じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

カトマンズ 点景

2015-12-27 20:16:06 | ネパール旅日記 2015

なんて事無い写真ですが・・・


野菜売りだけが並ぶ路地


ヒンドゥー教の寺院 必ず辻に有って前は広場になる


ネパールでは味の素もキッコーマンも見掛けない


ネパールの女性ははとにかく赤が好きなんですね


由緒有りそうな寺院の屋根の飾り物 鳩の糞だらけ


礼拝はブジャと言い毎日欠かさない らしい


ヒンドゥー寺院 中でイベントをやっていた


テンプー 乗り合い路線三輪車 何処でも停まる


有名なヒンドゥー寺院だが反物売りが占領してる


国が違えばセンスも様々 クルタと言う らしい

観光客に馴染みのカトマンズと言えば「タメル地区」である。
自分は三度目、延べ日数10日のカトマンズ滞在でようやく色々な通りと観光名所の位置関係が把握できた。
何故にそれほど手間取ったのかと言うと、地図を片手に歩いたとしても自分の現在地が分からなくなり地図が役に立たなくなるのだ。
まっ、ハンディーGPSやスマホと言う手も有りそうだけれど、少なくても自分使ったNセルのシムではスマホも満足な道案内はしてくれなかった。
何故現在地が分からなくなるのか? 最大の理由は地名や通りの表示が無い事である。
仮に有ったとしてもネパール語で全く読めないのだ。
ヒンドゥー寺院が有るとそこはチョークと言って寺院の広場を中心に辻を成している。
とても特徴的な場所なのでそれを起点にしたいのだが、チョークは似た様な物が数多く有り、ややこしく、なのに地名や寺院名の表示殆ど見つからないのだ。

更に分かり難くしている理由は、似たような雰囲気の狭い路地が交錯しており、自分は真っ直ぐ歩いて来たつもりが微妙に曲がっていたりして方角を失うのだ。
迷いに迷った自分はとうとう街中で地図とコンパスを使って歩く事にしてやっとタメル地区とその周辺を攻略した。

とは言うものの覚えてしまえば狭い街で、タメル地区などは路地と路地をつなぐ枝道を駆使して何処へでも行けるようになるのだが。

カトマンズの人口密集度は凄い。
とくに中心部では人とバイクと車とが狭い路地に集中して二進も三進も行かなくなりクラクションの雨霰、などと言うのは珍しく無い。
山間部ののんびりした雰囲気からは想像できない喧噪と猥雑と・・・とにかく自分はあまりの人の多さに息苦しくなる。
毎日が祭り・・・そんな感じに自分は思えた。







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ヤギ料理(再UP)

2015-12-27 18:41:36 | ネパール旅日記 2015


直ぐに閲覧停止になる因縁の記事
ヤギのネパール式調理方法の解説です
画像は鮮明にならないように加工しました!!!


Rajuk家でヤギ肉のダルバートを御馳走になった。
これは本当に本当の御馳走であって、地元住民でも祝い事などの時しか食べないものなのだ。
それをトレッキングで通りすがりのジャパニーズに御馳走してくれたRaju一家・・・感謝であります。
いや、食べごろの仔山羊は一頭7000Rsだと言う事でして、ネパールの労働者の月収の半分近くになる訳です。
一頭売ったならそれなりの収入になるのに私に御馳走してくれた訳ですから、本当に感謝の念に堪えません。



5頭のヤギが朝の餌を食んでいる

他のヤギが餌をむさぼる中で一頭だけ、ぶら下がっている餌から顔を背けていた。
しかも小刻みに震えているではないか。
自分はすぐにピンと来た・・・ああ、今夜のごちそうはこの仔山羊か、と。
動物の勘だろうとしか思えない現象なのだが、こいつを喰おうと品定めした瞬間から怯え出すのだ。
不思議な事だが、まるで言葉が分かるかのように怯え出すのだ。


山に餌を食べに行く時とは雰囲気が違うのか?

仔山羊は時々山に餌を食べに連れて行かれる。
だから綱を付けられ引かれて行くのには慣れているはずなのに、この時には四股を踏ん張って引いて行かれまいとした。
これから何が起こるのか分かっているとしか思えない。


頸動脈にナイフを入れてる

首の所をスウっと切ると血がぴゅーっと飛ぶように出る。
それを素早く鍋に受け、逆さに振って出なくなる迄血を抜く。
この時点では未だ少し暴れるのでしっかり押さえていなければならない。


血が抜けたら頭部を切り離す

落とした頭は焚き火にくべて毛を焼き、食べる。
脳味噌は食べるが目玉は食べないらしい。


首を紐できつく縛る

首を紐で縛る理由は空気が漏れないようにするためだ。
空気を皮と肉の間に吹き込んで膨らまし毛を刈り易くするのだ。


ビニールホースを差し込んで空気を入れる

ここ迄の手順はフィリピンとほとんど同じなのだが、空気の入れ方が少し違う。
フィリピンではもう少し文化的で自転車の空気入れを使いもっとパンパンに膨らませる。


パンパンに膨らんだら空気穴を紐で縛る

空気を入れる時には皮下脂肪と皮の隙間が剥がれるようにしごいたり引っ張ったりする。空気が満遍なく入るようにするには少し技を使う。


熱湯を掛けて毛を抜き易くする

鶏でもそうだったが、毛を抜く時には熱湯を使う。
ヤギに熱湯を掛けてステンレスのコップの縁で削ぎ落とす。
ここもフィリピンと少し違い、彼方では安全剃刀を使っていた。
そして、細かい毛が残って面倒臭くなると火で炙って燃やしていた。


着色料で染めていた

ヤギを着色するのを見て皮を剥いで鞣すのか、と思ったけれどその後ぶつ切りにして皮ごと料理したので着色の意味は分からなかった。
しかしその後市場でヤギを見た時にも同様の色で染めてあったので、美味そうに見せる工夫なのかと思ったが、分からない。


まずは切り落とし易い腿から

肉を切り分けるのに一番大事な事は中身を傷つけて出さない事である。
未だ内蔵が入ったままなのでうっかり傷をつけて中身を出してしまうと肉が臭くなってしまうのだ。


四股が落とされた

脂がのって美味いのは肋のあたりなのだが仔山羊は小さくて食べる所が無い。
やはりもも肉が一番かも知れない。


中身は尻の穴から抜く

中身を抜いてから腹を切り開く。
細かい所になったらRajuがナイフを握った・・・上手だった。
大きいのは胃袋だ。


ヤギのポロポロ糞は既に腸の中で形ができているのだ

作家の椎名誠はヤギの豆のような丸い粒の糞を見てどうしてあんなきれいな丸になるのだろうと不思議だったらしい。
尻の穴から放り出される時に丸くなるのか、と思ったりもしたらしい。
ある時、モンゴルでヤギを解体して腸を見た時に既に丸い粒の糞を見て納得したと書いていた。
しかし、何故腸の中で丸くポロポロになるのか、その謎は解けていないと思うのだが。
自分の勘では腸の蠕動運動の仕業だと思うが、調べるよりも神秘のままにしておこうと思う。


ヤギの血に岩塩を加えて煎ったもの

ヤギの血を煎って食べるのは初めてだった。
フィリピンでは煮て固めて煮こごり状のままご飯に掛けて食べていた。
しかし、酒のツマミやおやつには煎って食べた方が美味しい。
良い事を覚えたので今度機会があったらフィリピンでやってみようと思う。


Rajuが肉を食べ易い大きさに切る

解体したヤギ肉は更に調理し易い大きさに切られる。
Rajuが器用に筋などを除けて切った。


Rajuパパがヤギ肉のカレーを作る

Rajuパパはトレッキングや登山隊のコックをして25年間、ネパールの殆ど全部のコースを歩き尽くしたと言う。
30年前のアンナプルナサーキットの話しを聞くと、未だロッジなど無くて全行程をテント泊で歩くエクスペディションだったのだとか。


煮豆とヤギ肉のダルバート

Rajuパパの作ったヤギ肉のカレーはとても美味かった。
昨晩御馳走になった鶏肉のカレーと全く同じ香辛料なのだが、肉がヤギなのでこくがあって美味かった。
仔山羊だったからか、ヤギ特有の匂いは皆無で、とても柔らかだった。

Rajuパパの弟が夕食の時にロキシーとチャンを瓶に一つもってやって来た。
ロキシーもチャンも各家庭の手作りなので家ごとに味が違うのだが、この時のチャンは絶品であった。
発泡していて僅かなスパークリング感覚と軽い酸味が旨かった。
ロキシーのアルコール度数が10度くらいでチャンは3~4%だろうか。
ロキシーはぬる燗で、チャンは冷やして飲むのが旨かった。

こんな体験は中々出来ないのでRajuに感謝であります。
ありがとうRaju、と言う事で・・・・


つづく









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Raju宅ホームスティ

2015-12-26 14:11:32 | ネパール旅日記 2015

11月26~28日 カトマンズ~ニガリへ

8時30分、Rajuが迎えに来たので出発。
ホテルのあるタメル地区から徒歩で30分ほどでシティーバスパーク到着。
中継地のバネパ行きの乗り合いバスに乗る。
9時00出発。
バスに乗ったときは大した込み具合とは思わなかったが、走り出してバス停に停まる度に乗客が増え、そのうち立っている客は身動きが取れなくなるほどに詰め込まれた。
当然バスの屋根にも乗客が溢れている。

10時30分 バネパ着

バネパでバスを降りて乗り換えるのは分っていたが、段取りの説明が無くどうしていれば良いのか困った。
Rajuとの会話は英語だったがあまり良くは通じなかった。
それで随分と行き違いが有ったのだが、まっ、着いて来てしまった以上は仕方が無い。
着いて歩けばRajuの家には辿り着くだろうと詳細を知ることは諦めた。

結局バスターミナルの傍の茶店で2時間近くも座ったままだった。
Rajuは地元なので知り合いがたくさん居て彼らと話しをしていた。
こんなことならビールの一杯も引っ掛けたのに、と、思ったが、嫌みを言っても感じないので黙っていた。


バスターミナルの近くの二階の茶店からバネパの街角


ビルの三階からバネパの街の遠景


TATAの四輪駆動トラックの乗り合いジープ

1時半頃になりRajuが腰を上げ汚い小型トラックまで歩いてこれに乗ると言った。
バネパの街から30分も走ると舗装道路から脇道に入った。
そこから先はかつて経験したことが無いほどの悪路で、時には水の流れる川を走って行った。
アンナプルナサーキットのジープロードがハイウェイに思えるほどで、四輪駆動トラックは常にEXローでしか登れない道だった。
初めのうちは座っていた乗客が飛び跳ねる車で尻を打つのに耐え切れず全員立ち上がった。

2時間ほどで車が停まりRajuと自分だけが降りた。
他の乗客は登って行くのでは無く、下に見える集落に下って行くのだった。


ニガリ村の中心地は徒歩30分ほど下の集落

Rajuは2時間ほど歩く、と言っていたのだが、家迄2時間かかると言うことだったのだろう。
ジープを降りて10分も歩いたらRajuの家だった。
4軒の家が集まった集落は全員が親戚だそうだ。


Rajuの家からの眺めは絶景だった

周囲は森林で目の前には一面菜の花畑が広がっていたのでRajuが言うほど高い所ではないと思いつつ手元の高度計を見ると2000mだった。
Rajuは3800mとか言っていたのだが、高いと寒いし寝付きも悪くなるので間違いで良かった。
棚田風に見えるのはすべて菜の花畑で、この一帯は菜種油の産地なのだとか。
草が豊富だからか、ヤギと乳牛が多く飼われていて、ネパールの農村としては豊かな雰囲気の村だった。


Rajuの家 中は土間だが靴は脱いで入る


入って右側が竃 左側が鶏とヤギの寝床 二階が寝室

家は石積みで壁は泥で固められていた。
床は土間で、二階の寝室も床は土間だった。
日本でも竃は土間にあるし、寒い地方では土間の脇に鶏や牛馬の部屋や寝床が設けられるのは普通だったが二階の床が土間と言うのは驚きだった。
板の上にわざわざ泥を塗ったのは何故なのか?と、想像してみた。
それは竃の煙対策ではないかと思うのだ。
竃からの煙の凄まじさは知らない人の想像を遥かに超える。
何でもかんでも煙で燻して煤だらけ脂だらけにしてしまうのだ。
そして、煙は少しの隙間からでも侵入するので泥で密閉しない限り二階の部屋は薫製部屋になってしまい使い物にならない・・・この推理はどーだろうか?恐らく当たりだと思うのだが。



Rajuのお母さんが牛の乳を搾っていた

Rajuの家には数え切れないほどの鶏とヤギ5頭と乳牛2頭と水牛3頭と蜜蜂も飼っていた。
しかし、鶏一羽とヤギ一頭は私のために絞められたのだが。


奥の土壁の建物は牛舎


日没前、放し飼いの鶏が戻って来る 夜は籠に入れる


Rajuの従兄弟の少年が晩飯用の鶏を絞めた

私を歓迎する晩餐はチキンカレーに決まっていたらしく、夕暮れ時、少年が鳥籠に手を突っ込んで大きな雌鳥を引っ張り出し、首をチョン切って絞めた。
そして、鍋に沸いたお湯で手際よく羽根を抜き下準備をした。
アジアの子供は男女を問わず誰でも出来るが、この少年はとくに上手だった。


Rajuママがチキンカレーのダルバートを料理した

ダルバートは美味かった。
庭を駆け回り地面を掘ってはミミズや虫など食べている地鶏は筋肉質で歯ごたえが有り美味かった。
地鶏は硬いと言うけれども歳をとって硬くなった鶏とは違って弾力があるのだ。
だから、じっくりと噛んで食べるほど余計に美味いのだ。


鶏肉のカレーと煮豆のダルバート 美味でした

私は自前で持ち込んだビールをやりながら鶏をしゃぶった。
一筋の肉も付いていない鶏の骨を見てRaju父さんが「犬が可哀想だな」と言った。
日本では鶏の骨は縦に裂けるので犬にやらないなどと言うけれど、今迄鶏の骨を喉に刺した間抜けな犬は見たことが無い。
人間が食べ終わる頃合いを見計らって犬が土間に入って来て伏せていた。
骨を投げて貰うのを待っているのだが、気配を消して静かに待つのだった。

Raju宅には二泊お世話になって、翌日の晩餐はヤギの肉のダルバートと、地酒のチャンとロキシーを強かに呑んで騒いだ。
Rajuパパがネパール民謡を歌ったので自分は郷土の「大漁唄い込み」で返した。

一つ気になったのは、Rajuがどう言うつもりで家に招待したのかが読めなくて、どんなタイミングで幾ら出せば良いのか計りかねた事だった。
Rajuとの会話では Invite you だったのでご招待だと思って気楽にやって来たのだが、帰り道では殆ど口をきかず不機嫌なRajuの様子を見ると、何かが不満だったんだろうな、としか思えなかったのだ。

昨年も一昨年も、トレッキングやクライミングが終わると、ドルジもラムさんも自分を家に招待して御馳走してくれた。
ドルジなどはこれでもかと言うほどに酒も用意して歓待してくれた。
その時、ドルジの家迄のタクシー代もドルジが払ったし、ラムさんも招待だから、と、金銭的な事は何も言わなかった。
ドルジは、トレッキングやクライミングのガイドは旅の後にはゲストを家に招待するのが習わしなのだと言っていた。
そんな事が有ったので自分は金など払ったら逆に失礼だろうと思い控えていたのだが、どうもそう言う事では無かったのかも知れない。
二日目、暇を持て余して近くの丘に登った時、放し飼いになっていたヤギを見て、ぼそっと、あれ一頭7000Rsなんだ、と言ったは、夜に食べたヤギの請求だったのだろうかと、今にして思うのだが・・・まっ、一番高かったジープ代とビール代は自分が払ったと言う事で、不足だとは思っていないんですけれども。


笑顔の無い記念写真

招かれざる客であったのかと言う少し気まずい思いを残したままRaju宅を後にした。
帰り道はジープで上って来た道を3時間かけて歩いて下った。
無口に早足で歩くRajuを無視してマイペースで下り、時々見え無くなっていたがどうせ一本道だろうと気にせずに歩いた。

3時間ほどで幹線道路に出た。
しかし中々バスが来なくて1時間以上も道端で待って乗り合いトラックに乗った。

バネパでは街外れで降ろされ散々歩き、カトマンズ行きだと思って乗ったバスは空港の傍で降りる羽目なりまた乗り換えた。

バネパを8時に出てカトマンズのHANA HOTELに着いたのは既に4時を過ぎていた。
身体的よりも精神的に疲れたネパール国ネワール族の家ホームスティだったが、これは得難い体験であった事は間違いなく、Rajuには感謝でありました。

ヤギの晩餐 特別編へつづく





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ポカラの街のこと

2015-12-25 19:30:02 | ネパール旅日記 2015
 
  11月24日 火曜日の午後 ポカラにて

ビレタンティから2000Rsでタクシーの相乗りをしてポカラの街のレイクサイドに着いた。
降りた途端に「あれぇ~ここは何処だ?」でありました。
いや、二年前に二泊三日を過ごしただけの街でありますからそんなに詳しくも無い訳であります。
なのでその時滞在したホテルを起点にすれば何となく判るのでありますが、降ろされた所は見覚えが有るような無いような・・・やっぱし無さそうだな、と。


閑散としたポカラの街

Rajuが数日前に良い宿を見つけてあると言っていたのだがポカラの街についてみると宿へ向う様子も無くきょろきょろしていた。
ありゃぁ~これはあてにはならないな、と思い、目の前のホテルが並ぶ路地へと入って行った。
少し歩くと、とても汚そうな宿と少しきれいそうな宿とさてもきれいそうなホテルがあった。
きれいそうなホテルは向かい合って二軒有ったのだが、日当りの良さそうな方を選んで部屋を当たった。
まっ、どうせ一泊だけの宿なので吟味しても仕様が無いのだが、外国人の殆どそうするように自分も部屋を見せてもらい料金交渉をして1000Rsで決めた。

角部屋で日当りの良い所を確保したのだがシャワーを浴びている間に隣のホテルの若者が煩いことに気がついた。
隣のビルと言ってもジャッキーチェンなら飛び移れそうな近さなので煩いのはご免だった。
どうも隣が煩そうだからシャワーを使ってしまったが部屋を替えてくれと言うと一番遠い部屋にしてくれた。
しかし、日当りが無くなってしまった。
暖房の無いネパールの宿では日当りは大切な条件なのだ。

今日はポカラで明日はカトマンズへ戻るとなると手持ちの冬用トレッキングパンツでは暑過ぎた。
元々ポカラで夏物のトレッキングパンツを買うつもりだったので一人で買いに出た。
街にはたくさんの登山用品店が有りカトマンズ同様に偽ブランド品を売っていた。
数軒冷やかしてノースフェイスの偽物を1000Rsで買ってその場で履き替えた。
解放された感じがして心地良かった。

ポカラの街は閑散としていて観光客は本当に少なかった。
例年12月ともなるとトレッキングシーズンは終わりで観光客は減るのだが、それにしても少な過ぎた。


なんか賑やかなので行ってみた


ひらひらのスカートはこれ以上は上がらないのだ


イケメンのカメラマン 彼の方が絵になると思うが


接近して撮っていたら暗幕で隠れてしまった

レイクサイドの商店街を歩いていたら人だかりがしていたので行ってみた。
するとスライダーまで使って撮影をしていた。
黄色いワンピースの女性がリボンを持って踊り、その周りに意味不明のキャラの人が動いていた・・・何の撮影だろう?CMかな? と、思いつつ、カメラマンを見ると、おぉフォトジェニックなのは貴方ですよ、と、撮っていたら、それが嫌だったのか暗幕を被って隠れてしまった。

少し腹が減って一杯やりたくなったので洒落た感じのカフェに入った。
どう見てもコーヒーショップなのだが試しにビールを頼んだら買って来て出してくれた。
ネパール餃子のモモとフレンチフライでビールをやりながら今回のトレッキングの余韻に浸ろうとしてみた。
しかし、三度目のネパールと言うことや今回は厳しいクライミングをしなかったせいか、感傷的な気分や感慨に耽る気持ちにはならなかった。

閑散としつつも異国情緒のあるレイクサイドの通りを眺め、あと数日で12月だが、日本では雪は降っただろうか、と、スキーのことなど考えていた。

一昨年はポカラの街でカレンダーや民芸品の小物など結構な土産物を買ったのだが、それらの全てがカトマンズでもっと安く売っていることを知ったので何も買わなかった。
いい気分で宿に戻った。


設計はイギリスで製造はインドのエンフィールド

宿へ戻る途中で磨き込まれたエンフィールドを見掛けた。
インドで買えば30万円もしないバイクらしいがネパールでは高価なバイクだった。
バーチカルツインに日本で言うキャプトンマフラー・・・涎が出るほど欲しいけれども、熱にも寒さにも弱い面倒なバイクなのだ。

宿へ戻ると明日のバスのチケットを買いに行くのだと、Rajuが自分を捜していた。
宿のレストランの窓ガラスにはトレッキングの手配やら飛行機やバスチケットの手配などが書かれていたので、ここで良いんじゃないかと言って尋ねてみた。
すると、やはりここで買えるのだった。
おいおいRaju君、しっかりしてくれよ、バスターミナルにチケットカウンターは無いよ、と。
通常500Rsのバスチケットは900Rsになっていたが非常事態なので仕方が無い。

Rajuを連れて日本食レストラン「富士山」に行った。
一昨年足繁く通って少し顔なじみになったウェイターの彼が居たのだが、二年も経てば忘れるのも道理、すっかり忘れていた。

Rajuはヒンドゥー教徒で鶏とヤギの肉以外は食べないと思っていたのでラーメンを食ったら良いと勧めたのだが、いや、自分と同じもので良いと言うのでトンカツ定食にした。
すると、これは美味いとビックリ仰天しつつ、ビールに合うなと言いながらクビグビと飲んでいた。
流石に味噌汁はダメだろうと様子を伺っていたら、それも難なく飲んでしまったので感想を聞くと、デリーシャスだと言った。

Rajuとは16日間の契約で前金を支払っていたが22日間に伸びた6日分の日当を支払わなければならなかった。
そして、彼の最大の関心事項のボーナスと言うかチップと言うのか、それも支払うべき時だった。

ポーターのボーナスは2ドルが相場と言われるので22日を掛けると44ドルだ。
日当6日×12ドル=72ドル・・・〆て116ドルだが、150ドルを渡した。
Rajuは満足そうな顔をして受け取り「カトマンズへ戻ったら是非俺の家に遊びに来てくれ、歓迎するから」と言った。
そうかぁ・・・Raju家かぁ~、山奥らしいからミニトレッキングと山間部のホームスティは悪く無いと思い、折角のご招待だから遠慮なく行かせてもらうよ、と返事をした。


朝のツーリストバスターミナル

翌朝7時にバスターミナルに行った。
バスの発車は8時なのだが、どう言う訳かネパール人は早く行ってバスの中で待つのが好きな様子だった。
前売りのチケットを買うどのバスもシートナンバーが決まっているのだから発車時刻の少し前で良いじゃ無いかと思うのだが、ネパール流は早く行って待つのだ。

結局バスは定刻の8時に出発し、途中何カ所かトイレ休憩と昼食休憩を取り、午後の2時半にカトマンズに着いた。

またHANA HOTELに戻り、今度は一泊900Rsで泊まれたのだが、250円値切ったからか部屋のランクが落ちていた。
まっ、熱いシャワーが有ってきれいなシーツのベッドが有れば部屋などはどうでも良いのだが。

夜は久しぶりに桃太郎でビールを飲みカツ丼と餃子を食べた。
醤油の味が脳味噌に沁みた。

9時頃就寝。




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シヌワ~ガンドルン~ポカラ

2015-12-25 14:52:22 | ネパール旅日記 2015

 11月23日(月曜日)快晴 目的地 ガンドルン(1940m)

今朝の支払い 1890Rs(2223円)
ミックスピザ+ビール+ミルクコーヒー+ミルクティー2杯+紅茶をポットで+グルンブレッド+オムレツ+シャワー代

ビールとミックスピザだけで1000Rsなのだが、宿代とシャワー代は清算されているのだろうか? 
しかし、何時までこのトレッキングの料金システムは続くのだろうか?
例えば、宿代はどんな高地のロッジでも350円~450円を越える事は無く、その分食事は泊まった宿で食べる決まりになっている。
食事代が儲けなので部屋代は安く押さえてある、と言う事で、だから他所のロッジで食事をしたら宿代は倍付けと張り紙をしてある宿も多い。
さらに、お客にはポーターやガイドが着いている事が多いのだが、この人達の部屋は無料で提供し、食事も高所の一部でチケット制で有料にるが、それとても一日分で250Rs程度で、その他は無料で提供されている。
従ってトレッカーはガイドやポーターを雇っても日当以外の負担は無いのだ。
この度のトレッキングの出費を大雑把に記して来たが、一日平均で2500円程度かと思うのだ。
それとても、山の中では一番高額な飲み物のビールに手を出すから少し高めなのである。
ネパールトレッキングの魅力の一つに出費が軽い事が上げられる。
一ヶ月歩き回って10万円までいかない旅の出来る国は東南アジアでも少なくなった。
そして、その質を含めて問えば、この料金でこの中身はかなりコスパの高い旅だと思うのだ。

6時起床 7時朝食 8時出発

今日の行程は距離が短く、しかも、標高2360mから1940mの地へ降りて行くのだから楽なはずなのだが、一筋縄ではいかないのがネパールのトレッキングなのだ。
小さな川も入れると3本の谷を越えるのだが、一番低い地点では1350mまで降り、500m以上を登り返さなければならなかった。
しかもその道は自分の大嫌いな石段で、膝に来る衝撃と歩幅が限られるのが嫌だった。


ガンドルンの宿から見たマチャプチャレ


桜とマチャプチャレ


青い屋根の先で谷に降り先の峰へ登る


マチャプチャレがいよいよ小さくなる


石段がずっと上まで続く


お伽噺の村のような佇まいだった


日本の農村とは似ていないのに、何処か懐かしい


車は勿論バイクも通れず、輸送はドンキー頼み

11時30分 キムロン着 昼食(ヌードルスープ)

シヌワから先の道はロバの糞や馬糞が多い。
アンナプルナベースキャンプまでの各宿に様々な物資をロバで運んでいるからなのだろうと思う。
ちなみにエベレスト街道のトレッキングルートでは人が荷物を背負って運んでいる事が多いのだが、それは標高が高くてロバの餌が得難いからではないかと思うのだが、この勘は当たっていると思う。

ガンドルンの宿はRajuが仲間と連絡し合って決めていた。
おいおい、お前の友達に会うために俺の宿を勝手に決めるなよな、と思ったが言っても無駄なので止めておいた。
俺はフランス人が嫌いなんだと言ってあるだろうに、と思ったけれどもやはり言っても無駄なので黙っていた。
部屋にはトイレとシャワーが付いていて、結果的に悪く無い宿だったのだが、やはりフランス人が多かった。
しかし今まで出会った我が侭で腹の立つフランス人ではなく、控えめで、下手な英語で愛想を言う、らしく無いフランス人であった。
なんなんだろう・・・老人クラブみたいな団体のフランス人が傍若無人なのだろうかとも思う。
今日の宿のフランス人は老夫婦と父と息子のコンビと若いカップルだった。
たぶん、フランス人は群れなければそれなりに常識的なのかもしれないと思ったが、分らない。

夜のダイニングは満席だった。
一人なのは自分だけだったのでポーターたちがトランプをしている席に座った。
ビールを飲み、チキンカレーを食べ、ポーターたちのトランプを眺めていた。
カレーはすこぶる美味かった。
さらに米が美味くてチキンカレーと相性が良く、久しぶりに米を腹一杯食べた。

トランプは、眺めていれば簡単に分るルールだったが、特殊なのは二組のトランプを使っている事だった。
二組使えば絵柄も数字も揃い易く勝負が早いが、なんだかとても安易で、こんな所にネパール人気質を見たような気がした。

標高が低くなると日没近くには雲が沸きお陽様を隠してしまう。
それでも風は冷たく無く、ヒマラヤ(白い山)ではない事を感じる。

8時00分就寝


11月24日(火曜日)快晴 目的地 ナヤプル(1020m)

今朝の支払い 1795Rst(2112円)
チキンカレー+ビール+グルンブレッド+フライドエッグ+ミルクティー2杯+紅茶をポットで。

今朝の支払いも安過ぎるのだが、部屋代とシャワーは込みなのかも知れない。
ビールとチキンカレーで1000Rsになるのだが、多く取られている訳ではないので素直に支払った。

6時起床 7時朝食 8時出発

ガンドルンから石畳の道を少し下ったらジープロードに出た。
なるほど、ビールが安いのも食事が美味いのも頷けた。
必要な物資はポカラから簡単にジープで運べるのだ。

さらに少し歩き、長くて急な石段を降りてキムチェに出るとバス停のようなものが有って人が居た。
バス待ちと思しき人に「バスはポカラへいくのですか?」と尋ねた。
すると、パカラへいくと言うではないか。
乗っちまおうかと思ったがここまで来るとビレタンティまでそう遠くは無い。
今日が最後のトレッキング・・・噛みしめて歩くことにした。

モディ・コーラ脇の緩やかなジープロードを歩いて行くと、これからアンナプルナBCへ向うトレッカーを乗せた数台のジープとすれ違った。
なるほど、今時はガンドルンのすぐ下までジープロードで行くのだなと思いつつ、だからガンドルンの宿が混むのだと納得した。


この橋が見えるとビレタンティー

10時40分 ビレタンティー着 
最後のチェックポイントが有り、ここで最終チェックを受けてトレッキングルートは終わった。
あとはバス道をナヤプルまで行ってポカラ行きのバスに乗れば、今夜はポカラの街の「ふじ」でトンカツ定食や餃子が喰えるのだった。

しかし取り敢えずは昼食と言う事で橋の手前のロッジのルーフトップに上がってツナサンドを食べた。
チェックポイントがすぐ下に見えるのでこれからアンナプルナBCやプーンヒルへ行く人などが引っ切りなしに通っていた。
これから山に向うトレッカーの身なりは未だ新鮮だった。
それに引き換え、山道を3週間歩き続けて来た自分の風体は草臥れ果てていた。

ああ、終わったんだなと言う少し寂しい気持ちと、さっさとポカラに行ってカツ丼を食いたい自分が居たのだが、三度目ともなると感傷に浸る自分よりもカツ丼を食いたい方が断然強かった。

橋を渡ってビレタンティーの街へ入るとすぐにタクシーの客引が居た。
二年前にもここからタクシーでポカラへ行ったのだが、あの時は1000Rsだった。
しかし、ある客引は4000Rsだと言い、安いタクシーでも3000Rsからは譲らなかった。
それならナヤプルまで歩くまでだと行くと、乗り合いで2000Rsだと言うドライバーが現れた。
本当のことを言うと3000Rsでも良いと思い始めていたのだ。
それと言うのも、ポカラで乗り合いバスを降りてもレークサイドのホテル街まではタクシーを使わなければならない。
この状況だとそのタクシー代で1000Rsと言われかねない。
それにバス代も正規運賃に上乗せされているとなると、2000Rsでポカラまでは安いのだ。
ドライバーにレイクサイドの真ん中までの約束でタクシーに乗り込んだ。

11時30分 ビレタンティ発 13時00分 ポカラ レイクサイド着

   ポカラの街編につづく






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