雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

技監という職位    雑感

2021-10-02 06:16:05 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私は人生で『何になりたい』と思ったことはホントに一度もない。

  ただ、自分で『やりたいこと』をやって過ごしてきたし、
  幸運にも恵まれて『やりたいことが出来た人生』を過ごせたと思っている。

  社会の中では
  会長・社長・専務・常務・部長・課長などいろいろな職位があるが
  幸いにそのすべてを曲がりなりにも経験できたのである。
  その職位も世の中には大小いろいろな企業があるから、
  同じ社長でもピンキリであることは間違いない。

  私の最終職位川崎重工業の技監なのである。
  技監とは技術屋さんで博士号をとった技術の権威者や
  官公庁から川重に天下りしたお役人などを取締役待遇で遇する役職で、
  そのすべてが技術屋さんだったのだが、
  私は川重で初めての事務屋の技監だったのである。
  

    

  
  これは間違いなく当時の川重社長だった大庭浩さんの人事で、
  大庭さんからは直接私に『お前はマーケッテングの専門家だから』という
  説明付きの人事だったのである。

  大庭さんの最後の事業本部長が単車で、私はその番頭役の企画室長だったのだが、
  技術以外の経営・財務に関することはほぼ100%任されていたのである。
  大庭浩さんは『めちゃこわい』という評判の方だったが、
  その怖い顔をものともせず自論を述べていくと、
  その論理を納得されると『常にOK』が出るのである。
  そんなことで私の現役時代に私の意見を一番多く聞いて頂いた上司は大庭さんなのである。


      

  
★ この技監という職位を私が気に入っているのは、

  ● 川崎重工業で初めての事務屋の技監であったこと
  ● その職位は大庭浩社長直々の決裁であったこと
  ● その職の理由を大庭さん自らがわざわざ私に説明されたこと

 などから、私を取締役にせずに技監にされるまで、
 大庭さんなりにいろい熟慮されたのは間違いないのである。

 そして『技監』という職位は特に中央官庁では大いに役に立ったのである。
 中央官庁に行くと会社の社長や専務の名刺を出しても特別なことはないのだが、
 『技監』の名刺は結構尊重して頂けたのである。
 多分それは官公庁の結構な地位の方が天下りされて『技監』になられているので、 
 多分、その方と同じ『技監』ということなのだ思うのである。


★ 今は川重の役職も形が変わって『技監』という職位があるのかどうか、
 私には解らないのだが、
 当時は私の実際の職務はカワサキの国内販社専務して、
 実質すべてを統括して国内7万台の達成の実績を上げることが出来たし、
 当時の国内カワサキのイメージは最高の時代で、
 大庭さんが言われる『マーケッテングの専門家』としての技監に恥じない実績が残せたのを嬉しく思っているのである。

 社長は当時の川重副社長をされていた髙橋鐵郎さんが兼務されていたのである。

         

 
 これは、国内販社の社長はずっと単車事業部の本部長が兼務されていたのだが、
 当時の単車本部長は田崎雅元さんで、年次では私が1年上なものだから
 それを気にされて川重副社長の髙橋さんの社長兼務だったのだと思うのである。
 長い歴史を誇るカワサキオートバイ販売(現在のKMJ)で川崎重工の副社長が社長を兼務されたのは、唯一私の専務時代だけなのである。

 そんなことで、上の方たちが『私のこと』をいろいろ気を遣って頂いた『技監人事』だったので、
 私は今でも一番気に入っている『私の職位』なのである。
 本当にありがたかったと思っている懐かしい『技監』の職位なのである。

 
 
 
 

 
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私と松茸の昔話    

2021-10-01 06:04:41 | 発想$感想

★10月になった。 松茸の最盛期である。

 昔は幾らでも採れたのだが、
 今は貴重品で一箱15000円もするらしい。
 最近は松茸など食ったことがナイ。

 

 
 私は若いころ肺結核で1年間、療養所に入院したことがある。

 場所は兵庫県三田市のこんな山手で周囲は山ばかりの環境だった。
 秋には松茸がいっぱい生えるのである。
 昭和35年(1960)のことで当時は松茸を山で採ってきても、
 そんなに問題にもならなかった悠長な時代であった。

 入院者が散歩がてらに山に入って、松茸をいっぱい採ってくるのである。
 採ってきた松茸は大きな籠に入れて貯めていたので、
 食おうと思えば幾らでも食えたのである。
 多分、普通の方が一生のうちに食う松茸の何倍もの量を食ったし、
 見舞いに来た方のお土産に上げたりしていた。
 毎朝、誰かが採ってくるものだから、籠の松茸は絶えることはなかったのである。

 松茸の他にも、カスミ網でヒヨドリを獲ったりする趣味の人もいた。
 私は松茸もヒヨドリも『頂く』ばかりでとったことはない。
 趣味が違って、もっぱら地図にも出ている野池で鮒釣をしていた。
 
 ただ、入院期間も1年だけだったので、
 松茸をたらふく食ったのもこの年だけの話である。

 
 



★ あんなに沢山採れていたのに、最近はなぜ採れないのか?
 ちょっと調べてみたら

松茸は基本的に赤松の林で発生、それも25年ぐらいの松の根元に生えるらしい。
松茸の生える条件がよければ環状に何本も出たりするが、
『松茸が生える山は落ち葉が積もっていないきれいな山、地面が乾燥している痩せた土地で、日当たりの良い南向きの斜面に生えやすい』のだという。
昔は人が山に入って落ち葉を持ち帰ったりしていたので、どこの山でも松茸は生えたのだが、
昨今は人は山に入らぬし、落ち葉は貯まり放題だから、
手入れをされた山にしか生えないのだという。

   


豊作になるかは、その年の気候の影響を強く受けて、
春から夏にかけて降水量が多く、梅雨の時期は雨がしっかり降る・台風が多い
・7月~8月は暑い・9月の残暑が厳しくなく、気温がゆっくり下がりながら雨が降るなどと言われているが今年はどうなのだろう?

  
★ 今は、三田のこの山に松茸は生えるのだろうか?
 写真を見ると、新しい住宅地も出来てるし、環境も変わってしまったのかも知れない。

いずれにしても『60年も前の昔話』で『いい時代』だったのかも知れない。
カワサキが二輪事業をスタートさせた年でもある。
 私はこの療養所から11月に退院して、新しくできた『単車営業課』に配属され、二輪と関係が出来ることになったのである。

ちょうど『松茸のシーズン』が終わると同時の退院だった。


 
 

 
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