興福寺の見物を終えて、奈良公園を横切るようにして、東大寺へと向かいます。私は拝観ではなくて見物なので、罰当たり者です。
この地図では何が何だかよく分りませんね。
先日NHKで『大仏開眼』というドラマがありました。土曜の夜はいつもなら酔っ払っているのですが、放送のあった2週の土曜日はお酒も程々にして、ドラマを観ました。感想を述べると、たいしたドラマじゃ無かったですね。
大仏建立のために駆り出された庶民の苦しみが全く描かれていなかったし、阿倍内親王の東宮学士となった吉備真備は当時50歳前の壮年、吉岡秀隆では若すぎたようです。
奈良の鹿も子どもたちの遊び相手、内心何を思っているのかは分りませんが、頭をなぜられたり、体を触られたりしても、怒る様子もありません。こうしていると鹿はおとなしい動物なのでしょうが、野山では植林の若芽を食べたりするので困った面もあるのです。
公園内の一角に奈良国立博物館があり、大遣唐使展が開催されていましたが、入場している暇はありませんでした。
その傍らに真新しい碑が建っており、宝蔵院流鎌槍発祥の地と彫ってあります。興福寺の宝蔵院がここにあったということは、その昔、興福寺の境内は相当な広さを持っていたのです。山田風太郎の魔界転生には宝蔵院流槍の胤舜が出てきていました。
東大寺への道に入ると、日曜日のなんばWalkの地下街を思わせるような人・人・人、せっかく古の都を訪ねて来たのに、そんな雰囲気は全くありません。
すぐ近くに若草山を観ながら歩くのですが、どう考えても人を観に来たようで、出直す方が賢明なようです。
とにかく南大門までは辿り着こうと、渋々歩きました。人がいっぱいで望遠で屋根の方しか写せません。東大寺の南大門は国宝です。
南大門の前にあった立て札に光明皇后の1250年法要が今年10月に催されると書いてありました。光明皇后は藤原不比等の娘・光明子、この娘を聖武天皇の后として奉り、安倍内親王を産んだことが始まりで、藤原家は代々娘を献上することにより天皇の外戚とする地位を利用し、朝廷での地位を確立していったのでした。
この地図では何が何だかよく分りませんね。
先日NHKで『大仏開眼』というドラマがありました。土曜の夜はいつもなら酔っ払っているのですが、放送のあった2週の土曜日はお酒も程々にして、ドラマを観ました。感想を述べると、たいしたドラマじゃ無かったですね。
大仏建立のために駆り出された庶民の苦しみが全く描かれていなかったし、阿倍内親王の東宮学士となった吉備真備は当時50歳前の壮年、吉岡秀隆では若すぎたようです。
奈良の鹿も子どもたちの遊び相手、内心何を思っているのかは分りませんが、頭をなぜられたり、体を触られたりしても、怒る様子もありません。こうしていると鹿はおとなしい動物なのでしょうが、野山では植林の若芽を食べたりするので困った面もあるのです。
公園内の一角に奈良国立博物館があり、大遣唐使展が開催されていましたが、入場している暇はありませんでした。
その傍らに真新しい碑が建っており、宝蔵院流鎌槍発祥の地と彫ってあります。興福寺の宝蔵院がここにあったということは、その昔、興福寺の境内は相当な広さを持っていたのです。山田風太郎の魔界転生には宝蔵院流槍の胤舜が出てきていました。
東大寺への道に入ると、日曜日のなんばWalkの地下街を思わせるような人・人・人、せっかく古の都を訪ねて来たのに、そんな雰囲気は全くありません。
すぐ近くに若草山を観ながら歩くのですが、どう考えても人を観に来たようで、出直す方が賢明なようです。
とにかく南大門までは辿り着こうと、渋々歩きました。人がいっぱいで望遠で屋根の方しか写せません。東大寺の南大門は国宝です。
南大門の前にあった立て札に光明皇后の1250年法要が今年10月に催されると書いてありました。光明皇后は藤原不比等の娘・光明子、この娘を聖武天皇の后として奉り、安倍内親王を産んだことが始まりで、藤原家は代々娘を献上することにより天皇の外戚とする地位を利用し、朝廷での地位を確立していったのでした。