雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

結婚記念日  雑感

2017-12-18 07:04:31 | 発想$感想

★ 早いもので今年の師走も残り10日ほどになってしまった。

 今週は12月21日がやってくる。12月21日は結婚記念日なのである。

 もう50周年は過ぎてしまったので、今年は何回目かと数えてみたら56回目なのである。

 50周年の時は、息子がアメリカ行きのビジネスクラスを贈ってくれたし、娘がアメリカでこんな写真を撮ってくれたりした。

 

   

 

  なぜ、こんな年末の忙しい時期に結婚式を挙げたのかというと、当時はカワサキの二輪事業が立ち上がったばかりで、単車営業課はわずか数人で、今で言うと企画・管理・品証・営業など事務屋が担当する全ての機能を引き受けていて、めちゃめちゃ忙しくて月初めなどに結婚式を挙げて休むなど、とても考えられなかったのである。

どうも私の場合は、なんでも大雑把でいい加減で、何事も『こうでなくてはいけない』などとは思わないのである。会社の連中が、『月初めはダメだ』と言うものだからこんな時期になってしまったのである。

ただ、周囲の人たちが手伝ってくれて、結婚式や披露宴などの準備は高校・大学での野球部の親友が全てやってくれて私は殆ど何もしなかったのだが、丁度年末で野球部の連中の忘年会の一次会にするから披露宴は是非3時からにしてくれと頼まれてそんな時間からの披露宴だったが、その代り確か、費用の一部を野球部の連中が負担してくれたのではないかと思うのだが、それがよく解らないのである。私は『これだけ払え』と言われた金額を支払っただけである。

新婚旅行は、会社の直接の上司で大学の先輩の坂口さんが、北陸から信濃の旅がいいとすべて創ってくれたので、その通りの旅程にしたのである

そんなことがあんまり気にならない性格なのである。

 

めちゃめちゃ楽しい披露宴で、朝鮮京城時代の先生や学友や野球部の連中など100名ほどが参加して、司会の取り合いなどもあったし、まさに忘年会の一次会で、私も歌など歌わされたりしたのである。

 家内も神戸高校卒だったので、咄嗟に私は『神戸一中校歌』を歌ったのだが、こんな歌詞で『わが世の春』を感じていたのだと思う。

『群らん色は紫に金波さ揺らぐちぬの浦 東大野をどうどうとと朝日このぼる曙や 希望の光輝けるわが世の春に似たるかな』

   

 歌詞はムツカシイが、誰でも歌えるやさしい歌なのである。

 

★考えてみると不思議な縁で、家内に初めて出会ったのは、昭和32年川崎航空機に入社してすぐ隣の課に彼女はいたのである。その年の夏に映画に誘ったら付いてきて、それ以来のお付き合いだから、今年でちょうど60年になるのである。

人生60年を一緒に過ごしたのだが、付き合い始めた時の印象とは一変しているから不思議である。一見明るく派手な感じだったので家のことなど出来るのかなと思っていたのだが、それが全然違っていて、専業主婦として掃除・洗濯・食事の支度・後片付けなど、全て家の中のことは家内の担当で私は何もさせて貰えないのである。

ただ、車の運転は出来ないので買い物の運転手だけは『私の役目』なのである。それ以外に手伝うことがあるとすれば、『ごみ捨て』ぐらいのものである。

 

最近10年程は、アメリカの娘のところに2ヶ月ほど遊びに行くのが定例化していて、その間は私が独身で留守番をして、それこそ家事一切を結構上手にやるのだが、戻ってくると『私のやり方』では気に入らなくて、一切やらしては貰えないのである。

 

 

この1,2年は私も1ヶ月ほど、アメリカにも付き合っているのだが、これは今年の9月だが、二人とも80歳を超えているのに、アメリカの環境はこんな『若作り』も許容してくれる。こんな気分転換や環境の変化がいいのだと思う。お陰様で二人とも元気にはしている。

 私は日記を書いているので、結婚記念日はちゃんと覚えているのだが、家内は放っておくと年末の忙しさで『結婚記念日』など忘れてしまっているので、12月も半ば近くになるとカレンダーに『結婚記念日』と書き入れるのはいつも私で、そうしておくと、何となく『12月21日』は違った献立になったりするのである。

 今年はその前日の12月20日アメリカの孫が遊びにやってくるので、多分間違いなく立派なご馳走が並ぶはずである。

 

★60年もずっと一緒にいたのだが、夫婦とは一体何かな と思う。

 最初に誘ったのは間違いなく私だが、付き合ってた時代は、間違いなく家内の方が熱烈だった。

 それが『こどもが生まれたら』それは一変して、関心の殆どがコドモに移ってしまったように思う。母親のコドモの育て方は、男には真似のできないレベルのものである。子どもを産み、育てるという事業は、女性にとって大事業だと思う。我が家では間違いなく二人の子供は家内が育てた。私は横で見ていただけである。

母親がちゃんと育てた子どもは間違いなく『いい子に育つ

保育園などないアメリカは小学生までは、親かベビーシッターが横についていなければならない。子供の育て方は「アメリカを見習うべき」だと私は思っている。

こどもたちが独立して、家計も幾らか余裕が出来た数年にちょっと戻ってきた感じもあったが、孫が出来たら『孫への関心』はまた異常と思えるほどである。そんな孫たちももう20歳前後になっているのだが、それは今も尚続いている。

 お蔭様で元気な時は全くの無関心だったのだが、私が68歳の頃札幌でくも膜下で倒れた時と、2年ほど前に家内が足を骨折して入院した時は2ヶ月ほど、毎日病院を訪ねたりしたのだが、元気になるとお互い忘れてしまうのである。

 まあ、そんなもので『結婚記念日』など大したことではないのかも知れない。

 お互い、あまり言葉を交わすこともなく、静かに暮らしている方が幸せなのかも知れない。どちらかが病気で毎日看病や病院通いなどナイほうがいいに決まっている。

 今年は何とか、無事に過ぎそうである。くる年 2018年は、果たしてどんな年になるのだろう。

 この年末年始は、孫二人に囲まれた賑やかなものになることは間違いない。

 それは、今週20日から始まるのである。

  

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カワサキの基本コンセプトは どこに行ってしまったのか?

2017-12-17 07:04:10 | カワサキワールド

★何度か述べているが、『カワサキの新販売網政策』 この基本コンセプトは、どのように考えているのだろうか?

  カワサキの二輪事業の基本コンセプトは、1970年代 のA1・H1・Z1が上市された時代から一貫してKawasaki . Let the good times roll !   だったのである。

最初から英語で創られた基本コンセプトだったから、正規の日本語訳はないのだが、『Kawasaki に出会う人たちが みんなハッピーになるような活動を Kawasaki は展開し続けます

 カワサキに出会う人たち、販売店も、ユーザーも、道でカワサキに出会う人たちに対しても、常に『グッドタイム』であるようなそんな活動を、カワサキの二輪事業は全世界で展開し続けてきたはずなのである。

 

★ 日本の社会では、『基本コンセプト』がないままに、戦略や数値計画だけが推し進められる場合も多いのだが、カワサキの二輪事業もそんなレベルになってしまったのだろうか?

1990年代 私自身がカワサキの国内市場をリードした時代は、間違いなく、Kawasaki .Let the good times roll ! の基本コンセプトとの下での展開であったし、明石のショールームにはこのような展示がなされていたのである。

 

    

 

  当時、カワサキとも密接な関係のあった服部吉伸先生は、このように言われている。

 今のカワサキはこのような「基本的なこと」に対してどのように考えているのだろうか?

 

 流通業とは「自からの仮説の正当性を問うビジネスである。」消費者の変化の本質を掴み、変化をどう自己の対策に置き換えるかと言うことが問われている。

何が企業を変革するのか。それは企業コンセプトである。企業コンセプトを見直し再提起しなければ第二次創業とはならない。
従って企業コンセプトは方針戦略より上位の概念である。

通用する発想とは正しく現状を捉え説得力があり、やがて多くの人の賛同を得られる考え方を指している
ここでやがてという言葉を使っているのは、正しい考え方が最初から多数派である筈がないからである。

企業の文化が問われている。そしてどのような思想、考え方、価値観を持った企業なのかが問われている。『うちは慈善事業をやっているのではない』と言えば、そのような企業でしかないということだ。『利益に文化の香りがする』そんな企業になって貰いたい。

 

残念ながら、今のカワサキにはこのような『高度な仮説』も、『企業コンセプト』も『企業文化』もない単なる「方針戦略」に基づいた『低次元の新販売網戦略』でしかないような気がするのである。

事業は黒字で展開されているようだが、『その利益に文化の香りがする』と堂々と胸を張って言い切れるのだろうか?

是非、いま発表されている具体的な計画などではなしに、その基本になる明確な『基本コンセプト』を発表されるべきである。

そして40年以上も続けてきた『カワサキの二輪事業の基本コンセプト』=『Good Times コンセプト』との関連を説明されるべきだと思うのである。

 

 

★昨日のFacebook に、

カワサキの正規販売店であり、前全国オートバイ販売店連合会会長の吉田純一さんがこのようにアップされている。

 

  

 

 吉田純一さんは今のKMJの定期採用第2期生と言うカワサキOBでもある。

 販売店すべてに同じように待遇することはムツカシイのはよく理解できるのだが、ちょっとひどすぎるし、何十年もカワサキと共に歩んだ人たちの『こころ』がカワサキから離れていくのは寂しいことである。

Kawasaki に出会った人たちの多くが『ハッピーでない政策』は Kawasakiの 基本コンセプトからの遊離でしかないと思う。

 


 

    

 

 二輪業界のために、永年尽くしてきた『吉田純ちゃん』は、今でもこのような活動をされているのである。

カワサキの特に国内販売網については多くの方たちにお世話になってきた私は『純ちゃんはじめいろんな人たち』から、今でもいろいろと、生の情報が入るのである

つい2,3日前も、Z1会の総会でお会いしたカワサキバイクマガジンの方から『忍者の伊藤さん』のことをいろいろとお聞きしたのである。 『50年、カワサキ一筋に生きてきた私の50年は一体何だったのか?』これが彼のホンネなのである。

 カワサキバイクマガジンさん、Z1会の後は、KMJにお寄りになると言われていたのだが、どんな話になったのだろうか?

 

このZ1会には、来年度からは吉田純一さんも参加なのである。

カワサキの新販売方式の完成には数年の月日が掛かるということなのだが、その間ずっとこんな話が耳に入り、目につくのはどうもやりきれないのである。

Z1会の会長の大槻幸雄さんは、このブログもお読みになるだろうし、近々カワサキの太田プレジデントともお会いになると言っておられたが、『カワサキの新販売方式』は果たしてどんな推移を辿っていくのだろうか?

 

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HHKの受信料 と 新聞購読料とネット

2017-12-16 07:09:23 | 発想$感想

★NHKの受信料についてのこんなニュースが載っていた。

 最高裁大法廷は六日、合憲と初判断した。「テレビ設置時にさかのぼって受信料の支払い義務が生じる」との判断も示した。訴訟では受信料制度は「憲法の保障する『表現の自由』や国民の『知る権利』を具体化するという放送法の目的にかなう合理的な仕組みで、契約の強制も許される」とした。被告の男性側は「放送法の規定は強制力のない努力義務。強制を認めているとすれば憲法の保障する『契約の自由』を侵害する」と主張したが、退けられた。

というのである。

仮にNHKなど殆ど見ないと言っても、テレビを持っている限り受信料は払わねばならないという判決である。

NHKによると、契約対象とみられる約4995万世帯・事業所のうち、未契約は約2割の約1000万世帯だというのだが 、20%の人たちは、受信料を払わずにテレビは観ていることになる。他人事だが20%とは結構な人が受信料を支払っていないのである。

 我が家は、一般放送もBS放送も契約しているのだが、口座振替で落ちているので一体幾ら払っているのかも正確には私は解ってはいなかったので金額を調べてみたらこんなことである。

 

   

 

ついでに、新聞の購読料も調べてみたら、こちらの方が結構高いのである。

    

 そんなに金に余裕のある生活でもないのだが、これくらいなら家計が破たんするほどの金額でもないので、無関心なのだと思う。

そんなにテレビを観ている訳ではないのだが、それでも新聞よりは見ているので、新聞の方が割高のような気がする。

最近は、『評判がもう一つ』で購読数が減っているという朝日新聞を取っているのだが、目を通す時間は平均して5分ほどさらーっと眺めるだけである。新聞はネットなどやらない家内の方は、よく見ているようである。

新聞は購読料未払なら配ってくれないだろうから、未払の家庭はないのだろうが、テレビは20%も未払とはビックリである。

テレビを設置した時点に遡って払わねばならぬとなると、『これは大変だな』と他人事ながら心配である。

 

★最近はネットが一般的になって、私が新聞を読まないのも、ネットで各紙が読めるからである。

 昨日は、アメリカの娘から、先日送った年末の荷物が着いたと電話があった。

 最初は、Line で掛かってきたのだが、そのあと続いて Skype に切り替えて1時間以上も家内と喋っていた、

 これが無料であるのは、私たちの世代にとってはホントにびっくりなのである。

 

★まだ、カワサキが二輪事業を立ち上げた当初の頃、1970年代の話だが、アメリカとの電話はちょっと長く話すと10万円も掛ったのである。

日本の電話代も距離制になっていて、当時は私は仙台にいたのだが、明石との通話は1000キロ分の通話料で計算されたのである。だから、アメリカとの通話は日本とアメリカの距離で計算されたから、10万円もしたのだと思う。

いまの若い人たちなどは信じられないと思うが、電話代も当時の国鉄の料金のように距離が離れているところは高く、市内通話は安かったのである。

現在のネット時代、世界がみんな隣町で、神戸も明石もアメリカも全く距離は関係ない時代に生きている。

そう言う意味では、ネットに比べたら『テレビも新聞も』結構高いなと言うのが実感である。

 

★この話題、ツイッターに流したら、

 『これからはタブレットPCやスマホでテレビを見る時代になりますから、「これはテレビじゃありません」でいこう。そもそも大型ディスプレー(テレビ)の時代なんて、とっくに終わりなんですよ。俺は絶対大型ディスプレー(テレビ)なんて設置しません。』

 とこんな意見も。

 確かに、アメリカの娘宅では日本のテレビがいろいろと既に見れる時代になっている。

 世の中、どんどん進みますね。

 

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 緑が丘駅でお菓子を

2017-12-15 09:46:13 | NPO The Good Times

★ 12月もいつの間にか月半ばを過ぎました。

 クリスマスもすぐそこだし、今年ももう残すところ半月です。  

 

   

 

昨年も開催されたのですが、今年もクリスマスイブの24日に神戸電鉄の緑が丘駅に集まったこどもたちにお菓子を配ろうというイベントが『粟生線サポーターズくらぶ』の主催で行われるようです。

 

 これが昨年の様子ですが、この催しを強力にサポートしているのが、『キッズサポートクラブ』なのです。

       https://www.facebook.com/-858899250836651/

 

   

        

 

        

 

 

キッズサポート・クラブ』とは、こんな活動を何十年も続けておられる新井謙次さんが主宰されているクラブです。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/6e91792290387773b9897f048e4e8f9a

 簡単なようで、これはなかなかできないことです。

 

 

    

 

   今年もまた、新井謙次さんが、お手伝いをされるようだから、この催しも賑々しく開催されることになるでしょう。

 

  『12月24日はぜひ神戸電鉄緑が丘駅に、子供さんたち集まってください。』

   先着250名まで、クリスマスのお菓子が貰えますよ。

 

   

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核や原発と 阿蘇山の噴火

2017-12-15 08:02:08 | 発想$感想

 ★人間の歴史は、地球のそれとは比べようもない。

 人類の歴史も、地球の長い歴史に比べたら一瞬の出来事でしかないように思う。

 人間は確かに立派で、その頭脳でいろんな近代的なものを創り出し、人々の生活も豊かになってきたのだが、何か昨今それが行き    過ぎてしまった感がある。

 その最たるものが『核』であるように思うし、原発などもその分野に入るのかも知れない。

そういう意味では『核も原発』もこの世にないほうがいいのかもしれない。それが『必要』だとする周囲の状況を無視するなら、それは無くてもいいのではと思っている。

 東日本大震災の地震は仕方がなかったとしても、確かにあの津波は予想外の規模であったのだろう。

 その結果が、『福島原発の大災害』である。

  

★ 『広島高裁の原発3号機の運転差し止め決定

 『原発の運転差し止め』がほかの理由なら兎も角、『阿蘇山の火砕流到達範囲』というのは、正直びっくりしたし、どうも説得力がないような気もする。

 

      

 

 阿蘇山の火砕流が100キロを超える範囲で広がったのは、9万年も前の話なのである。

 そんな火砕流がもし発生したら、福岡県も大分も熊本も全滅だし、単に原発だけの話ではないように思う。

    

原発3号機の運転差し止めを命じた13日の広島高裁決定。約130キロ離れた阿蘇山の火砕流到達を想定した内容について、電力関係者からは「日本のどこにも原発が造れなくなる」と当惑の声が漏れた。

 

 とあったが、確かにその方が常識的だと思う。

 それならいっそのこと、日本のような地震国では『原発は全てNO』とでもいうほうが説得力があるような気がする。

 裁判官の判断はどんな基準でなされるのかは知らぬが、これはどうも・・・と思ってしまう。

 人間の対応力は、結構柔軟だから、『原発は全てNO』と言えば間違いなく『対応可能』なはずである。

 

 これとは別に、人間が考えた科学の力が、核や原発や、昨今の地球温暖化にも繋がっている。

 そして、それは長い地球の歴史の中のほんの一瞬、100年程の間の出来事なのである。

 もう少し、何とか『いい知恵』が出ないのだろうか?

 

 昨今の人間の動きに『神様』が『もう少し自然に人間らしく生きよ』と言っておられるのではないかと思ってしまうのである。

 

 

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2017年度 Z1会総会

2017-12-14 07:52:21 | 発想$感想

★今年の Z1会総会が 西明石のキャッスルプラザで開催された。

遠く東京からも名誉会員のカワサキバイクマガジンの発行元 クレタの北村社長と井田さんも出席されて、いつもの通り賑やかだった。

 2分ほどの動画に纏めているのでご覧ください。

   http://www.nicovideo.jp/watch/sm32414232

 その雰囲気だけはお解り頂けると思います。

 

    

 Z1の開発責任者の大槻幸雄さんが会長で、そのエンジン開発を担当した 稲村暁一さんが副会長を務めて、年4回三木セブンハンドレッドクラブで開催されている。

 

      

  大槻さんも来年は87歳なのだが、 カワサキのアメリカ市場を開拓された浜脇洋二さんは、今年でこの会を引退されたのでZ1会からのこんな感謝状も贈られた。

 来年はZ1 が世に出て45周年にもなるのだが、このZ1会のメンバーたちは当時のカワサキを支えた開発・生産・営業・販社・レースライダーなどのメンバーたちに加えて、昨今はカワサキのZ1などのユーザーたちも参加されてなかなか賑やかなのである。

 昨日は来年度から新参加のKawasaki Lime Green Fun Club の青木隆会長も参加された。FBでは多くのトモダチがおられるので、ご存じの方も多いと思う。

 同じく吉田純一さんも来年度からは新参加なのである。

        

 

 

   

  稲村さんは、いつもひょうひょうとして、いい雰囲気なのだが、もう80歳を過ぎたというのに、何故か今頃『50肩』になって腕が上がらぬなどスピーチされていた。

 

 

   

 毎年、メンバーの中からMVP が選ばれるのだが、今年はカワサキバイクマガジンの北村社長が選ばれて、感激に涙する場面もあったのだが、

 

これは気を取り直しての写真である。

   

 

 多分、カワサキバイクマガジン 2月号にはこんな写真が載ると思うのだが、その予告編である。

 

この会では、毎年翌年度のハンデイが提示されるのだが、みなさん大盤振る舞いでハンデイを下げて貰っている中で、何故か私は7つもハンデイを上げられたのである。 

来年は私も85歳だから、一念発起 ハンデイなどの関係なく、『グロス85のエイジ・シュート』でも目指そうかなどと途方もないことを思っているのだが、20年前に若返ってチャレンジしてみるかと、ヤケクソで思っている。

気分だけでは、『85』などそんなにムツカシイスコアではないのだが・・・なかなか現実はムツカシイのである。

 

  

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零戦 日本の空を飛ぶ

2017-12-13 06:12:41 | 発想$感想

★私は全然知らなかったが、『日本の空を零戦が飛んだ』今年こんな出来事があったらしい。

 

 実はこの話つい先日、田崎さんと酒心館で会った時 突然言い出したのである。

   これはその時の動画で、零戦がいっぱい出てくるのだがもう一つよく解らなかったのである。

     http://www.nicovideo.jp/watch/sm32390711

 

 その時、田崎さんが持ってきた写真である。

 

   

 

その写真をカメラで撮ったものだから、田崎さん足長オジサンに写っているが、横にいるのは、田崎元(はじめ)くんは、

 田崎さんの息子さんである。

   

 

 お二人、何故かこんなところにいるのである。

 田崎元(はじめ)くん、長く会っていないが、まだ小学生の頃のアメリカにいたころも知ってるし、川重に入社してバイクで三木にツーリングに来た時に会ったのがもう6年も前になるのだろうか?

 その前に会ったのは、もうずっと以前、1995年ごろ、鈴鹿8耐の時あの岩城滉一が来ていて、岩城滉一のファンであるという田崎さんの奥さんやはじめ君も一緒に会食をしたことがあるのだが、その時突然飛行機の操縦の話になったのである。

 はじめ君は、アメリカにいる時飛行機の操縦の免許を取ったのだが、実は岩城滉一も飛行機の操縦ができるのである。

 お二人に操縦を教えた先生が『実は同じ方』だったのである。

 そんな話を知っているのは、その時同席していた数人だけなのだが・・・・

 

 

 これが今年の6月頃の記事である、

 

   

 

 そして

 零戦(ゼロ戦)の愛称で呼ばれる零式艦上戦闘機22型(製造番号:三菱第3858号)が、6月3日と4日に千葉県の幕張海浜公園で開かれた「レッドブル・エアレース千葉2017」に特別参加した。東京湾上空を零戦が飛行したのは、約70年ぶりとなった。

 

 

今回飛行した零戦は、三菱重工業が1942年に製造。全長9.06メートル、全幅12メートル、重量1863キロ、最高時速540.8キロで、1970年代にパプアニューギニアで発見された残骸をロシアで復元した。東京湾上空の里帰りフライトでは米国在住の日本人パイロット、柳田一昭さん(66)が操縦桿を握った。ゼロエンタープライズは2016年5月、鹿児島県内で零戦の試験飛行を実施。熊本地震の復興支援で、熊本空港にも着陸している。

 

★このパイロット 柳田一昭さんが、田崎元君と岩城滉一さんの飛行機の先生というのでのである。

先日はもう一つ、その辺のところが解らなかったのだが、田崎さんに聞いてみるとこんなメッセージが帰ってきたのである。

 

息子 元(はじめ)は、17才のときカリフォルニアで、彼の教育を受け、米国FAAの自家用単発機飛行免許を取得しました。その後、事業用、計器飛行、双発機、水上機、グライダー、ヘリコプター等の米国免許を取得し、今では神戸空港のヒラタ学園で月に一回程度、セスナやロビンソン(ヘリコプター)を飛ばしながら、総飛行時間は1,500時間を超えています。

 という訳で、息子は柳田氏の愛弟子、息子は柳田氏を恩師と仰いでいます。

今回の「ゼロ戦里帰りプロジェクト」では、神戸のヒラタ学園で、飛行計画、機体整備、随伴機との調整、などゼロ戦パイロット柳田教官の手伝いをしたようです。

 

 いろいろやってるものである。

 飛行機の操縦など、そんなに難しくはないのか? アメリカでは簡単に取れるようで、飛行機を操縦することなどムツカシクないのかも知れない。

リンカーン工場にいて、川重の副社長をした佐伯武彦さんも、確か飛行機の操縦免許を持っているはずである。

 アメリカのジョンウエイン空港の裏通りに行くと小型飛行機が、日本で言うと駅の自転車置き場のような感じで数え切れないくらい並んでいるのである。

 

 日本では、まだまだ飛行機の操縦など夢物語なのだが・・・・

 

 

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鈴鹿サーキット のイベント話

2017-12-12 06:04:56 | NPO The Good Times

★昨日、登山道夫さんから電話 があった。

 『午後に鈴鹿サーキットさんが来られるのですが、お時間ありませんか?』

 登山さんからは、こんな電話 がよく掛かる。 

 私は頼まれたら登山さんに限らず殆どの場合『Yes』なのである。

 1時過ぎに『来られました』と言うのでそれから訪ねたのである。

 

鈴鹿サーキット』がどんな話で来られるのか、全くわからなかったのだが、まだ33歳と言う若手の営業マンが来られていた。

ちょっと雑談をしたが、なかなか話が通じそうなので、4時半まで結構な時間のお話だったのである。

 

  

 

 KAWASAKI Z1 FAN CLUB をバックに撮った記念写真を夕方登山さんが送ってこられた。

 写真が送られたということは、『今日の一件についてアップしてもいいよ』ということだろうから、ざっとどんなことなのかを纏めてみたい。

 

★ 鈴鹿サーキットさんが、わざわざ三木の田舎までお越しになった用件は、

 『来年の8耐の当日あるイベントを考えているのだが、ご協力頂けないか?』ということのようである。

 登山さんのところの KAWASAKI Z1 FAN CLUB も考えてみると大したものである。 

 わざわざ名指しで、鈴鹿サーキットからの『イベント共催』の申し込みなのである。

具体的にどんな形にするかは別にして、来年の8時間耐久にはひょっとすると、私も何年かぶりに、鈴鹿にいるかも知れないのである。 

登山さんの発想の中には、『私に手伝え』と言う要素が入っていて、この辺の『登山流』はなかなか大したもので、解ってはいるのだがいつの間にか「手伝う」ことになってしまっているのである。

 

★鈴鹿サーキットやレースの世界など、私自身は『ホンダさんや鈴鹿サーキット』とは直接いろんな繋がりがあって、昨日の話の3時間の内の半分は、そんな話に終始したのである。

 私自身の鈴鹿サーキットとの出会いは、まだ鈴鹿サーキットがオープンしていない昭和36年の6月に看板の件で訪ねているし、ホンダさんのいろんな人たちとのお付き合いも、1996年にホンダさんと一緒に立ち上げた二輪車協会などなどいっぱいなのである。1990年代当時は鈴鹿サーキットの担当者の方が、カワサキの明石までしょっちゅう出入りされたりしていたのである。 

当時立ち上げた遊びのソフト会社、KSSやユーザークラブKAZEは、当時の二輪業界でトップを走っていたのである。

登山さんたちと立ち上げたNPO The Good Times のベースはKAZEを進化させたものだから、雑談していても所謂本題のテーマからは決して逸脱せずに、結構次元の高い『遊びのイベント話』が続いたのである。

 

 ★ こんなトップページの分厚い資料を頂いた。

 

   

  

 イベントプロモーションを単に8時間耐久に絞らずに、お付き合いするなら『年間を通していろいろと継続してやる方がいいですよ』と言う提案をしておいた。 そのほうがお互いのためなのである。

 単発のイベント話に終わってしまうので、何時まで経っても高度なイベントにならないのである。

 ひょっとしたら、4月末の行事にも参画することになるかも知れないのである。

 

   

 

 

★ 誰が、どんな人たちが参加できるのか?

そんなことは全くまだ決まっていないのだが、鈴鹿サーキットさんがわざわざ三木あたりまでこられるのは、対象はカワサキであることは間違いないのである。

それもカワサキの現役車ではなくて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB を訪ねて来られたので、Z1を中心にするカワサキグリーン車と言う範疇なのだろう。

まだ、決まっていない段階で、おっざっぱなところを『リーク』するのは私の現役時代からのやり方である。

こんなブログにアップすると、自動的にFacebook にも掲載されるし、60万人のフォロワーのいるツイッターにも流れるのである。

『来年の8耐には、ひょっとしたら KAWASAKI Z1 FAN CLUB が何かのイベントでジョインするらしいよ』ということだけでいいのである。多分いろんな反応はあるだろうし、そういう反応も取り入れないから、オモシロいイベントにならないのだと思っている。

イベントなどと大層なことを言っても所詮は『遊びの世界』なのである。そこに『遊び心がない』とオモシロくはならない単なるイベントになってしまうのである。

 

★ 鈴鹿から名古屋に出て、新幹線で新神戸に来てそこから電車で三木まで、3時間以上掛けてこられたようである。

 雑談ですっかり仲良くなって神戸電鉄の緑が丘駅まで私が車で送ってあげたので、そんなことも解ったのである。

 『なぜ、登山さんのところに?』と聞いたら、『登山さんはちゃんとしてると聞いたものですから』と言う返事だった。

 『二輪ファンは、ちゃんとしてる方も、ちゃんとしてない方も』おられるということのようである。

 確かに、天下の『鈴鹿サーキット』がお付き合いする相手はちゃんとした方であって欲しいと思われるのは当然である。

 NPO The Good Times の KAWASAKI Z1 FAN CLUB  がお相手する鈴鹿サーキットは、『そのイベントの展開』に於いて『それなりのレベルであって欲しい』と、逆に私自身はそう思うし、3時間の間にそれなりのことをいろいろとお話をしたのである。

 『遊び半分ではいい遊びはできない』と、1990年代専門のソフト会社ケイ・スポーツ・システムを立ち上げて得たソフト・ノウハウの数々なのである。初対面ではあったが、なかなかの『Good Time』が過ごせたと思うし、お互いなかなか『得るところ』多かったのではないかなと勝手に思っているのである。

 

 

★今朝起きてきて、びっくりした。

 敢えてお名前を伏せていたのだが西川さんからこんなメールが届いていたのである。

 

いつも大変お世話になっております。鈴鹿サーキットの西川です。本日は、貴重なお話をお聞かせいただき、誠にありがとうございました。また、駅まで送っていただいたことで、無事電車に間に合いました。重ねて御礼申し上げます。

古谷さんとお話をしていると、いかに私の取り組む姿勢や考えが小さいものなんだと思い知らされたと同時に、イベントも然り、広報活動も然り、あらゆる可能性が秘めているのだなと感じました。

今回の登山さんとの件に限らず、様々な事象に対して、古谷さんから教わった、「人との繋がり」 や 「独りよがりの考えに捉われない行動」を活かし、精進していきたいと思います。

 また、お伺いした佐藤英明さんや古谷さんと仕事をさせていただいていた、弊社の担当も探してみます。進捗があればご連絡差し上げます。引き続き何卒よろしくお願いいたします。

 

 

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昭和30年代の二輪の写真

2017-12-11 06:35:02 | 発想$感想

★ ふとしたことからツイッターでこんな懐かしい写真を見つけて『リツイート』した。

  https://twitter.com/rfuruya1

 

  

 

  山本寛さんという方のツイッターで、こんな自己紹介が載っている。

 

      

 

  『乗り物』に関しては旧いオートバイが比較的得意分野です、とあって

  『二輪文化を伝える会』の松島裕さんとも繋がっているようなので、最初のページまで全部見せて頂いた。

  2016年11月16日からスタートしていて、懐かしい写真や動画がいっぱいである。

  よくまあこんなにいっぱい貴重な写真を集められたものである。

         https://twitter.com/ahfisn39

  ご関心のある方は、ぜひご覧になればいい。

  

 

その中からの写真のいろいろ、私なりの想いを綴ってみる。

 

カワサキが二輪の一貫工場を造ってオートバイの生産を始めたのは昭和35年のことである。

 営業部門に単車課が出来たのは昭和36年12月で、私はその時点で営業の単車課に異動になったのである。その時生産していたのは50ccのモペットと125㏄のB7と共に、この井関の空水冷のモペットも生産していた。

   

 

    こんなカラー広告もあるが、当時は神田岩本町にあった川崎明発工業の広告宣伝課が担当していたのだが、この年資本参加して、『カワサキ自動車販売』と名称が変わるのである。

 社長は当時の川崎航空機の土崎専務が兼任し高野行彦専務の下小野田滋郎さんが総務と広告宣伝課長を務めていた。ちなみに小野田さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんである。

    

   

  当時はまだ明石工場にヘリコプター部門があって、『航空機のエンジニアが造ったオートバイ』がウリだった。

         

  逆に言うと。エンジンはプロだが、オートバイトータルを解っている人は少なかったのだと思う。そんなこともあって最初に造った125㏄のオートバイはフレームの欠陥で、返品が相次ぎ営業に行った私は出荷よりは返品によって当時の物品税の戻入手続きが主たる業務になったほどである。

 こんな50ccのモペットは逆にデザイン賞なども頂いたのである。

 

  ライラック などはいつまであったのだろう?

 昭和20年代の後半までは、オートバイメーカーは100社を超していて、ライラックやトーハツや富士重のラビットなどを中心に三菱重工業なども二輪の世界にいたのだが、いつの間にか撤退して、昭和40年代の前半には、ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキにブリジストンを加えた5社になってしまったのである。 

   

   

   こんなバイクのことをみんな『ラビット』と呼んでいた時代もあった。

   

    

 

    

 

  三菱はなぜか「新三菱重工」と言っていたのだが、こんなスクーターを創っていた

   

   

 

            富士スピードウエイが出来て、世界GPが開催されたのは、昭和41年度でカワサキは初めて世界GPに出場するのだが、ホンダは第1コーナーの須走落としが危険だからとの理由で出場を見送った年である。

 私はMFJのレース運営委員会の委員を務めていたのだが、そこに出席していたのはホンダ・スズキ・ヤマハとカワサキとブリジストンの5社だけだった。 多分三菱などはまだ、バイクは造っていたのだろうが、レースには関係がなかったのだと思われる。  

        

 

  スズキも何故か『コレダ』と言ってた時代もあった。

 80㏄の中間車種と言われたカテゴリーは、スズキが最初に出して、カワサキなどが90ccなどで追随したのである。

 

  

 

BSも中間車種を中心に、レースに熱心で速かったのである。そのレース部門を支えたのはかってのトーハツのメンバーたちだった。カワサキも当時モトクロス界ではF21M などでそれなりの成果を上げてはいたが、ロードレースではBSを目標に頑張ったのである。

     

   

      

 

千葉県の船橋に船橋サーキットが出来て、50・90などを中心のレースが盛んだった。この中心にいたのがBSだったかも知れない。カワサキも金谷秀夫や歳森康師などが出場していて、私も何度も現場に行ったので懐かしい。

     

 

 

  その頃から、ホンダはダントツだった。

  車種も多かったし、販売台数が群を抜いていた。

 

      

 

 

      

 

    当時はオートバイ雑誌は『月間モーターサイクリスト』と『月間オートバイ誌』の2誌しかなくて、サイクリストがMCFAJ と言うレースのクラブ組織で先行し、オートバイ誌関係が MFJ を創って追随した時代だった。

そんなことで当時のレースライダーは『城北ライダース』や『スポーツライダース』『マウンテンライダース』『神戸木の実クラブ』などの各クラブ所属だったのである。

 

  

 

  

 

  まだまだいっぱいあるので、ぜひ直接、山本寛さんのツイッターをご覧になればいい。

   https://twitter.com/ahfisn39

 

 最後に野球をやってた私にとって懐かしい写真もあったので、・・・

 昭和29年の甲子園球場の写真である。昭和20年代は兵庫県の夏の予選は甲子園と西宮球場で行われていて、甲子園球場で野球をすることは、そんなに特別のことではなかったのである。

特に私は昭和29年当時は大学のリーグ戦が甲子園球場で行われていたので、甲子園が生涯一番多くの試合をした球場になっている。当時は関西6大学と近畿6大学の2リーグしかなくて、関西6大学が西宮球場・近畿6大学が甲子園球場で行われていたのである。

 

 

  少し後の法政二高の夏の大会の優勝は、柴田薫などもいてよく覚えている。

   

 

  

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何となく気分の重い日

2017-12-10 07:44:28 | 私の生き方、考え方&意見

★結構元気なのだが、何となく気が重く鬱陶しい1日もたまにはあるものだ。

昨日はそんな1日だった。

特に直接は関係ないのだが、野村沙知代さんが亡くなったというニュースが流れた。

85歳だという。来年は私もその85歳になる。

 

みんな行く道です

 とはよく解ってはいるのだが、仲間が逝ってしまったとなると、何となく気が重いのである。

仲間と言えば高校の野球部の仲間たちも3人を残してみんな逝ってしまった。

昨日は、会社の仲間訃報が届いたのである。

 

    

 

私は、お互い『共通の想い出』を持っている人だけを勝手に『仲間』と呼んでいる。

共通の想い出』になるような出来事は、単なるお付き合いでは生まれないのである。

そこには、お互い強烈な想いがあり、それを成し遂げたりしないと『お互いの共通の想い出』などにはならないのだと思っている。

 

誰かが言っていた、『人間一生のうちで、お互い強く印象に残っている人はなかなか100人にはならない』と言うものだから、『ホントかな?』と実は書き出してみたのだが、身内を除いて書きだしてみたら、100人の手前でそれは止まってしまっているのである。未だ忘れている人がいると思うが、150人にはとてもならないのである。

 そしてその内、既に亡くなってしまっている方が40人以上もいるので、いまこの世にいる方でお互いに印象に残っている人は50人そこそこなのである

それに私より年上の方はほんの数人だけなのだから、減ってはいけない数字なのだが、そんな貴重な一人がいなくなってしまったと思うから気が重いのである。

もし生きていたとしても、会えることは少ないし、直接話すこともないのだが、この世にいなくなってしまうと思うと気が重いのである。

 

    

 

★そんなことを言ってても始まらないので、気を取り直して今から『新しい仲間を見つけてみるか』と思ったりしているのである。

 いまから? と思われるかも知れぬが、『その人と一緒に共通の想い出を創った年代別』にみるとこんなことになっているのである。

 やはりその時期にどんな活動をしたか、どんな生き方だったかによって決まるのだと思うのである。

 

 昭和20年代  13人     学生時代

 昭和30年代  11人     入社10年 新人時代

 昭和40年代  28人     会社中堅時代

 昭和50年代  22人     会社後半

 平成       5人     退職前

 退職後     20人     この15年間

 

 結構退職後もネットなどで繋がったものだから、現役時代に比べても遜色ない数字になっていて、生き方によっては増える確率も多いのである。

 そういう意味では、人生まだ終わっていないと言えるのかも知れない。

 

  写真は今、庭に色づいた千両である。

  師走である。 来年はどんな年になるのだろう?

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12月8日という日

2017-12-09 10:03:31 | 発想$感想

★ 12月8日というと私にとってはまず一番にこの日のことを思い出す。

 

   

 

1941年(昭和16年)12月8日、日本は開戦の詔勅によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施、日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生したのである。

 小学校3年生だった。 真珠湾攻撃も鮮烈であったし、開戦後マレ―シヤでの戦闘も大勝利して、翌年2月にはシンガポールを占領し、英国が降伏したのである。  

   

 

最初はそんな出足だったのに、4年後の昭和20年8月15日には、日本は無条件降伏となるのである。

 その頃、朝鮮の京城、今のソウルにいた私は、昭和20年12月8日に釜山から博多に病院船で引き揚げてきたのである。

 中学校1年生の時だった。

 

  

 

  この写真はもっと後の舞鶴港の写真だが、こんな感じだったのだと思う。

 『12月8日』下関から明石までの車中で目にした広島などの爆撃の跡の廃墟は今でも目に焼き付いている。

 戦前の明石も知っているのだが、ホントに何もない明石に変わっていた。

 

  

12月8日』が来るたびにそんな日のことを思いだすのだが、70年以上も経った 2017年12月8日は、灘の酒心館でこんなメンバーの集まりがあったのである。

 みんなカワサキの創世期の二輪事業を支えたメンバーたちである。

 

  

 

 なぜ、突然12月8日の話になったのかと言うと、私の隣の田崎雅元さんも 小学校の頃は当時の京城にいて戦争が激しくなって満州に疎開した私と同じ引き揚げ者で外地育ちなのである。

 たまたま12月8日の話になり、こんなことを思いだしたのである。

 ちなみに田崎さんは、引き揚げて来たのは満州からだったので、私よりは2年あとの昭和22年だったと言っていた。

 

 いずれにしても、大変な時代を生きてきたのである。

 周囲の環境の変化は、現代ではとても経験できないような激変の時代なのである。

 そんな時代に育ったからだろうが、『環境の変化への適合性はずば抜けているな』と田崎さんは仰るのである。

 確かに、『好奇心が強くて、少々のことには問題なく対応できる』ようになってしまったな、とその雑談は続いたのだが、

 お互い80才の代になって、田崎さんは今年4年間も臥せていた病床から、奇跡的に戻ってきたのに全く以前と変わりないのはホントに不思議なのである。

 

 昨日集まった 1941年(昭和16年)12月8日 をご存じの年代の人たちは、みんな白髪にはなってしまったが、今なおなかなか逞しくて、遠藤治一さんなどは、ごく最近『新しい企業』を立ち上げて、『サラリーマン社長』でない念願の『オーナ-社長』になれたと意気盛んだったのである。

 今年は年初に『突然の田崎さんの復帰』から始まった1年だったが、来る年はどんな1年になるのだろうか?

 

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大谷翔平 エンジェルスに

2017-12-09 07:41:11 | 発想$感想

★大リーグに挑戦していた大谷翔平選手の入団先がロスアンジェルス・エンジェルスに決まった。

 

   

 

どこに入るのかな?』ぐらいの関心だったのだが、ロスアンジェルス・エンジェルスとなると、俄然関心が高まったのである。

 エンジェルスの球場はアナハイムにある。

 

    

 

  Google Map で調べてみるとこんな位置で、毎年遊びに行ってる娘家族が住んでいるアーヴァインのすぐ近くなのである。

 

   

 

 サンタアナの隣町で、サンタナで週末に孫のサッカーの試合があって毎週行っていたのだが、車で30分の距離である。

 エンジェルスの球場も地図で見る限り殆ど同じ距離だから、これなら大谷の出場する試合を観に行くことは、日本よりも簡単なような気がするのである。

 来年の楽しみが一つ増えたような、私にとっての今年のクリスマスの贈り物のように感じる。

 ぜひ来年の秋もアメリカに行こうかという気になった。

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憲法改正と9条と自衛隊

2017-12-08 06:45:48 | 発想$感想

 ★憲法改正議論がいろいろと言われている。

 憲法論議の細部については、『私の最も不得手の分野で正直よく解らない』のだが、制定以来70年、1回も変えていないのは、どんどん世の中が変化する中で現実に合わないと思うので、『憲法改正には賛成』の立場である。

どこの国の憲法も修正されるのが普通のようである。

 

いろんな議論があるようだが、『自衛隊が軍隊でない』とは普通に考えてもおかしいなと思うのだが、『戦力を持たない』と言う憲法を持っている国で『自衛隊は合憲』と言う論理も、もう一つすっきり理解できないのである。

 

憲法について各党はこのように考えているようだ。

 

      

 

★よく解らないので、いろんな意見をチェックしてみた。

 こんな意見がある。

 

――自衛隊は合憲と判断されてきて、いまさら書いたところで何も変わらないじゃないかという意見がありますが。

 たぶん、改憲しようとする側はそう言いますよね。憲法学者が悪者にされて、「多くの憲法学者が自衛隊は憲法違反だと言っている。だから、こんなに国民から支持されている自衛隊が肩身の狭い思いをするのはいけないから変えましょう」と。その一方で、「今でも合憲と見られているから」というわけですが、論理的に矛盾しています。

 もしも現在、自衛隊が合憲であるなら憲法の条文を変える必要はない。戦力の不保持を定めた9条2項があろうがなかろうが、自衛隊は合憲なのですから。

 ――安倍晋三首相は憲法9条の1項と2項を残したまま、自衛隊を明記する提案をしています。

 「明記するだけだから、変わりませんよ」と言っても、条文が変わると、その結果、異なった解釈の余地が出てきます。

 

こんな議論だから、読んでもよく解らないのである。

こんな理屈ばかりだから『法律などが嫌い』になってしまって、専門家に任せばいいというスタンスになってしまったのである。

 

憲法9条とは

第1項 戦争の放棄   

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 戦力の不保持

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

第3項 自衛隊を明記(→安倍総理の案)

 

つまり、戦争をしません!戦力を持ちません!っていう今の憲法は変えず 自衛隊の存在だけ追加しましょうよ!という話なんです。

 これに対して、同じ党内からも反対意見が出ています。

石破茂さんは 第2項で戦力を持たないというのに、第3項で自衛隊を明記するというのは矛盾しているというのです。

 

★ 北朝鮮問題などで、『戦争に巻き込まれる』あるいは『戦争の対象国』になる可能性が出てきている。

 昔と違って、戦争が戦争現場だけで行われるのとは違って、何千キロの海の向こうからミサイルが飛んでくるそんな時代になってしまった。『国や国民を守る』ためには、ミサイルが飛んで来たら撃ち落とすだけでは守れないのかも知れない。

陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』と言う第2項の『戦力の不保持』を含めての『憲法改正』の方が解りやすいように思うのだが、それなら『日本が戦争をする国』になってしまって、『憲法改正』そのモノがムツカシクなるという『政治的判断』なのだろうか?

 私自身はその内容については専門家や政治家に任すとして『憲法改正』については早急にやるほうがいいと言うスタンスなのだが、国民の多くはホントによく解っているのだろうか?

 世論調査では、憲法改正賛成・反対 どちらが多かったのだろう?

 

 

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貴乃花と白鵬 問題

2017-12-07 06:53:48 | 発想$感想

 ★日馬富士の暴行事件は、毎日のようにマスコミが取り上げている。

 いつどのように決着するのだろうか?

 『日馬富士の暴行事件』そのモノは一定の方向が出たようだが、昨今では相撲界を取り巻くいろいろな問題が取り上げられて、その解決はなかなかムツカシイ状況になってきた。

 ● 相撲界全体の体質問題、特に相撲協会の在り方

 ● 本来の相撲道とは

 ● 横綱とはどうあるべきか

 などなどから、貴乃花と白鵬との対立が鮮明化してきているようだ。

 

 『貴乃花の一徹な態度に対する批判

 『白鵬の勝ちだけに拘り過ぎる態度に対する批判

 

 

次のような記事の流れになっている。

 

 引退発表後も一向に報道が鳴り止まない横綱・日馬富士の暴行事件。事件発覚当初は、被害者である貴ノ岩や親方の貴乃花バッシングが繰り広げられていたが、ここにきて一転。日馬富士からモンゴル力士、白鵬バッシングへと焦点が移ってきた。たしかに、当初、相撲協会のリークに丸乗りして暴行の被害者である貴ノ岩や貴乃花ばかりを非難していたマスコミ報道は異常で、暴行事件において日馬富士が批判されるのは当然のことだ。引退会見でも暴行そのものに対する反省が見られなかったことが批判されるのもわかる。

      

 

一方このような記事もある。


 白鵬は巡業部長の貴乃花親方が冬巡業に参加することを拒否したことでも物議を醸した。実態は白鵬らモンゴル出身力士のみならず、大勢の日本人力士たちまでも貴乃花親方の姿勢に対して“拒絶反応”を示しているからだ。

その是非は別にして、角界内で生じたトラブルは当事者間の内々で収める慣習があった。その“ルール”を飛び越えて、いきなり警察へ駆け込んだ貴乃花親方の行動に対する反発は親方衆だけでなく関取衆の間にも強くある

 

★ これは本当にムツカシイ問題になりそうである。

 純粋に、 日本の国技である相撲の本来の相撲道と言う観点から言えば、『貴乃花の考え方』が本筋だと思うが、現実に力士の20%がモンゴル勢が占めていて、相撲協会の理事の殆どが『反貴乃花』と言うことから言えば、どのような結論になるのかよく解らない。

 初場所はもうすぐそこまで来ているし、果たしてどんな結論になるのだろう。

 

  

 

こんな意見もある。

相撲協会が貴乃花巡業部長を冬巡業に同行させないことを決めたことは、理解できる面もある。・・・ ただ、先日の理事長講話の時に白鵬から貴乃花巡業部長が同行するのであれば、巡業に出たくないとの意見が出たとも聞く。これに対し理事長は「そういう話は力士会で決めて、経営協議会に諮るのがルール。そこに持ってきてくれと言った」とのことだったが、その言葉には違和感を覚えた。
今回の“貴乃花外し”は世間的には、そうした力士の声を受けて、協会が貴乃花親方にペナルティーを科したようにも見えてしまうのではないだろうか

 

 白鵬の40回の優勝は素直に『おめでとう』と言おうと思っていたのだが、何となく『二の足』を踏まざるを得ないような今の状況になってしまったのである。

まさに外野席にいるわけだから、黙って見ていることしかできないのだが、解決の鍵は、貴乃花の方にあるような気がしてならない。

若し全体の流れが、貴乃花の方に動くのなら

大横綱貴乃花の相撲界に抱く真の愛情から、『大きな度量』みたいなものも見せて欲しいと思ったりするのだが・・・


 

 

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目の治療

2017-12-06 12:42:49 | 発想$感想

★ 最近、何故か『目がしょぼしょぼする』と三木山陽病院の眼科に観て貰ったのは11月22日のことである。

その時の診察では、『特に左目に傷があるので、治療の目薬をお渡しするので毎日さしてみてください』ということだった。

未だ、半月しか経っていないが、経過状況を観て貰いに病院を訪ねたのである。

 

   

 

 今回は、9時半の予約を取っていたので、非常にスムースで15分ほどで終わり、薬を貰ったのが10時前だったのである。

 

   

 

  最近の病院は、いろいろと機械化されていて、いま9時41分ですが、現在9時半から9時50分の予約の方の診療をしています。という表示番である。

   

    

 

 これは診療を終わっての支払会計の準備状況で、現在48番のカードの方までの支払いを受け付けているという表示なのである。ちなみに私の貰った番号は 53番だった。

 病院に来てからの受付も、このあと貰った支払いも、器械でやるのが原則なのだが、『よく解りませんので、やってくれますか?』と言ったら、いやな顔一つせずにやってくれるし、『ここで払いたいのですが』と言えばカウンターでも支払いOKである。 こんな融通が利くというか、親切なところがなかなかいい。

 慣れた人は、自分で器械でやるほうが逆にスムースなのかも知れない。

 

★ それは兎も角、眼の診療の方は、『傷も消えましたね。大丈夫です。』と言われた。

 

  

 

  こんな2種類の目薬を黄色いのは日に4回、赤いのは日に3回刺してきただけだが、それで治ってしまったのである。

 ただ、日に3回、4回目薬を差すのは、結構大変である。

 すぐ、忘れそうになってしまうのである。

 

今回の診断では、『もう大丈夫』と言われたのだが、黄色いほうは毎日『さし続けても大丈夫』と言うので、貰ってきたのである。

 目がしょぼしょぼする のは治ったので、ホッとしている。

 それにしても『よく効く』ものである。

 どんな傷かは知らぬが、眼の傷が無くなるというのは不思議に思ったりもするのである。

 1ヶ月前は、眼だから結構心配もしたのだが、大したことにならなくてよかった。

 

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