私はこの先月号で、童謡の「月の砂漠」について書いた。
童謡なのに、どうしてこんなに寂しい歌なのだろうと思いながら、事あるごとに口ずさむ自分が可笑しかった。
100年も前の歌なのに、今なお世代を超えて愛され、歌われ続けていることは、やはりこの歌から伝わってくる何かがあるのだろう。
作詩者の名は、加藤まさを、明治30年、静岡県藤枝市に生まれ、そこで幼少期を過ごしたが、父母が東京へ、大正5年彼は立教大学英文学科に入学、しかし、青春の夢も希望も根こそぎ断ち切られる死病と言われる「結核」に侵され、治療法はなく、隔離され孤独に耐え、中退して千葉の海辺の御宿町で静養の年月となった。
2キロも続く白い砂浜、波の音、夜空を照らす月影、未来への不安、一人眠れぬ夜を過ごす彼の心中はいかばかりか。
こうした青年の体験が、彼の作品に影響を及ぼさないとは思えない。
愛する人もいただろう。月の砂漠をとぼとぼとゆく駱駝に乗った王子様とお姫様。このモチーフは誰なのだろう。私の空想は勝手に膨らんでゆく。
「月の砂漠」の詩は、大正12年、講談社刊「少女俱楽部」に掲載され、それを見た新進の作曲家、佐々木すぐるによって曲が作られた。まさを26才。病が癒えたわけではない。
待望の結核治療藥「ストレプトマイシン」がアメリカのワックス博士によって発明されたのは昭和19年、死病が激減したという。
彼もその恩恵を受けたものか、健康を取り戻し、抒情画家・詩人として、晩年は御宿町に移住し、80才の生涯を閉じている。
今のコロナにも、ストレプトマイシンのような特効薬が出来たならどんなにいいだろう。あっ、雨が降ってきた。
写真は私仙岩のイメージする月の砂漠です。波立海岸の素晴らしい砂浜を歩く駱駝がお似合いです。
月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました
金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕 二つの甕はそれぞれに 紐で結んでありました
さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様 乗った二人は おそろいの 白い上着を着てました
曠い沙漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう 朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと
砂丘を越えて行きました 黙って越えて行きました
童謡なのに、どうしてこんなに寂しい歌なのだろうと思いながら、事あるごとに口ずさむ自分が可笑しかった。
100年も前の歌なのに、今なお世代を超えて愛され、歌われ続けていることは、やはりこの歌から伝わってくる何かがあるのだろう。
作詩者の名は、加藤まさを、明治30年、静岡県藤枝市に生まれ、そこで幼少期を過ごしたが、父母が東京へ、大正5年彼は立教大学英文学科に入学、しかし、青春の夢も希望も根こそぎ断ち切られる死病と言われる「結核」に侵され、治療法はなく、隔離され孤独に耐え、中退して千葉の海辺の御宿町で静養の年月となった。
2キロも続く白い砂浜、波の音、夜空を照らす月影、未来への不安、一人眠れぬ夜を過ごす彼の心中はいかばかりか。
こうした青年の体験が、彼の作品に影響を及ぼさないとは思えない。
愛する人もいただろう。月の砂漠をとぼとぼとゆく駱駝に乗った王子様とお姫様。このモチーフは誰なのだろう。私の空想は勝手に膨らんでゆく。
「月の砂漠」の詩は、大正12年、講談社刊「少女俱楽部」に掲載され、それを見た新進の作曲家、佐々木すぐるによって曲が作られた。まさを26才。病が癒えたわけではない。
待望の結核治療藥「ストレプトマイシン」がアメリカのワックス博士によって発明されたのは昭和19年、死病が激減したという。
彼もその恩恵を受けたものか、健康を取り戻し、抒情画家・詩人として、晩年は御宿町に移住し、80才の生涯を閉じている。
今のコロナにも、ストレプトマイシンのような特効薬が出来たならどんなにいいだろう。あっ、雨が降ってきた。
写真は私仙岩のイメージする月の砂漠です。波立海岸の素晴らしい砂浜を歩く駱駝がお似合いです。
月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました
金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕 二つの甕はそれぞれに 紐で結んでありました
さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様 乗った二人は おそろいの 白い上着を着てました
曠い沙漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう 朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと
砂丘を越えて行きました 黙って越えて行きました