じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ネパールトレッキング四方山話

2014-01-18 13:12:28 | ネパール旅日記 2013

 11月25日 火曜日 カロパ二にて

 ネパールの緯度がもっと北だったら.

 ネパールは位置的には亜熱帯の国なのだが、しかし、この国の気候的な特徴は東西南北では著し切れない、垂直で表す季節感が存在する.
標高の低い町ならバナナやマンゴーが実る国で、真夏でも6000mから上に行けば雪と氷の世界が有るのだ.
自分が6000mに登ったのは秋と冬の境目のような季節だったから降雪はまだ少なく、なんとか登れたが、あれ以上寒くて雪が多かったらとても登れなかっただろう.
そんな事から、もしもヒマラヤが亜熱帯ではなくもっと北の方に有ったならそう容易く登れはしなかっただろうと思う.

 高所に置ける野糞の考察.

 標高2000mや3000mでの野糞の経験はあるが4000mから上でのそれは未体験だった.
4000mは高度順化も容易く、比較的慣れるのも早いし酸素の量もまだそれ程減っては居ないので特別な不都合は無かった.
自分が野糞をしてこれはヤバイと感じたのは5000mから上だった.
5000mに要る時には高度順化も不完全で頭痛を感じていた.
頭痛を抱えた頭で野糞をした場合、あまり固く無い自分の便でも多少の息みは必要なのだが、それをしただけで猛烈な頭痛に襲われた.
標高5000mは日没後相当に冷え込む.
そこで尻を長く風に晒せば色々と不都合なことが起る.
なので素早く排泄したくて息もうとするのだが、気張れば頭の血管が二三本ブチッと切れたかと思うような感覚が頭部を襲う.
可能かどうかは別にして、高地での野糞は自然体で出るに任せてするべきで、気張ってはいけないと思った.

 駄獣ってなんだ?

 ネパールの事やチベット旅行記の少し真面目な本を読むと、色々なところに駄獣と言う表現が出て来る.
自分がネパールを歩いてみるまでは駄獣が何物なのか見当もつかなかったが、それは、恐らくラバの事だろうと見当がついた.
本の中には駄獣として山羊やロバを含めて書いているものもあったがそれは間違いだと思った.
馬以外の荷役の動物を駄獣と言ってしまっては収まりがつかなくなってしまうし、河口慧海は山羊に荷物を背負わせた記述があるが、自分は一月のネパール滞在で山羊や羊が荷物を運ぶ姿は見なかった.
ちなみにラバは雄のロバと雌の馬を掛け合わせて生まれるが一代限りで繁殖は出来ないらしい.
ラバは身体がロバより大きくきつい荷役に耐えつつ性格が温厚で、ロバ並みの粗食にも耐える事から山岳部では荷役に活躍していて普通に見る事が出来た.
ヒマラヤ・チベット旅行記で河口慧海と関係の深い自分の愛読書、根深誠著「遥かなるチベット」にもラバの記述は有って、ネパール語でカッツアル、チベット語でテェーと言うと書いている.
しかし、根深誠はラバとは別に駄獣と言う表現の動物も書いているのだが、荷役をするしないに関わらず、牛馬やロバ以外の小型の家畜を駄獣と言う慣しでもあるのだろうか、と思うが.

 インド文化圏の存在

 日本人にとってのアジア経済と文化は、どうしても日本が中心に回っていると思いたいが、現実は、中華経済文化圏やインド経済文化圏が厳然と存在し、そこでは日本は影が薄い事を痛切に感じた.
ネパールはインド経済文化圏であった.
例えば、日本が誇る自動車は韓国製のキアよりも少なかったかも知れない.
ネパールで走っているのは、小さな乗用車から大型トラックまで、ほとんどがインドのタタ自動車製であった.
関税や価格的な事もあるのだろうがアジアでは当たり前に幅を利かせている日本の自動車が殆ど見られないのは感動的たった.
そして、ヒンドゥー経による宗教と文化の影響と、自動車以外の経済もインドに頼っているネパールは確実にインド経済文化圏と呼んで良いと思った.
そこにチラチラと中国の影が見えているのがまた面白かったが、アジアと言えば日本が盟主だと思うのは日本人の勝手な思い込み、勘違いであると強く感じだ.
しかし、宿の経営者などの金持ちと話しをするとトヨタのランクルは一番人気なのだが、関税が高くて買えないとの事だった.
タタの小型車なら40万円程度で買えるが、トヨタのランクルは250%の関税で日本円で1500万円にもなるそうだ.

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コレパ二 へ No.21

2014-01-12 13:52:03 | ネパール旅日記 2013

 11月25日 月曜日 快晴 強風

 7:30 マルファ出発 トゥクチェ~ラルジュン~コケタニ~1:00コレパニ着

 ジョムソンから先のジープロードを歩いてしまうと、アンナプルナサーキットは既に秘境でもない、高原地帯の埃っぽい田舎道だった。
残されている昔の遺跡や風景から歴史と文化の違いは感じるが、それらは保存されていると言うよりは開発が遅れているから残っていると感じるものだった。
だから自分はドルジに言って、遠回りでもアップダウンがきつくても可能な限り旧道を行ってくれるように頼んだ。
ポーターとして重い荷物を背負っているナーランでさえ埃まみれのジープロードよりも上り下りの激しい旧道を選んだ。

 ジープロードが街の中を通り抜けていればバスターミナルやジープの乗り場などに幾分かの賑わいが見られるのだが、道が迂回して取り残されていると街は歴然と寂れている。
9時半頃トゥクチェの村でお茶を飲んだが歩くトレッカーの姿も無く静かだった。
暖かくなった証拠か、ミルクティーのカップに蠅がとまるようになった。

 コバンからラルジュンへと、カリガンダキ川と平行に走るジープロード沿いの街を通り抜けて行った。
街はジープロードが迂回していて静かだったが、いよいよ普通の田舎の風景になり建物も石積みの家に混じって材木で造ったトタン屋根さえ見られるようになった。

 ラルジュンには日本人のツアー客が良く泊まる一泊100ドルもする高級ホテルが在って、ナーランが見に行くか?と問うたが、この格好で俺たちが行ったら迷惑だろうと言って遠慮した。

 ジープロードの車は頻繁に走っているものでは無く、埃もその時だけなのだが、出来る限り昔のトレッキングロードに忠実にとの想いから無理してでも河原を歩いた。
地図で見るとジープロードしか無いように見えるが、注意深く歩いて行くと人の踏み跡や牛の踏み跡が河原へ降りていて、相当な区間でジープロードから離れられる。
対岸にも歩けるルートが有ると地図には記されているが宿が無いので現実的ではない。
このルートを行こうと言い張ってドルジと揉めたのだが、宿の主人がキャンプ道具持参じゃないと無理だと言うので引き下がった経緯がある。

 ダウラギリの氷河を間近に眺めて歩くラルジュン界隈のトレッキングはアンナプルナサーキットの三大景勝地の一つに数えたいと思う。
ラルジュンからはトレッキングルートを辿ってダウラギリの氷河の下まで行く事が出来るそうで、いつの日かまた歩いてみたい道だと思った。

 ラルジュンの先でカリガンダキ川を渡り完全な旧道に入った。
この道こそが往年のアンナプルナ街道なのだと感激したのも束の間、今は昔なのか、往時を偲ぶには街道は余りにも寂れ過ぎていた。
街道の石畳は長い年月踏まれ続け擦り減っていて、人が歩く真ん中を残し苔むしていた。
ラルジュンの道端には花が咲き、赤とんぼも見られ、日本の田舎の秋のようだった。

 11時30分コケタニにて昼食。
コケタニの宿はガイドやポーターの御用達なのか、寂れた一軒の宿に数組のトレッカーが集まった。
スープヌードルとゆで卵の昼飯を食べ終えのんびりミルクティーを飲んでいるとガイドとポーターとトレッカーで総勢13人もの団体がやって来た。
この団体が騒がしくて落ち着かないのでドルジ達が食べ終わるのを待って早々に出発した。
この団体はジョムソンまで飛行機で入り下り方向でポカラまでトレッキングするのだった。
6名のトレッカーにポーターが6名とガイドが一人だった。

 1:00時 コラパニ着。

 コラパニの宿は良かった。
ホテルと言う名の山小屋が多かったのだがここは全く普通にホテルだった。
当然のようにシャワーとトイレが付いて電気も24時間通っていて、料金は400円だ。

 ホットシャワーを浴び軽く洗濯をし、ニルギリとダウラギリの両方を眺められる屋上の物干に万国旗を並べた。
この絶景を眺めながら一杯やりたいと思いナーランにネパールウィスキーとコーラを一本貰って来てくれと頼んだ。
グラスは三個な、と言うとナーランの頬が緩んだ。

 陽当たりの良い屋上はTシャツ一枚で平気だった。
ドルジが地図を見せてくれと言うので広げると、明日の相談なんだが、と始まった。
ドルジが言い難そうにしているとナーランが「提案なんだが、明日はバスを使わないか?」と口を切った。
「えっ?俺は高い金を払ってネパールの田舎道を歩きに来たんで、観光に来た訳じゃないんだが」と反対する口調で言った。
ドルジの変な英語で言うとまた自分が臍を曲げると思ったのかナーランが続けて言った。
「今日のジープロードまでは良かったんだ。今日まではなんとか歩いて面白い旧ルートを辿れるんだが、明日からは殆どジープロードを行く事になる。そこで、コパチパニかガサで泊まる予定を変更して、途中からバスでタトパニまで行ってしまわないか?」と言うのだった。
コパチパニかガサまで歩くと10キロ以上は有り休憩を入れると3時間はかかる。
コパチパニからバスに乗ったとして、短縮される距離は10キロ程度だ。
料金は、と尋ねると、大凡だが3人で1800ルピー程度と言う。
10キロは歩いても3時間の距離で、1800円は日本の感覚でも高い。
そもそも暇なんだし、ここで一泊分を詰めてしまったらポカラに一日早く着いてホテルの予約が面倒な事になるだろう、と言うと、明後日のタトパニからゴレパニへは登りの標高差が1600mで距離は20キロ近くあるから一気に行かないで途中で泊まったらどうかと言って来た。
何か言われると反対したくなる性分だし、そもそも、トレッキングの日割りなども自分が決めた事ではなくお前らのボスが作った計画なんだぞ、と嫌みっぽく言ってみた。
ナーランが、明日ガサまで歩いてみたらバスに乗りたくなるから心配ない、と、ドルジの顔を見て言った。
「ほほぅ~そんなに酷い道なのか?」と問うと「景色の良く無いジープロードなんだ」とドルジが言った。
よし分った、ガサに着く前にはっきりさせようと言って話しは終わった。
自分としてはガサからコパチパニまで、カリガンダキ川の向うを通る旧いトレッキングルートを歩きたいと思っていた。
しかし、確かに標高が下がっているので谷間の街からの眺めは冴えないものになってはいた。

 6時にダイニングに行くと大きなテーブルの一つに白人の二人組が座っていた。
自分はTVがよく見える席に陣取って全く意味の分からないトレビを見ていた。

 チキンソテーのガーリックソースとオニオンスープとベジタブルフライドライスを食べた。
やはりネパールの食べ物は標高に反比例すると確信した。
今日の宿の食事は昨日よりまた美味くなっている。
この調子で下ってポカラに着いたらどれ程美味い飯かにありつけるのか、期待したくなる。

 宿のテーブルは大きなこたつになっていて墨の入った火鉢が入れられ暖かかった。
宿のお婆ちゃんと思しき人が隅っこに座っていたのでネパールではこれをなんと呼ぶのかと尋ねると「こたつ」と言ってから「ジャパニーズ こたつ」と言い直した。
なんだってぇ~こたつだとぉ~と驚いてあれこれ尋ねると、定かでは無いがどうも日本人が持ち込んだらしいのだ。
成る程ねぇ~ジャパニーズこたつですかぁ、と感心するやら驚くやら。

 ロキシーを一杯貰って部屋に戻りちびちびやりながら日記を書いて8時就寝。

 


 

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マルファ へ No.20

2014-01-11 13:51:17 | ネパール旅日記 2013
 
 11月24日 日曜日 快晴

 カグベニ~ジョムソン~マルファ へ

 カグベニ7時30分出発

 カグベニを出発する前にナーランが、今日はアップダウンは少ないが向かい風か強くて下手をすると押し戻される程で歩くのも大変だぞ、と言った。
ドルジに、高い山でもあるまいにそんな大げさな風が吹くのか、と尋ねると、たまに石が飛んで来たり山羊が飛んで来たりすると言う。
バカ言うんじゃねぇ~と、言っては見たが、道の埃は凄そうだからマスク代わりのバンダナを首に巻いて備えた。

 風は吹いた・・・陽が高く登ると猛烈な風が吹き付け、山羊なんかが飛んでも不思議は無いと思える程だった。
風が吹く理由は川だろうと想う。
ピサンの村も風が強かったが、あそこも川沿いだった。
風だけならどうと言う事も無いのだが風は乾き切った道の土埃を巻き上げる。
とくにジープロードを歩いている時に車やバイクに出会すと酷い事になる。
息を止めて目を瞑り暫く立ち尽くしてやり過ごさなければならない。

 ジープロードの埃を避けて河原を行くのだったが河原を行けば当たり前のように川に当る。
乾季なので川の深さは大した事無く靴を脱いでズボンを捲って渡れるのだが痛い程の水の冷たさに泣いた。
何度かの渡渉の後「だからここは一度ジープロードに戻ろうと言っただろうが」と怒ると、ドルジが「ニルギリをバックにとても良い写真が撮れたよ」と言ってごまかしに掛かる。
ドルジに預けてあるカメラで自分が川を渡っている写真を撮ってくれたのだが、樹木が直立していて水平がキッチリと取れているのに感心した。

 ドルジに「この川で魚は捕れないのか?」と訊くと「こんな冷たい川に魚がいるはず無いだろう」と、人を馬鹿にしたように言った。
「お前なぁ、俺の閻魔帳ではボーナスはマイナスだぞ、言葉に気をつけろよな」と日本語で言うと「ボーナス、ボーナス」と真似をして意味も分らずに笑顔になった。
こんな時、ドルジの無邪気な姿を見ると、こいつは言葉がわからなくて悪気は無いのかもな、と思ってしまうのだが。

 ナーランが河原で石拾いをしながら行く。
おおそうか、アンモナイトの化石が転がっているのはこの河原か、と自分も探してみたが見つからなかった。
しばらくしてドルジが少し欠けてはいるが小さなアンモナイトを見つけて来てくれた。
昔はいくらでも見つかったが今は滅多に見つからないとナーランが言った。
土産物屋で売っているのはアッパームスタンの奥地から持って来た物なのだそうだ。

 河原を歩き、またジープロードに戻り、時には旧トレッキングロードに入り込みしてジョムソンに10時に着いた。
ここで昼飯を、とドルジが言うがまだ速過ぎると言って街の一番外れまで歩く事にした。
ジョムソンは空港もあるこの界隈では大きな街だった。
乗り継ぎになるがポカラまでのバスも出ていて歩かなくても飛行機やバスで来る事が出来る。
峠越えをして歩いて来た自分に言わせると相当に都会的な街なのだが、歩かない人にとってはここでも辺境の地の雰囲気は十分らしく、長期滞在と思しき白人が多く見られた。

 これまでに通った街の中で一番俗な雰囲気がして自分は好きになれない街だった。
チェックポイントが2カ所あって何やらドルジも手間取っていた。
くだらない事で時間を取られているうちに11時近くになって適当な茶店に入り昼飯にした。

 直感は当るもので、この街は好きになれないなと思うと、チェックポイントで手間取ったり、また、茶店の昼飯も外れたりするようだ。
メニューを持って来られたので「ハムのピザ」を頼むと、今日はハムが無いと言う。
それじゃぁ、と、フライドチキンとスープヌードルを頼むとちきんを切らしていると言う。
それじゃぁ何が出来るんだと言うと「ダルバート」と言う。
他には何も出来無いのかと問うと、フライドライスが出来ると言うので、卵くらいはあるだろうと言って卵と野菜のフライドライスにした。

 こう言う事に苛々してドルジの一寸した態度に八つ当たりをするのに彼は慣れたようで「お前が選ぶ店はろくなもんじゃ無いな」と怒りながら言うと「ミルクティーもう一杯か?」と話しを逸らす術も心得た。

 11時30分ジョムソン出発

 ジョムソンからの道はいよいよトレッキングロードらしく無くなり、ジープロードを歩く事が多くなった。
この地では荷物を運ぶのにトラクターの後に荷台を連結して運ぶ。
荷物を運ぶトラクターと人を運ぶ4WD車がもうもうと土埃を上げてジープロードを行くのだが速度が遅いので土埃の煙幕は長い事続く。

 カグベニで標高2800mと大分低くなっているのだがジョムソンやマルファまでは平行移動で標高は下がらない。
しかし南に下っているせいか陽射しは強くなり気温が上がって行くような気がした。
旧道のトレッキングロードに入るとヒマラヤ杉の巨木が見られるようになった事から、同じ標高でも暖かくなっているのだろうと思う。

 マルファの街が近づくとダウラギリが大きく迫って来た。
マルファはリンゴの産地だとナーランが言っていたが、街の入り口には彼方此方にリンゴ畑があって、日本のリンゴよりは随分小振りなリンゴが成っていた。

 1時00分マルファ着

 マルファは石の街だった。
石を積み上げて造られた建物は真っ白で、建物の間に通る道と言うよりも通路と言うのが正しいような道も白く美しい街だった。
街の人に石に何かを塗って白くしているのかと尋ねると、白い石を使っているのだと言うがしかし、どうも石灰などを溶いて塗っているように思えるのだが良く分から無い。

 ドルジが本日もシャワーとトイレ付きの一番良い部屋を取ったと偉そうに案内した。
しかし、部屋は一階に有り日当りが不十分で寒かったのでもっと狭くて良いから三階にしてくれと言うと、本日の空きはここしかないと言う。
「あのなぁ~ドルジ、アピールしなくてもお前のサービスが良かった時はちゃんとメモしてボーナスに加えるから」と言うと「ティー?ミルクコーヒー?」と言って話しをはぐらかす。

 せっかく温水シャワー付きの部屋だったが陽当たりが悪く寒いので浴びるのは止めた。
しかしトイレ付きの部屋は有り難い。
出発の時に慌てる事無く心行くまで座り込んでいられるのが嬉しい。

 サンルームになっているダイニングで紅茶を飲みながら日記を書いた。
同じように日向ぼっこをしながら手紙を書いている髭の白人男性と、斜向いで熱心に何やらノートに書き込んでいる若い白人の女性がいた。

 日記を書く手を休め何気無く見た壁の張り紙に驚いた。
2年前にダウラギリで消息を絶った日本人クライマーとネパール人ガイドの手掛かりを求めるものだった。
そして隣の張り紙は、ダウラギリ方面のトレッキングロードで行方不明になった外国人女性の捜索願だった。
途中の宿でも張り紙は見なかったがトレッキングの途中で行方不明になっている人の話しを聞いた。
ヒマラヤのトレッキングルートには5000mを超す峠越えは普通にあるので天候が崩れたりすれば難儀するのは容易に想像がつくが、自力で歩き通したいと思うトレッカーの気持ちは尊重する。

 街の写真を撮りに出てみた。
白い石積みの美しい佇まいを見せる街はすれ違うトレッカーも無く静かだった。
ホテルや土産物屋が軒を並べるメインの通りから裏経回ると幾分かネパールらしい雰囲気があって、牛の糞や驢馬の糞の乾いた藁などが見られたがマルファの街は今までのどこの街よりも豊かな雰囲気を感じた。
根深誠著「遥かなるチベット」は河口慧海の足跡を辿った旅行記だが、マルファの近くのトゥクチェ村はチベット公益で栄えたネパール有数の豊かな村であったと書いている。
たぶんマルファも同じように豊かだったのだろうと想像する。
マルファやトゥクチェに住むのはタカリー族だ。
タカリー族は今でもアンナプルナ街道の随所でホテル経営などを手がけ財を成し、商売上手で通っている。

 閑散とした街の通りを何度か行き来していたら女学生らしい三人連れに出会った。
写真を撮らせてもらい何処へ行くのかと尋ねると文房具屋だと言った。
後に着いて行くと雑貨屋でノートを買ったのだが、一冊のノートを選ぶのにきゃっきゃと騒ぐ姿は日本の子供も変わりないなと思った。

 夕食時になりダイニングに行くと二つある大きなテーブルが中途半端に白人に占領されていた。
どちらも座ろうと思えばスペースはあるのだが、テーブルは微妙な間隔で英語が空間を埋めていて日本語の割り込みは気が引けた。

 ドルジがここが暖かし寄り掛かれるから良いだろうと、話しが弾んでいる4人のグループの中に自分を押し込んだ。
まあ仕方が無いな、と何時ものように聞こえない振りをして静かにオニオンスープとチキンのフライドライスを食べた。
自分と少し間を空けた隣の席のドイツ人の髭面が美味そうに透明な酒をお替わりして呑んでいた。
意を決して「先ほどから美味そうに呑んでいるそれはロキシーか?」と尋ねた。
すると「アップルワインだ、ここの名物でとても美味い、一杯80ルピーだ」と教えてくれた。
そうか、名物か、呑んでみなくちゃな、と思い注文しようとするとナーランが「小さなグラスに1杯で80ルピーだが瓶一本は8杯は呑めて350ルピーで得だ」と、如何にも呑みたそうに勧めた。
一本頼んでみたが驚く程美味いものでもなく、焼酎のリンゴジュース割りを薄くした感じだった。
アルコール分も低くリンゴ風味もほのかで髭面ドイツ人が何杯もお替わりする理由が頷けた。
酒に目のないドルジとナーランが座り込んでテーブルの白人達と話し始め、なんだか和やかな雰囲気のうちに自分も輪の中に加えられたしまった。
まず髭面ドイツ人が自己紹介をし、そして昼間熱心にノートに向かっていた若いカナダ人の娘が続いた。
自分がフロームジャパンと自己紹介するとオーストラリアから来た母子二人連れの息子が「何故にそんなもこもこのダウンパンツを履いているの?」とストレートに尋ねて来た。
オーストラリア少年は自分がダウンパンツを履く温度の中で半袖のTシャツ一枚でいた。
寒がりだと言うのもなんなので「ズボンを洗濯しちまったからさ」と答えておいた。
すると母親の方が「あなた、頭にタオルを巻いていた人てしょう?」と言った。
自分は何処かでこの親子に出会っていたらしく、彼女らは自分を覚えていた。
その後アップルワインは二本目になり、酔っぱらったナーランがトランプの手品などをやって場は盛り上がった。
とくにカナダ人の娘は種明かしをせがんでは自分の物にしようと真剣だった。
ナーランの英語って本場の人にも通じるんだ、凄いな、と見直した。
ドルジと自分のインチキ英語は控えめにして、もっぱらオーストラリア少年にアップルワインを呑ませる事に専念した。
程なくして少年が酔いつぶれてその夜のパーティーはお開きになった。

 久しぶりに酔っぱらって午後8時就寝。


 



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カグベニにて 雑記

2014-01-11 10:18:14 | ネパール旅日記 2013
 
 ムスタン地方カグベニの街で想った事

 カグベニに限った事ではないのだがネパールの山間部は何処の街も静かだ。
月並みな言葉で言えば、時間が止まっている感じの穏やかな佇まいで、動きが無い。
街道から外れて入り込む街の中で動くものと言えば、人、牛、馬、山羊、驢馬であり、あとは風が吹けば木々が揺れタルチョが旗めくだけだ。
自然の物しか動かない、無理な物が無いので静かなのだろうか?

 旅人のいい加減な感想を街の人は認めないかも知れないが、少なくても自分はこの街に無常観は見なかった。


 寂れて行くのかカグベニ?

 カグベニの市街地は新しく通ったジープロードからは離れている。
トレッキングロード全盛の頃には全てのトレッカーが街中を通り、ある者は宿泊し、通過者でも茶店に立ち寄り、土産物も売れた。
しかし今はオンシーズンでもかつての賑わいは無い。
茶店や宿の主人にジープロードを恨まないかと問うと、ジープロードの御陰で良くなった事もあるからと否定はしなかった。
穏やかな口調、置かれた立場を黙って飲み込む姿勢は日本の過疎の村の年寄りにそっくりだと思った。


 ネパール人の英語は・・・

 宿の主人の英語がとても聞き取り易くチングリッシュ(チャイニーズ系英語)でもなかったので何処で覚えた英語かと問うてみた。
宿で接客しているうちに覚えた英語で大概の発音は聞き取れると言う。
色々な国の変な英語を聞いて来たのと状況判断から何を言いたいのかが分るのだと言う。
宿の主人に、日本人は殆ど喋らないがお前は珍しいな、本当に日本人かと言われ思わずフィリピン人だと嘘を言ってしまった。

 サンヨーの冷蔵庫があった

 カグベニは電気事情が良いのか、宿には電気仕掛けのエスプレッソマシンやサンヨーの冷蔵庫があった。
電力事情が良いのかと問うと、停電は頻繁だが屋根に強力なソーラー発電を上げていてバッテリーに蓄電しているとの事。
バッテリーの蓄電で冷蔵庫が動くとは思えないのだが宿の主人は自慢げに語った。

 ネパールは人種の坩堝か?

 ムクティナートやカグベニのムスタン地方はかつては独立した王国だったらしい。
自分の想像ではチベット人と同じ人種なのだろうと思っていたら豈図らんや、インド人風、イラン人風、挙げ句の果てにはロシア系かと思う白人系までが混在していた。
成る程な、ネパールはあくまでもネパールであって何処のアジアの国とも似ていないんだなとしみじみ思った。

 温厚なネパール人

 ネパール人は争いを好まない温厚な国民だと言われていて、実際に自分がどれだけ激昂してもナーランもドルジも応戦はして来なかった。
自分が金を払う客であると言う理由ではなく争いは避けたくて受け流しているのだと感じる距離の取り方だった。
宗教的にはヒンドゥーが70パーセント以上と言われているのに目につくのはチベット仏教の寺院で、しかも、仏教寺院の中にはヒンドゥーの神様も一緒に祀られていたりするところにもネパール人のおうらかな国民性が現れていると思う。
ネパールがどのくらい昔からこれほどの見かけの違う人種が混じり合う国になったのか知らないが、これほど多様な人種が混在したら争わない訳が無かったと思うのだが、争っていたら生き延びられない程過酷な環境だったからこんなに温厚な正確になったのか、などと勝手に想像してみた。

 ヒンドゥー教でも仏陀は敬う

 自分はドルジを怒鳴りつけた後に「仏様がお前を許すなと俺に言ったから怒ったのだ」と言うと、彼はネパール語で何やらブツブツ言っていた。
後でナーランに何を言っていたのかを聞くと、仏陀が俺を怒るはずが無い、毎日何百回もマントラを唱えているんだから、と言っていると教えてくれた。
ネパール人には仏様が見ていると言うのは効果絶大なのだ。

 
 

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カグベニ へ No.19

2014-01-07 14:02:34 | ネパール旅日記 2013

 11月23日 土曜日 快晴

 宿が快適でここに暫く居続けたい気分になった。
トイレや洗面所やシャワーや臭く無い寝具などの基本的な安心感が備わっているのだ。

 ベッドには分厚い毛布が準備されていて、久しぶりに寝袋から解放されて寝た。

 夜が明ける前に起きていた。
屋上から見えるダウラギリの朝焼けを撮りたいと思ったのだ。
厚着をしてカメラを持って屋上に行き日の出を待ってみたがダウラギリは東方向に位置しており西側に朝日は当たらなかった。

 ふと見ると昨日の昼間、全面的に物干に広げたはずの自分の洗濯物が半分ほど隅に追いやられていた。
隅に追いやられて重なっていた自分の洗濯物は乾かずに凍り付き、代わりに誰か知らない人の洗濯物がはためいていた。
そう言えば昨晩隣りの部屋から「日本人が屋上の物干を占領しちまっているぜ」と言うが聞こえていた事を思い出した。

 今朝はドルジもナーランもいつに無くのんびりしていた。
それは今日の歩く距離が短くて楽な事も理由の一つだが、ピサンピークアタックとトロン・ラ・パス越えが終わり、トレッキングも終盤に差し掛かった気楽さが大きかったと思う。
特にナーランはあと数日で家に戻れるので気持ちがそちらへ飛んでいた。

 朝食を食べながら宿の若旦那と話しをして驚いた。
自分の中では「ネパール王国」だったのだが、王制はとっくに無くなっていたのだ。
複雑な権力闘争と、逐われた王家の悲惨な話しを聞いたが自分には良く飲み込めなかった。
しかし、王制でも共和国でも国民の暮らしはさして変わらないと彼は言った。

 ネパールのトレッキング街道で少し近代的な宿を開けば繁盛すると思うが、何故大資本のホテルが進出して来ないのか尋ねた。
彼曰く、トレッキングルートに宿を開業できるのはネパール国民でその地に関わりのある山岳民族の者にしか許可されないのだとか。
外国資本が来たらネパール人の資本では太刀打ちできないので観光資源の保護と商売の権益は国が国民のために保護しているのだとも言った。

 ナーランは彼がいなくなってから、トレッキングルートの宿は街道毎に特定の種族の権益になっていて、持たざる者との貧富の差は広がる一方で、それが共産党勢力を生んだ原因だと言った。

 朝八時ムクティナートを出発。

 ムクティナートからはポカラまでジープロードが続いていて、峠を越えたトレッカーの中にはここから車に乗る人もいた。
だからジープロードから外れた旧道沿いの茶店は寂れて見えた。
時折道の脇に土産物屋を見掛けたが長い事晒されているらしい商品は日に焼けて色褪せ埃を被っていた。
オフシーズンだから静かなのだろうと思っても見たが、しかし、営業を止めた宿や茶店も見られジープロードが開通した影響があるのは確かなようだった。

 標高3800mのムクティナートから2800mのカグベニまでは荒涼としたチベット的風景の中を歩くのだが、高い山が迫っている谷間の道とは違って開放的で明るかった。
乾き切った風と開けた風景がこの国も大陸の一部を占める国である事を思い出させていた。

 ダウラギリが見えた。
楽しみにしていた8172mのダウラギリだが、距離の関係からかあまり迫力を感じなかった。
ダウラギリは8000m峰で登頂も困難な事で世界に名を轟かせている。
近づいてみれば三角錐の姿は秀麗で申し分無いのだが、自分はカリガンダキ川を挟んで対峙するニルギリの方に惚れた。
ニルギリはニルギリヒマール山群と呼ばれる独立したさして大きく無い山塊の山で標高もニルギリノースで7061mと大して高くも無い。
しかし角度によっては独立峰にも見えて聳える姿は溜息が出るほど美しかった。

 ジープロードを外れ旧いトレッキングルートを辿って来るとカクベニの街が見下ろせた。
カグベニは緑豊かで牧歌的な風景だった。
牛を二頭立てにして畑を耕す様が彼方此方で見られ、牛を追って鋤を押す男の歌声が響いていた。
日本では随分昔に無くなった農耕の姿であったが、しかし自分の記憶にはまだ確かに有る風景で、言葉も分からない歌に強い郷愁を感じた。

 ナーランが、この界隈の木は全部植林した物だと言った。
この地が緑豊かにになったのはそれ程旧い事ではなく、痩せた土地を耕し、植林をして農耕地を造ったのだそうだ。
そう言われてみれば整然と植えられている樹木はまだ細く、頼りないものではあった。

 カグベニの街には11時に着いた。
時間的に見ればまだ先まで歩けるのだが、ガイドブックを読めばカグベニは外せない、是非とも滞在したい街だった。
しかし、この街もジープロードの影響で素通りするトレッカーの方が多いのか、とても静かだった。
トロンハイキャンプの宿で一緒だった人や途中のトレッキングルートで見掛けた顔は一つも見掛けなかった。
ナーランによると宿にはネパール語が堪能な長期滞在の日本人がいたらしいが自分は会わなかった。
ちなみに、ネパールのトレッキングルートを歩いていて気に入った街や宿に出会って長期滞在しようと思った場合の経費は、宿代が300円程度、紅茶やコーヒーが30円から50円程度、パンケーキやピザやダルバートの食事で300円程度なので、一日1000円も有れば賄えてしまうと思う。
しかも、ネパールの田舎はガンジャーにも寛容なのでその手の趣向の有る人達には天国になり、長期滞在する人も多いらしい。

 宿は今日も素晴らしかった。
部屋にはシャワーとトイレが付いていた。
しかし、ここまでの宿では期待する度に裏切られて来たのでそのつもりでシャワーの温水を確かめると、見事に普通の温水シャワーが出た。
早速荷物を解き、シャワーを浴び、序でに生乾きの洗濯物をザックに括り着けて歩き埃だらけになったものを再度洗った。
三週間延び放題に伸ばした髭も剃り、取って置きの着替えをして昼飯を食べた。
ヤクステーキにしようかと思ったがお楽しみは夕食にとっておき、昼飯はベジタブルフライドライスにしてみた。
流石に車で物を運べる街だと思った。
まず米が美味かった。
そして、フライドライスの味付けが醤油味だったのだ。
その味は、自分が子供の頃に母が作ってくれた焼き飯の味に似ていると思った。

 昼飯の後ダイニングでビールを飲み日記を書いているとドルジが街を歩きに行こうと誘って来た。
ドルジとは既に和解していた。
和解したと言うよりは、全てはなし崩しにうやむやになり、自分が触れない事にしただけなのだが。

 ドルジに連れられ500年だか600年の歴史を持つチベット仏教の僧院に行った。
kag Chode Thupten Samphel Ling monastteryと、パンフレットには書いてあるが読み方は分らかず正確な寺の名前は今もって不明だ。
寺の内部を案内してくれた修行僧の少年が流暢な英語で色々と説明してくれたのだが、こちらの理解力が足りなくて良く分からなかった。

 チベット仏教は凡そ600年ほど前に新旧の派閥が入れ替わり現存する寺の多くは新しく起った大乗の寺で、600年の歴史を持つ寺は最古の部類になる。
そうであればチベット旅行記の河口慧海もここに立ち寄っているのではないかと思い少年僧に聞いてみたが彼は名前さえ知らなかった。
寺の内部の飾り物にヒンドゥー教の影響と思われる物が見られ面白かった。
帰りの出口に寄付を募る箱があったので100ルピーを入れた。

 カグベニの街は静かだった。
ジープロードから外れ素通りの人が多いのか歩いているトレッカーは見掛けなかった。
街の人は老いも若きも日溜まりで居眠りをし、傍らには赤ん坊や犬や牛も寝ていた。

 ドルジが一杯やって行かないかと言って路地の茶店に入った。
ヤクミートを食おうと言ってロキシーと干してあったヤクの肉を頼んだ。
固いヤクの干し肉はお湯で戻した後に少しのタマネギとニンニクや唐辛子を入れ油で炒めて出された。
少し固めのビーフジャーキーのような歯ごたえのヤクの肉はとても美味かった。
2杯目のロキシーを飲む頃には美人の女主人と街の事や暮らし向きについて話しをしていた。
トロン・ラ・パスを下り緊張の糸が完全に解け、やっと自分本来の度の形になって来た。
彼女はアッパームスタンの殆どチベットに近いところから出て来たそうだが高い家賃を払って茶店をやってはいるが生活は大変だと言った。
彼女に一杯やったら、とロキシーを勧めたが笑って手を振った。
3才位かと思う彼女の娘が自分に興味を持ち少しずつ近寄って来て、しかし手を出すと逃げて行くのを繰り返していた。
彼女が邪魔しちゃ行けないと言うと少し離れるのだが少しするとまた寄って来て、とうとう自分の膝の上に乗った。
シラミだらけなんだろうな、と思うぼさぼさの頭を撫でながら、旦那さんは仕事に行っているのかと問うと、マレーシアに出稼ぎに行っていて2年も会っていないとの事だった。
話しを聞いていたドルジが意味有りげに笑って自分の肩を突いた。
空になったグラスを置くと彼女がすかさず三杯目を注いだ。
家賃は月に6000ルピーで、プロパンのガス代が幾らで、と、細かな事を話し始めた。
自分はすっかりなついた子供の写真を撮りながら彼女の話しを聞いていた。
三杯目を飲み終えるとドルジが帰ろうと言って勘定をした。
ロキシーが一杯50ルピー、ヤクの肉が100ルピーで400ルピーだった。
ドルジがもたもたと細かい札を勘定していたので自分が500ルピーを出して釣りは要らないと言って茶店を出た。
彼女が、夜は7時まで、朝は7時からやっているから、と言ったのを聞いてドルジがまたくすくすと笑った。

 宿に戻りベットにひっくり返って日記を書いているうちに少し眠った。

 夕食時にダイニングに行くと泊まり客は自分一人のようだった。
待望のヤクステーキを注文し冷えたネパールアイスビールを飲みながら食べた。
ヤクのペッパーソースステーキは美味かった。
これまでの三週間で一番うまい夕食だった。
しかし、先ほど食べた茶店のヤクの油炒めはもっと美味かった。

 夕食を食べ終えたのは6時少し過ぎだった。
茶店に行って一杯やろうかと思ったがビールが思いの外効いたのかとても眠くなりベットに潜り込んだ。

 6時半就寝





 
 

 


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