雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

川崎重工業の二輪事業   雑感  

2021-12-19 07:09:14 | カワサキワールド

川崎重工業の株主あてにこんなチラシが送られてきた。
 この半年間の売り上げ比率である。



  

  
 
 モーターサイクルの比率が30%を占めていて最大なのである。
 これを見て正直びっくりだし、
 かっての川崎航空機工業の明石工場のロボット・ガスタービンも大きくなったし、
 岐阜工場の航空機を含めると、
 川崎重工業の売上高の50%以上を占めているのである。

 私は昭和32年(1957)に、川崎航空機に入社したのだが、
 当時は新会社設立4年目で、バイクエンジンはやっていたが、
 二輪事業はまだスタートしていなかった時期である。

 私自身が明石出身なので川崎航空機とはいろいろと関係もあったのだが、
 軍事工場だということで戦時中には爆撃を受け、
 まだ事業再開されていない昭和24年(1949)はまだ空襲を受けたままのこんな状態だったのである。


  

 入社して財産課に配属されたのだが、財産課が処分する、戦前の機械や工場の焼け跡の鉄骨が、結構大きな比率を占めていた、苦しい時代だったのである。

 実現はしなかったが、こんな4輪車の開発を手掛けていて
 Zのエンジンの開発担当者であった稲村暁一さんは入社当時、
 この4輪車のエンジン設計に携わっていたのである。

 



★ 川崎航空機工業時代の二輪車関連の推移は以下の通りで、
 二輪事業が本格的にスタートしたのは昭和36年で、
 その年に単車営業部が出来て、私はその新しい単車営業に異動したのである。
 

昭和28年(1953年)    バイク用エンジンを開発/販売
昭和29年(1954年)    明発工業を設立(出資/提携)
昭和34年(1959年)    川崎航空機工業内に単車部が出来る
昭和35年(1960年)    目黒製作所と提携し販売網を確保
昭和36年(1961年)    カワサキPET及びB7を発売・単車営業部発足
昭和38年(1963年)    完全新設計オートバイB8を発売
昭和44年(1969年)    川重、川車、川航3社合併し、川崎重工業


★そんな川崎航時代は、昭和44年(1969)まで続き、
 3社合併により川崎重工業となるのだが、
 合併当時の主事業は今は殆ど実績のない「造船事業」が主力で、
 単車事業もまだ赤字が続く不安定な時期だったのだが、
 それが継続できたのは、ひとえに「造船部門」が川重全社を支えていたのである。

 そんな時期を経験しているので、
 現在の川崎重工業の事業比率を見ると本当に感慨ひとしおなのである。

 かっては足を引っ張った「単車事業」が今は川重を支えているのである。
 ただ「カワサキ・Kawasaki」は、世界に事業展開した単車事業が、
 世界にその知名度を定着させたもので、
 車両や船が世界に出て行った時期には「カワサキは車両や船も造っているのか」などと言われたという話もあるのである。

 今年はカワサキ二輪事業のスタート60周年だし、
 来年はZの発売50周年なのである。

 50年も経つと、世の中は本当に変わってしまうものである。


 
 
 
  
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カワサキZ1/Z2が「日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定」

2021-11-18 05:35:41 | カワサキワールド

★カワサキZ1/Z2が「日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定」されたという嬉しいニュースが流れた。

 昭和47年(1972)に発売され、来年は記念すべき50周年を迎えるのだが、50年経った今もなお多くのバイクファンに愛され、走り続けている名車である。

「大排気量のスーパースポーツバイクとして開発され、海外市場で高く評価され、日本仕様のZ2と合わせて空前の販売台数を記録し、カワサキのブランド構築の源流となる歴史的名車である」
ことがその選考理由となっている。






この10月1日に新しくスタートしたカワサキモータースの代表取締役社長の伊藤浩さん(写真左)が、表彰式に出席し、
「Z1は1972年に製造を開始し、来年には50周年の節目の年を迎えたいま、素晴らしい賞を頂けたことをこのうえなく誇りに思います」とコメントしている。






★このZ1が開発された時代は、カワサキが二輪車生産を開始した昭和35年(1970)からほぼ10年を経過し、
 新しくアメリカ市場への進出が250A1やマッハⅢのスポーツ車によりようやく軌道に乗り始めた時期で、
 このZ1によりアメリカ市場で確固たる地位を築き得た車なのである。
 
 その開発責任者は大槻幸雄さんなのだが
「Z1の開発計画書には手書きで“能世界一”」と大槻さんらしい「思いがこもった一節」が書かれてあったという。

その大槻さんは、2019年に自動車殿堂入りされているし、
当時のアメリカのKMCは、同じく2014年に自動車殿堂入りされた濱脇洋二さんで、日本の開発本部の大槻さんとの二人三脚での開発だったのである。

 大槻幸雄さんは1966年、初めての富士スピードウエイでの日本GP までは、カワサキのレース監督をされていて、
私はチームのマネージャーをしていたのだが、この年のレースを最後に技術本部の市販車開発分野に戻られたのである。
 私もこの年でレースから離れ、東北6県の営業担当となるのだが、
 1967年の春に東北の代理店会議に来られた大槻さんが私に、「世界一のバイクを創る」と言われたのだが、
 この時大槻さんのアタマにあったのが「Z1」だったことは間違いないのである。

 その開発当初は750ccで開発されていたのだが、
 1969年にホンダがCB750FOURを発売したので、急遽900ccに変更され、あくまでも「世界一」を目指されたのだと思うが、
 国内市場は750ccまでという規制があったので、国内市場のみ「750Z2」ということになったのである。

 当時私は大阪市場を担当していて、業界に先駆けて「二輪車専門販売網=カワサキ特約店制度」を推進していたのだが、
 この「特約店制度」がスムースに軌道に乗ったのも「750Z2」があったからだとも言えるのである。

 今回新しくスタートした新会社カワサキモータースのミッションは、
 Kawasaki.Let the good times roll なのだが、
 このフレーズも、Z1発表1年後の米国で使われ始めたものなのである。

 このミッションも20年ほどの空間があったのだが、1990年代に国内市場で復活し、
 今回改めて「新会社カワサキモータース」のミッションとされたことは、
 50年ほど前の「カワサキのZ時代の企業風土」が今に生きているということなのである。


★これはごく最近、11月10日に開催された大槻幸雄さんが会長を務められる「Z1会」の写真である。
 「第78回」とあるように延々と続いているコンペで、92歳の大槻幸雄さんはまだ現役でプレされている。
 濱脇洋二さんも、エンジン担当の稲村さんもデザイン担当の多田さんもかってはプレーされていたのである。
 
 この「Z1会」はスタートは技術部のメンバーだけであったのだが、
 製造部も営業関係もレースライダー諸君もさらにはZ1ファンたちもメンバーに加わって、このように盛大に行われているのである。

 


 
 これはこのコンペの表彰式での大槻幸雄会長である。
 今年はコロナでこの1回だけだったが、
 来年は通常に戻って「年4回」のコンペになることを願っているのである。

  


 
 78回も続いているコンペなのだが、
 私はその第11回に優勝させて頂いて、家にはこんな盾が残っている



 いろんな意味で、私にとってもいろいろと想い出多いZ1なのである。

 そのZ1/Z2が 日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定されたことは、
 本当におめでたい喜ばしい出来事なのである。

 
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松本新さんのこと

2021-11-17 07:02:40 | カワサキワールド

★ 「当社元副社長・松本 新 あらた 様(享年92歳)におかれ ましては11月7日にご逝去されました。 ここに謹んでお知らせいたします。」
という訃報が届いた。

本当にお世話になった松本新さんだっただけに、
一度改めて当時のお礼をと思っていたのだが、その機会もなく逝ってしまわれたのである。

 KMCの経営危機で当時の単車事業本部は勿論、本体の川崎重工業まで、その影響で無配になってしまった当時、
 松本新さんは本社の財務担当常務だったのである。

 川重本社はこのKMC対策のために2年間で500億円の資金を投入し、
 その再建にあたったのだが、本社でその先頭に立たれたのが松本新さんなのである。
 松本さんは第一勧銀から川重に来られたのだが、単車事業に非常に強い関心と愛情を持たれていて、
 いろんな面で援けて頂いたのだが、当時単車に関わられたのは、財務対策・資金調達の面だったので、表に出ることは少なかったので、
 当時の事業本部の殆どの方は松本さんのことはご存じないのだと思うのである。

 若しあの当時、本社の財務対策がなかったら「カワサキの二輪事業は終わってしまっていた」であろう、それほどの経営危機だったのである。

 当時は大庭浩本部長・高橋鐵郎副本部長の時代で私は企画室長だったので、
 松本さんと直接関係があった窓口を務めたのである。

 手元に田崎さんが送ってくれたこんな写真があるが、
 一番右が松本新さんである。
 真ん中が高橋鐵郎さん、左は当時のKMC社長の田崎雅元さんである。

 



★ 当時の川崎重工業の取締役会では「KMC報告」なるものが
 毎月議題にあり、その報告者は大庭本部長ではなく「松本常務」だったのである。
 それは財務本部が500億円もの資金を投入した先のKMCの経営状況経過を毎月の取締役会に定例的に報告されるほど、
KMCの経営健全化」は川重本体にとっても大きな課題だったのである。

 この毎月の「KMCの経営報告」はKMCから企画室に送らた資料を
 私が川重取締役会用に纏めて、松本さんに報告しそれを松本さんが財務担当報告者として取締役会に報告されていたのである。

 私はそんな担当をしていたので取締役会にも陪席していたし、
 松本新さんとは親しくお話する機会も多かったのだが、
 絶大の信頼を頂いて、いろんな面でお世話になったのである。 

★こんな経営健全化を進めている時期に、KMCの4か所にも分散していた社屋を本社を売却することで1か所に統合しようという案を提出した時には、
 「赤字会社が」と監査役が反対されて、松本さんも立場上最初は反対されたのだが、
 その内容をつぶさに説明すると理解を示されて、こんな立派なKMC社屋が建ったのである。



 
 
 それは今のIrvine がまだ開拓途上のころでサンタナの本社を売却することで
 こんな広大な土地が買えたのである。
 これは工場などではなくて「事務所」なのである。
 日本では考えられないような広さだが、
 土地はサンタナの本社売却代で買えたし、本社建築費は18億円でできたのである。
   
 


 たまたまNinja 900などの新車も出たし、
 ジェットスキーの急激な拡販などもあって、
 KMCの経営健全化は順調に進み、カワサキの二輪事業も安定期に入って行くのである。

 そんな一番のきっかけは何と言っても本社財務の500億円の資金投入であったことは間違いなく、
 その大きな決断をされた「松本新さん」には、本当に感謝なのである。

 92歳のご高齢であったので、
 天寿を全うされたというべきであろうが、
 ここに改めて感謝の念を表したいと思うのである。
 有難うございました。安らかにお眠りください。

  
 
 


 
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オートバイ神社と川崎神社   雑感

2021-11-13 06:02:43 | カワサキワールド

★1昨日のゴルフは吉田純一さんと一緒だったのだが、
   久しぶりにいろんな話をさせて頂いて、楽しい1日を過ごしたのである。
 そんないろいろな話の中の一つが、
 いま吉田純一さんが推進されている「オートバイ神社」についても、
 いろいろお話することが出来たのである。

 この「オートバイ神社推進構想」は
 2014年10月に島根県浜田市に設立されたのが第1号
 私はそのころから関心を持っていたのである。

    


 バイクのユーザーの楽しみの一つが「ツーリング」なのだが、
 その「ツーリングの目的地」の一つとして
 全国各地に「オートバイ神社」ができることは非常にいいことで、
 どんどん広がればいいなと思っていたのである。

 以来7年、吉田さんは地道な活動を続けられて、
 すでに全国にはこのようなオートバイ神社が設立されていているのである。
 
 

 
 一つ一つ創っていくという地道な活動だが、
 積み上げていって減ることはないのだから
 この活動が続く限り「増え続けていく」ことは間違いないのである。
 

★現在、吉田純一さんは一般社団法人日本二輪車文化協会を設立されて、
 日本の「二輪車文化推進」を先頭に立って引っ張られているのだが、
そんな永年の地道な活動を国も評価して、
吉田純一さんは二輪業界で初の旭日小綬章を受章されたのだが、
そんな活動の中の一つに「オートバイ神社設立推進」がある。

 

 


その活動の目的は、
■ツーリングライダーの拠点となる全国オートバイ神社の認定
宗教的な目的ではなく、ツーリング拠点として、地域活性化にも貢献し、

その理念
オートバイ神社はツーリングライダーのランドマークとして、
今後各都道府県に1箇所以上設立を推進し、
昨今増えつつある海外からの観光ライダーに、バイク生産王国日本の良い所を旅して頂き、観光立国を目指す我が国の一助になることを目指している。
と書かれている。

 日本二輪車文化協会のホームページに、いろいろ書かれているので、
 是非、目を通して頂きたいと思っている。
 

 
 
★1昨日のゴルフの間には、こんな「オートバイ神社」の話になって、
 さらに「川崎神社」の話になったのである。

 川崎重工業の明石工場の中に「川崎神社」という立派な神社があることを、
 どれくらいの方がご存じだろうか?
 ひょっとしたら明石工場にお勤めの現役諸君の中にもご存じない方がおられるかも知れない。

 この「川崎神社」はずっと昔からあったのだが、
 1990年代の高橋鐵郎本部長の時に今のような立派に周辺の整備もされたのである。

  

 



 

 私はずっと以前から、この川崎神社が「オートバイ神社」の一つになって頂けないかと思っていたのだが、
 思っているだけでは、どんどん時だけが経ってしまうだけなので、

 昨日は吉田純一さんと「ほんとに何とかならないかな?」という話になったのである。

 以下は私の勝手な思いだが、「川崎神社」は川重の明石工場の中でも
 こんな立地にあって門のすぐ横なのでちょっと垣根を作るぐらいで、
 工場には関係なく、国道2号線からすぐ入れる最高の立地なのである。
 もし一般バイクユーザーが自由に入れるようにすれば、
 それだけでもカワサキユーザーにとってみれば一躍名所になるであろうし、     
 それをオートバイ神社の一つとしたら
カワサキユーザー」だけでなく「世界のバイクユーザーの名所」になるのでは、とこんな話だったのである。

 

 




★たまたまだが、今年10月1日から、
 カワサキの二輪部門は川崎重工業から分離して「株・カワサキモータース」と分離独立したので、
 上記のような発想にも「従来よりはより自由に決定できるのでは」
思ったりしているのである。

 思っているだけでは、絶対に前に進んだりはしないので、
 何か行動をしないといけないのだが、それをどうすべきか?
 簡単なようだがなかなかムツカシイのである。

 昨日は吉田純ちゃんとそんな話もしていたので、
 まずは、ブログにでももう一度アップしてみようかと思ったわけである。

 
 
 



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特別なZ1会だった

2021-11-11 06:58:01 | カワサキワールド

★毎年は年に4回あるZ1会なのだが、
 今年はコロナ禍で最初で最後の第78回Z1会コンペだった。

 今日のパートナーはZ1会副会長の丹波さん吉田純一さんで、
 ゴルフのスコアは兎も角「めちゃ楽しい」ゴルフだった。

 これはゴルフの途中に吉田純ちゃんが、ご自身のFacebook にアップした写真だが、
 こんな3人でのゴルフだった。

 

 
 コースはいつもの通りの「三木セブンハンドレッド倶楽部
 コースから私の住んでいる町「緑が丘」が見える、家から15分のコースなのである。
 写真に見える山「雄岡山・雌岡山」は「おっこさん・めっこさん」と呼ぶのだが、そこは三木ではなくて神戸市なのである。
さらに向こうに見える山は、山ではなくて淡路島なのです。

 



★昨日のZ1会が私にとって特別だったのは
 ゴルフの後の表彰式で私の米寿のお祝にこんな花束と

 


 
 こんな記念ボールを頂いたのと
 

 

 
 何よりもZ1会会長の大槻幸雄さんから
 身に余る「祝辞」を頂いたことなのである。

  


そんな祝辞の中で、大槻さんは1960年代のカワサキ単車のスタートの時期のことに触れられて、
アメリカ市場は浜脇洋二さんが開拓されカワサキを引っ張ったが、
国内市場をひっぱたのは古谷だ」と仰って頂いたのは、
 私にとってこれ以上ない感激だったのである。

そんなことで私も答礼のご挨拶の中で1966年カワサキの初めての鈴鹿ロードレースのことなどをお話したのだが、
 
 それまではモトクロスだけであったカワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、
 1966年5月でライダーは山本隆だったのだが、
 この時は会社には内緒で出場したのだがホンダ・ホンダ・カワサキと山本隆がホンダに次いで3位入賞したので、カワサキも正規にロードレースに参戦することになるのである。
 それは翌月の6月にカワサキ正規のロードレーサ3台を用意し
 「6時間耐久レース」に正規に3チームが参戦したのだが、
 その時の監督が大槻幸雄さんで、
 因みにその時神戸木の実チームのコンビが歳森康師・金谷秀夫だったのである。
 
 現在のZI会のメンバーの中にはそんなこともあって、レース関係者も多く、
 清原明彦・多田喜代一・塚本昭一など有名ライダーもいるし、
 カワサキフランスのオーナーだった遠藤治一さんもいるのである。
 
 ちなみに優勝者はその遠藤治一さんだったのである。

  

 
 私の88歳の人生の中でも
 花束など頂いたことは極く稀な出来事で、ホントに嬉しかったのである。

 
 

★ 今年は今回の1回だけだったが、
 来年は4月・6月・9月・11月の年4回に戻るだろうし、
 ぜひ来年も頑張って、参加したいと思っている。
 

 
 

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Kawasaki Let the Good Times roll と 私

2021-10-04 06:09:43 | カワサキワールド

★ 10月1日、川崎重工業から分社化し、
 『新会社カワサキモータース』が発足した。

 1960年当時の川崎航空機工業が明石工場の中に『単車の一貫生産』をスタートさせたのが、カワサキの『二輪事業のスタート』だが、
それからほぼ60年の年月を経ての新会社の発足なのである。

 1960年のスタートの時期に、新しくできた単車営業部に配属された者として、本当に感慨ひとしおなものがある。

 この60年間、カワサキの二輪事業はそんなに順調な時代ばかりではなく
 むしろ『難しい時期』の連続だったのだが、
 1990年代に入ってようやく事業の安定をみたのである。
 
 その間、川崎重工業の多くの事業の中で末端・民需・大量生産事業として
特異な存在であったのだが、
 今回の分社独立はご同慶の至りなのである。


★ スタートから約40年間、私自身はカワサキの二輪事業一筋に担当してきたのだが
  個人的に秘かにそのベースにあった基本コンセプトが
  Kawasaki  Let the Good Times roll !   だったのである。

 これは1975年頃アメリカのKMCで採用されたコンセプトで
 当時のKMC社長浜脇洋二さんのその報告会に出席したのだが、
 その時は私は国内担当だったのだが『これは素晴らしい』といたく感動したのを鮮明に覚えている。

 このコンセプトはアメリカのカワサキだけで使われたもので、その後数年で消えてしまっていたのである。
 それから20年近い年月が流れて1990年代に国内のKMJで、このコンセプトを私が復活したのである。
 あの時国内市場で復活しなければ、このコンセプトが世に残ることはなかったに違いないのである。
 
 これは当時の明石のショールームに展示されていたものである。
 こんな風に言ってるが、スタートの発想がアメリカなので正規の日本語訳は存在しない。
 
  


 当時のKMJの社長であり単車事業本部長であった髙橋鐵郎さんが、
 それを『世界のカワサキ二輪販社での展開』とし 
 田崎雅元さんが川重社長の時には川﨑重工業のコンセプトにもなったのである。

 それが川重社長が交替して一時消えかけて非常に心配した時期があった。
 もう10年も以上も前の話だが、髙橋鐵郎さんとも相談して、
 NPO法人The Good Times を創ってそのコンセプトだけでも世に残そうとしたのである。


 私にとっては、そんなにも思いつめた時期もあったコンセプトなので、
 今回、新会社カワサキモータースの基本コンセプトとしてこのように大々的に採用されたことは非常に嬉しいことなのである。 


★二輪事業はスタートの時期、国内市場では苦難の時期が続いたのだが、
 ● 若し アメリカ市場がなければ
 ● 若し Z1などのカワサキ独特のスポーツバイクがなければ
 ● 若し Let the Good Times roll のような楽しいコンセプトがなければ

 現在ある独特の『カワサキイメージの創造』はなかったと思っている。
 
 

★今回の新会社は、
 こんな『楽しんじゃえ宣言』という形でのスタートとなった。

 このバイクにまたがってるのが新社長の伊藤浩さんだが、

 
  

 Kawasaki Let the good times roll  がそのメインコンセプトになったのは
 何よりで、私にとっては何物にも代えがたい感慨深いものがある。


★ これは数年前『カワサキアーカイブス』制作時に
 『後輩に送る言葉』と言われて 
 この時私が語った言葉が Kawasaki Let the Good Times roll だったのである。





       
       
私にとってこのコンセプトはカワサキの二輪の歴史と共に歩んできた『基本コンセプト』なのである。

 そう言う意味で、今回の『カワサキモータース』の新社長伊藤浩さんに本当に感謝なのである。
 
 これで Kawasaki  Let the good times roll はもう消えてしまうことはない。
 当時のKMC社長だった浜脇洋二さんもきっと喜ばれるに違いないのである。

 
 


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双翼の日の丸エンジニア  百合草三佐雄さんのこと

2021-08-03 07:20:45 | カワサキワールド

★昨日、こんな『双翼の日の丸エンジニア』という
元産新聞新聞記者・戸津井康之さんの書かれた本が
発行所の株・学研から 何故か私宛に送られてきた。

 

 この本の発行日を見ると『2021年8月1日』とあるから、
 その本の発行日に送られてきたのである。



   



本の内容は『百合草三佐雄』と『葛城衛』という二人のエンジニアの物語なのである。


本の内容を読んでみると前半が『百合草三佐雄』さんについて書かれていて、
彼の少年時代から川崎航空機・川崎重工業時代のことが書かれているのだが、その中心は『カワサキの二輪時代』のことが非常に詳しく書かれているのである。

 百合草三佐雄さんは1935年3月2日生まれらしいが、
 私は1933年3月2日生まれで、奇しくも誕生日が一緒なのである。
 私より2歳年下で、川崎航空機には昭和35年(1960)年の入社だが、
   カワサキが二輪事業に本格的に参入したのがこの年からで彼は入社早々カワサキの単車事業部技術部に配属されたのである。
 私は昭和32年入社なのだが、初めて創設された『単車営業課』に異動したのが昭和36年(1961)なのである。

この本そのものは『百合草三佐雄』について書かれているのだが、
単車事業スタートの時期のことから、航空機事業本部に異動するまでの
1960年から1991年までの約30年間単車事業にいて
この間のカワサキ単車のことが非常に詳しく書かれている。
カワサキの二輪車で言えば最初の125B7からZEPHYRまでの時代になるのだが、
A1とZ については彼は実験研究関連を担当していて、密接にその開発に関わっているのである。


★でも、なぜこの本が『私のところに送られてきたのか?
 
 私も百合草さんとほぼ同じ時期を川崎重工業で過ごしているのだが、
 会社ではいろんな人たちとの出会いもあり、一緒に仕事をする機会もあるのだが、
 ほんとにお互い『信頼し合っている関係』というのは意外に少ないのかも知れない、
 『私と百合草さん』との関係はまさに『お互い信頼関係』で結ばれていて、
 彼は技術屋、私は事務屋だったのだが、不思議なほどいろいろと直接関係があって、
 私が一番信頼し合って密接に仕事をした仲間は『百合ちゃん』だったのである。
私の方が年齢的にちょっと上だったので、常に『百合ちゃん』と呼んでいたし、今会っても同じように『百合ちゃん』と呼べる仲なのである。
 

★そんな『百合ちゃん会社での人生』を一番変えたのは、
 彼が技術屋乍らアメリカKMC販売会社の社長をしたことかも知れない。
それは彼の単車での最後の仕事となったのだが、
この人事を決めたのは当時業本部の企画室長をしていた私であることは、間違いないのである。
 その時のことが本の中にこのように書かれている。



     

   

 

 この本に私の名前が登場するのは、この2ページだけなのだが、
 この本を読んでみて非常に正確にカワサキの単車事業の進展状況が描かれている。

上のページにも『カワサキが生きるか死ぬか』の大変な時代であったとあるが、
まさにその通りで、それは単に『カワサキの単車事業部』だけではなくて、川崎重工業本体を揺るがす危機だったのである。
それを救ったのは500億円もの財務支出を本社財務部が行い、
販社KMCの増減資などの財務対策であったために、
単車事業本部の殆どの人がそのことをご存じないのである。

この本の中には『川重本社からの指示』などといろいろ出てくるのだが、
それは『単車事業再建』に500億円の資金を動かした本社財務本部が当時の事業本部の経営に色濃く参画していたからで、
その本社対策の窓口を担当したのが、当時企画室長をしていた私なのである。

上のページに記されている『100億円の累積赤字』もその大きな対策の後KMCも本社も何とか正常に動きかけた後の『後始末の100億円』なのである。
こんなことが書けるのは、ひょっとしたら今では私だけかも知れない。



         


★カワサキの二輪事業について、興味・関心のある方やカワサキ・ファンは
是非この本を読んでみて欲しい』

 『百合ちゃん』と私は親しく呼んでいるが、
 彼は航空機事業本部に異動して後、
 川崎重工業の常務取締役を務めている。
 そんな百合草三佐雄が語ったことを、元産経記者の戸津井康之さんが纏めているのである。
 
 そこには二輪事業スタートから30年間、
 苦難の道が続いた30年間のいろいろなことが非常に正確に書かれている。
 この期間私は事業展開の中枢の中にいたし、『カワサキ最大の危機』の時期には事業の中枢企画室を担当していたのでよく解っている。

 今までもカワサキのことを書いた本も出版されてはいるが、それは極く短い時期のことで、
 今回初めて30年間の長きに亘ってのいろいろなことが、
百合草三佐雄の人生』として纏められているのである。

 カワサキの二輪事業が本当に安定したのは90年代のZEPHYR・Ninjyaの時代からで、その時期は私は国内市場を担当して『7万台の販売達成』に携わっていた。
その時期は百合ちゃんは、航空機事業本部を担当していたのだが、私とは個人的に密接に繋がっていたのである。


★ こんな本が出て、「カワサキの二輪事業」が正確に詳しく書かれているので、
より『広い範囲』での『カワサキの二輪事業』の当時の状況を纏めてみようかなと思ったりしている。

私の手元には1960年から40年間の『カワサキ二輪事業』の詳細かつ精密な資料がある。
この『双翼の日の丸エンジニア』に書かれて紹介されている事柄をさらに客観的な立場で纏めてみようかなと思っているのである。


  
 


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カワサキバイクマガジンと大槻幸雄さん

2021-07-31 06:50:37 | カワサキワールド

★ 『カワサキバイクマガジン』が送られてきた。
 通巻151号にもなっているので創刊号以来20年以上にもなるのだが、
 最近ますます綺麗に立派になったし、記事も充実していると思っている。

 
 今月号の表紙だが『驚異の過給機』とあるので、
 私の不得手な『技術の分野』だなと思いながらページをめくったら、


 



  突然『大槻幸雄さん』が現れたのである。
  そして、そこには若い頃の大槻さんの話がでてきて、
  それはまだ川崎航空機工業時代のことなのである。
  ジェットエンジン株式会社(NJE)のことなどが書かれていて、
  大槻さんはそのNJEに5年間出向されていたのだが、
  昭和33年(1958)に川崎航空機に復職されるのである。

  その時私は川崎航空機の財産課にいて、
  大槻幸雄、井出哲也さんお二人の机と椅子を都合したので
  『よく覚えている』のである。



 



★復職されて以降、大槻さん、井出さんともご縁があって、
 期のファクトリーレース・チームを立ち上げたりしたのがお付き合いのスタートなのだが、
 大槻幸雄さんとは不思議なご縁で、今も尚いろんなことで直接繋がっているのである。


 カワサキバイクマガジンには、大槻さんがレースチームから離れて
 技術部に戻られてからのZ1開発の話などが書かれているが、
 当時からガスタービン・エンジンについては大槻さんは特別な思い入れがあって、

 この雑誌でも紹介されている『カワサキガスタービンエンジン』は、
 大槻幸雄さんの若い頃の『純粋な情熱』が創り上げたものだと言っていい。

  


 それは簡単なことではなかったのである。
 『大槻さんの情熱』が会社を動かしたのだと言ってもいいと思う。


 私は当時の『若い頃の大槻幸雄』さんとはレースの世界でホントに身近にいたので、いろんなことをよく解っているのである。

 常に『世界一』を目指し『打倒ホンダ』などとちょっと普通では言えないようなことを仰るのが、大槻さんなのである。


 この『純国産ガスタービンエンジンの開発』は2011年が初版だから、
 退職されてから出版された本だが、私の手元にも記念に1冊持っている。

 中味は私など技術に弱い人にはムツカシイ内容だが、
 ここでも『大槻さんの情熱』は感じ取ることが出来る。


   


 
★ 大槻さんと言えば『Z1』だが、
       今年はその『Z発売・40周年』になるのである。

     

 
 大槻さんも90歳を越えられたが、まだお元気なのである。
 大槻さんもお元気だが、Z1もまだまだ現役なのである。

  コロナがもう少し収まったら、

 是非『Z40周年記念イベント』をと
 KAWASAKI Z1 FAN CLUB が構想を持っているのだが、
 果たして、実現することが出来るだろうか?

  若し、実現すれば大槻幸雄さんには是非ご出席をお願いしたいし、
 『カワサキバイクマガジン』にも是非取材をお願いしたいと思っている。


 
 
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新会社 カワサキモータース株式会社への期待

2021-07-18 06:34:43 | カワサキワールド

★昨年11月に発表された『カワサキモータース・新会社』設立は今年の秋にもスタートすることになるのだろうが、
 川崎重工業の社内報『かわさき』に橋本康彦川重社長と新会社を担当することになった伊藤浩社長対談記事が載っていた。




 

 

 カワサキが二輪事業をスタートさせて60年、
 やっと二輪専門会社として独立出来ることになったのは非常に喜ばしいことだと思っている。

 世界に販売会社を展開し、開発・生産・販売の総合事業を展開する『二輪事業』なので、ホンダ・ヤマハ・スズキという競合他社と戦っていくためには、
同業他社と同じような組織体制であるべきとずっと思っていたのだが、やっとそれが実現できることになったのである。
橋本社長の英断に拍手である。

川崎重工業の中での体制ではなかなかそれもムツカシイ面もあったのだが、
新会社では『本社機能の充実』も『マーケッテング重視』も図られるであろうし、今後の発展に大いに期待が出来るのである。


★新しい新会社を担当される『伊藤浩』さんとは面識もあるのだが、
 新会社の運営の基本コンセプトをこのように語られている。


 
 


 『新会社のミッションを「Let the good times roll」「Kawasakiに関わる人全ての喜びと幸せのために」とするつもりです。お客様、デイ―ラー、社員、取引先をはじめ関わっているすべての人がうれしい、楽しい、良かったと思え、その結果をきちんと業績として出せる会社にしていきます
と語っている。

 
★『Kawasaki, Let the good times roll 』というコンセプトは
 1975年アメリカのKMCでスタートしたのだが、
 その後長く眠っていたものを1990年代に国内販社で復活し、
 当時の事業本部長の髙橋鐵郎さんが、全世界の販社でも展開されるようにされたものである。

 今回の新会社のミッションとして採用されることは、1990年代に国内販売網を担当していた私にとっては、この上ない喜びなのである。

 以下は1990年代のデーラーミーテングでの資料だが、




  


二輪もジェットスキーなど、新会社が担当する商品はテレビや冷蔵庫などとは違って
広く社会の中』で一般の方々とも出会う商品なのである。
 
 新会社の企業運営の視野は、『二輪の仲間』だけにとどまらず、
 社会全体を見据えた『総合的な仕組み構築』をぜひ目指して欲しいと期待しているのである。


 
 
 
 
 
  
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KAZE の 仮説と仕組み   雑感 

2021-06-30 07:14:12 | カワサキワールド

★ KAZEの機関誌・276号が送られてきた。
 私はいまも 現役のKAZE会員 なのである。
 
Kawasaki Amusing Zone for Everybody  その頭文字をとってKAZEという
 
当時の各社のユーザークラブはHART も YESS もそうだったし
カワサキの正規特約店ARK (Authorized & Reliable shop of Kawasaki)
と言ったりしていた。
そんな言い方が流行った時代だったのだろう。



 KAZEARK も私が国内担当時代のスタートだが、
 それは1988年のことだから33年も前のことなのである。 



      



今月送られてきたKAZEの機関誌は、
若い頃・仙台で東北6県を担当してた頃の『三陸の海岸』や『蔵王の山々』などの想い出いっぱいの記事が載ってたので、
何となく現役時代を思い出したのである。






 特に蔵王は山形県側でモトクロスがあって、
 山本・歳森・岡部・梅津・星野たちと この蔵王の道を走ったので、
 本当に懐かしいのである。





★33年経つとKAZEの機関誌も立派になるものである。
 今は全てのページがカラーになった。

 1988年の一番最初は、こんな立派な機関誌ではなくて、
 寄せ集めのバラバラの記事を封筒に入れて当時の特約店ARKに送ったのが最初なのである。

 当時はHART やYESSなど各社にユーザークラブもあったのだが、
 いま残っているのはKAZEだけなのである
 
 なぜ、KAZEだけが残ったのか?

 『年会費3000円を頂く会員カードは、JCBカードとの提携にしよう』という私自身の発案が寄与しているのは間違いない。

 なぜ、そんなことを考えたのか?
常に仮説と仕組み』で物事を考える私の発想によるものだが、
 それはどんな仮説だったのか?
 
  当時、ホンダさんのHARTは、公称10万人の会員と言われていたのだが、『そんなにいるはずはない』と私は思っていた。

 年会費を取る限り、1年後には必ず期限が来る。
10万人も会員がいたら1ヶ月に1万人近い会員の期限が来るのだから、
その月に1万人を集めない限り10万人は維持できないはずである。
そんなことは如何にホンダさんと言えども無理だ と思ったのである。

 後でお聞きしたらHARTの会員の『延べ人数』だったのである。

 KAZEの会員カードをJCBカードにしたら
止め難いはずだ』という仮説でJCBと提携をしたので、
 カッコよさもあったが、実質的な会員確保対策だったのである。


その後の実績は、期限が来ても止める人は10%で、90%は自動更新だったから、実質的に最高55000人まで増え続けたのである。



   
   



★ 私の物事に対する取り組みは常に『仮説』からスタートして
 『仕組みで仕上げる』ようにしている。
 
 33年前のユーザークラブKAZEの発想もそんな仮説と仕組みで成り立っている。
 今は何人の会員さんがいるのだろう?
 その機関誌も立派にはなったが、基本的な仕組みは33年前と一緒で、
新しい機能』が入っていないのは残念である。


 このスピードあふれる『ネットの時代』に
 現在の二輪の販売網も、販売方法も、KAZEの機能にも、
 もう少し『ネットの力』を利用することが出来ないのだろうか?

 KAZEの会員さんは『for Everybody』で『for Kawasaki』でもないし、
 別に二輪車を持っていなくてもいいのである。
 だから『88歳の私』でも現役会員になれているのである。

 『ネットの力』を利用したら、
 よりオモシロい二輪業界になるのにといつも思っているのである。


 
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福井昇くん と さくらんぼ

2021-06-28 06:42:20 | カワサキワールド

★ 福井昇くんがやってきて、
 こんな立派な本場山形の『さくらんぼ』を頂いた。


    

 

 こんなに立派な、綺麗な『さくらんぼ』である。
 
 


  福井くん 『ありがとうございました
  『さくらんぼ』など昨今滅多に口にすることはない。


  
★ところで、1985年当時の話だからもう40年も前の話だが、
 Jet Ski はカワサキの単車事業部の商品ではなくて、
 発動機事業部がエンジンを開発・生産し、
 アメリカのリンカーン工場で生産し、KMCが販売をしていたのである。

 それを何とか単車事業本部の正規商品にしようと当時の単車事業部の企画室にいた私と武本一郎さんとで動きかけたのだが、
 当時の単車事業本部にはジェットスキーに乗れる人も、乗ったことがある人もいなかったのである。
 そんな時代に国内で、ジェットスキーのレースに出場していたのが発動機事業本部にいた福井昇くんなのである。
 その福井昇くんを発動機から単車に貰い受けて、欧州市場などの開拓をスタートしたそんなご縁なのである。

 さらに国内市場でのJS専門販売店を創るべく、
 福井昇くんが川重を退社して『JS Plaza 明石』を設立し、
 カワサキJS専門店第1号となってくれたのである。
 
 現役時代は販売網に関してはいろいろと密接に絡み、私の専門分野でもあったのだが、
 JS販売網については、国内でも欧州でも最初のスタートだったので、特に当時の想い出は懐かしいものがある。



★ その後福井くんとは、ソウルのオリンピック開会式当日のソウルの漢江でのデモンストレーションの時も一緒だったし、


      


 

退職後立ち上げたNPO 法人The Good Times でも理事で参画してくれたのである。

  




めちゃ多趣味で、ミニSLなども自宅に線路が敷いてあったりする。
これは福井くんと一緒にカワサキワールドに提言して実現した
カワサキワールド主催の『ミニ鉄道フェスタ in 神戸メリケンパーク』での福井昇くんなのである。


   
      
 


★ ところで我が家にも『さくらんぼの樹』はあるのだが、
  実が付かないのである。


   


  閑に任せて『福井昇くんのFacebook』を眺めていたら、
  こんな立派な『さくらんぼの樹』をお持ちなのである。
 我が家の『さくらんぼ』と違って実がいっぱいである。
 


  
 
  
 
 調べてみたら『さくらんぼ』は『1本では実が付かない』というので、
 早速、園芸店でもう1本買ってきて鉢植えにした。 
 
 来年の春の話だが、一応は樹が2本になったので、
 我が家の『さくらんぼ』も来年は実が見られるかも知れないのである。 


    


 これも、福井昇くんから『さくらんぼ』を頂いて、
 そのお宅の『さくらんぼの写真』を見て
 そんな気になったのである。

 そういう意味でも『本当に福井昇くんありがとうございました。



 
 
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カワサキのOB会・慶睦会

2021-06-18 06:57:55 | カワサキワールド

★『慶睦会』とはカワサキの二輪事業の国内のOB会である。
 現在は関西と関東にそれぞれ存在している。

この『慶睦会』のスタートは多分1993年だと思うが、
OBであった前社長の田中誠さんに頼まれて、
当時国内販社を担当していた私自身が起案したものである。

カワサキの国内の二輪事業はカワサキオートバイ販売(現在のKMJ)が担当していたのだが、
そのメンバーたちは旧メイハツやメグロの人たちも多かったし、
カワサキオートバイ販売の定期採用者も川崎重工からの出向者もいて、
非常に複雑だったのである。

それで私が立案した『カワサキOB会』への入会の権利は、
1日でも会社に在籍した人は権利あり』としたのである。
これは30年前の時代では非常にユニークだったと思う。


★『慶睦会』もご多分に漏れず、昨年と今年はコロナで中止だが、 
先日送られてきた『慶睦会の名簿』の会員は関西で80名ほどいるのだが、
この会社で『定年退職』した人よりは、『途中退職』した人の方が多いのである。
私自身がこの会社は川重から2度出向して『延べ20年』ほど勤めているが、
定年退職した時は川崎重工に戻っていたのである。
 

ただ、このコンセプトについては『現役諸君がどの程度理解して運営しているのか?』 ちょっと疑問なのである。
というのはメンバーに『女子が1人』だけしかいないのである。
その女子を登録しているのは私が国内を担当していた当時なのである。

このOB会に『女子会員』がもっと増えると、会はより楽しくなるのではと思うのである。


この写真は関西ではなく関東の『2017年の慶睦会』なのだが、
こちらの方は私が立案した『1日でも在籍したら権利あり』というコンセプトが守られていて、
2列目の真ん中にいる3人の女性たちは『旧メイハツ』に在籍していたそうで、
私の右の方もメイハツ当時の在籍で90歳を超えておられて、
どちらも初対面だったのである。
 




 
 

★スタート当時は、『各地に幾つあってもいい』ということで
博多にも仙台にもあったのだが、今は東京と明石だけになってしまった。


ネットで『慶睦会・雑感日記』と画像検索するとこんな写真がずらりと並ぶ。
懐かしい人いっぱいだし、
Facebookで毎日お会いしている吉田純ちゃん関初太郎さんも載っている。
みんな定年退職者ではなくて『途中退社』なのである。







★ 普通一般に企業のOB / OG会は、定年退職者の親睦会として大手企業を中心に運営されているのが普通だが、
昨今では定年退職者だけでなく中途退職者も対象とするOB / OG会が増加しているようである。

慶睦会は30年前のスタート時点で既に『中途退職者も対象』にしていたので、
そういう意味では『先見の明』があったと言えるのかも知れない。


現役の諸君で若しこのブログをお読みになったら、
慶睦会』は『1日でも在籍したら権利あり』という当初のコンセプトを思い起こして、
女子社員がいっぱい出席する楽しい会にして欲しいと思うのである。


 
 




 


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カワサキワールド 15周年

2021-06-12 06:28:53 | カワサキワールド

★カワサキワールドが15周年だそうである。
 社内報『カワサキ』の表紙を飾っている。

 この『社内報』はカワサキワールドから我が家に送られてきた。


 



 カワサキワールドは2006年5月のスタートだが、 
 この構想を起案し実現したのは当時の川重社長田崎雅元さん個人なのである。
 田崎さんの話によるとひょんなことからこの話は実現に至ったらしい。
 
 そんなカワサキワールドが毎年行っている『ミニSLフェスタ』はもう何年になるのだろう?
  川重会長だった田崎さんに『ミニSLフェスタ構想』を持ち込んだのは、実は私なのである。
 元々は鉄道マニアでもある福井昇くんのアイデイァなのだが、
 田崎さんは即動いてくれて、翌日に二人で神戸市にこの構想を持ち込んで、
メリケンパークの借用が実現したのである。

 

 

 

 そんなこともあって、このイベントのスタートの頃は、
 毎年参加していたし、田崎さんと一緒にミニSLに乗ったりしている。


 



 そのほかにも KAWASAKI Z1 FAN CLUB のメンバーが春には
 カワサキワールドで集まる催しをやっていて
 これは2019年の春だが、田崎さん山本隆平井稔男さんほか
 結構、二輪業界の有名人たちが顔を揃えているのである。


 


 これはその日にカワサキワールドを語っている田崎さんだが、

     


 その日のことこんなブログにアップしている。
   



★ 田崎さんとは単車の現役時代いろんなことを一緒にやった仲間で
 私のブログには度々登場している仲なのでこんなブログもアップしている。

『カワサキの二輪事業と私  田崎雅元さん』


川崎重工業社長時代に、彼でないとできなかったことがあるとすれば、
それは神戸の『カワサキワールドを創ったこと』だろう。

私自身も何故かいろいろとカワサキワールドにはご縁があって、
この1.2年はコロナで行っていないのだが、

来年はZ1 50周年に当たるので、
KAWASAKI Z1 FAN CLUB は出来れば『カワサキワールド』で記念行事を行いたいと言っているのだが、果たしてどうなることだろう?
 
大槻幸雄・稲村暁一・田崎雅元さんなど当時のカワサキ単車事業本部の仲間たちも是非参加して欲しいと思っている。



 
 

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5月・泉州水茄子・株忍者の伊藤彰さん

2021-05-29 06:39:39 | カワサキワールド

★ 毎年5月の今頃、泉州の水茄子が送られてくる。

  もうずっとずっと前、私が現役の大阪時代にお付き合いのあった
  株忍者の伊藤彰さんからである。
  昭和46年当時、まだ西暦など世の中では使わなかった1971年の頃だから
  もう50年も昔のお付き合いなのである。
  カワサキが業界に先駆けて二輪の専門販売店網を敷こうと
  『カワサキ共栄会』なる組織を作った当時の中心メンバーなのである。

  ただ、その時代だけのお付き合いだったのだが、
  50年経った今も、何のお役にも立っていないのに、
  毎年ご丁寧にいろいろと気を遣って頂けるのである。


  『想い出を共有する人』を『仲間』という。
  伊藤さんとも当時の『共有する想い出』だけはいっぱいなのである。
  そういう意味では『仲間』の中でも最右翼の仲間かも知れない。



   こんな懐かしい写真があるが、
  右の最初のお店も、左の当時新しくしたお店も 
  その当時は、私も密接に関係はあった。

  店名も株・忍者ではなく、『伊藤モータース』だったのである。

  看板がテントだったのは、当時でも伊藤さんのお店だけである。
  ご覧のような昔のお店で『看板』が掛けられなかったのだが、
  カワサキはテント屋とは関係なかったので、
  このテント屋さんは伊藤さんがご自身で見つけてきた
  これは伊藤さんがそのように記述しているのである。


   



 今のお店も場所は同じだが、こんなに立派に様変わりなのである。


 


 このお店は写真だけで、私は行ったこともないのだが、
 50年経つと本当に立派になるものである。

 現役時代、国内の二輪の販売網関係を担当したお蔭で、
 全国に『想い出を共有する仲間の販売店』が数多くあるのが
 私の財産なのかも知れない。


★ ところで泉州の水茄子、ご存知ですか?

  これは昨年の写真ですが、
  
   


 これが昨日送られてきたものです。

 



 『食通が求める究極の一品』とあるが、
 このように丹精込めてつくられたものなのである。


 



 現役時代は、実は知らなかったのだが、
 退職後、伊藤さんに贈って頂くようになってから『知った味』なのである。


 伊藤さん、ありがとうございました。
 彼ももう幾つになられたのだろう?
 株・忍者のホームページの冒頭の写真だが、

  
  


 多分、伊藤彰さん、ご本人に違いないのである。
 今でもバイクに乗って、全国をかけ巡ってるようである。


 
 
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カワサキ・ノスリス  雑感

2021-05-24 06:16:05 | カワサキワールド

★久しぶりのカワサキ二輪の話だが、
 それが二輪車ではなくて三輪車で、電動車なのである。

 昨年の9月にはTwitterに『noslisu(ノスリス)公式アカウント』が登場している。

 ノスリス公式ツイッターはこちらです。

 


 
 今年の1月には、キヨさんと吉田純ちゃんが登場したりしているのだが、







 ごく最近、二輪車新聞にこんな記事が出たので、
 オモシロそうなので、私なりにちょっと調べてみたのである。

 


    




★ このプロジェクトは川崎重工の「ビジネスアイディアチャレンジ」の約100件のアイディアの中から第1号案件として選ばれたという。
これは社内に眠っている事業アイデアの発掘・活用を目的としたものである。


この5月12日に
アシストタイプが27万円
フル電動タイプが32万円で発表され

  
  
  


 5月12日からのテスト販売開始を
 Makuakeのクラウドファンデイングサイトを使ったことに大拍手である。
 


 


 それが即日完売の大成功 なのである。


  



 商品もカワサキらしくなくてユニークだが、
 その販売方法が『クラウドファンデイング』とはこれもカワサキらしくない。
 商品に盛り込まれたコンセプトも新しいが、
 何よりも販売方法がユニークなのがいい。
 新しいカワサキのイメージ創造に繋がると思う。

  

 
 カワサキらしくないユニークな製品
 カワサキらしくないMakuakeのクラウドファンデイングでの試験販売
 だったのがいい。
 
 
★これも二輪車新聞の記事からだが、 
 今回の販売はコレで終わりで一般販売は来年度のようだが、
 

  



 是非、本番の販売方法も『従来の販売方法』に捉われない
 ユニークで新しい形のものであって欲しい。

 この秋にはカワサキの二輪事業も独立会社で新しくスタートするのだが、
 このプロジェクトは是非『新しいカワサキの目玉』になって欲しいと思っているが、
 果たしてどんな展開になるのだろうか?

 

 

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