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武田信玄:臆病者には臆病者の役目がある

2021年10月10日 | 歴史
武田信玄」は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。天下を目指していた信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも評されています。
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武田信玄の本名は武田晴信
世には武田信玄の名が浸透していますが、本当の名は「武田晴信」(たけだはるのぶ)です。1536(天文5年)、信玄が元服した際に、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)の字をもらい、武田晴信と名乗るようになりました。

武田家の祖は清和源氏であり、室町幕府の足利氏とは祖先が同じ一族なのです。なお、よく知られている「信玄」の名は、39歳で出家したときの法号です。
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(臆病者には臆病者の役目がある)
この岩間大蔵左衛門は、父の信虎のころから仕えていた武士だ。が、臆病で絶対に戦場には行かない。
「わたくしは合戦が嫌いです」
といって、供をしない。あきれた仲間が、岩間を無理やり馬の背にくくりつけようとすると、必死になってあばれる。

「死ぬのは嫌だ! 嫌だ、許してくれ!」
と大仰にわめき声をあげる。父の信虎は怒って、
「こんな臆病者は殺してしまえ」
といったことがある。そのとき、
「いや、臆病者には臆病者の使い方がございましょう」
と、岩間の身柄を引き受けたのが晴信だ。

信虎は晴信が嫌いだったから、
「きさまは余計なことをする」
とムチを振り上げた。晴信は甘んじて岩間のかわりに父の打を受けるつもりでいた。
父もあまり大人気ないと思ったのか、フンと横を向くと、
「勝手にしろ」
と岩間の始末を晴信に任せた。

以後、晴信は岩間に似つかわしい仕事を与えた。晴信はのちに、
「われ人を用うるにあらず、人の能を用うるなり」
といっている。どっちとも取れることばだ。

「オレは人間を使うのではない。人間の能力を使うのだ」
という裏には、
「第一印象で、その人間を決めつけるな」
ということがある。だから岩間大蔵左衛門のような臆病者にも、
(かならずどこかに長所があるはずだ)
と思っていた。

晴信がその後、岩間にいいつけたのは、
(留守居)
である。父の信虎に率いられた武田軍が躑躅ケ崎(つつじがさき)の館から出陣したあと、
「館の管理をきちんとおこなえ。また使用人をよく監督しろ」
ということであった。       

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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