雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

赤タンクのカワサキの時代

2010-04-25 05:09:29 | カワサキ単車の昔話
★カワサキがレース界に参入した黎明期、カワサキのモトクロスマシンのタンクは赤く塗られその上に『カワサキ』の文字のある独特のものであった。
誰言うとなく『赤タンクのカワサキ』と呼ばれるようになったのである。

そんな時代のカワサキライダーの山本隆君、60おじさんと当時のカワサキのレースの取材を28日にしたいとの雑誌社からの申し入れがあって、出席することになっている。
そんなことで当時の日記から、自分のために纏めようと思っている。

当時、ホントにカワサキの単車の初期のことだが。


★1962年、昭和37年

私が発動機営業の単車係に配属されたのは、前年の12月15日もことである。
まだ、125ccB-7の時代であった。まだ私も30才、独身であった。
その頃は、単車を事業として本格的にやるのかやらないのか定まっていなくて、職制変更が繰り返されていた。

3月1日に単車部業務課として発動機と分かれたと思ったら
4月1日には、発動機部が事業部制を敷いて
4月15日には、発動機事業部第二営業部単車業務課になったりした。

8月にはB-8の発売準備など進められた。

10月には、まだ建設中であった鈴鹿サーキットの看板広告の見学会などもあって、まだコースだけしか出来上がっていない鈴鹿を見たりした。
初めて聞くレーサーの爆音に驚いたりした。
勿論まだ、レースなどカワサキには関係はなかった時代なのである。

その時代にもすでに東京モーターショーはあって、カワサキも参加していた。
技術部や生産関係は人数もいたが、営業や管理は私を含めて3人ほどしかいなかった。

神田岩本町に『カワサキ自販』があって営業はここが担当、勿論海外や輸出などは始まっていなかった。
平井稔男さんなどは多分まだ近畿メイハツの所属だったのではと思う。


★1963年、昭和38年

この年の1月に発動機の管理課になっている。
名前は何度も変わっているが、やっていることは同じである。
ただ、非常に広範囲で、大げさに言えば企画、管理、広告宣伝、営業、物品税
などの事務関係の機能の単車に関すること一切をやっていた。

評判の悪かったB-7に代わって、この年からB-8が発売され、何もしないのに結構評判はよかった。

『5月19日、兵庫県青野ヶ原のモトクロス』

B-8のモトクロッサーを生産サイドの中村治道、高橋鉄郎さんたちがボランテイアで作り出場したのである。
予算もなかったのを当時の営業の上司の小野助治さんが『交際費から幾らか出してやれ』との指示で少しだけ都合したことを覚えている。私はそんな管理をしていただけで、レースには同じ係りの故河合寿一さんがマネージャー役をやっていた。

このレースはスズキ、ヤマハの強豪たちも参加していたのだが、当日は雨の水たまりの中を走るレースでみんな水をかぶって止まってしまった中をカワサキだけが防水対策もばっちりで、1位から6位まで独占すると言う信じられない結果になったのである。

このレースに出場したライダーたちは全員社内のテストライダー、加藤、飯原など清原明彦君の先輩たちで契約ライダーなどは一人もいなかったのである。
今回のカワサキ赤タンクの取材の主役、山本隆君は当日ヤマハでこのレースに出場したとか。

当時、勤労や企画のエライサンたちは、勝手にレースなどに出てと、あからさまに批判的だったのだが、1位から6位までの圧勝に急にご機嫌が直って、真ん中に収まっての記念写真なども撮られたのである。
まさに神の恵みの雨だった。

そんなこともあって、生産工場を中心に職場のムードは昂まり、当時この事業を存続すべきかどうかを調査していた『日本能率協会の調査報告』にも、『職場の意気高し』と存続再建を本格的にやる方向に決まったのである。

その年の11月にほぼ単車存続が決まり、発動機と単車は分離して単車再建の方向となった。



★『日本能率協会の調査報告』のなかに

『広告宣伝の独立実施』という事業再建の条件があって、
当時の川崎航空機の本社が本社開発費として当時の総売上高10億円の事業に年間1億2000万円の広告宣伝費を3年間出してくれることになったのである。

広告宣伝など誰も本格的にやった経験などなく、物怖じせずあつかましいのを見込まれて、『お前がやれ』とその担当を任されることになったのである。

当時私などの年俸が40万円にもならぬ時代であったから1億2000万円はべらぼうな金額なのである。
そんなことで、モトクロスレースも広告宣伝の一環と言う理屈をつけて、レース活動をこの広告宣伝費でまかなうことになったのである。

当時のモトクロスはスズキ、ヤマハ、BSだけであったが、運営費だけは新参のカワサキが圧倒的に有利で、私がレースを担当した3年間は幾ら使っても大丈夫なほど豊かだったのである。

そんな環境の中で、1964年からの『本格的赤タンク時代』が幕を開けるのである。
(続く)


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