ひまわりさんより(8月11日)
今日は私の弟夫婦が我が家に来てくれました。
夕方、近くの川辺を妹と散歩しました。このコースは、犬のジョイを連れて毎朝散歩している所です。
いつも行っている橋の上から、来た方向を振り返ると、川と山が見えてすごく素敵な場所です。
妹に、「ここから見る景色がすごく好きで、ここに立つと『山辺に向かいてわれ目をあぐ』
という聖書の言葉をいつも思いだして神様に感謝しているのよ」と話しました。
妹はすごく感慨深そうにしていました。
永遠に安全な人(デビット・カン講演18)
私たちの調査審判が終わる時に、神様は、私たちの名前を呼ばれます。
しかし、なぜ記録が必要なのでしょう。本当は神様には必要ないですね。
神様なんですから。何でも知っておられる神様ですから。
記録の書など必要ないですね、なぜ神様は、私たちの、あらゆる行為を記録するよう天使たちに命じておられるのでしょう。
最後のさばきの時に、神様がそれを見る必要があるからでしょうか。
違いますよ。神様にはその必要はありません。ではなぜ必要なのでしょう。宇宙の前で証明したいからですね。
この人物は、本当にゆるされた、罪を犯すことをやめた、私をこよなく愛するから、
聖霊を受けたから、心をつくして私を愛してくれるようになったから、もう、神の律法を犯さないように変えられたのだ。
この人は信頼に値する、永遠に、天使たちや多世界の住人と一緒に住んでも安全になったと証明するためです。
そのために、神様は私たちの記録を残すよう天使たちに命じておられるわけです。
そして、「これを見なさい。彼は、たしかに罪を犯して悪かったけれども、
ここで悔い改めて、戦いがあったけれども、福音を通して私の力を受けました。
もう、心をつくして、私を愛するようになりました。この人を見てごらんなさい。
義人になりました。もう安全ですよ。この人の心から、罪や反逆が起こることは決してありません」。