オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

帰京

2018-09-07 | Weblog

9/7(金) 本日の午後、十日ぶりに帰京した。先週の水曜日に帰京し、懸案だったクライアント先への挨拶を後任の社長を同伴して済ませることができた。八月中に済ませることが叶い、帰京した甲斐があったと、ほっとした翌日の朝は弁当作りを始めていた。其処へ郷里の妹から電話が・・・。

母の様子が悪くなったとの連絡であった。急遽、帰郷することになったのは帰京した翌日の朝のことである。羽田空港に着き、搭乗ゲートに向っている処に再度の電話があった。母が身罷ったという連絡であった。覚悟はしていたが・・・。

午後に実家に着き、河岸へと向かう用意が整っていた母の亡骸と対面したのである。薄く死に化粧を施された母の顔は、安らかであった。それからあたふたと、通夜・告別式の段取りを決めた。

八月三十日午前10:47分逝去、三十一日通夜、九月一日が葬儀であった。慌ただしかったが、孫・曾孫たちもみな揃い、見送ることができたしだい。戒名は「融然院文華妙美大姉」と、母に因んだ院号を菩提寺の宗円住職が授けてくれた。

                     

五月の下旬に入院、病名は膀胱がんで治療の手だてなしとの診断であった。確たる治療も出来ないとのことで、県立病院からの転院先を探してもらう中で、幸いにも姪が勤務する地元の病院が受け入れてくれたのであった。転院の折に「今度、大きな出血があると持たないでしょう」と、云われる。

そんなこともあり、ある程度の覚悟はしていたが・・・・・。なんとか今年いっぱい、せめて亡父の七回忌がある十一月まではと、願っていたのだが。虫の知らせか、29日の帰京前日に病院から戻り、妹と二人でいざという時に使用する、母の写真を探したのである。

葬儀場については、地元で生まれ育った母故、地元のJA葬祭センターに依頼することにしてあった。そして、新聞広告も出さないことにし、満九十五歳の母を静かに見送ろうと決めていた。

三か月余の入院中に目の当たりにしてきた、体力低下と衰え、握った手に力が入らず声が出なくなって行く様から、見送りの心構えはできていた。とは言いながらも、空港で亡くなったとの連絡を受けた時は、思わず声が詰まった。軟弱な男である・・・・。

葬儀が済んでから台風21号が襲来した。横殴りの雨風に山は霞、大洪水になっていたが、山間の我が地域は大した被害はない。栗の木の枝が折れ、蜜柑の幼木が一本だけ倒れていた程度である。

斯様なことで、来週の一週間は弁当を作りを再開します。そして何件かの夜の予定をこなし、15日(土)~20日(木)まで帰郷、諸々の手続きを行う予定でいる。

 

 

 

 

コメント (2)
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