関とおるの鶴岡・山形県政通信

安心して住み続けられる山形県をめざして、住民の暮らし、県政の動き、そして私の考えと活動をお知らせします。

感動の「純と愛」

2013年04月04日 | よろず

NHKの朝ドラ、「純と愛」が終わりました。

最初はかなり違和感のあるドラマでした。
出てくる人物が一人残らず、ちょっと困った人ばかり。
どの人についても、「なんだコイツは!」とむかつくことがありました。
そして時々荒唐無稽、極端な誇張、単純すぎる展開、etc.・・。

しかし妙にリアリティーがある。
それは現実の人間の本当の有り様が映し出されているからでしょう。
狩野善行(純の父)の自分勝手な父親振りなどは、私も父親として思い当たるところが多々あり、「オレはこんなにひどくは無いな」などと心の中で自己弁護しながら、妻や娘に、「お父さんと同じだ」と言われるのではないかと、冷や冷やしながら観ていました。

そして、困った人たちは、皆、尊敬に値する魅力をもった、愛すべき仲間。
これが普通の人間の姿と教えているようです。

また、強引に思えるストーリーに「なんだなんだ」と思っても、それはハッとするドラマチックな場面に繋がって、一流の演劇を見せられたように納得させられてしまいました。

最終話の前の回では、最初のホテル時代、次の旅館時代の仲間達が純を訪ねてきて、それぞれが大きな幸せを掴んだことを報告します。
しかし皆の前には、久しぶりに会う愛が、恐らく二度と意識を取り戻さないであろうと思われる姿で横たわっています。
希望と絶望の凄まじいコントラストに、喜んでいいのか、悲しむべきなのか、心がガクガク揺すられました。

最終話、純は沖縄の海に向かって、真正面から風を受けながら叫びました。
その台詞を載せている投稿がありましたのでご紹介。
https://www.facebook.com/sekidesu?ref=tn_tnmn#!/photo.php?fbid=446403248774105&set=a.242193165861782.58552.100002133010975&type=1&theater
だいたいこのようなものだったと思いますが、他に大事な言葉がありました。

「たとえ、この世で一番大切な人が・・、一生目覚めなくても・・、私は死ぬまで町田純で有り続ける!、と、決めた」 



どんな困難に直面しても、それを敢然と乗り越えて前に進む、たくましい人間の姿に心が震えました。

しかし、純は賢く立派な人間ではありません。
いかに深い悲しみに覆われても、一歩いっぽ歩いていくしかないじゃないか、と、普通の人が一日いちにちの暮らしを積み重ねていることへの、自然な共感が表現されているように思われました。
ポン、と軽く肩をたたいて声をかけるように。

そしてそれは、この時代の最大の悲劇、東日本大震災から2年の日々を過ごしてこられた、被災者の方々への思いと響き合うようにも私には感じられました。

ラストシーンで、純のキスに愛の指が反応しました。
回復せずに終わるのかもしれませんがそれでもいい、かすかな希望が示されたそれだけで十分でした。

前編を通して「眠り姫」の物語がモチーフとなり、HYの歌がこのドラマの底に流れているものを教えてくれるようでした。
特に、最終話の純の叫びの後の歌はスゴカッタ。

「家政婦のミタ」「女王の教室」の湯川和彦脚本と言うことで観始めましたが、朝ドラを一度も欠かさず最後まで観終わったのは初めてでした。
なお、最初何回か観て、「これは、朝観ては仕事に差し支える」と思ったのと、朝は時間的に無理があるのとで、録画して夜中に一人で、何回かまとめて観ましたが正解だったようです。

矛盾だらけ、苦しみと悲しみだらけのこの世の中(と私も格闘していますが)で、多くの人が純と愛のように頑張っているんだろうなあ~と思わされ、心があったかくなるようなドラマでした。

よかった~。


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