SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 25

2013年11月25日 | 日記

   

                               (大多喜町生け花クラブ作品)

     福音の力を体験せよ   25

    2 あなたの家庭を愛とゆるしの天国にするには? 

私たちは家で暮らすとき、どうすれば勝利できるかを知るべきです。さらに、どうすれば神の愛を生活に生かすことができるかを知るべきです。ここでは、この問題について重点的に話したいと思います。なぜなら、まさに、これがラオデキヤの教会に送る便りだからです。

“わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。”(黙示録3:15-17)

ラオデキヤ教会の人たちは、彼らの心にイエス・キリストが内在していると思っています。彼らは、教会内の善良な人たちです。にもかかわらず、彼らは生ぬるいのです。心の中にキリストがおられると思っていますが、実はイエス様が心の戸の外に立っておられるのを知らないのです。彼らは世から離れ、世の罪悪から離れたかも知れません。そして、彼らは生活を改革して、イエス様が間もなく来られると信じて過ごしています。その上、自分たちは再臨の準備が整っていると錯覚しています。

   新生への道 11 祈りの特権  ⑬

 どんな望み、喜び、悲しみ、わずらい、恐れもみな神の前に置きましょう。何を持ってきても重すぎたり、神を疲れさせたりすることはありません。頭の髪の毛でさえ数えられる神は、子どもたちの必要に無関心ではありません。「主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」(ヤコブ5:11)とあります。愛に満ちた神は、私たちが悲しみを口にするだけでも心をいためられます。心をわずらわせるようなことは、何でも神に告げましょう。神は諸世界を支え、全宇宙のすべてを支配しておられるのですから、神にとって大き過ぎて支えきれないというものはありません。私たちの平和に関わることならどんなことでも、小さ過ぎてお気づきにならないということはないのです。私たちのどんなに暗い経験も、暗過ぎてお読みになれないということはありません。また、どんな難問題でも、神には解釈できないということはありません。神のごく小さい者にふりかかる災いも、心を悩ます不安も、喜びの声も、くちびるからほとばしる真剣な祈りも、天の父はことごとく注意し、深い関心を払っておられるのです。「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(詩篇147:3)。神と人々の魂との関係は、あたかも神が、ただその一人のために愛するみ子を与えられたように、はっきりとした完全なものです。


福音の力を体験せよ 24

2013年11月24日 | 日記

    

                        ( 大多喜町生け花クラブ作品)

   福音の力を体験せよ 24

では、この生ぬるい者について述べられたとき、イエス様はどこにおられましたか?ヨハネの黙示録3章で、「見よ、私は戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と言われたのでした(黙示録3:20)。       

彼らは、イエス様が戸の外におられた事実さえも知らなかった人々です。心の中に、イエス様がおられると思っていました。今ここでは、故意に罪を犯している人たちのことを言っています。自分は、天に至る道に立っていると思っています。自分は滅亡の道を歩んでいるということが、分からないのです。 

“このラオデキヤ教会へ送る便りは、現代の真理を信じていると公言する、神の民に適用されるべきである。真理を公言する人々の大部分が、生ぬるい人たちである。”

どうか、研究してください。皆さんの信仰をテストしてください。皆さんが神様を知っているかどうか、確認してみてください。神様に自分の心を見させてくださいと祈ってください(箴言17:3、詩篇26:2参照)。すでにそれをしている人がおられるかも知れませんが、教会の中で、余りにも多くの人が自分の本当の状態を知りません。そのような人たちのところへ行って、助けてあげてください。もし、皆さんがすでに、イエス様を知っているとするならば、兄弟姉妹に手を差し伸べてください。だれも、私には手を差し伸べてくれませんでした。自らの状態を正しく告げてくれる人は、誰もいませんでした。互いに助け合いましょう。神様の祝福がありますように。

 

    新生への道 11 祈りの特権 ⑫

 私たちはイエスをもっとはっきりながめ、永遠の実在の価値をもっと十分に知らなければなりません。神の子らの心は、清い美しさに満たされなければなりません。そして、このことが成就するために、私たちは、天の事柄をあらわしていただくよう神に求めなければなりません。

 神が天の雰囲気の一息でも呼吸させてくださるよう、心を世から離して天へ向けましょう。もし、私たちが神のそば近くにいるなら、どんな試みが不意に襲ってきても、ちょうど花が太陽の方を自然に向いているように、私たちの心も神に向くようになります。


福音の力を体験せよ 23

2013年11月23日 | 日記

  

                     (大多喜町生け花クラブ作品)

   福音の力を体験せよ 23

一方、熱い者は、イエス様との生きた関係を発見して、その通りに生きる人です。毎瞬間、神の愛の確証を得ながら歩んでいます。魂の扉を開けて、神様が心の中でみ業をなさることを、いつも喜んで許す人です。このような人は、ぶどうの木に絶えずつながって生きています。そうするときに、ぶどうの木の養分が心の奥に入り、常に生命を与えるのです。

ところが生ぬるい者とは、自分はクリスチャンだと思い込んでいる人のことです。自分は富んでおり、豊かであると思っているので、さらなる必要を感じていません。このような人は裸で、みじめで、哀れな状態にありますが、その実態が見えないのです。

生ぬるい者に分類される人たちは、自分のことを知りません。私も、自分のことが分かっていませんでした。ただ、生ぬるい者とは、神様のために熱心に働かない人のことだと思っていました。私は、誰よりも主のために熱心に働いていたからです。問題は、この生ぬるい人々が、いまだにイエス様を知らないということです。彼らの中にイエス様がおられないのです。

新生への道 11 祈りの特権   ⑪

密室で祈りましょう。毎日の仕事をするときにも、しばしば心を神に向けなければなりません。エノクはこのように神とともに歩んだのです。黙祷は、恵みのみ座の前に尊い香りのように上っていきます。このように、神に心を委ねた人に、悪魔は勝つことはできないのです。

 神に祈りをささげるのに、不適当な時とか場所とかはありません。熱心な祈りの精神をもって、心を天に向けるのに妨げとなるものは何もありません。雑踏の中でも、商売の最中でも、ちょうどネヘミヤがアルタシャスタ王の前で自分の願いを告げたときのように、神に願いをささげて導きを請うことができます。祈りの密室はどこにでもあります。私たちは、絶えず心の戸を開いて、イエスを天来の客として心のうちに住んでいただくよう招待しなければなりません。

 たとえ私たちは、汚れた腐敗した空気に包まれていても、その毒気を吸う必要はなく、天の清い空気の中で生きることができるのです。真剣に祈って心を神の前に高め、不潔、不正な思いが入らないようあらゆる戸を閉じることができます。神の助けと祝福を受けようとして心を開いている者は、この世の人より清い雰囲気の中を歩き、天と絶えることのない交わりを続けることができます。


福音の力を体験せよ 22

2013年11月22日 | 日記

 

             (季節外れの河津桜と10月桜)

  福音の力を体験せよ  22

ヨハネの黙示録3章は、残りの教会として、とても重要な意味を持ちます。イエス様は、ラオデキヤ教会に語られました。私たちは、ラオデキヤ教会を生ぬるい教会と呼んでいます。それは正しい名前ではありません。ラオデキヤとは、「生ぬるい」という意味ではなく、「民が裁きを受けている」という意味です。 

神様は今、ご自身の民を裁いておられます。神様が裁きをなさるとき、教会の中で冷たい者、生ぬるい者、熱い者を発見されます。 

冷たい者は、心を完全にイエス様に捧げていないということを知っている人です。彼らは、礼拝日ごとに、教会に来ているかもしれません。また、教会で奉仕活動をしているかもしれません。彼らは心で、主に屈服することを願うかもしれませんが、自分が全く屈服していない者であることを分かっている人です。しかし、どうしたらいいのか、なすべきことが分からないのです。そうでなければ、いつかはそうするかもしれないけれど、今すぐイエス様に心を捧げようという気持ちがない人、まさしく、それが冷たい人です。

 

   新生への道 11 祈りの特権 ⑩

祈りは努めてしなければなりません。何ものにも邪魔されてはなりません。イエスとあなたの魂との交わりを、常に保つことができるよう、全力を尽くさなければなりません。そして祈りがささげられるところへは、努めて機会あるごとに行かなければなりません。神とほんとうに交わりたいと求める人は祈祷会に出席し、自分の義務を忠実に果たし、できる限りの利益を得ようと思って熱心です。彼らは、天からの光を受けられる所へはできるだけ機会を作って出かけます。また、家族と共に祈らなければなりません。わけても、密室の祈りをおろそかにしてはなりません。これは、魂の命であるからです。祈りをおろそかにしていながら、魂の健全を願うことはできません。家族の祈り、また、公の祈りだけでは不十分です。人のいないところに退いて、心を探られる神のみ前に心をすっかり開かなければなりません。密室の祈りは、祈りを聞かれる神にだけ聞かれるべきで、好奇心にかられて人が聞いたりすべきものではありません。密室の祈りでは、心は周囲の影響を受けたり、また、興奮したりすることもありません。静かにしかも熱心に、神に近づこうとします。そのとき、隠れたことを見ておられ、心からの祈りに耳を傾けられる神から、うるわしく、永久的な感化を受けられるのです。穏やかでしかも単純な信仰によって、魂は神との交わりを保ち、神から光を受けて、悪魔との戦いに立ち得るために心は強められ支えられるのです。神は、私たちの力の源です。


福音の力を体験せよ 21

2013年11月21日 | 日記

 

   福音の力を体験せよ  21

私はこの事を、理解していませんでした。

“キリストの義は、告白されてもいなければ捨てられてもいない罪をおおう外衣ではない。それは品性を一変し、行為を規制する生活原則である。聖潔とは、神のために完全になることである。それは内住する天の原則に対して心と生活をまったく服従させることである。”(DA555)

 

これこそが、婚宴の礼服です。イエス様が弟子たちと共におられたとき、ご自分がどのように聖霊とつながっているかを示すことに心を砕かれました。ところが彼らは、五旬節の日を迎えるまでは、真に理解することができませんでした。そのときになって、彼らは心の扉を完全に開き、聖霊を受け取りました。

それはすなわち、ペンテコステの聖霊降下、先の雨でした。だれであれ心の扉を開き、イエス様を受け入れるなら、その人はこのような聖霊の雨を受けるのです。

では、どれほどの教会員が、後の雨を理解し、また切に求めながら生きているでしょうか?ところで皆さんは、真の先の雨を受けているでしょうか?聖霊が私たちの心の中に内住できるように、罪から清められているでしょうか?もし私たちが、先の雨を体験していないならば、つまり、新しく生まれる経験をしていないで、後の雨を求めるならば、私たちは違った霊を受けることになるでしょう。この点で、私がそうであったように、多くの人が欺かれているのです。

   新生への道 11 祈りの特権 ⑨

神のあわれみと祝福を求めるときは、私たちの心のうちに愛とゆるしの精神を持っていなければなりません。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)と祈りながら、他人をゆるせない気持ちを持っておれるでしょうか。もし、自分の祈りが聞かれることを期待するなら、自分がゆるされたいと望むような態度と程度で、同じように人をゆるさなければなりません。

 忍耐して祈ることは、祈りが聞かれるためのもう一つの条件です。信仰と霊的経験に成長したいと望むなら、私たちは絶えず祈らなければなりません。私たちは「常に祈り」(ローマ2:12)、「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続け」(コロサイ4:2)なければなりません。ペテロは信者に「心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」(Ⅰペテロ4:7)と勧めています。パウロは、「ただ事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)と教えています。またユダは「しかし愛する者たちよ、あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち」(ユダ20、21)なさいと言っています。絶えず祈るとは、魂がいつも神と結びつき一致していることであって、神の生命力が私たちの命の中に流れ込み、私たちの生活から純潔と聖潔とが神に帰っていくことです。