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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ ⑮

2013年11月15日 | 日記

     

  福音の力を体験せよ ⑮           (庭のサフラン)

皆さん、ニコデモを思い出して下さい。「パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、『先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません』。」(ヨハネ3:1、2)。

“このあいさつをみとめないで、イエスは、相手の心の奥底を読んでおられるかのように、語り手にじっと目をそそがれた。”(DA168)

それから厳粛に、しかし優しく言われました。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と。

ニコデモは、ひじょうに厳格なパリサイ人でした。そして、彼は多くの善を行っていました。それで彼は、神様から好意を得ていると、確信していました。ところが、自分の現在の姿では、とうてい見ることができないほど、天国は純潔で清いものであることを示され、驚いたのでした。

 

  新生への道 11 祈りの特権 ③

私たちの天の父は、あふれるばかりの祝福を私たちに与えたいと待っておられます。限りない愛の泉から、命の水を豊かに飲むことは私たちの特権です。それなのに私たちがほんの少ししか祈らないのは、なんと不思議なことでしょう。神は、その子らのどんなにみじめな者であっても、心からの祈りには喜んで耳を傾けようとしておられます。それなのに、私たちの方で、私たちの願いをなかなか神にお知らせしようとしないのです。神は、限りない愛をもって人類をみ心にかけ、いつでも私たちが求めたり、思ったりする以上に与えようとしておられるのに、誘惑に負けやすい、哀れな力のない人間が、ほんの少ししか祈らず、小さな信仰しか表さない様子を見て、天使たちはいったいどう思うことでしょう。天使は神のみ前にひざまずき、神のそば近くにいることを喜び、神と交わることを最高の喜びとしています。それなのに、神のほか与えることのできない助けを最も必要としている地上の子らが、聖霊の光を受けることも、神との生きた交わりもなく、満足して日を送っているように思われるのです。


福音の力を体験せよ ⑭

2013年11月14日 | 日記

  

                        (大多喜町生け花クラブ作品)

   福音の力を体験せよ ⑭

“わたしは、かれらが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。”(ローマ10:2、3) 

これがまさに、私の経験でした。私は自分自身の真の姿を知っていませんでした。

“自らクリスチャンと称する者の中には、単なる道徳家にすぎないものが多い。”(COL315)                  

私たちは、あの金持ちの役人のように、目立った悪は行わない善良な人であるかもしれません。しかし本当にクリスチャンなのでしょうか?皆さんの中で、私がこれまで欺かれていたのと同じように、欺かれている人はいないでしょうか?イエス様は聖書を通して、たくさんの実例をあげて教えてくださいました。多くの人は、自分が永遠の生命を得る道にいるかのように思っていますが、実際は滅亡の道を歩んでいるのです。

   新生への道 11 祈りの特権 ②

イエスは、この世界においでになったとき、弟子たちにどのように祈るかを教えられ、毎日の必要を神に求め、どんな心配事もみな神に任せるように指導されました。そして、彼らの祈りは必ず聞かれるという保証をお与えになりましたが、それはまた、私たちに対する保証でもあります。

 イエスご自身も、人々の間に住んでおられたとき、たびたび祈られました。救い主は、ご自分も私たちと同じように、欠乏と弱さを覚えて、義務や試練に耐えるための新しい力を天父より受けるために、熱心に祈り求める者となられました。彼は、すべてのことにおいて私たちの模範です。彼は、弱い私たちの兄弟となり、「すべてのことについて、私たちと同じように試練に会われ」ました。しかし、罪のないお方でしたから、そのご性格が悪を退けたのでした。彼は罪の世にあって、激しい心の戦いと苦悩に耐えられました。彼の人間性は祈りを必要とし、また特権とされました。イエスは、父なる神と交わられることにより、慰めと喜びを受けられました。人類の救い主である神の子でさえ、祈りの必要を感じられたのですから、弱く罪深い人間には、どれほど熱心な、絶え間ない祈りがなければならないことでしょう。


福音の力を体験せよ ⑬

2013年11月13日 | 日記

    

                 (大多喜町生け花クラブ作品)

 福音の力を体験せよ ⑬

次の言葉を読みます。“ 地上の至る所から、自分たちが持っていない何かを叫び求める声があげられた。彼らは、罪を征服する能力、自分たちを悪の鎖から解き放ってくれる力、生命と健康と平安をもたらす能力を渇望していた。”(MH143)

これがまさに、私の父の叫びでした。それはまさに、パウロの叫びでありました。キリストを見出す前、パウロは律法の広範な要求を悟りましたが、律法を守ることができませんでした。「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」と言いました。それから彼は、「わたしは、なんというみじめな人間なのたろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びました。そして次に叫んだのが、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」という言葉でした。                 

ついに私自身も、キリストを通して、罪に勝利できる道を発見することになりました。

“人々は救いの計画について非常に無知であるために、どうすれば救いを得られるかという、最も重要な問題について、もっと多くの教訓を学ばなければならない。”(4T394)

 

  新生への道 11 祈りの特権 ① 

 神は、自然と聖書、摂理、および聖霊の感化を通して私たちに語られます。しかしそれだけでは十分でありません。私たちもまた、神に心を注ぎ出す必要があります。霊的生命と力を得るためには、私たちの天の父と実際に交わらなければなりません。私たちは、心が神に引かれ、神のみわざ、あわれみ、祝福などを瞑想するでしょうが、これは、十分な意味での神との交わりではありません。神と交わるためには、私たちの毎日の生活について、何か神に話すことがなければなりません。

 祈りとは、友だちに語るように、心を神に打ち明けることです。これは、私たちがどのようなものであるかを神に知らせる必要があるからではなく、私たちが神を受け入れるのに必要だからです。祈りは、神を私たちのところへ呼びおろすのではなく、私たちを神のもとへとひき上げるのです。

 

 


福音の力を体験せよ 12 

2013年11月12日 | 日記

      

                           (大多喜町生け花クラブ作品)

   福音の力を体験せよ ⑫

 父の質問に答えられなかった私は、家に帰ってから熱心に聖書を研究し始めました。愛する父を助けるために、もっと勉強に励まねば、と考えたわけです。最初は、聖書のどこから始めればよいのかさえ、まったく分かりませんでした。

 二年かけて、霊感の書をすべて読みました。読んでいくうちに、救いの計画の全体図を見ることができました。次第に私は、神様の救いの計画がどのようなものであるかを理解し始めました。私は主人のところへ行き「あなた、これ知っていましたか?」と尋ねるようになりました。

 最初のうち、主人は少し抵抗しました。なぜならば、彼は牧師であり、牧師というのは常に聖書を研究する者で、聖書については深く理解している者とされていたからです。ところが、妻がとつぜん聖書を研究し出し、何かを発見したと言うようになったのです。             

間もなく主人も、私がほんとうに何かを発見したのだということに気付きました。それからは主人も、自分の魂のために勉強し始めました。そしてついに、二人とも重要な真理を見出したのです。私は、「神様、もういちど父親のところへ行く機会をお与えください」と祈りました。

   新生への道 10  神についての知識 ⑩

 聖霊は救い主をあがめ、その栄光を讃えます。聖霊の役割は、キリストが私たちと共におられることを教え、キリストの義の純潔さを示し、キリストを通して与えられる救いがどれほど素晴らしいものであるかを伝えることです。イエスは「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:14)と言われました。真理の霊だけが、神の真理を正しく教えることのできる教師です。人類は、神の目にどれほど価値ある存在として見られていることでしょう。神は人のために、そのひとり子を遣わして死を与えられ、また聖霊を人の教師として、いつも側にいてくださる案内者としてくださったのです。  (神についての知識の項終わり)


福音の力を体験せよ ⑪

2013年11月11日 | 日記

    

                                     (大多喜町生け花クラブの作品)

    福音の力を体験せよ ⑪

 人が年をとって、夫婦だけの生活になると、もう子供のことで煩わされる必要はないですよね。落ち着いた、穏やかな日々を送ることができるようになると思います。しかしながら、私の父の場合は、そのようにはなりませんでした。

 私の父は10人の子供を育てた後、12年間子供がなく、60歳になってから、息子をもうけました。ところがこの子は、他の10人の子供よりも、はるかに多くの問題を父にもたらしました。私たちは田舎で生活していましたが、末の弟は都会で成長しました。父が78歳の時、その子は18歳でした。彼は父に数多くの問題をもたらしていたため、実家を訪ねた私に向かって、父は助けを求めて叫んだのでした。

 私たちクリスチャンは、このように考えているのではないでしょうか。「聖化とは一生涯続けなければならないことで、人生の最後の最後でどうにか完成するものだ」と。同じく「聖化とは、罪を一つひとつ解決していくことだ」と信じているのではないでしょうか。皆さん、それは欺瞞です。皆さんが神様によって義と認められたとき、罪が終わり、聖とされるのです。それはどのようなことかというと、私たちは、自我という神様に対する反逆の霊に支配されて生まれてくるのですが、その自我が屈服させられ、自我に死に、神様のみ言葉に完全に服従する心が与えられるということなのです。その後の人生は、罪の誘惑や、日々の失敗はありますが、本質的な神様への反逆の心がなくなっているので、すぐに悔い改め、喜んで神様のみ言葉に従った歩みをするのです。以前の私は、これらのことを知りませんでした。そのため「何とかなるさ」という気持ちで過ごしていました。

 

     新生への道 10 神についての知識 ⑨

 熱心に注意深く、たえず祈りながら学ばなければ、知恵を得ることはできません。聖書には、わかりやすく書かれていて間違う余地がないところもあれば、また表面に意味があらわれていなくて、ざっと見ただけでは少しもわからないところもあります。聖句と聖句とをよく比較して、注意深く研究し、祈りのうちによく考えなければなりません。そのような研究は豊かに報いられます。鉱夫が地下深く掘り下げて、隠れている価値ある鉱脈を発見するように、辛抱強く、神のみ言葉を隠れている宝のように探すならば、不注意な探究者の目にはとまらない価値ある真理を発見することができます。そして、心の中で熟考された霊感によるみ言葉は、いのちの泉からわき出る流れのようになるのです。

 聖書は、決して祈りをささげないで研究してはなりません。ページを開くときは、聖霊の導きを祈らなければなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスのもとに来たとき、救い主は、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と驚きの叫びをあげられました。ナタナエルが「どうしてわたしをご存じなのですか」と尋ねると、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:47,48)と答えられました。イエスは、私たちが真理とは何かを知りたいと光を求めるなら、隠れた場所で祈っていたとしても必ず見ておられます。心を低くして神の導きを求める者には、天使が光の世界から送られるのです。