雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  4   新しく出来た広告宣伝課

2023-06-25 06:34:03 | カワサキ単車の昔話

★日本能率協会は単車事業を再建する条件の一つとして「広告宣伝課を創るこ」を条件にしたのだが、
その具体的な予算として「1億2000万円」が3年間も続いたのである。
 当時のサラリーマンの年収50万円の時代だったから1億2000万円は現在なら10億円を悠に超す膨大な予算であったことは間違いない。

 そんな広告宣伝課の担当が当然のようにまだ係長にもなっていない私に科せられたのである。
 それも掛長・課長もなしに直接の上司はその後もずっと単車事業でご縁のあった明石高校の先輩でもある苧野豊秋次長だったのである。

 私は入社以来、誰もやったことのない「新しいこと」ばかりをやって来たので「古谷に任せば何とかするだろう」と周囲の方は思ったに違いないのである。


★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝はカワサキ自販で担当していたのだが、
当然広告宣伝業務をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。
当時のカワサキ自販では広告宣伝業務は、総務課長・兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんが担当されていいた。

小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ、その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか仕事ができる人がいるのである。
現役時代いろんな方に出会ったが「この人にはとても敵わない」と思ったのは小野田滋郎さんだけかも知れない。
小野田滋郎さんはあのフィリッピンから戻られた小野田寛郎さんの弟さんなのである。

 この写真の左側の方で、陸軍士官学校出身の秀才なのである。


 

 
★ 前回、カワサキのレースのスタートは、
カワサキ125B8での青野ヶ原のモトクロスと記述したのだが、
 実はカワサキ125B7時代に、カワサキ自販で小野田さんはライダー三吉一行でMCFAJの全日本にも出場させており、
 日本で初めての鈴鹿サーキットのロードレースでは250は三橋実、350は片山義美がいずれもヤマハで優勝しているのだが、
 その三橋実をヤマハから引っこ抜いて厚木にカワサキコンバットを創らせたも小野田滋郎さんなので、
 カワサキの最初のレースをやったのはカワサキ自販の小野田滋郎さんと言うのが正しいのかも知れない。

カワサキの初めての契約ライダー5人のうちカワサキコンバットの三橋実以下3人は、カワサキ自販から引き継いだのである。

 

 

★川崎航空機工業に広告宣伝課が出来て、
 当然カワサキ自販の広告宣伝課を引き継ぐことになったのだが、
 その当初、何も解らぬ私を援けて頂いたのは小野田滋郎さんで、

 カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来たのだが、
向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
当方の質問が厳しくて「とても素人とは思えないポイントを捉えた質問」と広告代理店に感心されたりもしたのである。
特に「貴社の創造能力を図示・説明してください」と言う設問には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようで、
小野田さん曰く「口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示できない」と仰るのである。
確かにその通りで、物事を簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの「戦略・戦術・戦闘論」などホントに上手く『図示される』のにはびっくりしたのである。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り、
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった「広告宣伝課」の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億2000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは「広告宣伝」と言えば「テレビ・新聞」なのだが、
その「テレビ・新聞」が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は「実用車のカワサキ」で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
「東京・大阪などの大都市は広告は要らない」と営業サイドは言うので、新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から「お前ら金を渡してもよう使わん」と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は「朝日・毎日・読売は抜き」で
全国40社以上もある地方紙に「全頁広告」を打ったのだが、
これは広告業界では「前代未聞」で「カワサキはとんでもないことをする」と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では「めちゃ多く掛かる」のだが、こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

 


「かあちゃん ても んせい めた かわさき」と喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに「藤田まこと」さん、もう亡くなってしまわれたが、
 私と同じ1933年生まれなのである。




    
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カワサキ単車の昔話  3   125B7と物品税

2023-06-23 06:02:03 | カワサキ単車の昔話

★昭和36年(1961)12月15日に新しくできた「単車営業課」に出社した時、
 小野部長から一番最初に「物品税をよく検討してくれ」と言われたのである。
 突然で「何のことか?」と思ったのだが、
 それが単車営業課で最も重大な事項であることは直ぐ解ったのである。

 前年度の昭和35年度から製造部門では新しいカワサキの単車の一貫生産が始まったのだが、
 生産していた機種は「125ccのB7」と

  


50㏄のM5」で、

 

 
 これ以外にも井関の依頼を受けて「井関のタフ50」も生産していたのだが、

  

 
 この中で「125B7」がフレームに欠陥があり、毎日返却されてくる状況だったのである。
エンジンは川崎航空機の技術者の設計だが、車体はまだよく解らないので明発工業に依頼したのだが、その車体に問題があったのである。
 そんなことで返却が続き、翌月の1月度は返却が生産・出荷台数を上回って「マイナス17台の生産・出荷」になるほどの返却台数だったのである。

★ 当時はぜいたく品に掛けられる「物品税」と言うのがあって、
 50㏄には掛けられないのだが、125cc以上の機種には、工場出荷時に1台ごとに物品税が掛けられていたのである。
 その物品税の納入申告税だから、工場出荷時に台数分の物品税額を納入すればいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
 それが返却された場合は「戻入手続」さえすれば収めた物品税額が戻ってくる仕組みなのである。
 ただ、その「戻入手続」は簡単ではなくて、1台ごとの税務署の立ち合い検があり、なおかつ「工場出荷時と同じ状態」と言う規定で、メータ―が回っていたら「戻入されない」ので若し少しでも乗っていたら、
 「メーターの巻き戻し」などをやらねば税金は戻ってこないのである。
 戻ってくる台数が半端ではないので、この「戻入手続き」は大変だったのである。
  
★12月から翌年春先にかけて「125B7の返却」は続き、
 その「戻入手続き」が当時の営業の主たる業務で、毎日明石税務署の署員さん立ち合いの「戻入検査の対応」が続いたのである。

 さらにいうと、これは「申告税で大阪国税局の直接の管轄」なので、
 戻入検査は明石税務署員がやるのだが、申告先は大阪国税局なのである。
 
 当時は単車事業スタートしたばかりだから、
 誰も「物品税」のことなど解っていなくて、
 申告だけはカワサキ自販に販売した台数分だけ納入していたのだが、
 納入台数は販売台数ではなくて「工場からの出荷台数」なので、
 当時工場内にいた「カワサキ自販の兵庫営業所への販売」は除外しないといけないのだが、それも間違っていたのである。

 大阪国税局の監査でそれを指摘されて「知りませんでした」と言ったら、
 「君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったとは言えない
 「物品税は申告税だから体刑もありうる」などと脅かされたりして、
 その対応は本当に大変だったのである。
 この物品税は、平成元年(1989年)4月「消費税」が導入されるまで続いたが、
 その後はこんな大きな返却などはなかったので問題にはななかったのである。

 ★カワサキの最初に発売した車125B7はこんなに大変な車だったので、
 1962年の秋のモータショーには125B8が発表され、
 1963年度初めから市場投入がされたのだが、
 この車は結構評判が良かったし、6月の青野ヶ原のモトクロスも
 このB8のモトクロスレーサーだったのである。

  
 


 ただ、最初のクルマの125B7が大変なことだったので、
 スタートしたばかりのカワサキの単車事業は大赤字で、
 川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきかどうか」を日本能率協会に調査を依頼したのである。
 その調査期間中に行われたレースで「1位から6位まで独占の完全優勝」だったことから、
 製造部をはじめ、職場の意気は盛んで、そんな末端の状況を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」と言う判断をして、
 1964年1月に新単車事業部として再スタートすることになるのである。

 その再開の条件の中の一つに「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、
 本社はその広告宣伝課に1億2000万円の予算を3年間、開発費として提供することになるのだが、
 私の年俸が40万円の時代だから1億2000万円は莫大な予算なのである。
 
 その新しく創られた「広告宣伝課」を私が担当することになるのだが、
 その話は次回に・・・



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カワサキ単車の昔話  2    カワサキのレースのスタート

2023-06-21 05:58:12 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機工業は戦前からあった会社で、
明石と岐阜に工場があり、戦時中は航空機の製造をしていたのだが、
明石工場は「エンジン」岐阜工場は「機体」を造っていた。
戦後再開後も明石はジェットエンジンのオーバーホールや発動機の各種エンジンなどの開発生産を行っており、
その中の一つに単車のエンジンがあって、それを明発工業に提供していたのである。

その後川崎航空機工業自体が単車事業に進出することになり、
川崎明発工業を傘下に収め、「カワサキ自動車販売」と言う社名の販売会社を創り、神田・岩本町にその本社があったのだが、
社長は川崎航空機の専務が兼務されたが、
従業員の殆どは「カワサキ明発」の社員であった方たちだった。







★ 川崎航空機工業の明石工場に単車営業課が出来たのは、前回既述したように昭和36年12月のことなのだが、
当時の明石工場の人達は、エンジンは専門家もいたが、
こと二輪車に関しては、殆ど全員が素人で何にも解っていなかったのである。
そんな中で、当時の兵庫メグロの西海義治社長だけが「二輪車」に詳しくて、当時の単車事業部の人達の多くが大いに西海さんの影響を受けたのである。
西海さんは前身はプロの「オートレーサ」で特にレースに関心をお持ちだったのである。

    

 

★青野ヶ原のモトクロスの完全優勝のこの写真をご覧になった方は多いと思うが、
この青野ヶ原モトクロスの「仕掛け人」が西海義治さんなのだが、
それにはさらに前段がある。





この青野ヶ原モトクロスは昭和38年(1963)6月なのだが、
その前年昭和37年(1962)11月に新装なった鈴鹿サーキットで開催されたMFJ第1回全日本ローレースに、
当時の製造関係の人達をバスを仕立てて観戦させたのも西海義治さんで、
初めてロードレースを見た製造部の人達は燃え上がってしまって、
カワサキもレースを」と言うことになったのである。
当時、レーサーを仕上げることなどカワサキの人達はまだ出来なかったので、 
西海さんは子飼いの「松尾勇」さんを製造部に送り込んで、
青野ヶ原に出場したレーサーを創り上げたのである。


★ カワサキの初めてのレースは1位から6位までの完全優勝と成るのだが、
このライダーたちは製造部の従業員で別にライダーでもなかったのに、なぜ1位から6位までの独占できたのか?

これは当日雨になり、レース場は水溜りばかりになって、
他社の早いマシンはみんな水の中で止まってしまったのだが、
カワサキの実用車のような125B8だけが止まらずにみんな走り切ったからなのである。
そんなことでこの勝利は神様がカワサキに援けて下さったのだと思う。 

余談だが、このレースには後カワサキのエースライダーとなった山本隆もヤマハのマシンで出場していたのだが、
彼のマシンも水の中で止まってしまったようである。

★このレース出場は、実は会社での正規の出場ではなくて、
 製造部の有志が勝手に出場したもので、予算もなかったし大変だったのである。
 なぜ、私がこのレースのことを結構詳しく知っているのかと言うと、
 当時の営業部の上司の小野助治さんもこのレースには関わっていて、
 私には「金の面倒を見るように」と言う指示があったし、
 私の下にいた川合寿一さんがチームのマネージャー役で援けたのである。


★ この写真の真ん中が神武事業部長だが
 ここに写っている方々は、その後のカワサキの単車事業を支えた方たちであると言っても過言ではない。
 この写真になぜ私が写っていないのか?と不思議に思うほど殆ど全員が密接に関係のあった方々なのである。
 後列の真ん中が小野助治さんで当時の直接の上司だし、
 個人的には私の仲人さんなのでもある。


 


 さらにこの辺りの方が直接このレースに関わった方々で、
 中村治道さんがこのプロジェクトの中心だが、
 中村さんは明石の出身で明石高校の先輩だったし、
 高橋鐵郎さんとはホントに40年間近く密接な関係だった。
 川崎芳夫さんは私の1年先輩だが、川崎重工業の創業者・川崎正蔵さんの曾孫さんである。
 その他マルで囲んだ方たちは私と仕事の上でも密接に関係があった方たちで、右が川合寿一さんなのである。

 
   


★このレース以降、
 カワサキもレースの世界に正規に進出することになり、
 私はその責任者となってレース関係を統轄することになるのである。

カワサキが最初に契約したライダーたち
 カワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木のクラブ歳森康師・山本隆 である。

  
  
 
 本格的なレースの話はまたの機会に。
 
 
  

 


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カワサキ単車の昔話   1

2023-06-18 06:18:49 | カワサキ単車の昔話

★今年2023年はカワサキの単車事業スタートから70周年だそうである。
 先日、カワサキの国内販売会社・KMJのOB会の慶睦会に出席して初めて知った。
 KMJでは70周年を記念してこんな立派な記念のグラスを創っていて、
 お土産に頂いてきたのである。

  

 
 ところで70年前の1953年と言えば昭和28年と言うことになる。
 私自身は当時の川崎航空機工業に昭和32年4月に入社しているので、
 其れよりも5年も旧い話なのだが、
 当時から明石に住んでいたし、川崎航空機とは何となく繋がっていて、
 当時副社長ををされていた砂野仁さんは伯父の友人で、私は子どもの頃から知っていて、
 戦後、朝鮮から引き揚げてきたときは中学1年生だったのだが、
 砂野さんの勧めで神戸一中に入学したのである。
 そして川崎航空機に入社したのも砂野仁さんのコネだったのである。

 そんなこともあって、カワサキの単車の歴史についても、
 今となっては語ることが出来るホントに数少ない一人になってしまったので、
 この70周年を記念に「カワサキ単車の昔話」として
 戦前のことも含めて、戦後の事業再開などいろいろ纏めてみたいと思っている。

★ 川崎航空機工業と関係が出来たのは実は戦時中のことなのである。
 私はまだその頃は朝鮮京城(今のソウル)にいたのだが、
 夏冬の休みには故郷明石に帰郷していて
 当時、伯父は明石の中崎海岸に錦江ホテルと言うホテルも経営していた。
 伯父の本職は当時の南朝鮮の電力会社南鮮合同電気のオーナ副社長だったのだが、明石ではホテルなどもやっていたのである。

  

 
 この錦江ホテルが戦時中に川崎航空機に来ていた軍人の宿舎として接収されて、
 当時の川崎航空機の総務部長であった砂野仁さんとの関係ができたのである。

★前述したように私は昭和32年の入社なのだが、
 戦後川崎航空機工業は軍事産業であったことから、戦後の中断があって、
 高槻や播州などに疎開工場など持っていて、川崎機械産業としてやっていたのだが、
 朝鮮動乱が始まったのを機会に、昭和28年に明石と岐阜でそれぞれ川崎航空機工業は復活したのである。

 その後、発動機では単車エンジンの開発・生産を始め、
 カワサキ明発に販売していたので、
 私が入社した1957年当時は、発動機の営業の中に単車エンジンの販売担当者が一人だけいたという状況だったのである。

 
 

 その後、いろいろあったが、
 川崎航空機は単車事業をスタートさせる決断をして、
 明石工場の中に単車製造一貫工場を創って、
 単車事業をスタートしたのが昭和35年(1960)のことなのである。
 こんな当時の写真もあるが、




 当時、生産していたのはカワサキ125B7でこんなバイクだった。

 


 当時はこのほかにもモペットM5だとか、
 井関からの依頼を受けて「井関のモペット」の生産を開始したのである。
 この時点ではまだ発動機営業の中で担当者一人での営業だった。

昭和36年(1961)12月15日付で、発動機営業部の中に初めて「単車営業課」が出来て、私はその時点で、単車営業課に移動した。
 これがカワサキの単車事業のスタートだとしたら、
 私はカワサキの単車事業の最初から単車を担当し、
 その後約40年間、1999年に退社するまで、
 一貫して単車事業とともに歩いたということになったのである。
 今となっては1999年も20年以上も昔のことなので、
 そん40年間の「カワサキ単車の昔話」を纏めてみようかなと思ったのである。

 
★まずは、初めて出来たカワサキの単車営業課だが、
 私はまだ係長にもなっていない入社4年目の新人で、
 課長も部長もいるにはいたが、単車については私と同じ初めての経験で、
 ホントに何のノウハウもない白紙の中からのスタートだったのである。

 「単車営業課」と言う名前ではあるが、
 当時の技術開発部門・製造部門はそれなりの陣容もあったのだが、
 この「単車営業課」はほんの7人ほどの陣容で、
 今でいうなら、企画・広告・営業など事務屋のやることは一切担当だったし、
 サービスと称していたが、品証部門もその中にいて、
 私は新人ながら、掛長心得のような役割だったのである。

 当時のバイクの写真だが、
 当時の「カワサキ自動車販売の広告宣伝課」が撮ったものだと思う。

   


 当時は東京の神田岩本町に「カワサキ自動車販売の本社」があって、
 そこから全国の自前の代理店を通しての販売をしていて、
 単車営業課はこの「カワサキ自販」に二輪車を卸すのが主たる業務だったのである。

 この「カワサキ自販」は川崎航空機がカワサキ明発に出資して造った販社で、
 社長は川崎航空機の土崎専務が兼務されていて、川崎航空機の明石工場よりも「格上」だったので、
 今と違って工場サイドの開発・生産部門などは、
営業連絡会議」では怒られてばかりだったのである。

 そんな生い立ちの経緯から、国内の販社のKMJは、世界の販売会社とはちょっと違った扱いで、
 その社長はずっと事業本部長が兼務するという時代が続いたのである。

 そんな国内販社に私は3回も出向しているので、
 国内市場のことは結構詳しいし、
 明石の事業部が新事業など起こす時は、事業部に戻っていて、
 そんなことで40年間、カワサキの単車事業とともに歩いたということになるのである。

 では、またいろいろと・・・・
 
 
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はじめてのヨーロッパとナイジェリア

2023-04-25 06:29:20 | カワサキ単車の昔話

★1977年(昭和52)8月のことだから、もう50年近くも前の話だが、
 私は当時カワサキの新規事業CKDを担当していて、東南アジアや世界の開発途上国の担当だった。
タイ・イラン・インドネシアなどとともにアフリカのナイジェリアでも二輪のCKDの話があってイギリス経由で単身ナイジェリアのラゴスを訪れていて、これが初めてのヨーロッパ訪問だった。

 まっすぐにアフリカに行ったのではなくて、タイのバンコックにも寄ってからフランクフルト経由でロンドンに、
そしてイギリスではラゴスに事業を展開していたPZの本社のあったマンチェスターを訪問してからのアフリカだった。

  


 約20日間の行程ではあったが、よく独りで行ったものだと思うが、
 当時のカワサキの二輪事業はスタートの時期で、私だけでなくみんな世界が初めての経験だったのである。
 ロンドンの空港では日本人だがバンコック経由と言うことで「怪しい」と思われたのか、徹底的に荷物の検査をされて1時間近く掛ったのである。
 ロンドンではスタートしたばかりの英国カワサキの内田社長が迎えてくれて、たまたま土日だったのでロンドン見物などお世話になったりした。

 マンチェスターのPZ本社では、勿論英語での会話だが、たどたどしい私の英語だが何とか話だけは出来たのである。
みんな一人旅で解らぬことばかりなのだが、第1の失敗がラゴス行の飛行機の搭乗だった。
 ロンドンに空港が二つもあるなどとは全く思わずに、ヒースロー空に行ったら、ラゴスに飛ぶ飛行機がないので、よく聞いてみたら、
 ラゴス行はガトウイック空港から出ているということで、その日は乗れずに翌日の便になってしまったのである。
 そんなことで当時ラゴスに単身赴任していた森田君はラゴスで二日続けて私の出迎えをしてくれたのである。

★アフリカのナイジェリアの首都ラゴスは当時は発展の最中だったが、
 こんな町で結構な大都会なのである。

 


 ラゴス島の中は綺麗だが、ちょっとはずれるとこんな状況で、
 当時はクルマが大渋滞で1日おきに奇数と偶数の車番のクルマしか走れないのだが、
 それでもこんな状態で森田君も奇数と偶数の車番の2台の車を持っていたのである。

 


 ナイジェリアではPZとの方たちとの交渉がいろいろあったが、
 140km離れたIBADANPZの支店も訪ねたのだが、

 
 

 一歩ラゴスを出ると、渋滞などは全くなくて快適ドライブだったが、
 まさにこれがアフリカで、このような写真のままの風景で、
 車は少なかったがどこに行ってもいっぱいの人達だった。

  
 

 兎に角、子どもたちが多いのである。
 「こどもは何人いるのか?」と聞くので「」と答えると
 「なぜ2人しかいないのか」と不思議がるのである。
 どうも「避妊」などの風習がないようなのだったが、今はどうなっているのだろう?
 
 


 そんなナイジェリアのラゴスでの想い出だが、
 このプロジェクトは結局実ることはないまま終わってしまったのだが、
 当時すでに進出していたホンダさんはめでたく40周年・100万を記録されたようである。

  
 
 そんなナイジェリアでの経験なのだが、
 なぜPZとの話が実らなかったのか?
 そのあたりのことが全く解っていないのである。


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伊豆半島の想い出

2023-04-23 05:40:08 | カワサキ単車の昔話

★ 昨日テレビを観ていたら、名門川奈で女子プロがやっていた。
 1回だけだが川奈でプレーしたことがある。
 昨日のテレビにも映っていた、16・17・18番の最終3ホールはよく覚えている。

 


 川奈ホテルに前日から一泊でのゴルフだったので、人生の中でも一番贅沢なゴルフだったかも知れない。

関東には住んだことはないのだが、なぜかこの辺りとはいろいろとご縁がある。
 御殿場にはFISCOがあって、そのスタート時代からよく行ってたし、
 伊豆半島の丸の山高原では2年続けてモトクロスの全日本があった。
 この辺りでクルマで走ったコースだが、結構よく走っていて、
 大体の地図はあたまに入っている。
 
 

 
 特に伊豆半島とはいろいろとご縁があってよく車で走ったものである。
 最初に走ったのは青森のモトクロスの特に往復した箱根越えだが、
 そのあとすぐ丸の山高原での全日本モトクロスが2年続けてあったので、
 2年続けて訪れている。
 ちょうど東京オリンピックが開催されたころのことである。

 


 それからずっと後のことだが、カワサキもマリンを扱った時代があって、
 松崎にあった「松崎マリーナ」を訪問したことがあるのだが、
 その時は沼津から海岸線を走ってそのまま伊豆半島を1周したのである。
 熱海にはいろんな会合で何回もいったことがる。

 川奈に行ったのはいつのことだったか忘れてしまったが、それが一番最後の伊豆半島だったと思う。

★二輪に関係があったお陰で、全国の販売店を訪問する機会も多かったし、各地でのレース関係などもあって、全国すべての県を車で走っているのだが、
この辺りも結構走っているものである。
 ただ最近はクルマには毎日乗ってはいるが、遠出をすることは無くなってしまって、
 日本の道も想い出だけが残っている。


 

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東南アジア調査団の想い出

2023-04-19 07:04:07 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪事業の国内市場を担当して、オモシロいことばかりだったのだが、
10年間の国内市場の出向から事業本部の企画室に戻ったのである。
サラリーマンの動くルートとしては最高の部門で、企画でじっと大人しくしていたら、昇格・出世は間違いないいい部門なのだが、
 性格的にどうも「じっとはしておれない」のである。

 当時は川重の吉田専務が先頭で旗を振られていて、
 ちょっと陰りの出たアメリカ市場の大型車に代わって、
 効率的な生産設備による安価な小型車を大量に生産・販売するという
 「小型車プロジェクト」が真っ盛りで、1980年に50万台を売るという構想で進められていたのである。
 10年間販売分野を担当してきて、開発・生産とはちょっと異なる販売分野のムツカシさは解っていて、こんな構想はとても実現するわけはないと思ったのだが、
 専務が先頭で走っているプロジェクトなので真正面から反対は出来ないのである。
 
 企画部門という基本計画の推進部門担当なので、具体的な反対は諦めて、
 「東南アジアの小型車のCKDプロジェクト」を提言し、
 先ずはその市場調査を行う計画を上程したのである。
 ちょうど企画に戻って5か月目の1976年春のことである。

 CKDプロジェクトなら明石に膨大な設備投資は必要ないし、 
 東南アジアの小型車は日本の50ccと違って100㏄なのである。

 技術本部長の高橋鐵郎さんを団長に生産の安藤、技術部の川崎、営業の山辺さんに加えて国内販売から松田さんと、
私が纏めの事務局という調査団を創り、
 5月17日から6月18日までの1か月間、
 台湾・インドネシア・タイ・イラン・マレーシア・フィリッピンの各国の市場調査を行ったのである。




 

その結果は秋には「市場開発プロジェクト室」という新職制ができて、
 私もその一員として折角の企画部門を1年で自ら飛び出した結果となったのである。


★二輪事業の調査は各地のデーラー訪問が中心になるので、
 各国の末端の状況も解るし、車での移動が中心なので、
 非常に面白いのだが、世界の各国のこんな末端を1か月かけて観た人などはそう多くはないと思う。

 先ずはインドネシアではジャカルタ・スラバヤなど当時ネシアは、
 二輪車の市場としては最大で、どの町も二輪車であふれていたのである。

 
 

 そのあとのタイでは、北の都・チェンマイにも行ったし、
 バンコク周辺では観光地バタヤにも行けて
 ある意味観光旅行のようだった。





 
 一番大変だったのがイランで、まだ王政が敷かれていた時代なのだが、
 サベイにすでに大きな工場を持ったデイーラ―と契約が交わされていて、
 テヘランから約100kmの現地まで車で往復したし、
 この地図を見てもお解りのように、緑地は全くないと言っていい。
 延々と広大な砂漠が広がっていて、
 突然現れるシーラーズなどは人が創った美しい街なのである。

 


 南のシラーズアスファハーンのデイーラ―訪問もしたのだが、
 アスファハーンでは突然飛行機が欠航になって、
 空港の係の方に聞いても、いつ飛ぶのか解らない」のである。
 この辺りが「イランらしさ」で、神様だけが知っていると仰るし、
 当時のデーラーに「事業計画」がないのである。
 そんな先の話は、「神様の世界」だとホントにまじめに仰るのである。
 
 仕方がないのでテヘランまで400kmの距離だったが、
 タクシー2台でテヘランまで戻ってきたのである。
 どこまで行っても真っすぐな砂漠の中の道だった。

 今はイランなどなかなか行けないので、貴重な経験だったと思っている。


★この1か月の調査団の出張で、私がつくづく思ったのは
 「世界は広いな」と言うことと
 「世界にはいろんな考え方」があって、特に日本人は自分の方から他人を観ることが多いのだが、
 世界の人口では日本人よりはアラブの宗教を信じる人たちが圧倒的なので、それが「おかしい」などとは言えないのである。
 先方から見ると「日本人のほうがおかしい」のかも知れないのである。

 そんなことが、よく解った1か月で
 この調査団の現地報告から、カワサキの小型車のCKD事業はイラン・タイ・インドネシアの3国を中心に新たにスタートしたのである。
 この調査団の報告を契機にカワサキのCKD事業本格化して、
 今では事業の中心になっているし、日本への逆輸入なども行われているようである。


 
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カワサキ ZEPHRE400 のこと   雑感

2023-03-12 06:07:10 | カワサキ単車の昔話

★1989年と言えばまだレーサーレプリカ全盛期と言ってもいい時代に
 「カワサキZEPHRE400」は登場して何年間も売れ続けたヒット商品なのだが、
 発売までにこれほど期待されていなかったのは珍しいと言ってもいいほど期待されていなかったのである。

 新製品の発売時期は期待された商品はみんな春のシーズン前の2月や3月に発売されるのだが、
ZEPHRE400が発売されたのは、4月の末でそれも生産台数はほんのわずかだったのである。
 

   


 私は1988年10月に「7万台販売目標」と言うとてつもない大きな目標を与えられての3度目の国内市場担当となった。
そんな目標の中では、当時のスポーツ・レプリカなどが中心で、ZEPHRE400などは全然期待されてはいなかったのである。

性能的に何の魅力もなくて「ZEPHRE」と言うのは「西からの風」と言う意味なのだが、
レーサーレプリカ全盛期に、カウルなしの懐古的なスタイルを前面に押して登場したのである。

ZEPHYRの広告も性能などは訴えるものが何もないので、こんなイメージ広告に終始したのである。


 
 
 


これがフルカウル以外の選択肢を求めるユーザーに受け爆発的な売れ行きを見せ、「ネイキッドブーム」の立役者となるのだが、
そんな人気は、ある意味作られたものでそれは「私が創った」とも言えるかも知れない。

誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、「バックオーダーがバックオーダーを産む」と言う現象になるのである。
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。
そう言う意味では、これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。

 性能的に訴えるものは何もなかったのだが、
デザインコンセプトも変わっていて、タンクマークはKawasakiではなく、Zephreだし Kawasakiのレタリングは1か所だけと言うのも当時としては初めてで、そんなこともあってZEPHREを買ってくれたお客さんは、従来のカワサキユーザー層ではなかったので、
即台数の上乗せになったのだと思う。

★この『バックオーダー』を3年間も続けることが出来たのは、私が「バックオーダーが消えないように」生産台数を調整し続けたからだと言っていい。
実はずっと以前のFX400の時のことだが、3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。

その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
そんなFX400の時の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。 
ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。

若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。

「7万台目標」も達成できたし、利益貢献も出来て最後の国内担当は「有終の美」を飾ることが出来てよかったなと思っている。

 






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カワサキの昔話 3題

2023-03-01 06:56:02 | カワサキ単車の昔話

カワサキの二輪事業には、私はご縁があって
 カワサキが2輪事業をスタートさせた1960年(昭和35年)から
 約40年1999年まで担当させていただいたので、
 その間の想い出話もいっぱい持っている。

 今では普通に語られていることも、
 ちょっとしたことから残っているので、
 若しあの時「そんな判断」をしなかったら、どんなことになっているのだろうか?

 そんな「カワサキの昔話 3題」をご紹介してみよう。


★まずはカワサキだけが今も持っている「ユーザークラブKAZE」だが、
 kAZEがスタートした1989年当時は、
 ホンダはHART,ヤマハはYESS、スズキはじゃじゃ馬など各メーカーともユーザークラブを持っていて、
 むしろカワサキはそれに追随する形だったのである。

 ただ遅れてスタートしたカワサキは、 
 KAZEのユーザー管理をするソフト会社ケイ・スポーツ・システム」を立ち上げて、
 本格的に取り組んでスタートしたので、30年も経った今も、残っているのはKAZEだけなので、
 当時は3万人に近い会員で他メーカーを圧倒していたのである。
 
 当時ホンダのHARTは会員10万人と豪語していたが、
 現場に集まるユーザーの数はカワサキが圧倒していたので、
 ホンダさんから「カワサキは一体何人いるの」との質問を受けたりしたのだが、
 「ホンダさんは10万人」と言ってるじゃないですかというと、
 「あれは延べ10万人で、現実は1万人ちょっとです」というお答えだったのである。

  

 カワサキが3万人もいて、今も残っている理由は、
 どのメーカーも年会費を取るので1年経つとその期限が来て、
 毎年人数を維持するのは結構ムツカシイのである。
 カワサキはそれを見越して会員カードをJCBと組んで「JCBカード」にしたので、
 その期限が来ても辞めることがムツカシイのである。





 
 その第1号の機関誌は1989年1月に発行されているのだが、
 こんな立派な形ではなくて、カワサキのニュースを何枚か、
 一つの封筒に入れて送っていたのが最初で、
 こんな立派な形になったのは数か月後のことなのである。


★今回の機関誌にはこんな「ジェットスキー」のニュースも載っているのだが、
 ジェットスキーがカワサキの正規の商品として取り扱われるようになったのは1983年からで、
 それまではこれは二輪事業部の商品ではなくて、
 発動機事業部が開発し、アメリカのリンカーン工場で生産し、
 アメリカの販社KMCだけがアメリカ市場で販売していて、
 当時、日本には商社を通じてホントに少数が輸入されていたのある。


 


 そういう意味では「カワサキの正規商品」ではなかったのだが、
 これを川崎重工業の正規商品として、取り扱うようになったのは、
 1983年大庭浩本部長の頃で、当時の企画課長武本一郎さんが発議し、
 ジェットスキーが日本を含め世界展開になったのは、それ以降のことなのである。
 若しあの時、武本課長がそんなことを言いださなかったら、
 ジェットスキーはその後どのような展開になってたのだろうか?
 ただ、その時も私は国内に「ジェットスキー専門」の販売会社を設立し、
 ボート屋などではなくて「ジェットスキー専門販売網」を創ったし、
 JJSBAなどのレース協会と新しい遊びジェットスキーの世界を創りだしたのである。


★ 今回のKAZEの裏表紙には「Ninja」が載っている。
 最初の「Ninja」もちょうどその頃、大庭本部長時代に開発されたものだが、
 そのネーミング「Ninja」はアメリカのKMCのアメリカ人の発案で、
 このネーミングに明石サイドの技術部が「忍者の印象」が暗いと猛反発だったのである。

 


 その「Ninjaのネーミング」について、
 今では日本側が反対したとネットなどでも書かれているが、その記述は何となく迫力がない。

 実はより具体的にその経緯を知ってるのは私だけなのである。
 日本側の猛反対の意向を受けて、アメリカ出張時大庭本部長自らKMCに説得を試みられたのだが、
 アメリカ側の反発が強硬で、当時のKMCの田崎社長が徹底的に反論、
「Ninja」はそんな暗いイメージではなくて「007ようにカッコいい」イメージだというのである。
 事実アメリカでは当時Ninja という映画などもあって、そのイメージは日本とは全く違った新しいものだったようである。
 その時は大庭本部長をしても説得することが出来ずに、
 最初のマシンはアメリカだけが「Ninja」で、




 欧州市場などには「GPZ900」のネーミングで発売されたのである。
 その大庭さんと田崎さんの「Ninja論争」のその場に同席してたのが私だけなので、そんな経緯を知ってるのも私だけなのである。

  
   


 
 その後、Ninja のネーミングは好評で
 このGPZ900シリーズだけではなくて、
 いまではカワサキを代表する「スーパースポーツ車の冠」として使われているのである。


★ こんなカワサキの昔話を語れるのも、今では私だけになってしまったのかも知れない。
 世の中は「ひょんなこと」から「ひょんなこと」になるのである。
 何事も物事は片手間ではなくて「ちゃんと専門的に取り組むこと」が肝用なのである。
 
 私だけが語れる「カワサキの昔話 3題」である。


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カワサキコンバットのこと

2022-12-23 06:29:53 | カワサキ単車の昔話


★昨日アップしたモトクロスの写真に映っている
 カワサキのライダーはカワサキコンバット13番が岡部能夫9番は三橋実だと思う。
 ヘルメットの1の字のマークがあるから間違いない。

 左側はそのライデイングから神戸木の実の歳森康師ではないかと思うが、
 よく解らない。







★このブログは2006年9月にスタートさせたのだが、その年の11月3日の記事である。
 文章もそっけないが、当時を思い出しながら補足してみたい


●「カワサキコンバットのこと
2006-11-03 15:34:38 | M/Cレース

1965年前後、神奈川県海老名で三橋実の率いたカワサキコンバットは、有名ライダーを擁しモトクロス界で名を馳せていた。
カワサキファクトリーの契約ライダーとしては、三橋、安良岡、梅津、岡部、星野がいた。
私はその頃、このクラブとの契約やライダー個人との契約を直接担当していたのだが、どのようにしてこのクラブがスタートしたのか詳しいことは解らない。私がレースを担当したのは、63年だが既にコンバットは存在していた。」

カワサキの初レースとされる青野ヶ原モトクロスは1963年5月で、
マシンは125B8なのだが、
その前の125B7でもカワサキ自動車販売でMCFAJのレースに出場していた記録がある。
 そのライダーは三吉一行とかではなかったのか?
 ライダー契約を川崎航空機工業が正規に行ったのは1963年末からで
それは私が担当した部門だったのだが、私は直接の担当でなかったので、詳細は解らない。
 気が付いた時にはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実歳森康師・山本隆がすでにいた。


  


  
 この5人のライダーでレースがスタートしたことは間違いない。
 正規にカワサキに広告宣伝課が出来て、
 私がそれを担当したのは1964年1月のことである。


●「昔のことは、なかなか正確には残っていないものだ。
今からの話は、私の記憶と推測も混じるが、多分当たっていると思う。
当時、カワサキ自販の広宣課長に小野田滋郎さんが居た。
あのフィリッピンから生還された小野田中尉の弟さんである。
ヤマハにいた三橋を強引にカワサキに引っ張ったのは、これは間違いなく小野田さんである。川崎航空機が直接レースを担当するまでは、小野田さんが独りでライダー関係をやっておられたと思う。
カワサキコンバットも、多分この頃出来たのだと思う。」


川崎航空機の広告宣伝課カワサキ自販の宣伝課の業務を引き継いだのだが、 小野田滋郎さんには私はいろいろと教えて頂いた。
 当時の写真はないのだが、この写真の左側の方で
 陸士出だったから位はお兄さんよりも上だったのである。

 
  



●「どこの世界にもあることだが、カワサキのレースも、全員賛成でスタートしたわけではない。むしろ、その逆である
カワサキが、運よく青野ヶ原のレースで優勝ほか上位を独占し、数日後記念写真を撮ったとき、勿論苦労した直接の関係者もいたが、ひな壇に並んだ人の大半は反対をしていた人たちだった。」


 
 


 このレースは製造部と営業部の有志の人たちが非公式に出場したもので、
 カワサキが正規に認めたレース出場ではなかったのである。
 「大半は」はちょっと書き過ぎだと思うが、
 少なくとも勤労部長と企画室長は反対だったのである



●「その数ヶ月後、広告宣伝の仕事を小野田さんから引き継ぐことになり、レースも担当の一部になった。レースとの関わりのスタートである。
三橋とは個人契約のほかにカワサキコンバットの運営契約を結んだ。
クラブ員の募集、面倒、練習に拘る費用、宿舎、運搬車両など一切を含んで、月20万円の契約だった。私の年収が50万円に届かぬ時代であったから、相当な額である。」

 この青野ヶ原のレースの完全優勝も大きな契機となって、カワサキは二輪事業を本格的に進めることになり、
 広告宣伝課も出来たし、その予算は1億2000万円もあったのである。


★この青野ヶ原のレースはその前年、1962年11月に鈴鹿サーキットで開催された、日本で初めてのロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行き、感動して「カワサキもレースを」とスタートしたものだったのだが、
 この250㏄の優勝者が三橋実350ccの優勝者が片山義美で、当時はいずれもヤマハだったのだが、
 その三橋実カワサキコンバットを創り、片山義美の神戸木の実クラブのメンバーが多数カワサキとの契約を結ぶことになったのである。

 鈴鹿サーキットが出来たのが1962年だから、
 若し鈴鹿が出来ていなかったら、カワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。

 その鈴鹿のレース観戦を裏で画策されたのは兵庫メグロの西海義治社長で、
 これは後年兵庫県のモトクロスの時の写真だと思うが、
 本田宗一郎と西海義治さんが若しいなかったらカワサキの二輪事業もなかったのではと思ったりもする。

   
    
 


● 「有望な若手ライダーが全国から集まった。その中に静岡の星野栗山もいたし、秋田の金子豊(星野インパル経営)もその一人であった。
何事も、逆風の中で、ものごとを進めた人を忘れてはならない。
小野田滋郎さんは、カワサキのレースをスタートさせた一人であることは間違いない。
然し、今、小野田さんのことも、カワサキコンバットのことも詳しく正確に知っている人は、カワサキの関係者でも、殆ど居ないだろう。
カワサキコンバッは、三橋、梅津、岡部の契約が切れた時点でなくなり、星野は神戸木の実へ移籍した。私には懐かしいクラブチームであった。」


 これはずっとのち、私がシャッターを押した写真だが、
 後列が金子豊・岡部能夫
 前列が山本隆・星野一義である。

 



もう金子と岡部はこの世にいない。
カワサキコンバットのこと」語れる人も私ぐらいしかいなくなってしまった。
 遠い昔の出来事なのである。




 




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カワサキのGPレース参戦 物語

2022-10-05 05:37:38 | カワサキ単車の昔話

★昨日、David L de Bottn さんがFacebook のコメントで、
 このように言ってこられたのだが、
 このご返事を書くのは簡単ではないので、
 当時のカワサキのレースについてブログに纏めてみることにする。

 カワサキがGPに参戦したのはこの前年の1966年のことなのだが、
 それは大変なスタートだったのである。
 


 


1966年カワサキが初めて世界GPに参戦した年で、
 
 GPレース大槻幸雄監督
 ジュニア・ロードレースが 安藤吉朗監督
 マネージャーが私・古谷錬太郎ライダー契約担当だった。
 
この年1966年の日本グランプリは、10月15日から16日にかけて、
この年開業した静岡県の富士スピードウェイで開催されたのだが、
ホンダのワークスチームは、FISCOの30度バンクが危険という理由で欠場したが、
この年からカワサキブリヂストンが参加することとなったのである。


★この年からカワサキは世界GPに参戦したのだが、それは大変な年だったのである。

 この年の1月に藤井敏雄と契約し欧州GPの転戦からスタートしたのだが、
 8月27日マン島でのプラクティスで転倒死亡するという事故に出会うのである。

     

 
 
 10月に行われる日本GPには、シモンズ・安良岡に加え
 デグナーと契約する方向で決まったのが9月の初めのことである。

 カワサキにとってはGP参戦も初めてだが、
 外人ライダーとの契約も初めてで、どんな契約内容にすべきか全く解らないので、契約担当の私は困ってしまって、
 外人関係の契約についいてホンダの前川さんに教えて貰いに、
 鈴鹿まで伺ったのが9月10日のことなのである。

 契約書の最後に書く「疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・・」という日本式は絶対ダメで、
疑義を生じた場合は甲の判断に基づくものとする」と明確に書くことと
教えられたりした。

 そしてデグナーとの契約も無事完了したのだが、
 9月29日FISCOでのプラクテイスでデグナーは転倒し、
 頭を打って、入院してしまうのである。

 10月16日のGPレースには、
 シモンズ・谷口尚己・安良岡健の3人で出場するのだが
 その時のマシンである。

 

 
  結果は安良岡健が7位だった。

  



★ 翌1967年はマシンもこのように変わって、


   

  
  金谷秀夫が見事3位に入賞するのである。
  下表では車両スズキとなっているが、カワサキの間違いである。
 


 

 金谷秀夫神戸木の実レーシング」からカワサキに加入し
 1967年の日本GPで世界GPでは125ccクラスで3位入でし、
 1969年の全日本セニア250ccクラスチャンピオンになるが、
 カワサキがレース活動を縮小したため、
 1970年ヤマハに移籍するのだが、
 彼の故郷はカワサキであることは間違いない。

 晩年、カワサキの催しにも必ず出席していたのだが・・
 これは星野一義神戸木の実の新田さんと。

 
 

  金谷秀夫カワサキのGPレースの草分けと言ってもいい。
  私個人とは特にいろいろと親しい関係がって、
  カワサキのゴルフ会・Z1会のメンバーでもあったのだが、
  ほんとに早く逝ってしまった。
 


 
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カワサキコンバット三橋実と 神戸木の実の片山義美 と・・・・

2022-09-27 05:10:30 | カワサキ単車の昔話

 若いころカワサキのファクトリーチームを担当したこともあって、
 当時の世のライダーたちとは、いろんな形で繋がっていて、
 今回、11月に開催する『Z50周年祭』にも多くの有名ライダーが参加してくれるのだが、
 そんなカワサキの二輪事業に直接大きな影響を与えたのが、
 1962年(昭和37)11月に開催された
 日本で初めての本格的な鈴鹿ロードレースだったのである。


     
   

 このレースでは、250㏄が三橋実・350㏄が片山義美と二人のヤマハライダーが優勝するのだが、
 三橋実・片山義美のこの二人のライダーこそ、
 カワサキのレースを育ててくれたと言っても過言ではないのである。

 こんな当時の250ccの記録をネットで見つけたが、
 ここに名を連ねている三橋・本橋・片山・宇野さんは知ってるし、
 宇野順一郎さんは今回の『Z50周年祭』にもご出席なのである。
 
 
 


★ この250㏄優勝者の三橋実は、
 カワサキが本格的にレースを始めた時から関東の厚木に『カワサキコンバット』というチームを創って、
 安良岡健とともに梅津次郎・岡部能夫・星野一義などの若手ライダーの育成にあったってくれたし、
 当初は自らライダーとして出場してくれたのである。

 こんな貴重な写真がネットの中にあった。
 多分、第1回MFJ 全日本モトクロスの相馬が原での写真ではなかろうか?
 ヘルメットの『1の字』がコンバットのマークである。

 
  

 これがスタート間もないころのカワサキのファクトリチームのメンバーで、
 右から6人目が三橋実なのである。





 このメンバーの殆どがカワサキコンバットなのだが、
 その中の二人右から3番目と4番目が神戸木の実クラブ山本隆・歳森康師で、
 皆さん後にはみんな有名ライダーに成長するのだが、このころはまだ名もない若手ライダーだったのである。


 片山義美さんは、ヤマハ・スズキとの契約で、カワサキとの関係は直接なかったのだが、
 そのメンバーたちがみんなカワサキとの契約だったのである。
 これはその『神戸木の実クラブ』の会合が三木で開催された時の
 片山義美を囲むカワサキのレースライダーである。
 このほかに歳森康師と星野一義も一時『神戸木の実』に名を連ねたのである。


 


 
 日本での初めてのロードレースの優勝者・三橋実と片山義美がカワサキとこのように密接に繋がっていたのは、ほんとに不思議なご縁なのである。


★ 若し鈴鹿サーキットが無ければ、
  三橋実と片山義美との出会いが無ければ
  カワサキの二輪事業もレースも全然違ったものになっていたのだろう。
  そんな鈴鹿のロードレースレースだったし、
  このレースの見学を裏で画策したのは
  兵庫メグロの西海義治社長なのである。

  もっと極端に言えば、本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを造らなかったら
  カワサキの二輪事業もなかったかも知れない。

    
     

  これはずっとのち、兵庫県でのモトクロスレースに本田宗一郎さんがお見えになった時の、西海さんとの貴重な写真である。


  
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カワサキの二輪事業の黎明期 その2   雑感

2022-09-16 05:30:04 | カワサキ単車の昔話

★「カワサキの二輪事業の黎明期」とは何年ぐらいまでのことなのだろう?
 私自身のことでいうと昭和36年(1961)12月に単車営業が出来てそこに異動してから、
 広告宣伝課の担当が終った昭和41年(1966)までの5年間だったと言っていいのではなかろうか?

 そんな時代に一緒だったメンバーも60年も経つと先に逝ってしまわれた人も多いのだが、
 今もなお元気で今回のZ50年記念祭にも顔をだしてくれる仲間もいて、
 その一人が「福田康秀くん」である。

 彼とは私が初めて出来た「単車営業課」に異動した時に同じ課の仲間として出会たのである。
 「単車営業課」と言っても生産・技術以外のことはすべてやらねばならなくて、
 今でいう品証部門のサービス員3人の一人だったのである。
 そんなことで、その後も結構気安く付き合った仲間なのだが、
 それから4年経って彼が品証にいた時に突然私のところにやって来て、
 「85J1で、品証の仲間で富士山に登りたいのだが、その費用を都合してくれないか?」と言うのである。 

 当時、私は広告宣伝課担当で結構な予算を持っていたので、
 いろんなことで理屈をつけて「たかりに来る」人たち多かったのだが、
 富士山登頂に成功したら、これは広告に使えるなと思って、
 「富士山山頂での写真を撮ってきたら、その費用は全部見てあげる」と言うことにしたのである。


★ それは見事に成功して沢山の写真を撮ってきたのである。
  昭和40年(1965)8月3日のことである。
  
 そんな写真の中から

 







 登頂には成功したがなかなか大変だったようである。
 2台の85-J1はモトクロス職場でチューニングして
 タイヤも特別にモトクロスタイヤを装着したのだが、
 戻ってきたマシンのタイヤのヤマはすり減って殆どなかった状態だった。





 
 勿論、広告宣伝にも大いに利用させていただいて、
 当時のバイク雑誌2誌、オートバイ誌とモーターサイクリスト誌
 派手な広告を打ったのである。

 その中のサイクリスト誌の記事を「二輪文化を伝える会」さんが
 探し当ててくれたのが、この写真である。




 


★ この時期は映画界とも繋がっていて、
 特に日活映画とはいろんな繋がりがあって、
 当時のトップスター浜田光夫と吉永小百合とカワサキのこんな写真もあるのだが、


  

 

 その浜田光夫が明石日活に挨拶来た時には、
 飛び込みで「明石工場まで来ませんか」と「ダメ元」で言ってみたら、「
 浜田光夫が明石工場ま来てくれたのである。
 事業部長と対談し、そのあとテストコースでバイクに乗ったりしたのである。
 昭和39年(1964)7月14日のことで、
 浜田光夫が来たというニュースが流れて、
 テストコース横の発動機工場の女工さんたちが浜田光夫を見に飛び出してきて、一時ラインが止まってしまったりしたのである


 日活とはホントにいろいろ密接に繋がっていて
 花咲く乙女たちのロケが岐阜であった時にも
 バイクを貸したのだが、サービスが出来る人を出して欲しいという要求で、
 「福田康秀」クンんと二人で岐阜まで行ったのだが、
 立派な旅館に泊めて頂いて最高のおもてなしをして頂いたのもいい思い出である。
 別にバイクも問題なかったので、仕事は何にもなくて
 いいご馳走を食い、映画館での舞台挨拶などを見てただけの楽な出張だったのである。


 
 


 この映画には堺正章も出てたのだが、
 まだ有名ではない駆け出し時代で「堺駿二 の息子」さんと言うことで紹介されていた。


当時のテレビの人気番組「源平芸能合戦」にも川崎航空機と三洋電機の対戦として出場したのだが、
これも昭和39年8月のことで、これには明石工場だけでなく本社岐阜工場も巻き込んで頑張ったのである。
 結果は107:105点と言う稀に見る高得点での接戦だったのだが、結果は三洋に名を成さしめたのである。

 
 
 この時には後に単車の事業本部長をされた岩城常務がまだ本社総務部長の頃だったが、熱心に応援して頂いて、
 「芸人を養っている訳ではないから、応援だけは負けるな」と連日応援団の練習を熱心にやって、
番組を担当されてた方が、こんな熱心な会社は見たことが無い」と感心されていたのである。


★ 単車事業もまだスタートしたばかりで若かったが
 私もまだ30歳そこそこの若さで広告宣伝課を担当したお陰で、
 一般サラリーマンでは経験できないような面白いことばかりだった時代なのである。



 
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カワサキの二輪事業の黎明期    雑感

2022-09-14 05:07:34 | カワサキ単車の昔話

ふとしたことで書き出した日記だが20歳からだから、
 もう70年も続いていて、たまに読み返すこともあるのだが、
自分の記憶」として覚えていないことも結構ある。

 この11月には「Z50周年記念祭」が明石であって、Zファンなど100人以上が集まるのだが、
 その最初のスピーチで「カワサキの二輪事業の黎明期」の話をすることになっているのである。
 大体は覚えてはいるのだが、単なる昔話の雑談でもないので、
 もう一度当時の日記を読み返して確かめているのである。


 
  
 
 カワサキが二輪事業の一貫生産をスタートさせたのは、
 昭和35年(1960)のことだが、営業部の中に単車課がスタートしたのは翌年の12月のことで、
 最初に発売した125B7に欠陥があってとても順調とは言えないスタートだったのだが、
 いろんな幸運が繋がって、単車事業再建が決定されたのは4年後のことで、
 単車事業本部がスタートしたのは、1964年1月のことなのである。
 これは日本能率協会が「単車事業継続の可否」について調査し、
 その結果は「単車事業継続」の結論が出るのだが、
 その条件の中に「広告宣伝課の設置」と言うのがあって、その新しい課を担当することになったのが私なのである。

 それまでは広告宣伝については、当時の「カワサキ自動車販売」が担当していて、
 その責任者はあのフィリッピンの小野田敏郎さんの弟さんの小野田滋郎さんだったのである。
 この写真の左の方で陸士出の秀才で、現役時代いろんな方に出会たが
この人にはとても敵わない」と思った数少ない方の一人である。



     

 
 小野田さんには「広告宣伝課」を引き継ぐに当たり、
 ほんとに親身になっていろいろ教えて頂いたのである。
 
 これがその年前半の日記からの抜粋だが、
 私にとってそれまでのサラリーマン生活とは一変した「突然変異」した期間だったと言えるのである。



 

 
  
広告宣伝課を新しく設置なのだが、
与えられた予算は年間1億2000万円と言う膨大な予算で、
今の金に換算すると10億円は軽く超す額だったし、
その課の課長は次長が兼務で課長も掛長もおらずにまだ係長にもなっていない32歳の私に100%任されたのである。

上記のメモ書きにもあるように
広告代理店は予算目当てに電通・博報堂などが押しかけてきて、
その代理店選定基準を小野田さんと二人で創ってやったのだが、
広告の専門家たちから、「お褒めの言葉」を頂いたような素人離れしたものだったのである。
 
雑音に耳を貸すな」とは、その時小野田さんが私にくれた言葉で、
その後の人生は「雑音に耳を貸すことなく」生き抜けたと思っている。

★人生にはいろんな時期があるが、思い返してみるとこの年の半年間は私にとって、
今まで全く経験のなかったことへの挑戦の期間だったと言えるだろう。

本格的な広告宣伝」に出会ったのも初めてだし、
マーケッテング」とか「広報・広告」についても広告代理店の本社メンバーとの間で本格的な理論の勉強もしたし、
今までは横で眺めていた「レース活動」についても本格的に取り組み、
ライダー契約なども広告宣伝費の中から負担していたのである。


 その当時の5人の契約ライダーである。
 左から岡部能夫・歳森康師・山本隆・三橋実・梅津次郎で、
 マシンは懐かしいB8モトクロス車である。
  私より若いのに先に逝ってしまって今残っているのは
 私より10歳若い山本隆さんだけである。

 
 

 同じような写真だが、これは安良岡健星野一義もいるので
 もうすこし後の頃の写真である。





上記のメモにもあるように6月にはMCFAJの全日本で山本隆がオープンで優勝していて、
これがカワサキの初めての全日本での優勝なのである。

すぐ後には、ヤマハと契約でトラブったとかで、荒井市次が勝手にカワサキに訪ねてきたりしている。
こんなレース界のスター選手だった人たちとも面識が出来て話が出来るようになったりした。

 このようにこの年の「広告宣伝課」との出会いは、
 突然1億2000万円と言うとてつもない額の広告宣伝費を任されて、
 流石にこれは7000万円ぐらいしか使えずに 
 本社の担当専務に「お前らは金をやってもよう使わん」と怒られたりしたのだが、
 私自身はいろんな「初めての経験」が出来て、その後の人生にも大いに役立ついい経験になった半年間だったのである。


★今日はここまでしか読めなかったが
Zが世に出る1972年まで日記を読み返してみて、
自分の記憶を確かめておきたいと思っている。

Zの開発責任者だった大槻幸雄さんとは、
こののちカワサキがロードレースを始めた時からレース監督をされたので、
それ以降今日までのおつき合いなのでもう60年ものお付き合いになる。

そんないろいろなことのあった「カワサキの二輪事業の黎明期」だが、
日記を読み返してみると、忘れていたことも思いだすかも知れないのである。



 
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カワサキが初めて鈴鹿を走った日 Ⅱ   

2022-02-10 06:43:02 | カワサキ単車の昔話
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログをアップしたのは
 9月にブログをスタートしたばかりの2006年11月2日なのである。
 
 実は北陸の竹田学さんから昨日、Facebook のメッセージで
 「古谷さん「塩本選手」という御名前のライダーご存知では無いでしょう か? 
 私の居住しております石川県と関係のある方らしいのですが詳細を知る方がこちらに居ないので・・・・」というメッセージを頂いたのである。

 私は「塩本選手とは直接お会いしたことはない」のだが 、
 塩本選手のことは知ってたので、それなりのご返事はしたのだが、
 その中で「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログがあるから、
 「それを検索してみて下さい」とご返事したのである。

 これはカワサキのロードレースのスタートの話で、
 なかなかオモシロイ話だから、改めてそのままご紹介してみることにする。


★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」 

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆は、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。
結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、
5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

       

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助となった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、
一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参を認めることになったのである。
約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、
関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれたさん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君
●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。
●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。
タイムは3分20秒は切れなかったと思う。


 以上がその全文なのだが、
 そのブログに山本隆さんがこんなコメントを寄せてくれているので、
 それもご紹介してみる事にする。


     
   


一番最初にカワサキを鈴鹿で走らせた男! (山本隆)

そうです思い出は鮮明に記憶しています!
私が鈴鹿ジュニアーロード参戦に駆り立てたのは訳があります!
その年の初春にブリジストンサイクル工業への移籍を密かに目論見、仮契約まで行っていました!
その内容は勿論MXエースライダー契約でしたが、新たに始まる鈴鹿ジュニアーRRの参戦も入っていました。
一度は憧れの鈴鹿を走るチャンスが来た!と色気の多い私はその気になっていたのに、大きなプレッシャーのせいで?元の鞘に収まってしまいました!
それじゃ自費でもRR参戦を!と固い決心をしたのを知った田崎さんが「山本君僕に任せなさい!」と言って生産ラインからカワサキ85J-1の新車を1台宛がってくれました。"(-""-)"


 そうです。
 こんな山本・歳森のBSへの仮契約事件があって、
 山本隆さんは「大きなプレッシャーがあって」とそれが実現しなかったと書いているのだが、
 それには私も関係があって、このBSへの移籍を止めるために
 神戸木の実の片山義美さんに頼んだのは私なのです。
 片山義美さんと兵庫メグロの西海社長というレース界の大先輩が二人を説得してカワサキに留まることになったのです。
 そして、私はそれまではレースには直接関わっていなかったのですが、
 この事件を機に直接「レース担当」することになったのです。

 もう昔のことですが、私にとってもこの事件がなければレースを直接担当しなかったかも知れません。
一つの岐路になった事件であり、その結果のロードレース参戦だったのです。

 
 
 

 
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