元禄15(1702)年12月15日未明、大石内蔵助以下赤穂浪士47人が江戸本所にある吉良上野介邸を急襲、2時間の激闘の末、上野介の首を取る。すぐに江戸はおろか、日本中がこの事件で沸騰したことは言うまでもない。
一体、赤穂浪士たちは治安の厳しい江戸市中にあって、どうやってこれほど見事に本懐(ほんかい)を遂げることができたのだろうか。さらにまた、吉良方では討ち入りがあることを予測し、150人もの守備隊を用意していた。赤穂浪士の3倍の数だ。それでいて、戦闘が終わってみれば、赤穂浪士側は軽傷者が数名出た程度。対する吉良側の死傷者は40人以上を数えた。
赤穂浪士の奇跡的な仇討ちの成功は、彼らの周到極まる準備があってこそだった。
まず、討ち入り当日の装束(しょうぞく)だ。浪士らは一様に火事装束に身を固めていた。これなら夜間、市中を歩き回っても、当時の江戸は火事が多いだけに見とがめられる気遣いは少ない。しかも、装束の下には現代の防弾チョッキに相当する鎖帷子(くさりかたびら)を着こんでいた。
携帯した武器は刀や槍(やり)、薙刀(なぎなた)、弓など。それに付随する道具類として、門や戸を打ち破るために使うかけや(大型のつち)のほか、はしご、かぎ縄、かすがいまで持っていた。
かけやや梯子を持ち歩いても不審に思われないいでたち――火事装束がここでも生きた。道具の中で、予想以上の効果を発揮したのが、かすがいだ。
本所の吉良屋敷は2500坪という規模を誇り、邸宅の周囲はぐるりと長屋に囲まれていた。討ち入り当日、長屋には150人の家来の大半が寝ていたと推測されている。吉良邸に踏み込んだ赤穂浪士らが真っ先に行なったのは、長屋の雨戸をかすがいですべて閉じてしまったことだ。
浪士方にとっては、この長屋が一部屋一部屋壁で仕切られ、長屋の外に出なければ互いに情報交換できないという構造が幸いした。
したがって、戦闘能力は十分にあるものの大半の家来は雨戸の外から聞こえてくる激しい剣戟(けんげき)や雄叫(おたけ)びに疑心暗鬼となり外に出たくても出られず、闇の中で身を震わせていたというのが本当のところのようだ。
こうした、あらゆる事態を想定した上での、ち密で周到な準備の積み重ねがもたらした泰平の世の奇跡――それが赤穂浪士の討ち入り事件である。
---owari---
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