雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

78歳「イチロー」白球に懸ける想い、溝畑圭一郎

2011-07-22 04:58:23 | 発想$感想

★昨日突然、『溝』から電話があった。

久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。 

『 日経新聞電子版 の中の「ライフ 暮らしの知恵」と言うサイトがあって・・・・』と話しだしたのである。

 

同期の野球仲間だが、何故か野球だけは抜群に上手いのである。

運動神経があるのだから、ゴルフも上手いのかと思ったら、ゴルフは下手くそなので、『野球だけは』と言っているのだが、、

聞いてみると、要は、

日経新聞の電子版に、『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』 と言う溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、

『それを広報しろ』と言うことなのである。

ゴルフもダメだが、パソコンもダメらしいのである。

私が何となく、ブログなどやっているのは知っていて、それで電話してきたのである。

 

 ★早速ブログでアップしている。

7ページに亘る特集、流石である。

読んでみたが、これはなかなかのものである。 

出来れば、ページごとにご覧になって頂きたい。

私と同い年の彼は、まだ『グリーン神戸という』シニアソフトボールのチームの現役でまだ頑張っているのである。

日経の写真が使えないので、『グリーン神戸からの写真』を何枚か。

 

7ページに亘る特集記事の一つ一つである。

 纏めて『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』 と名付けられている。

 ● ライトを守る4割打者

まず最初のページでは、勿論チーム最年長だが4割を超える打率で、チーム第3位だとか。元々ピッチャーなのだが、昔からよく打っていた。

実業団のエース、まさかの引退勧告

明石高校から神戸製鋼の野球部で活躍していたのだが、28歳でまさかの引退。個人の事情ではなくて会社の事情。

 ●冷める情熱、さまよい続けた30年

神戸製鋼の野球部を止めてからも、何処かでずっとやっていた。その当時は草野球でもみんな30歳前に辞めるのが当たり前のような時期だった。

● 新たな仲間と再出発 自主トレに熱

還暦の年から、新たに、ソフトボールをやりだしたらしい。

 ●いちずな夫、妻の思いはいつも空振り

奥さんとはお会いしたことはないが、溝の野球に振り回されたのは容易に想像できる。

頼れるベテラン、チームの宝

ただ、参加しているのではなくて、主力として頼られているのがいい。

野球こそ人生、きょうも現役

で締めくくられている。

 

★こんな球友の記事を紹介出来るのは、私にとっても自慢なのである。

確かに、今の78歳の『溝』もスゴイのだが、

10代や20代の高校時代や神戸製鋼のエース時代のパリパリの『溝』も、スゴかったのである。

左腕のピッチャーで、そんなに背丈は大きくもなく、剛速球を投げるわけではないのだが、兎に角点を取られないのである。

明石高の2年の夏は兵庫県で優勝して、夏の甲子園も経験しているが、

その予選では高校生では珍しい完全試合を達成している。 予選で完全試合の参考記録はあるのだが、みんな5回や7回のコールドゲームでのものが殆どで、9回フルイニングの完全試合は滅多にないのである。灘高を5-0で下してのパーフェクトゲームなのである。

高校を卒業してからも、明石のOB連中が内外ゴムなどのチームに雇われて、準硬球の野球で兵庫県野球で優勝などしているが、この時も溝がピッチャーをやってくれたからである。

今のプロ野球で言えば、ヤクルトの石川のようなピッチャーなのである。

神戸製鋼のエースとして10年ほど君臨したが、その時期ほとんど夏の後楽園の都市対抗の舞台を踏んでいる。 どこのチームが優勝しても、補強選手として選ばれて参加していたのである。

 

 ★昭和25年夏の甲子園の時の写真である。

3年生5人、2年生8人、1年生1人、当時は14人のチーム構成だった。(川重の方はご存じの方も多いと思う。後列一番右は1年大塚健哉君である)

3年生の中には後、ノンプロ日生の主力で活躍した西村さんや国賀さんなど全日本クラスの人もいた。鳴門には負けてしまったが、その鳴門が決勝戦まで駒を進めたのである。

当時のスポーツ紙では明石を買っていて、優勝戦は「瑞稜と明石か」などと予想されたりしたのである。当時は優勝戦まで最初から組み合わせは決まっていたのである。

翌年も兵庫県予選で準決勝で育英に負けたのだが、決勝戦で当たるであろう芦屋のことばかりを言っていた。 当時は育英よりは明石が名門であったし、負けるとは思わなかったのである。

芦屋は植村投手(2年生)がいて全国制覇を成し遂げたそんな年であった。(当時は公立が強かった。兵庫県では鳴尾、県高、兵庫など)

 

特にわれわれの3年の時のチームは、溝が点をあまりとられないから常に勝っていただけで、別にスター選手がいたわけでもない。

溝畑圭一郎一人で持っていたようなものである。 野球はピッチャーとはよく言ったものだと思っている。

ちなみに、昭和25年夏の甲子園には、タイガースの吉田義男さんが同じく2年生で京都山城高校から出場していて、夏の大会後、豊岡市の市制何周年記念の野球大会に招待されて、城崎温泉の超一流の西村屋に米子東、山城と一緒に泊めて頂いているのもいい思い出である。

 

★こんなことが書けるのも、『溝』のお陰だから、喜んでブログをアップさせていただいた。

彼はこのブログも自分では読めないので、娘さんに開けて貰って眺めるだけだそうである。

そんなことなのでこのブログはともかく、

ぜひ、日経の電子版 『ライフ 暮らしの知恵』の方もよろしく、お願いいたします。

 

残念ながら、上の14人のチームメ―トのうち、いま残っているのは7人だけである。

もうみんな、そんな年なのである。 こんな年で現役は、確かに特集される値打ちアリだと思う。

 

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