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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ ⑳

2013年11月20日 | 日記

   福音の力を体験せよ ⑳

“思慮の浅いおとめとして代表された人々は、偽善者たちではなかった。”(COL411)

私も、偽善者ではなかったと思います。それなりに真面目な教会員でした。いつでも、神様の働きのために頑張っていました。ですから私は、もう少しで、天国の扉を叩きながら、このように言うところでした。「主よ、私は懸命に働きましたので、どうか入らせて下さい」と。すると主は「はっきり言うが、わたしはあなたを知らない」と言われるに違いありません。なぜなら、主が私の心にはおられなかったのですから、そう言われるのは当然のことだったのです。そのとき、私がどれぐらい衝撃を受けるか想像してみてください。

皆さん、礼服を着ないで婚宴の席にいた人を覚えていますか。彼もやはり、自分は天国に入る準備ができていると思っていました。彼は服を着ていました。彼が着ていた服は高価で、とても良い物でした。彼は善人でした。しかし、外の暗やみにほうり出されてしまいました。

では、ここに出てくる婚宴の礼服とは何だったのでしょう? 

“人が自分自身の心をキリストにささげる時、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、私たちはキリストの命を生きる。これが、キリストの義の衣を着ることである。”       (COL312)

   新生への道 11 祈りの特権 ⑧

疑いや恐れに支配され、はっきりわからないことをみな解決した上で信仰を持とうとするなら、私たちはますます迷いの深みに陥るばかりです。けれども、もし私たちがありのままの姿で、自分の力なさ、頼りなさを感じて神のもとに行き、限りない知恵を持たれる神に、謙遜に信頼をもって私たちの必要を告げるなら、造られたすべてのものを見守り、み旨とみ言葉をもってすべてを支配しておられる神は、私たちの叫びに耳を傾け、心に光を照らしてくださいます。真心からの祈りを通して、私たちは無限の神のみ心に触れるのです。そのとき、あがない主が、愛とあわれみに満ちて私たちをながめておられるという特別な証拠が与えられなくても、それは事実です。また彼のみ手の接触を実際には感じなくても、愛とあわれみに満ちたやさしいみ手は、私たちの上に置かれているのです。


 福音の力を体験せよ 19

2013年11月19日 | 日記

 

    福音の力を体験せよ ⑲

まさにこれが、以前の私の状態でした。そして、父が訴えて来るまでは、誰も私にこのことを気づかせてくれませんでした。

“皆が明かり〔ランプ〕を持っていたが、それは外見の宗教形式に過ぎない。”(SD 118)

父は、11人の兄弟のなかで、私を一番良い子と呼んでいました。なぜなら、私はよく気が回る子供であったため、父が言葉を発する前に、父が望むことをやってしまっていました。私は素直に「はい」と従うのが好きな子供でした。教会や学校でも、従うことに何の抵抗もありませんでした。けれども私は、思慮の浅いおとめでした。 五人のおとめのように、私は、キリストの霊、聖霊の働きについて全く理解しておらず、内面的な敬虔さというものがなかったのです。

“もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない”(ロ-マ8:9)。

それでは皆さんの心の中に、キリストの霊が宿っているのかどうか、どのようにして分かるのでしょう?それにはまず、神様の愛の原則に従って生きているかどうかを振り返ってみてください。神様の愛の原則に従って歩むことは、キリストのみ霊なくしては、とうていできることではありません。

   新生への道11 祈りの特権 ⑦

 この保証は広大無辺なものですが、誠実な神の約束です。私たちが祈ったときに、求めた通りのものが与えられなかったとしても、主は私たちの祈りを聞き、答えてくださることを信じなければなりません。私たちは間違いが多く、先を見ることができませんので、自分の祝福にもならないことを願うことがよくあります。けれども天の父は、愛のうちにその祈りに答え、私たちのために最も良いものをお与えになるのです。それは、もし私たちが天からの光に目が開かれ、すべてのものの真実の姿をながめることができたなら、私たち自身も必ず求めるものです。私たちの祈りが聞かれないように見えるときも、約束にかたく頼らなければなりません。なぜなら、祈りが答えられるときが必ず来て、私たちが最も必要とする祝福を受けるようになるからです。けれども、祈りはいつもわたしたちが望んだように答えられ、または、望んだ通りのものが必ず与えられると考えるのは、独断にすぎません。知恵に満ちておられる神は、決して誤ることなく、また、正しく歩む者に良いものを拒まれることはありません。ですから、たとえ祈りがすぐ答えられなくても、恐れず神に頼り、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)という神の確かな約束を信頼しなければなりません。


福音の力を体験せよ 18

2013年11月18日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 18

“しばらくの間は、彼らの間になんの相違も見られなかった。キリストの再臨直前の教会もその通りである。”(COL410)

皆さん、私は皆さんの中で、誰が思慮の浅い人で、誰が思慮深い人かは分かりません。公共の場所、例えば教会で共に座っているときには、見分けることがほんとうに難しいと思います。しかし皆さん、自分では分かるのではないでしょうか。皆さん、この思慮の浅いおとめたちには、何がありませんでしたか?聖霊の内住の経験がなかったのです。彼女たちは、ニコデモのように、ただの善人でした。 

“すべての者が聖書の知識を持っている。すべての者がキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもって彼の出現を待つのである。”(COL410) 

皆さん、ここで思慮の浅いおとめたちは何を期待していましたか? 彼女らはイエス様の再臨を期待していました。ところが彼女たちは、自分たちの準備ができていないことを知りませんでした。 

“「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした時、準備のできていない者が多い。彼らは、あかりと共に、器の中に油を持っていない。彼らは聖霊に欠けているのである。”(COL410)

   

  新生への道 11 祈りの特権 ⑥

もし、心に不正のあることを知り、罪と知りながらそれに執着しているならば、主はわたしたちの祈りに耳を傾けられません。けれども、心の砕けた悔い改めた者の祈りは、必ず聞いてくださるのです。心に覚えのある悪をすべて正したときに、神は私たちの願いを聞いてくださると信じることができます。もちろん、私たち自身のどんな行為も、神の恵みを受けるにはなんの価値もありません。私たちを救うのはイエスの功績であって、わたしたちを清めるのもイエスの血です。しかし受け入れられるには、私たちにもしなければならないことがあります。

 力ある祈りのもう一つの要素は信仰です。「神に来たる者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。イエスも「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と弟子たちに語られました。私たちは、み言葉をこの通りに受け入れているでしょうか。


福音の力を体験せよ 17

2013年11月17日 | 日記

  

                            (大多喜町生け花クラブ作品)

   福音の力を体験せよ ⑰

“クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、性質が生まれ変わることである。自我と罪に対する死があり、全く新しい命がある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる。”(DA172)

私は、どうすれば自我に死ねるのか、それを知らなかったのです。もちろん私は、犯罪のような大きな罪悪を犯すことは願っていませんでした。しかし、心の奥で犯してしまう罪、日常生活の中で犯す小さな罪悪はどうしたらいいのでしょう。

聖書の中で、そのような自己欺瞞に陥った人はいたでしょうか?十人のおとめの譬えについて、しばらく考えてみましょう。 

“そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。”(マタイ25:1~4) 

全ての人はあかり、すなわち聖書を持っています。聖書は私たちの道のともし火、道の光なのです。聖霊は、この聖書を通して、人の心に霊感を与えようと懸命に働いておられます。聖霊は、おとめたちが持っていたあかりの中の油を象徴しています。しかしあかりの他に、別の入れ物が必要でした。思慮の浅い五人のおとめは、別の入れ物に油を用意して行きませんでした。

   新生への道 11 祈りの特権 ⑤

神が私たちの祈りを聞き、それに答えられるには一定の条件があります。まず第一に、私たちは、神の助けが必要なことを感じなければなりません。神は、「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」(イザヤ44:3) と約束しておられます。飢え渇くように義を慕い、神を慕う者は必ず満たされるのです。聖霊の感化を受けることができるように心を開かなければ、神の祝福を受け入れることはできません。

 私たちが大きな必要を感じているということは、それ自体が、動かすことのできない理由であり、私たちのために最も雄弁に語ってくれます。けれども私たちは、それらの必要を満たしてくださる方として神を求めなければなりません。彼は、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7:7)と言われました。また、「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(ローマ8:32)とも言われています。


福音の力を体験せよ 16

2013年11月16日 | 日記

    

  福音の力を体験せよ ⑯

“イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」。”(ヨハネ3:5~7)

聖書には、はっきりとこのように教えられているのに、私自身は、どうしたら新しく生まれることができるのか、新しく生まれるとはどのようなことなのか、全く分かっていなかったのです。 

“自分で律法を守る行為によって天国にはいろうとする者は、不可能なことを試みているのである。律法的な宗教、敬虔の形だけを持っている者には安全がない。”(DA172)

皆さん、形だけの敬虔とはどのようなものでしょうか?私たちは教会へ行って、自分を清い人のように見せかけることができます。けれども、自分の家ではどうでしょうか?私たちのすべての行為と言葉と思いとが、天にある聖所の秤にかけられ、裁かれるのです。自分の家でどう暮らしていたかについて、裁かれるのです。皆さんは、家庭で神の愛を実践していますか?私は自分の兄弟姉妹たちに、そのようにしていませんでした。子供たちが過ちを犯したとき、私は、直ちに罰を与えました。ひどく怒ってはいませんでしたが、自分を抑えることができず、感情的に叱っていました。そのようなとき、私の心は、自分を制御できないことに対して、自分自身を腹立たしく思っていました。そして、自分がこうなるのは、思うとおりに行動してくれない子供たちが悪いのだと、子供たちを恨んでいました。

皆さんも、そのような経験はありませんか?私たちは自分の罪悪感をなくそうとして、失敗の原因を他人のせいにして恨んだりします。

 新生への道 11 祈りの特権 ④

悪魔は、祈りをおろそかにする者を暗黒に閉ざし、誘惑の言葉をささやいて罪を犯させようとします。それはただ私たちが、神の定められた祈りの特権を用いないからです。祈りは、全能の神の、無限の資財が蓄えられている天の倉を開く、信仰の手に握られた鍵です。それにもかかわらず、神の子らは、なぜ祈りをおろそかにするのでしょう。絶えず祈り、忠実に見張っていなければ、私たちは次第に不注意になって、正しい道からそれる危険があります。敵は恵みのみ座への道をさえぎって、私たちが熱心な祈祷と信仰によって、誘惑に耐えるための恵みと力を受けられないように絶えず働いています。