もあって、単車事業では一番旧かったので事業の中枢を歩くことが出来たのである。
50㏄の国内販売はなかなかムツカシク、当時の事業経営は赤字続きで大変だったのである。
浜松3社に対抗出来たのはレースチームだけで
モトクロスは山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・星野一義
ロードレースは三橋実・安良岡健・金谷秀夫と言う当時の日本の  
TOPライダーを揃えていて、その直接の契約担当だった。

国内はまだ実用車のカワサキの時代で、
広告宣伝課を担当した3年以降は、当時のカワサキの最大の市場であった東北6県の販売第一線を川崎航空機からの出向者としては初めて担当して、
販売第一線のノウハウも何となく身に付いたような気がする。
アメリカ市場がスタートし、赤字続きであった単車事業がようやく黒字が出だしたそんな時代だった。

★スタートからの10年にはこんな出来事があったのだが、
 そのすべてに何となく関わっていたのである。
  

 昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタート
 昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課がスタート
 昭和37年(1962) 鈴鹿サーキットスタート ロードレース観戦
 昭和38年(1963) 青野ヶ原モトクロス完勝
 昭和39年(1964) 広告宣伝課カワサキレースチームスタート
 昭和40年(1965) ロードレーススタート
 昭和41年(1966) FISCO日本GP出場
 昭和42年(1967) 仙台事務所開設・東北6県担当
 昭和43年(1968) アメリカKMC 設立
 昭和44年(1969) 川重・川車・川航3社合併



 車で言うと125B7から始まって、
 125B8

  

 
 
  125B1


   

 
 250A1の時代で、
 このカタログも私の広告宣伝課時代につくったもので懐かしい。


  


それにしてもこのスタートの10年、
 川崎航空機工業としては、全く未経験の単車と言う末端民需大量販売事業をよくやり切ったと思うのである。
 国内では販売関係をメグロ・メイハツの二輪経験者が担当して援けてくれたくれたお陰だし、
 スタートしたばかりのアメリカ市場の販売の中心になったのは、
 二輪車に詳しいアメリカ人たちだったのである。

 





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