天田愚庵(1854.7.20~1904.1.17)の住処が福島県いわき市平松が岡公園内にあり、旧愚庵邸が、2019年国の有形文化財に指定され愚庵会がこのほど石碑や愚庵像そして雨漏りの屋根の吹き替えをした。
歌人天田愚庵は、磐城平藩勘定奉行甘田太夫と同藩の医師母浪の5男久五郎として生まれた。
明治元年の戊辰戦争の戦火で仙台に落ちのび、両親や妹を探すため行脚に出た。が、ついに再会は出来なかった。
山岡鉄舟に師事、一時期清水次郎長の養子にもなったことがあり、後に仏門に入り、京都の清水産寧坂や桃山に庵を結び、悠々自適の生活を送り、出家後歌を学んだ。
歌風は強健な万葉調で、子規との交流もあり、次の句を読んでいる。
まさおかは まさきくてあるが かきのみの あまきともいはず しぶきともいはず
大和田に島もあらなくに梶緒絶え漂ふ舟の行方知らずも
ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき
など多数ある。
愚庵法弟中川小十郎らが1936年に京都嵯峨の鹿王院内に愚庵の遺骨を埋葬、歌碑を建立。
当時犬山市の明治村に愚庵邸を移設案が出たが、持ち主が生地に移すことに賛成、大和田市長決断で、1996年現在地に移設された。ブリタニカ百科事典、いわき経済報より。写真は松が岡公園内に立つ愚庵像や愚庵邸。
歌人天田愚庵は、磐城平藩勘定奉行甘田太夫と同藩の医師母浪の5男久五郎として生まれた。
明治元年の戊辰戦争の戦火で仙台に落ちのび、両親や妹を探すため行脚に出た。が、ついに再会は出来なかった。
山岡鉄舟に師事、一時期清水次郎長の養子にもなったことがあり、後に仏門に入り、京都の清水産寧坂や桃山に庵を結び、悠々自適の生活を送り、出家後歌を学んだ。
歌風は強健な万葉調で、子規との交流もあり、次の句を読んでいる。
まさおかは まさきくてあるが かきのみの あまきともいはず しぶきともいはず
大和田に島もあらなくに梶緒絶え漂ふ舟の行方知らずも
ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき
など多数ある。
愚庵法弟中川小十郎らが1936年に京都嵯峨の鹿王院内に愚庵の遺骨を埋葬、歌碑を建立。
当時犬山市の明治村に愚庵邸を移設案が出たが、持ち主が生地に移すことに賛成、大和田市長決断で、1996年現在地に移設された。ブリタニカ百科事典、いわき経済報より。写真は松が岡公園内に立つ愚庵像や愚庵邸。