ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

丹鶴城址

2011-08-31 05:00:00 | 田舎
浮島の森を後ろに元来た道を歩きます。歩いているとよく分かるのですが、街の至る所に道標があり、しきりに浮島の森の方向を示したり、新宮(丹鶴)城址を示したりしてくれています。丹鶴城と呼ぶのは保元の乱で崇徳上皇について敗れた源為義の娘、丹鶴姫の建てた東仙寺がこの地にあったからとされています。

丹鶴姫の弟が新宮十郎行家で、義経とともに平家を討つ先兵となりますが、義経と同様頼朝からは評価されませんでした。丹鶴姫の生んだ子に湛増という息子がいますが、彼の指揮する熊野水軍を平家につこうか、源氏につこうかと迷って、田辺の神社で紅白に分けた鶏を闘わせてその行方を決めました。その神社が闘鶏神社として今なお残っています。

             

夏の昼間の暑い時、昼食を摂るのに歩き回り、浮島の森を探し求め、ようやく丹鶴城址まで来たのですが、入り口に着いて唖然、階段が続いているのです。でもここまで来たら登ってみなくてはと気を取り直して、天守閣のあったところまでは行かなくてはなりません。

             

やっとたどり着いた平地ですが、ここよりまだ先がありました。この平地にはたくさんの桜の木が植わっていました。春に来ればさぞきれいだろうと思います。

             

道端にさり気なく置かれている五輪塔、室町時代のお墓だそうですが、詳しいことは分かっていません。

             

本丸跡まで登ってくると井戸がありましたが、こんな高いところに井戸を掘っても水脈までは相当あるでしょうから、水など無かったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

                  

丹鶴姫の碑がありました。源為義が後白河上皇の行幸に伴ってこの地にやって来た時にみそめた女人に生ませたのが丹鶴姫姉弟だったのですが、二人とも源平の争乱に巻き込まれていきました。

             

城址から見下ろす新宮市街、こちらは西の方角でしょうか。オークワの看板が見えますが、私が車を停めたオークワではありません。

             

海が見える方角、お寺の屋根が近くに見えますが、きっとこの山の中腹辺りに建てられたものなのでしょう。最初の写真の熊野川を見下ろす風景もなかなかいいものでした。

             

丹鶴城址にて与謝野寛詠という碑がありました。与謝野寛とは与謝野鉄幹のことで、北原白秋らと共に初めて新宮を訪れたときのものだそうで、『高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰ぞ涙すや 城のゆふべに』と詠まれていますが、そんなに感心するほどの詩ではないように思います。

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