ひまわりさんより(8月6日)
今日の日課の言葉が素晴らしかったので、ご紹介いたします。
「私たちが十字架を掲げ、このお方の跡を、このお方の御父の家へと十字架を担いつつ、
自己犠牲の道をこのお方に従っていくとき、私たちは自分たちの生涯に、キリストの麗しさをあらわすようになる。
自己犠牲の祭壇、すなわち神と魂が会うように定められた場所で、私たちは神の御手から
、心を探ってキリストの内住の必要を明らかにする天国のともし火を受けるのである」
私は昔から、どうしたら神様に出会えるのだろう、と思っていました。
今日の言葉には、私たちが自己犠牲の生き方をするとき、そこで神様に出会えるのだということが書いてありました。
自分のやりたいように生きてきた自分が、人に合わせて生きることが少し楽しくなってきた今、
こういう経験が深まっていけば、神様と出会えるのだなあと思うとうれしくなりました。
福音の力を知る(デビット・カン講演12)
長年私は、按手礼を受けた牧師として働いてきましたが、このことを理解していませんでした。
ところが22年前に、このことを、この点を理解するようになりました。
信仰による義が分かってきたのです。福音です。
かつては、知的には理解していましたけれども、その力を信じていませんでした。
その力を味わい経験するまでは、分かりませんでした。
神の言葉は、雨のようなものです。前の雨、先の雨とは何ですか。種が蒔かれるとき雨を必要とします。
電気を必要とします。地に埋もれた種を起こすためには雷が必要です。
雨が必要です。死んだような種が発芽して、重たい土とか雪を押しのけて、芽が出てきます。
そこに命があります。力強い生命です。成長していきます。なぜですか。命があるからです。
この本、神の言葉に命があります。
神の種が私たちのうちにとどまるならば、私たちは罪を犯すことができないと、使徒ヨハネは言っています。