雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の人生、川の中から始まった?

2010-06-19 04:00:16 | 自分史

★皆さん、幼児期の思い出、最も旧いものは何ですか?
ちゃんと覚えておられますか?

私の記憶で一番旧く一番鮮明に覚えているのは、
『私の人生の始まり』とも言える記憶は、
今の韓国のちょうど真ん中辺りに位置する、『大田の川の中』から始まっている。

お隣の竹内さんのお兄ちゃんと、家の直ぐ近くの川の中にいた。
鯉か鮒か、何かよく解らぬが魚を捕ったのか、捕ってもらったのか?
とにかく、魚を持って大喜びしたところから、私の人生はスタートしたのである。

成長してからも、魚が無類に好きで、ずっと魚釣りをしたり、家で熱帯魚を飼ったり、鯉を飼ったりしたのは、この人生のスタートの印象が強すぎるのかも知れない。


ただ、朝鮮大田の思い出は、これ以外はほとんど覚えていないのである。
『竹内さんのお兄ちゃん』と言っているのは、その後の勝手な推測で、私を川などに連れて行ってくれるのは、お隣に住んでおられた竹内さんの、年格好から言っても竹内さんのお兄ちゃんしか、想い浮かばないのである。
戦後、阪大か市大の教授になられたと聞いている。


★私は昭和8年3月2日、『明石市上の丸2丁目720番地』で生まれた。
当時、父母がそこに住んでいたのか、たまたまそこで生まれたのか、その辺はよく解らないが、そこで生まれたことはその後のいろんな方の話から間違いない。

今は明石の『魚の棚』(うおんたな)で有名になった、その直ぐヨコの細工町に屋敷があって当時はそこが本籍で、伯父たちもそこに住んでいた。上の丸は、別荘だったのである。
ひょっとしたら、その別荘の上の丸に、父母は住んでいたのかも知れない。
とにかく、祖父の遺言で、財産分けなどしていなかったようである。
伯父と父男は二人、妹の叔母と3人兄弟だが、仲が良かったのは子供から見てもよく解った。

私の本籍の住所は、上記の通りで免許証の記載もそう書かれているのだが、今はそんな番地は存在しないのである。
多分、当時の別荘の土地は2000坪か3000坪、前のテニスコートも入れるもっとあったのかも知れない。
それがすべて1つの番地だったのかも知れぬが、今はそこに、3~40軒ほどの家が建っていて、それぞれ番地を持っている。
戦後、一部は新しい道路にもなったりもしている。

小学校の頃は、夏、冬の休みに毎年朝鮮から帰省していたので、戦前の戦災にあう前の当時の様子はよく覚えている。
ただ、生まれてから大田に行くまでの、明石の記憶などは当然のことながら皆無なのである。


★そんなことで
私の人生のスタートは、大田の川の中から、突然始まっている。
前回もちょっと触れたが、大田には祖父が作った大田電気があったのである。


『大田の川の中から一挙に今のソウル京城』の経緯を前回ウロ覚えで書いたのだが、

それをちゃんとネットで調べて、教えてくれた人がいる。
大和屋嘉平さん、東京で部品
船の模型などのご商売をやっているNPO The Good Times の関東統括理事村島さんである。

その検索からは、いろんなことが解った。
どうも戦前の朝鮮での『社史』を造られた方がおられるようで、その記録がいろんな検索キーワードで現れるのである。

(その記述はいろんなキーワードの組み合わせで、いろんなものが現れる。やりかけるとキリがないので後に纏めておくことにする。)


★その記述からすると

昭和12年に朝鮮総督府の電気事業統制推進政策により、『南鮮合同電気』に統合合併が行われ京城にその本社が移った。
昭和12年、私が5歳の頃で、この統合があったので京城に移住したのだろう。

京城に移ってからのことは、何となく覚えている。
当時保育園や幼稚園があったのかどうか、私はどちらにも行っていない。
3月の早生まれで、7歳でいきなり小学校に入学した
そんなことで、私のトモダチの記憶は、それまでは誰もいない。
それまでに、遊んで貰ったという記憶は、『大田の竹内さんのお兄ちゃん』だけなのである。


★南鮮合同電気の本社が京城にあり、伯父が年に数回明石からやって来ていたので、その関係で、京城に移ったのだろう。
ただ、小学校時代、父はずっと無職で、通勤をしたりする父の姿は見たことがない。

絵はよく描いていた、趣味としては本格的だった。
書や絵の号を『素雪』と言った。
書は『橋本海関』絵は『橋本関雪』が師匠だと自慢していたから、多分素雪の雪は『関雪』さんから貰ったのだろうか?
橋本関雪の父海関は、明石藩士で遠縁に当たるらしくて、伯父の家にも、京城の家にも関雪さんの絵はいっぱいあった。明石の絵は戦災で焼けてしまったし、朝鮮に残してきた絵はどうなったか知る由もない。
今は父の戒名で『素雪居士』としてその名前だけが残っている。

書も、絵もそこそこのレベルだと言うことはよく解ったが、
『ヴァイオリン』は子供が聞いても、お世辞にも上手いとは言えなかった。
そんな父であったが、小学校時代、今の父親のようによく遊んでくれたと言うような記憶は全然ない。
あまり怒られたこともないが何となく一歩離れて父親を見ていたような気がする。

私が高校3年のとき52歳で亡くなった。
母はこの6月末もう直ぐ101歳の誕生日である。
父が早く亡くなったからという事ではなくて、私は父が好きである。

若し人生に悔いがあるとすれば、『父と話をする時間が少なかった』ことである。
多分、伯父とは、父との会話の3倍ぐらい『一緒にもいたし、話もした』のである。

★そんな小学校時代が今のソウルで、多分6歳のころから始まるのである。

それまでの、大田での私の記憶は、極端に言えば『大田の川の中』だけなのである。



(検索のまとめ)

●兵庫県 明石水力電気の重役だった古谷虎雄は渡鮮してすぐ忠清南道の江景で江景電気株式会社(創設:西島寅吉)の設立に動きました。

● 江景電気の社長になった古谷虎雄は忠清道の中心都市である大田の将来が有望であると考え大田電気会社の株を買い取り、大正9年 社長に就任しました 。

● 大正13年 社長の古谷虎雄が亡くなると息子の古谷脩一が後を継ぎました。 本社:大田府本町2丁目写真:

●昭和12年に朝鮮総督府の電気事業統制推進政策で大邱の大興電気(株)が朝鮮南部の大手6社を吸収合併する形で、大田電気株式会社と傍系の電気会社はすべて南鮮合同電気株式会社に吸収され消えることになりました。

●南鮮合同電気 取締役一覧会長 香椎源太郎(6千株) 社長 小倉武之助(7万株) 副社長 古谷 脩一(一万五千株) 副社長 上杉亥八(一万株) 常務 青柳八百蔵 (?) 大田電気常務 佐久間權次郎(?) 常務 樋口 虎三(一万株) 常務 増田 定吉

●南鮮合同電気株式会社の公称資本金は2165万円年内に増資して5000万円を予定し配電会社としては朝鮮で最大になります。

● 1945年9月 米国との戦争に負けた日本は米軍の出した帰国命令で総引上し、南鮮合同電気は韓国人の経営になりました。

などの記述が見つかりました。戦後どなたかが、どこかの電力会社の社史の編纂を手がけられたようです。


 

★ちょっと中断しているが『自分史』と言うカテゴリーをつくっている。

その自分史の3回目

『私の人生川の中で始まった』 

朝鮮の太田と言うところにいて、家の近くに川が流れていたその川でとなりのお兄ちゃんに魚をとって貰ったこと。

これが私の人生の一番旧い記憶なのである。

 

そのブログの最後に、太田電気など検索の記述などを記しているが、

最近になってSnippinng Tool

を覚えたので底の部分だけを、再度再現してみたい。

 

自分のことではない。生まれた時にはもうなくなっていた祖父のことや写真が載っているのである。

 

 

★祖父は大正13年に亡くなっているのだから、生まれるずっと前である。

古谷修一は伯父なのだが、未だ早稲田の学生だったか、卒業したばかりのころだったとか、父は未だ早稲田の学生だったはずである。

私は昭和8年生まれだが、出生地は明石の上の丸なのだが朝鮮太田には、生まれてすぐ行ったのだと思う。伯父は社長はしていたがずっと明石にいた。

太田のころは父も太田電気で何かしていたのだと思う。なぜなら会社の社宅に住んでいたのは間違いない。となりが竹内さん宅だったのである。

川で魚をとってくれたお兄ちゃんは、竹内清次郎さんの息子さんで、確か阪大の教授になられたとか聞いている。

太田での記憶は、そんなにぼんやりしたものだが、なぜか川での魚だけが鮮明に記憶にある。

 

 

★太田電気が南鮮合同電気に統合されたのが昭和12年とあるので、私が4歳のころである。

小学校に入る前に、太田から京城(今のソウル)に移ったのである。

多分、南鮮合同電気に統合されたので京城に移ったのだろうが、、京城では父は会社勤めはしていなかった。

 

 

★この記事によると南鮮合同電気の本社は釜山となっているが、 私が覚えている限り南鮮合同電気の本社は京城の半島ホテルのビルの中にあり、副社長をしていた伯父はの年に何回か京城に訪れて、その時は我が家に泊まったりしていた。

 

 

この資料によると伯父は15000株も持っていたようだが、多分父も株は持っていて、その配当などで暮らしていたのかも知れない。

この記録が正しいのかどうかはよく解らないが、ネットの中にちゃんと現れるのである。

私の記憶では、終戦時南朝鮮の電力会社は一つだったような気がするのだが、戦後に記述のような3社になったのだろうか?

本社が京城だったのはこれは間違いない。それに結構大きな会社だったはずである。伯父が明石から京城に来るときは新聞に人事往来が出たりしていた。

 

Snipping Tool 野お陰で、こんな検索サイトがコピー出来るようになったので、このまま

旧の『私の人生川の中で始まった』」の中に貼付することにしたい。

 










コメント (2)
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