杭全と書いて「くまた」と読めるのは、大阪の人、それも市内の南部に関係のある人が多いのではないかと思います。25号線を挟んで大念仏寺のほぼ対面に位置する杭全神社は平野区平野宮町に有りますが、杭全という街自体は東住吉区に有り、神社より1kmほど西に位置します。平安初期、坂上田村麻呂の子・広野麿が領地として杭全荘を賜り、その子当道が貞観4年(862年)に氏神として素戔嗚尊を勧請し、祇園社を創建したのがこの神社の始まりとありました。平安初期からこの地を杭全と呼んでいたことが窺えますが、その字は違っていたかも知れません。この地を平野郷と呼んだのは田村麻呂の子・広野麿からとったとも伝えられています。
手前の道路が国道25号線、道路に面して鳥居は建っていますが、神社そのものはずっと奥、対面に大念仏寺があると書きましたが、道路沿いにあるのではなく、少し奥まったところにあり、注意深く見ているとお寺の大きな屋根が少しだけ見えます。
鳥居を潜って神社に向かうと左手に五円玉が描かれた標柱が建っており、何だろうと思ってよく見ると、その奥は田んぼであり、かなり前に稲刈りは済んだようですが、稲穂はずっとかけられたまま、このままずっと放置しておくのでしょうか。
後ろの建物は平野小学校の校舎です。
田んぼの横には池(弁天池)があり、池の中央に向かって橋が延びて、鳥居、社が建っており、宇賀神社と書かれていました。
池を越えると少しこんもりとした丘、筆塚や日露戦役記念碑、忠魂碑などが一堂に並んでいます。杭全神社とはあまり関係の無いものと位置付けられているのかも知れません。
少し戻って、池の北側に沿って奥に入ると天満宮拝所があります。
この弁天池は平野環濠(後日このブログで紹介するつもり)の名残らしい。
やっと杭全神社の標柱が見えてきました。右側は杭全公園、小さい子供を遊ばせている母親が目立つぐらい、平日の昼間だったのであまり人は見かけません。
標柱には文字が刻まれていますが、2文字目を崩し過ぎているので、しっかり読めるのは3文字目の『有』しかありません。1文字目は『国』、最後は『威』かも知れませんが、それらしき熟語が浮かんで来ないのです。
標柱から50mほどで山門、この神社では大門と呼んでいるそうで、鎌倉時代に造られたものと書かれていました。大門の正面奥に見えている建物が拝殿です。
大門を潜ると左手に恵比寿社、田村社、十柱社と並んでいます。古事記などでは神のことを柱と称することが度々ありましたが、この十柱とはどの神のことを言っているのでしょうか。他にもたくさん祠は有るのです。
ずっと左端から歩いていき、拝殿の手前で中央に戻ろうとしたときに、縄で囲った空間があり、そこには六つの釜が並んでいます。何故釜が6個なのかよく解りませんが、収穫したコメをこの釜で炊こうというのでしょうか。それも神事の一つなのかも知れません。