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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

朝露のような人々 第9回

2016年01月22日 | 日記

    国も教会も荒らされている

「イスラエルびとが種をまいた時には、いつもミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民が上ってきてイスラエルびとを襲い、イスラエルびとに向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった」(士師記6:3、4)。  

神様の民のところに異教徒がテントを張って居座ったわけです。皆さん、異教の教え、原罪に関するものや、新神学、妥協した福音、間違った教理、バビロンの教会で育った神学、そういったものが神の教会に侵入してきているのです。私の愛する教会が目の前で壊されようとしています。皆さんは、どのように感じられますか?

多くの有望な青年がバビロンのセミナーで学び、大学に行き、博士号や修士号をとり、そして、戻ってきて神の民を教えているのです。しかし、民を生き返らせるような、命を与える霊的な食べ物が、教会で与えられなくなってきています。そのため霊的なうえ渇きが起きているのです。そういう中で、本当に少数の人が、神様の言葉を山のほら穴や、そういったところに隠し持っているわけです。そういった人々は、現代のワルデンセスだと、私は思っています。  

皆さん、この教会も、山となることが出来ます。神の民が逃れる山となることが出来るのです。混じりけのない真理を伝える山となることが出来るのです。

「イスラエル人に向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった」(同6:4)。 

これは、本当に悲しい状況ですね。これは、イスラエルの時代だけの話ではありません。私たちも同じような状況に生きています。

「彼らが家畜と天幕を携えて、いなごのように多く上ってきたからである。すなわち彼らとそのらくだは無数であって、彼らは国を荒すためにはいってきたのであった」(同6:5)。  

彼らは、やってきて天幕を張ったわけです。皆さん、間違った福音、永遠の福音でない福音が、また、間違った教理が神の教会へ侵入してきて、テントを張っているわけです。そして、あたかも、それが、本当の残りの子らの福音であるかのように、ふるまっているわけです。                

「いなごのように多く上ってきたからである。すなわち彼らとそのらくだは無数であって、彼らは国を荒すためにはいってきたのであった」。 

彼らの目的は、残りの子らが持つべき、メッセージをなきものとすること、国を荒らすことが目的なんですね。

 


朝露のような人々 第8回

2016年01月21日 | 日記

   御言葉の飢饉の時代

ギデオンは、聖書でも有名な話ですが、この出来事が露と深く関わっていることをご存知でしたか?ギデオンとその兵士は、最後の時代に主と共に戦う兵士を表していると私は思うのです。彼らは、最後の時代に主の兵士として集まる14万4千人を表しているのだと、私は信じています。士師記6章1節をお読みします。

「イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、主は彼らを七年の間ミデアンびとの手にわたされた」。 

ここに、イスラエルは七年間ミデアン人に渡されたとありますが、これは、完全な敗北を意味しています。彼らが主の言葉に従わなかったために起きたことです。ですから、敵の前に敗北してしまったのです。なぜ、私たちの霊的な戦いにおいて、私たちは、敗北するのでしょうか?なぜいつまでも罪の力の奴隷となっているのでしょうか?

それは、神様の御言葉に従わないからです。神様の御言葉をそのまま受け入れないからです。神様の御言葉を力の源としないからです。私たちの心に神様の御言葉が根付くなら、私たちは、罪を犯しません。罪を犯せなくなるのです。そのことがヨハネ第一の手紙3章9節に書いてあります。皆さん、お読みになられたことがありますか?すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」。

私たちが神様の御言葉を力の源と日々にしないかぎり、私たちは、敵に打ち負かされてしまうのです。

「ミデアンびとの手はイスラエルに勝った。イスラエルの人々はミデアンびとのゆえに、山にある岩屋と、ほら穴と要害とを自分たちのために造った」( 士師記6:2)

神様が死んだから、イスラエルが負けたのではないのです。彼らが霊的に死んだため、ミデアン人が勝ったのです。イスラエル人は、ほら穴をつくり、ミデアン人にとられないように、そういったところに食料を隠したわけです。なぜなら、収穫の時に異教徒たちが侵入してきて、その食料を奪ったからです。

 


朝露のような人々  第7回

2016年01月20日 | 日記

 朝露とマナ

私たちの生活において、待つということは、本当に大変なことではいないでしょうか?

ある時、私は、アトランタからデトロイトに言ったことがあったんですね。ミシガンでの集会を終えて、その帰りの出来事なんですけでも、朝早く起きて、車をはしらせて、空港に行きました。飛行機の時間が正午だったので、午前11時ぐらいに空港に着きまして、45分ぐらい待ってから、飛行機に乗りました。飛行機で30分ぐらい待っていると、やっと「これから離陸します」という案内がありました。それから少しすると別のアナウンスがありまして、「アトランタ付近に嵐が来ているので、しばらくその警報が消えるまで、待つ」ということでした。それで、一時間ぐらい、飛行機の中で待っていました。そして、やっとゲートから滑走路に向かっている時に、またパイロットからアナウンスがありまして、「申し訳ないが、まだ暴風警報が消えないので、離陸できない」とのことでした。そこで、滑走路の脇のあたりでさらに1時間待たされました。計2時間ですね。本当に暇な時間なんですね。混んだ、狭い機体の中で待たされるわけです。体もきついですが、お腹も空いてくるわけです。デトロイトからアトランタまでは、1時間半程度なのですが、すでに2時間飛行機に座っているわけです。そして、パイロットは、飛行機をもとのゲートの場所に移動させました。「どうぞ、飛行機から降りて、ストレッチしたい人は、して下さい」とのことでした。

そこで、もう1時間待たされまして、やっと、離陸出来ることになりました。

飛行機が滑走路に向かっていると、またアナウンスがあったんですね。「皆様、右側をご覧ください」。右側を見ると、たくさんの飛行機が離陸待ちをしていました。「皆さん、申し訳ありません。順次、離陸します」とのことでした。

結果的に、4時間、狭い飛行機の中で待たされたのです。私は、ある意味、世界中へ伝道のために出かけているのですが、その途中で色々な問題に直面するんですね。

私たちが待っているその時間に、本当に多くのことが起きるのです。本当に多くのことが起こります。ガンになることもあるかもしれません。争い、分裂、困難、悲しみ、家族や教会員を失う、そういうことがあるのです。不必要な口論、頭痛、ストレス、そういったことが、私たちが待っている時に起こるのです。

皆さん、私たちの住んでいるこの地球歴史最後の時代は、暗く冷たい夜なのです。そのような時にあって、私たちは、朝露のようになるべきであります。真理、神様の御言葉を周りに身につけ、主の真の兵士として立ちあがる必要があります。

 

 民数記11章9節にはこうあります。

「夜、宿営の露が降りるとき、マナはそれと共に降った」。

聖書では露がマナを象徴しています。日が昇るとマナは溶けてしまいました。皆さん。どうか、神様と交わる朝の静かな時間を日々にとってください。神様の御言葉を集めてください。み言葉の力と知恵と指示を、どうか皆さんの心の中に蓄えてください。こういったことは、皆さんすでにご存知のことですが、大事なのはそれを本当に行っているかとどうかということです。私たちは、この世の色々なことでそれを邪魔されるのですが、皆さん、何が一番大事なことでしょうか?そのことを考えてみていただきたいのです。

 申命記32章2節にはこうあります。

「わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立ちのように」。
 露は、神様の御言葉とその教えを象徴しています。夜明け前に天から下るマナと同じように神様の御言葉を象徴しているのです。


朝露のような人々 第6回

2016年01月18日 | 日記

最後の戦い

では、シオンの山の立つべき人々は、誰でしょうか? それは、まさに14万4千人です。彼らは、最終時代の全ての出来事が起きた後に、シオンの山に立つのではなく、まさに、日曜休業令、獣の刻印が猛威を振るうその時に、シオンの山に忠実な兵士として立つのです。黙示録14章1~5節の経験は、まさに今霊的な生活において起きているのです。そして、この戦いの前に、早朝に、若者たちが出てくるのです。この若者たちというのは、単に年が若いということではなく、新しく生まれた人たちです。本当の女の残りの子らです。

「あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう」

 私たちの時代は、暗く冷たい夜です。女の残りの子といわれる教会の中にあっても、神様の御言葉の力が失われているような時代です。冷たく、暗いその夜に、私たちは神様の御言葉を朝露のように集め、そして、最後の戦いに参加するべきなのです。

主の兵士として、罪、サタンとの戦いに馳せ参じるべきなのです。

「あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう」

誰が、獣の刻印の時、神様の小羊と共に、シオンの山に立つのでしょうか?14万4千です。この人々が最後の主の兵士として、集まるのです。

私は、この絵が大好きなんですけど(写真)、これは黙示録19章を題材にしている絵ですね。イエス様が白馬に乗って、王の王、主の主として、千の千倍、万の万倍の天使を引き連れて神様の民を救出に来られるのです。神様ご自身が、勝利に勝利を重ねた将軍として、私たちを救出に来られます。ですから私たちは、一人で戦うわけではないのです。主と共に戦うのです。この絵でも、イエス様は剣を持った勝利者として描かれていますね。そして多くの天使を伴っておられます。主は、このようにして私たちと共に戦ってくださるのです。

 


朝露のような人々 第5回

2016年01月17日 | 日記

心から喜んで

詩篇110篇3節をもう一度みてみましょう。

「あなたの民は、あなたがその軍勢を/聖なる山々に導く日に/心から喜んでおのれを捧げるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう」。 

ここに心から喜んでおのれを捧げる」とありますね。このことを、聖所の儀式から少し考えてみたいのですが、聖所の儀式の捧げ物には4つのものがありました。燔祭、罪際、酬恩際、愆際(けんさい)などがそれです。罪際と愆際は、同様な捧げ物ですが、愆際にはしなくてはならないことがありました。

たとえば、だれかの所有物を壊した場合など、弁償金を払わなければいけませんでした。罪祭と弁償を合わせたものが愆際です。

ところで、神様は、まず燔祭を捧げるように言われました。レビ記の第1章に、まず説明されているのが、燔祭なのです。これは私たちの完全な屈服、完全な自己放棄を表しています。私たちの持っているもの全てを祭壇の上に置いて、イエス様に捧げるのです。燔祭や、酬恩祭は、決して強制されるものではありませんでした。そうではなく自発的にのみ捧げられるものです。私たちが自分自身を主に捧げるのは、自ら望んですることなのです。自らの選びですることなのです。

 

皆さんは、今朝、自分自身を全くイエス様にお捧げすることを望まれますか? 皆さんは、どれほどイエス様を求めておられるでしょうか?どれほど求めておられますか?世界の全てを失うことになっても、イエス様を求めておられますか?少し、答えにくい質問かもしれませんね。 

皆さんは、イエス様を得るために苦しむとしても、最も苦しい痛みが伴うとしても、それでもイエス様を求めておられるでしょうか?

詩篇110篇で言われている、心から喜んでおのれを捧げる」という経験は、燔祭の経験であり、自ら望んでなされる経験です。それは、「主よ私を御用のために焼きつくして下さい」と願い出ることなのです。

この経験はまた、アブラハムの経験そのものでした。モリヤ山でのあの経験です。アブラハムにとっては、愛するひとり子イサクを捧げるよりも、むしろ、自分の命がとられることのほうが、やさしいことだったのです。イサクを燔祭として捧げるということは、アブラハムにとっては、自分が死ぬことよりも辛いことでしたが、アブラハムはそれをしたのです。

さて皆さん、この詩篇のこのような神様の民は、いつ出てきますか?それは神様がその力を表される時です。それは、いつどのような時でしょうか?まさに、戦争の時なんですね。神様がその反逆者と戦うために立ち上がられる時なのです。まさにその時、主の兵士たちが出てくるのです。「主よ私をお用い下さい」と戦いの最前線に自ら望んで出てくるのです。詩篇のこの節は、とても単純に見えますが、それをよく見てみると、深い意味があります。

では次に、これはどこで起きるのでしょうか?神様が「私と共に戦う者はだれか」と主の民を招集される時、神の民は「私が行きます」と、その召しに喜んで答えますが、それは、どこにおいてなされることでしょうか?

最後の戦いは、どこで起きるのでしょう。この「聖なる山々」とはどこでしょうか?宗教改革者のジェロームは、この山を「シオンの山」と具体的に訳しました。英語や中国語などの訳では、「最も美しい装いをした山々」という表現になっていますが、ジェロームは、そうではなくて、ここで彼らは、戦いの最前線、シオンに立っていると訳したわけです。神様は、最後の戦いを、罪に対して、反逆者であるサタンに対して起こされるのです。その時、神様の民は、自ら喜んで自分を捧げ、主の戦いに参加することでしょう。その戦いの時、彼らは、シオンの山に立つのです。