関とおるの鶴岡・山形県政通信

安心して住み続けられる山形県をめざして、住民の暮らし、県政の動き、そして私の考えと活動をお知らせします。

闘う看護の日

2021年05月13日 | 医療・介護・福祉など社会保障

  5月12日は「近代看護教育の母」と言われるフローレンス・ナイチンゲール生誕を記念する看護の日。今年は201年目にあたると言います。

<コロナが問う日本の医療>
 今、コロナ禍で日本の医療・看護のあり方が根本から問われています。
 欧米諸国に比べれば少ない患者数で病床不足が広がっています。病床に配置されている医師・看護師等の医療従事者の数が、先進国で最少レベル、普段から目一杯の状況におかれていたという問題が露呈しました。
(百床あたり看護師数はドイツの半分、イギリス・アメリカの5分の1程度)
 国が支出する医療・社会保障費は少ないほど良い、医療や介護は自己責任という自民党政治=新自由主義の政治がもたらしたものです。
 本県でも、重症者を受け入れる県立中央病院のコロナ病床利用率は一時8割を超え、先月は日本海総合病院もそういう状況に近づきました。
 コロナ病床をこれ以上増やそうとしても、医師・看護師が確保できないため、いかんともしがたいところに立ち至っています。

<「休んでる看護師が多いから大丈夫」!?>
 ところが菅首相は、こうした根本問題に一切触れないどころか、東京五輪・パラリンピック組織委員会が日本看護協会に依頼している大会期間中の看護師500人派遣の問題について、「現在休まれている方(看護師)もたくさんいると聞いているのでそうしたことは可能だ」などと述べました。
 70万人にのぼるとされる「休まれている方=潜在看護師」の離職理由は、結婚、出産、育児との両立困難、続いて健康の問題です。
 過酷な労働条件で実に有資格者の3分の1が離職するという異常な事態を作り出していることに無反省のまま、オリパラ要員にカウントしようなどとは、看護師という職業を舐めていると言うほかありません。

<「コロナ笑笑」!?>
 その首相が任命した内閣官房参与が、日本のコロナ感染状況を「さざ波」といい、「笑笑」とつけてツイートしたことを日本共産党山添拓衆議院議員が取り上げ、「首相もそういう認識だからオリパラをやろうとしているのか」と追及しました。
 首相の答弁は例によって冷酷・無反省なものでした。
 人の命の重みを感じない人物が国の指導者に居座っています。

<看護師を大切にする社会を>
 私は医療職場20年+議員15年、多くの看護師の方々と対話してきました。直接語り合い、名前と顔がわかる人で200人以上はいるでしょうか。
 「毎日やんだぐなる」ほどの過重な仕事、にも関わらず感じる大きなやりがい、健康のこと、子育てを始めとする家族のこと、そして退職の決断などなど、看護師人生を色々な角度から知りきました。(32年間一緒に暮らしている人も一人います)
 看護師は、人生の「苦」の一つである病を得た人の生命と人生に寄り添い支える仕事であり、エッセンシャルワーカーという言葉でも足りない深い価値を持つ職業です。
 この方々がどう処遇されているか、ゆとりを持って働き暮らせているかと言う事は、その社会で人間がどう扱われているかの分かり易い指標の一つに違いありません。
 
 この間、NHKスペシャルを始めとして、テレビや新聞で、限界を超えるコロナ病棟の看護師の仕事が紹介されてきました。
 看護師資格があれば日本中どこでも働ける中で、辞めてしまうのが当たり前と思える過酷な現場で頑張っているのは、使命感以外に無いと言う事が痛感されます。



 看護師をしっかり支える社会を作っていかなければなりません。
 配置基準、休日休暇、賃金などなどを先進国水準に急いで引き上げる、そういう政策の必要性を山形県の認識にすること、そしてそういう立場に立った政府を何としても作っていくこと、そのために頑張るぞと強く決意する看護の日でした。

<ナイチンゲールの言葉>
 私も素人ながら、看護というものについて、当事者のお話を聞くにとどまらず、いくつか本も読んできました。
 ナイチンゲールの有名な言葉にこういうのがありました。
 「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。」
 優しさだけでなく、辛い仕事もおこなわねばならないという意味と聞きましたが、それだけでなく、軍や国とも戦ってみずからの看護を社会に広めたナイチンゲールの生き様を、この言葉から学ぶべきだという専門家のご意見に得心しました。
 今こそ、一人でも多くの看護師が現場の声を社会に発信してくれることを願って已みません。

 最後に、ナイチンゲール記章受賞者のお一人、川島みどり先生のお言葉。私なんぞが看護を語るのが恥ずかしくなりますが。
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